いい夫婦の日だなあ、と思いながら、僕はカレンダーとにらめっこする。
抱えていた仕事の締切はとりあえず切り抜けたので、今日は比較的のんびりできるはずだ。ならばたまには実家に帰ってみてもいいかもしれない。父さんと母さんが喜びそうな、お土産でも持って。
ちょうど同居人は仕事で、退屈していたところだったのだ。
早速支度をして、実家に近い路線のバスに乗り込む。途中で降りて、両親ともが食べられる甘さ控えめのクッキーを買った。紅茶と一緒に詰め合わせてもらったので、これだけでお茶の時間を楽しめる。のんびりお茶を飲むのが好きな両親には、ぴったりのお土産だろう。
ここから家まではそう遠くないので、歩いていく。
締切明けに歩く街は明るくて、いつまでも散歩をしていたくなる。僕が生まれ育ったこの街は、人が多くて賑やかで、でも上品だと思う。今度はこの景色を描くのもいいな、などと考えながら行くと、あっという間に実家に到着した。
ドアベルを鳴らすと、中からパタパタと走ってくる音が聞こえる。父さんがいつも「これが可愛いんだよな」と言っていた音。今では僕にも、その意味がよくわかる。「はあい」と戸を開けてくれた母さんは、僕を見て満面の笑みで告げてくれた。
「おかえりなさい、ニア」
「ただいま」
僕もいつも通りに返すと、今度は奥から新聞を持ったままの父さんが出てきた。僕ら家族の名前や声に、この人は敏感に反応するのだ。
「ニア、おかえり。突然帰ってくるなんてどうした?」
「仕事がちょうど終わったから、顔を出しておこうと思ったんだ」
これ、とお土産を差し出すと、母さんが嬉しそうに受け取ってくれる。
「まあ、素敵。今日はこれでお茶にしましょう。そうだ、イリスは仕事かしら。夜にでも都合がよければ、家族みんなで食事をして、それからお茶にするのはどうかしら」
その言葉を聞くやいなや、父さんは電話をしに向かった。すぐに話し始めたようなので、多分イリスは暇だったのだろう。「すぐに来るってさ」と電話を切った父さんは、僕ら兄弟に受け継がれたにんまりとした笑みを浮かべていた。
「じゃあ、お昼ご飯と三時のおやつでいいわね。家族が揃うのなんて久しぶり」
母さんはうきうきと台所に向かう。僕もそのあとについていって、昼食の準備の手伝いをする。手伝いとはいっても、僕は料理が苦手なので、ついでに教わるようなかたちになる。少しはできるようにならないと、同居人に申し訳ない。それに今日は夫婦の日なのだから、僕が動かなければ。
卵をいっていると、そのあいだにドアベルが鳴る。
「たっだいまー!」
元気な声はイリスのものだ。
「おかえりー」
きっと父さんと抱き合っていたんだろう、少し経ってから台所に現れた。
「お兄ちゃん、仕事は?」
「終わったからいるんだよ。さ、イリスも手伝って」
「任せて!」
料理の腕はイリスのほうが僕より上だ。手際よく進める。
出来上がった料理をテーブルに並べて、席について、揃って「いただきます」をいう。
最近の何気ない話なんかをしながら、僕は父さんと母さんの顔を覗き見る。幸せそうで、良かった。もっとも、この二人が喧嘩をしたりすることなんてないのだけれど。僕の中で「いい夫婦」といえばこの人達なのだ。
「そういえば、今日っていい夫婦の日らしいよ。うちのお父さんとお母さんのためにあるような日だね」
同じことを考えていたらしいイリスが、父さんにそっくりな笑顔で言う。父さんと母さんは顔を見合わせて、照れたように微笑んだ。
「いい夫婦か」
父さんがしみじみと言う。母さんもふわりとした笑顔で、
「そうねえ、そうなれて良かった」
と返す。
この二人の間にも、きっと僕の知らないたくさんの出来事があったんだろう。それを乗り越え、時には抱えて、今こうしている。僕も同居人と、いつかはこんな穏やかな生活が出来たらいいと思いながら、実家での食事を味わった。
このあとのお茶の時間で、夫婦の思い出でも聞いてみようか。そうイリスに目で合図すると、にっこりと頷いた。