世界暦五一三年七月三日、第二十八代大総統に、カスケード・インフェリアが任命された。先代大総統アレックス・ダリアウェイドは以前からその機会を窺っていたが、とうとうその時がきたのだった。

ダリアウェイドは名将だった。歴代大総統の中でも最もその地位に相応しい振る舞いをしていた一人であるなどと評価は高く、在任期間も二十年という異例の長さを誇っていた。その間、交代の話が全くなかったわけではないが、彼を支持する声が圧倒的に多かったのはたしかだ。

そのときに必要な判断を、的確に。エルニーニャ王国に住む王宮関係者や貴族、一般市民といった様々な層に拘らず、とにかくより多くに利益がある選択を。それが彼の目指した国政であり、示してきた態度だった。

それを、カスケードが引き継ぐ。重圧は大きいが、それでも引き受けようと思ったのは、ダリアウェイドからの信頼と彼への恩のためだけではない。たしかに幼い頃から世話になってきたが、それだけではこの役目を引き継ごうと思う理由にはならない。――それこそ、生まれた直後から成長を見られてきた。ダリアウェイドは、カスケードの父アーサーの友人なのだから。

カスケードが大総統になるのは、ダリアウェイドから、そしてその以前から代々繋がれてきた、エルニーニャという国の地盤を、次の世代へ渡すためだ。そのためには自らも、国民に恥ずかしくない務めをしなければならない。

その決意をもって、今、カスケードはこの場所にいる。軍施設の片隅にある、軍人墓地。殉職した軍人は、基本的にはここに眠ることになる。軍人になる者には、親を亡くすなどして身寄りのなくなった者が多いからというせいもある。

カスケードの目の前にある墓碑にも、身寄りがなく、軍人として生きていくことを選び、そして死んでいった者の名前がある。――ニア・ジューンリー。僅か十八歳にして任務中に命を落とした、聡明な少年だった。カスケードの親友であり、現在のカスケードの根幹をつくっている人物だ。彼がいなければ、カスケードは大総統を引き受けられるほどの器を持つことはなかった。それどころか、早々に軍を辞めていたかもしれない。

もともと、親に強制されて入隊したのだ。入隊当時の態度は悪く、訓練をさぼるなんて当たり前。ただ籍だけを置いている状態で、目標も希望もなかった。そんなカスケードを変えたのが、ニアだった。軍人としての希望を――人を助ける軍人になりたいという強い望みを持っていた彼は、カスケードに大きな影響を与えた。

だから、大総統になることが決まったとき、まずは親友に報告した。その墓前で誓った。

「ニア、俺は人を助ける軍人になれたかどうかわからないけれど。これからは、人を助ける大総統を目指すから。まだまだ見守っててくれよ。息子ともどもよろしくな」

奇しくもこの日は、カスケードの子供が生まれた日だった。子供には親友と同じ、ニアという名をつけた。彼と同じように、誰かの傍にいつも寄り添えるような子になりますように。そんな願いを込めて。

大総統になると同時に親になったカスケードだが、かつては、自分を軍に入れた親には、結局入隊後十三年も会おうとしなかった。父との確執は、カスケードにとっては深いものだった。それでもなお、父の友人であるダリアウェイドは、カスケードに目をかけていてくれたのだった。

彼が在任していた二十年には、カスケードの成長を待っていた分も含まれているのだろう。思えばその期待は時に大きすぎて、カスケードにたくさんの仕事を与え、そして責任をとらせた。エルニーニャ軍を一時的に離れたこともあったが、結局はここに戻された。

きっかけが望まぬことであっても、成長が親友のためであっても、先代大総統によって導かれた道だったとしても。今ここにいるカスケードは、大総統カスケード・インフェリアに間違いなかった。

 

ニアの墓前で感慨に耽っていると、背後から地面を踏みしめる音がした。誰か墓地に来たのかと振り向いてみると、真後ろに意外な人物が立っていた。

「……センちゃん」

「その呼び方はやめろ。……いや、やめていただきたいというべきか。大総統閣下」

エルニーニャ王国軍大将、セントグールズ・エスト。ともに活動したことはほとんどなく、接点は少なかったが、もともとインフェリア家とエスト家には因縁がある。初代はともに建国に関わり、家同士は長くライバル関係を続けていたという。もっとも、ライバルということにこだわっていたのはエスト家のほうだったが。

