買い物の帰りに、とある老婦人に会った。昔、仕事で関係を持った人だ。こちらのことを憶えていてくれて驚くと同時に、嬉しくもあった。
「もう軍は引退なさったんでしょう」
あれからもう随分と経っているし、その予想は大当たりだ。おれは頷いてから、改めて彼女と会ってからの年月を数えてみた。……年をとったものだ。当時はまだ、彼女ももう少し若かったと思う。もちろん、おれも。
そしてあの頃、隣にはあいつがいた。
「今は下宿をやってます。若い軍人と、学生向けに。始めて何年かはほとんど人が入らなかったんですけど、最近は賑やかです」
「まあ、そうなの。それはいいわねえ」
「よかったら、今度、旦那さんと遊びに来てください」
老婦人には、夫がいたはずだった。妻を気遣う、とても紳士的な人だったと記憶している。
けれども彼女は首を横に振り、困ったような笑顔を浮かべて言った。
「夫はもう、いないんです。先日、先に逝ってしまいました」
「……すみません」
「いいえ。寧ろ嬉しいわ、夫のことを憶えていてくれて」
あの人は控えめな人だったから、と老婦人は表情をほころばせる。その人のことを、本当に好きなのだろう。別れてしまった今でも、思い出せば幸せになれるほどに。
「一人でも、お邪魔してよろしいかしら」
「はい、是非。賑やかですから、寂しくないですよ」
「でしょうね。……ああ、そういえば、あのちょっと怖いお顔の軍人さんはお元気かしら。彼も引退したのでしょう」
おれが彼女の連れ合いを憶えていたように、彼女もまたあいつのことを憶えていてくれた。いや、忘れようがないだろう。なにしろあの強面は、軍内外で有名だったのだから。
「引退して、警備員になりましたよ。……去年、仕事で死にました」
「あら、ごめんなさい……。まだお若いのに、残念でしたわね」
あいつがいなくなったことを惜しんでくれる人がいる。それだけで十分だった。あいつも浮かばれるだろう。天国なんてものがあるなら、そこで笑っているかもしれない。
連れ合いを亡くした者同士、おれたちはしばらく語り合った。彼女の夫の話もたくさん聞けたし、こちらもあいつの話を久しぶりにすることができた。こんなに落ち着いて話せるようになったんだなと、改めて思うくらいに。
「……最後のおれの誕生日、あいつは珍しく花なんか買ってきたんです。いつもは酒なのに。あ、もちろん酒もあったんですけど」
話し続けるうちに、そんなことまで思い出してしまった。あいつが祝ってくれた最後のおれの誕生日。似合わない花束を腕いっぱいに抱えて、玄関まで迎えに出たおれに渡したんだっけ。
――誕生日おめでとさん、アクト。
あの時の笑顔は、今でも鮮明に思い出せる。
「素敵な方だったのね」
「そうですね。あの見た目からは想像できないかもしれませんが、意外と繊細で、ロマンチストだったかもしれません」
もう、あいつが誕生日に花を抱えて帰ってくることはない。二度とそんな日は訪れない。それでも少しだけ、期待してしまう。誕生日くらい、奇跡が起きないかな、なんて。
「わたくしも、もうすぐ誕生日なんですのよ。夫はわたくしの誕生日に、毎年クリスマスローズを贈ってくれたんです。時期的に近いからだったんでしょうね」
「へえ、いつなんですか、お誕生日」
「十二月十七日」
「偶然ですね、おれも同じ日なんですよ」
まあ、と老婦人は目を丸くして、それから明るく笑った。わたくしたち、素敵な運命を持っているのね。そう言っておれの手をとった。
「じゃあ、少し早いけれど言わせてくれるかしら。……お誕生日おめでとうございます、アクトさん」
「では、おれからも。お誕生日おめでとうございます」
「ふふ、やっぱり祝ってもらえるのは嬉しいわね」
「そうですね」
あいつはもういないけれど、おれが生きている限り、誕生日は巡ってくる。生まれてきて良かったのか悩んだ日々は、いつのまにか幸福な人生に変わっていた。
あいつもそうだっただろうか。おれに「愛している」と言い残してこの世を去ったあいつは、幸せな人生を送れたのだろうか。
ただひとつだけたしかなのは、おれもあいつを愛していて、それはこの先も変わらないということだ。
老婦人が夫を愛しているように。おれも命の続く限り、あいつを愛し続ける。
そうしていつか、誕生日にでも花を持って迎えに来てくれたら、それはきっと幸福な結末なのだろう。