波が砂をさらっていった。つい今まで描いてあった絵が、あっという間に消えた。けれどもそれを惜しむことなく、寧ろ嬉しそうに笑っているニアとイリスは、きっと良い被写体なのだろう。さっきから隣にいるこの人は、カメラのシャッターを切る手を休めない。

「もう、いっそ動画にしたらどうですか。フィルムもちませんよ」

俺が半分呆れて、半分羨んで言うと、この人――カスケード・インフェリアは、こちらを向いてにんまりと笑った。

「予備はたくさんあるから心配ない。今日のために、随分準備してきたんだ」

「……そうみたいですね」

そういえば、何が入っているのかわからない奇妙なバッグが一つあった。もしかしてあの中身は、彼が愛してやまない家族の笑顔を残しておくための道具が大量に詰め込まれていたのだろうか。たぶん、間違いないだろう。

「そろそろお昼ご飯にしましょう。ニアとイリスは、一度戻ってらっしゃい。カスケードさんとラヴェンダはちょっと支度を手伝って。ルーファ君はどうぞ座って」

シィレーネさんが、レジャー用のテーブルの上に昼食を広げ始めた。ここに来る途中で買ってきたものだが、今日のメインは「インフェリア家がみんな揃って海に来ること」だから食事はなんでもいいのだ。正直、こうして出来合いのものを広げるだけの方が、辛いものが少なくて胃に優しいかもしれない。

「ルー、あとで車から僕の画材出してきて」

「わかった。イリスは何か必要なものあるか?」

「ボール。お父さんと遊ぶ」

「よし、全力で遊ぶぞ! カメラはルーに預けるからな、よろしく」

「わかりました」

「あんた忙しいわね、雑用係。私には本を頂戴」

各々席につきながら、俺への注文を言ってくる。今日はこういう役回りのために連れてこられたのだから、これが正しい。

「何から何まで大変ね。ありがとう、ルーファ君」

「いいえ。シィレーネさんもどんどん言いつけてくれてかまいませんから」

ほんの少しだけ申し訳なさそうなシィレーネさんに、任せろ、という態で胸を叩いてみせる。するとニアが「頼もしいねー」と呟きながら、サンドイッチに手を伸ばした。自分で食べるためではなく、カスケードさんに差し出すためのものだ。

「はい、父さん。誕生日プレゼント」

「え、それで終わりか?」

「冗談だよ、本当のプレゼントはこれから描く」

平和な一家団欒。インフェリア家当主の誕生日を祝う、海までの旅行。そこに俺、ルーファ・シーケンスが加わっているのは、運転手兼雑用係をするためだ。カスケードさんがぜひにと言ってくれたおかげで、こうして笑顔の家族を見ることができている。

そう、今日は七月十八日。カスケードさんの五十五歳の誕生日なのだ。この歳になっても、この人は本当に元気だ。娘と浜でおそらく非常にアグレッシブになるであろうボール遊びをすることができるくらいには。

俺もニアからサンドイッチを一つ受け取って、礼を言ってからかぶりついた。トマトとチーズが美味い。これが本日の駄賃だろう。

あとは、幸せそうな一家を眺めているだけで、俺も満足できる。

 

いつもの年の今日なら、ニアが実家に絵を持って帰って、カスケードさんに贈るのが恒例だ。でも、今年は時間にも少し余裕ができて、イリスもレヴィのおかげで休みがとれたので、大陸の中央部からはるばる海までやってきた。

エルニーニャ領には、ほんの少しだが、海に接しているところがある。かつて北国や西国と談話を重ね、手に入れた土地だという。けれどもやはり遠いので、人はほとんど来ない。領海も狭いので、海産物が多くとれるというわけでもない。つまりはよほどの理由がなければ、誰もここを旅の目的地には選ばない。そうするくらいなら、隣国へ行ってしまったほうが手っ取り早いのだ。

それでもインフェリア一家が、というよりは、ニアが「今年こそはここに行こう」と言いだしたのは、いつか聞いたカスケードさんの過去に由来している。まだ若かった彼は、親友と二人でこの場所に来たことがあるのだそうだ。そしてそれが、親友と過ごした最後の誕生日になった。その翌年の春、親友だったというその人は、命を落としたのだ。

時をこえて、その人の名前は息子であるニアに託された。だからなのか、ニアには父親に対してある種の使命感がある。海に連れてきたのも、その一つだ。

やっと実行できるだけの大人になって、時間もつくることができた、今だからこそ。いつかカスケードさんが親友と見たであろう景色を、もう一度見せてあげたかったのだろう。

「もう随分と前のことだから、あの時に見た景色と同じかどうかはわからないけどな。俺はニア……親友のことばかり見ていたから、あまりあのときの風景を憶えていないのかもしれない」

この場所に到着した時、俺が感想を聞いたら、カスケードさんはそう言った。目の前に広がる海と同じ色の目をして、遠くを見つめながら。その視線の先には、今はもういない、親友の姿があったのかもしれない。

 