セントグールズもカスケードを一方的に意識していたらしいが、ここに現れたのもそのためだろうか。大総統にはエスト家ではなく、インフェリア家の人間が選ばれたのだから。

「どうした、センちゃん。俺が大総統になることに不満があるなら聞くけど」

「語り切れないほど不満だらけだが、ダリアウェイド氏が選んだのならば、これが正しいのだろう。あの人はいつだって公共と大衆の利益になる行動を選択する」

言いながら、セントグールズはカスケードの隣でそっと膝をつき、ニアの墓に向かって祈ってくれた。見かけたことぐらいはあるかもしれないが、会ったことのない人物のために祈ってくれるのだから、やはりセントグールズは優しいのだ。口はあまり良くないが、それは単なる照れ隠しであると、カスケードは勝手に思っている。

だが、次にセントグールズが発した言葉には、優しさなどというものは含まれていなかった。

「身寄りがなくとも、軍に存在を認められていれば、こうして弔ってもらえる。認められなければ、あのダリアウェイド氏ですら、その人物が存在していたという事実をなかったことにする。軍人としてのデータはおろか、人間として生きていたという証拠すら隠滅される」

突然何を言いだすのか、それがどういう意味なのか、カスケードにはわからなかった。尋ね返す前に、セントグールズはさっさと立ち上がり、背を向ける。

「貴様がインフェリアの人間として大総統になるのなら、一つだけ忠告しておいてやる。……悲劇を、人生が滅されるようなことを、繰り返すな」

「ちょっと待て、それはどういう……」

とうとう答えが得られぬまま、セントグールズの姿は墓地の出口へと消えていった。人生が滅されるような悲劇とは、なんだったのだろうか。

エルニーニャでは毎日、裏社会の組織との抗争やその他の犯罪などで、誰かが何かしらのかたちで心身に傷を負ったり、何かを失ったりしている。それは事実であり、大総統の立場としてはそれを止めなければならない。直接止めに行くわけではなく、軍人という人々を使うことによって、上手に事態を収めるのが仕事だ。

誰かの人生が、どこかで終わっている。だがそんな哀しくも当たり前のことよりももっと重要な意味が、セントグールズの言葉には含まれているような気がした。

「軍に存在を認められていれば……」

彼の言葉を思い出し、繰り返す。何か大切な事実を、ダリアウェイドが葬っていたのかもしれない。それを思うと、胸がぎしりと音をたてて痛んだ。

あんな立派な人が、そんなことをするはずはない。でも、セントグールズはそれがあったという。わざわざそれを言いにきたのであれば、大総統が変わった今、その真相を突き止めてほしいのかもしれない。いや、もしかしたら彼はもうそのことを知っていて、カスケードにも事実を受け入れてほしいのかもしれない。

だったらやることは決まった。カスケードは墓地を離れると、仕事場へ向かった。――これからどれくらいそこにいるのかはわからないが、今、その椅子に座るのは自分だ。

大総統執務室の、あの歴史の詰まった重厚な椅子は、カスケードのものになったのだ。

 

誰かが新しく国の重要な地位に就くと、形式として式典が執り行われる。国民や国外に、その事実を知らしめるためだ。それは大総統も例外ではなく、現在はその準備が急速に進められている。

カスケードの大総統としての最初の仕事は、その式典のための挨拶を考えたり、式次第を覚えたりすることだった。その指導をするために、先代大総統ダリアウェイドと、その補佐であったルーク・ルフェスタは、まだしばらくは中央司令部を出入りする。

ダリアウェイドと式典での挨拶を考えている最中も、カスケードの頭の中にはセントグールズの言葉がこだましていた。ときおりぼうっとして、ダリアウェイドに叱られる。

「こら、カスケード君。大総統に任命されたのだから、もっとそれらしくきちんとしなさい」

「はい、すみません……。って、ダリアウェイドさんも俺のこと大総統として扱ってないじゃないですか」

「君が生まれたときから見てきたからな。なんとまあ、体ばかり大きくなって。それなのに国の頂点のみならず、父親にまでなってしまって……」

「失礼な。あ、ニアは可愛いですよ。俺が名前呼ぶと、ちゃんとわかってるのか、手足を動かすんです。ニアを抱いてるときのシィもまさに聖母で」

「わかったわかった。いいから、早く挨拶文を書きなさい」

我が子と妻の話題でごまかしたが(とはいえ半分以上本気ではあった)、やはりダリアウェイドが「なかったこと」にしたことが気になる。彼の二十年の経歴を見れば、都合上そういう処理をした事件などはたくさんあるはずだった。現にカスケードが関わったいくつかの事件も、軍の人間に不利益が生じて国内の軍への信頼が下がってしまうと判断され、内々に済ませたことがある。

だが、セントグールズのいう「なかったこと」にされたものは、それだけでは済まないようなものであると感じた。――人が生きていたという証拠を隠滅される、と彼は言ったのだ。そこまでのことを、ダリアウェイドがしたとは、カスケードにはとても思えなかった。

昔から彼は、カスケードにとっては優しく頼もしい「おじさん」であり、国をまとめる「頂点の人」であった。立派な人物だという印象が強く、加えて人を国の財産として大切にしようとする、理想の大総統だったのだ。

挨拶文を書く手は止めず、しかし思考は巡らせ続けていると、大総統室に隣接する特殊資料室からうんざりした表情の二人が出てきた。片方は前大総統補佐のルーク・ルフェスタ、もう一方は新たな大総統補佐となるディア・ヴィオラセントだ。たしか式次第の確認をしていたはずだが、どうなっているのかはだいたい予想がつく。

「インフェリア、何故ヴィオラセントを補佐にするんだ。式次第は全然覚えないし、仕草はがさつだし、このままではとても式典に出せるものではないぞ」

呆れ果てているルフェスタに、ディアは「うるせぇな」と頭を掻きながら小声で返す。自分でもこのままでは不味いと思っているのだろう。カスケードは苦笑しながら、ルフェスタに言った。

「俺の補佐にはそいつが最適なんです。不良だけど、隣国とのつながりはあるし、腕っぷしも強いし」

「不良だけどはいらねぇよ」

「けれども補佐としての仕事が今後できるかどうか不安だ。大総統にもしものことがあったら、代わりを務めるのは補佐の役目なのに……」

ルフェスタは優秀な補佐だった。名将に名参謀ありといわれ、指示を出す前にすでに望むとおりの行動ができているという、そんな人物だ。ダリアウェイドとの付き合いが長いため、それが可能だった。それこそ、彼が大総統になる前からの付き合いらしい。

その点はカスケードとディアも同じだ。だから良いコンビになれるとカスケードは踏んでいたのだが、ディアのほうは「なんで俺が補佐なんか」とまだぐちぐちとこぼしている。

「俺がエルニーニャにいなかったとき、ちゃんと班をまとめてくれていましたから。不良なら大丈夫ですよ」

「だから不良っていうんじゃねぇ」

「大丈夫だと信じたいが……」

「ルークは最初からよくできた部下で補佐だったからな。私たちや市民の言うことをよく聞いて、よく動く、まさに公僕の鑑みたいな人物で……そうだな、その点はヴィオラセントとは真逆かもしれない」

カスケードたちのやり取りに、ダリアウェイドもそう言って笑った。ディアが舌打ちして、それをルフェスタがまた「礼儀がなってない」と叱る。叱ってから、こほんと一つ咳払いをした。

「アレックスさんが言うほど、私はできてませんでしたよ。ただ、アレックスさんに従っていて、そうしているうちに思考がわかってきて、先回りすることができたというだけです。アーサーさんたちに対してもそうでした」

「親父に?」

そういえばそうだ、と思い至る。ダリアウェイドはカスケードの父アーサーと友人であり、同期だ。同じ班で仕事をしていたと聞いたこともある。ルフェスタも班の一員で、そのために補佐となったのだ。

「アーサーさんの考えは読みにくかった。あの人、天然すぎて何考えてるかわからないときもよくあったから。その点、アレックスさんとガーネットさんははっきりしててわかりやすかった」

そしてガーネット――カスケードの母も、元軍人で彼らと同じ班だった。それが縁で結婚したのだと、話してくれたのは当人たちではなくダリアウェイドだったように思う。

「親父が天然って嘘でしょう。我が強すぎて何言ってるかわからないの間違いじゃないですか」

「いや、天然だったぞ。大真面目にずれたことを言う、そんな面白い人だった」

カスケードの知っている父アーサーの人間像からは想像もつかないが、昔はそうだったらしい。カスケードには軍に入ることを強要した融通の利かない人物としての認識しかないので、なんだか別人の話をしているようだ。