昼食を終えてから、俺は片づけがてら、一家から頼まれたものを車から出した。ニアにはこの風景を描くための画材を、イリスには父親と遊ぶための道具を。そして意外にも海風が涼しかったので、シィレーネさんのためにストールを。そうそう、ラヴェンダから本も頼まれてたんだ。

そうして戻ったら、荷物を全て一家に渡して、かわりにカメラを受け取る。カスケードさんやレヴィほど上手くは扱えないが、俺も一家の幸せな思い出を残したい。

海に向かって、絵を描き始めたニア。その傍らで、本を手元に置いたまま談笑するシィレーネさんとラヴェンダ。少し遠くに、浜辺を走り回りながらボールを投げ合うカスケードさんとイリス。こんな光景、若い頃のカスケードさんは想像できただろうか。

いや、きっとかつてのあの人が本当に望んでいたのは、もう一度親友とこの風景の中にいることだっただろう。二人でここに来て、海を見て「君の瞳の色だ」と言ってもらうことを夢見ていたはずだ。それはもう叶わなくなってしまったけれど、それでもカスケードさんは笑顔だ。

喪ったものは大きかったけれど、得たものもまたたくさんあった。今ここにいる家族は、カスケードさんが手に入れた幸せに違いないのだ。

「ルー、ちゃんと撮れてるか?」

声がこちらに投げかけられる。

「撮れてますよ、たぶん」

俺も向こうへ返す。

あの人は、まるで俺も一家の一員であるかのように、声をかけてくれるのだ。俺がニアと出会ったころから、ずっと。

ファインダー越しに、海を見た。いつも見ている色があった。ニアの、そしてカスケードさんの、あの優しい瞳の色だ。きれいだなと思いながら、家族全員が一枚の写真におさまるようにして、シャッターを切った。

 

ニアの絵は、ちゃんとその日中にできあがった。どこまでも広がる海の絵だ。水に遊ぶイリスやラヴェンダ、シィレーネさん、それを見ているニア自身もいる。嬉しいことに、俺もその絵の中に加わっていた。

それから、寄り添うように描かれた二人。カスケードさんと、緑の髪の人物。その人のことを、俺もニアも写真でしか見たことがない。けれども、たしかに今日、ここにいたかのように描かれていた。

「……そうか、ちゃんと一緒に来られたんだな。約束は果たせたのか」

カスケードさんが絵を見て、そう言った。どこか切なげで、けれどもたしかに嬉しそうな笑みを浮かべて。

「僕、ずっとそんな絵を描きたかったんだ。父さんと親友のニアさんが、一緒にいるところ。二人で来ようって約束したこの海で」

ニアが今日ここに来た真の理由はこれだろうか。本物を見るために、カスケードさんの笑顔を見たいがために。この場所に家族で訪れたのだろうか。

「親友のニアさん、ホッとしてるかもしれませんね。カスケードさんが、こうして家族と平和な日々を送っていることに」

俺はほとんど何も考えずに、そんなことを言ってしまった。俺に何がわかるというわけでもないのに。でもカスケードさんは「そうだな」と、微笑みながら返してくれた。

「俺の親友のニアは、そういうやつだ。俺のことで笑ったり、怒ったりしてくれるやつなんだ。だからきっと、俺が家族を持てたことも喜んでくれている」

そこへラヴェンダがわざと意地悪く言った。

「私のことは恨んでるかもしれないわよ。クローンを作って、もう一度死なせたんだから」

しかしカスケードさんは首を横に振って、「そんなことはないさ」と言った。

「ラヴェンダは普通の女の子になっただろ。そんな子を、ニアが恨んだりするはずない」

「……そうかしら」

顔を隠すように寝袋にもぐりこんでしまったので、ラヴェンダが何を思っているかは、俺が正確に知ることはできなかった。でもきっと、ほんの少し照れていたんじゃないかと思う。そしてほんの少し、申し訳ないと思っていたんだろう。

「お父さんとニアさん、誕生日も近かったんだよね。たしか、ニアさんは二十二日だっけ」

「ああ。よく憶えてたな、イリス。そうなんだよ、奇跡みたいだろ?」

「だから一緒にお祝いしようと思って、この海に来たんだよね。十七歳の誕生日に。その時のこと、今日は思い出せた?」

イリスが、父と兄によく似た笑顔で言う。同じ顔で、カスケードさんは頷いた。

「ニアの表情なら、はっきりと思いだせる。あのとき何を話したかも。……また海を見に来ようって約束、あれから随分と経ったけど、果たせるようにしてくれて、ありがとう」

カスケードさんと同じように、きっと俺も今日のことを忘れない。ニアたち家族と、この場所に来て、一緒に笑ったこと。また今度、ニアと来ようと思ったこと。それを必ず果たすこと。大事に憶えておきたいと思った。

「ここの夕焼け、綺麗だっただろ。朝焼けもすごく綺麗なんだ。それを見るために、今日はもう休もうか」

目を閉じると、心の中に焼き付けた夕方の景色に、誰かが立っているのが見えた。その人が穏やかに微笑んで、「ありがとう」と言った気がした。