「アーサーさんの発言にヴォルフィッツさんが食ってかかって、アレックスさんとガーネットさんが面白がって、私がおろおろと成り行きを見ている……ダリアウェイド班はそんな班だったな」

懐かしそうに語るルフェスタに、ディアが感心しながら頷いていた。たぶん、どこも似たようなもんなんだな、とでも思っているのだろう。インフェリア班も、もっと大所帯ではあったが、そんな感じの班だった。誰かが衝突して、それを面白がる者と止めに入る者、おろおろと動向を見る者がいて。それがとても楽しかった。

今ではほとんどが退役してしまって、各々の事情により全員揃うこともなくなってしまったけれど、たしかにあの頃は今でも記憶の中で輝いている。

ダリアウェイドの中でもそうなのだろうかと、カスケードはその表情を覗き見る。そして、ぎくりとした。――彼はたしかに笑っていた。笑ってはいたが、瞳の色は底知れない悲しみを湛えているのがわかってしまったのだ。

親友を喪ったカスケードにはわかる。あれは、大切なものを失くした者の目だ。

 

その日の夜、ダリアウェイドたちもいなくなった静かな大総統執務室で、カスケードは行動を開始した。

ディアたちが使っていた特殊資料室には、大総統とその側近くらいしか見られない機密資料が保管されている。それは国政に関わるものだったり、これまでの軍の活動記録だったり、提出された報告書のまとめだったりと様々だ。

カスケードは、今後これらの資料を自由に閲覧することができる。ここから過去の事例などを探して、国と軍を動かしていく参考にするのだ。

その膨大な資料の中から、世界暦四七〇年から九〇年代の事件報告書と軍籍簿を引っ張り出す。これを見つけるだけでも目が疲れた。もうすぐ日付が変わる時間ということもある。それはともかく、この期間がちょうど、ダリアウェイドが入隊してから大総統に就任するまでになっている。

ダリアウェイドたちが関わった事件は、四七〇年代後半から四八〇年代前半に集中している。なるほど、そこには大抵、アーサー・インフェリアの名前が連なっていた。ルーク・ルフェスタも少し後になって出てくる。他にはガーネット・クォートレイン――カスケードの母の旧姓だ――や、ヴォルフィッツ・エストといった名前があった。どうやらヴォルフィッツとは、エスト家の人間らしい。父同士で関わりがあったのなら、セントグールズがカスケードを気にしていた理由も頷ける。

「……ん? なんだ、これ」

よく見ると、任務に当たった人員の欄に、不自然な空白があった。そこに書いてあったものを、削り取ったような感じだ。しかもそれが一か所だけではなく、ダリアウェイド班と呼ばれていた彼らが関わっていたもののほとんどに施されている。

そして四八三年のあるときを境に、ぱったりとその痕跡はなくなった。最初から書かれていなかったのだったら、消す必要もない。

「どうして消されてるんだ? 明らかにあともう一人いたような……」

手書きの報告書を電灯に透かしてみるが、名前と思われるものはきれいに削られていて、何が書いてあったのかはわからない。ならばと軍籍簿を開いて、ダリアウェイドとアーサー以降に入隊した者を調べた。ダリアウェイド班なのだから、おそらく削られたのは部下の名前だろう。

ひとつひとつ丁寧に探して、ようやくそれらしいものを見つけた。ダリアウェイドたちより一年後に入隊した者の中で、一人分だけ不自然に削られた箇所がある。ただし、光に透かすとそこにあった字はかろうじて読めた。

「……エスト。……マリ……エンヌ……エスト?」

マリエンヌ・エスト。間違いでなければ、それが削られた名前だった。

しかし、削られているというのはどういうことだろう。もし退役あるいは殉職しても、名前は残り、備考欄に退役や死亡の文字とその年月日があるはずだ。しかしこの人物は、存在がそのまま消されてしまったかのような扱いだ。

エストという名前。名簿や報告書から存在が消されているということ。――セントグールズが言っていたのは、もしやこのことなのではないか。

名前からして、おそらくは女性。彼女はダリアウェイドたちと深く関わっている可能性がある。エスト家に関係する人間なら、名前だけでも知っているはずだ。ダリアウェイド班には、エスト家と因縁のあるインフェリア家の人間がいるのだから。

それなのに、ルフェスタは一度もその名前を出さなかった。あんなに懐かしそうに、思い出を話していたのに。もしかしたら、班の一員だったかもしれないのに。

「どういうことなんだ……」

――人間として生きていた証拠まで隠滅される。

あの冷たく痛みを含んだ言葉が、また頭の中で再生された。

 

大総統就任の式典は、着々と準備が進められ、あっという間に当日を迎えた。

すでに大総統の地位はカスケードに譲られているが、公式の場で紹介されるのはこれが初めてだ。各国の首脳や軍関係者、国民の前で、カスケードはいよいよ大総統と認められる。

だが、こんな場でも考えてしまうのは、例の削られた名前のことだった。なぜ名前を削り、存在自体をなかったことにしなければならなかったのか。そのことをダリアウェイドたちが一言も口にしない理由は何なのか、どれほど考えてもわからなかった。

セントグールズを探して訊いてみようかとも思ったが、彼も式典の準備や任務などで忙しくて捕まらなかった。そうして今日を迎えてしまったのだ。

今日を過ぎれば、ダリアウェイドとルフェスタは完全に軍を退役する。二人に真相を尋ねることはできなくなる。今までそれができなかったのは、ダリアウェイドの目を思い出してしまうからだった。あの、あまりにも悲しそうな目を。

「……深く国民を愛し、いつも忘れぬよう……」

ダリアウェイドと一緒に考えた挨拶を読み上げるときも、どこか違和感があった。国民だったはずの、軍人だったはずの者を忘れるようなことをした人間と作った言葉だ。けれども忘れなければならない理由があるのだろう。そうでなければ、ダリアウェイドがあんなことを許すはずがない。

それとも名前を削られたマリエンヌ・エストは、存在することで多数の人々の不利益になるような人物だったのだろうか。例えば、裏社会に通じていたとか。――それでも、あんな処分の仕方はしない。

「上の空で挨拶読んでんじゃねぇよ」

就任の挨拶を終えた後、真っ先にディアがそう言った。ばれていたか、と思いながら、笑顔でごまかす。

「いやあ、ニアのこと考えてたらぼんやりしちゃってな」

「それは親友の方か? それともお前のガキの方か? ガキの方なら、あんなしかめっ面しねぇよな」

そんな顔をしていたのか。さすがは補佐、よく見ている。もともとカスケードは隠し事や嘘が下手な性質だが、それを即座に見抜けるのは昔からの仲間ならではだ。

「まあ、真面目そうに見えたから良いんじゃねぇの。でも、悩んでるんならさっさと吐き出しちまえよ。鬱陶しいから」

「……そうだな」

こういう心配りができるあたりが、カスケードがディアを補佐に選んだ所以だ。彼ならこちらの考えをわかってくれる。わかってくれた上で、納得のいくようにすればいいと言ってくれる。もちろんこちらが間違っていれば全力で止めてくれる。そんな人物だからこそ、補佐をしてほしいと思った。いつか、彼に班を任せて旅立ったときと同じ理由だ。

「吐き出した方が、いいよな」

カスケードは腹をくくることにした。いつ何時、自分が同じような選択を迫られるかわからない。大総統として、誰かを切り捨てなければならない日がくるかもしれない。だから。

 

「お疲れさま、カスケード君。いや、大総統閣下」

式典の後、ダリアウェイドはいつもと同じように微笑んでいた。昔からカスケードを見てくれていた、優しい目をしていた。これを今から歪ませてしまうのかと思うと、心が痛む。

それでも、知っておかなければならないことがある。

「ダリアウェイドさんも、お疲れさまでした。……最後に、一つだけ聞いておきたいことがあります」

「何だね」

大多数の利益を優先して、物事を進めてきた彼が、ある人を苦しめている。両方を救う道があるのなら探したいと、その道を行きたいと、カスケードは思う。

それはとても難しい道だと、わかっているけれど。

「マリエンヌ・エストとは、誰ですか」

その名前を口にした途端、ダリアウェイドから笑顔が消えた。顔色はすっと蒼くなり、唇が震える。

「……どこで、その名を」

「軍籍簿と過去の報告書を見ていて、気になることがあったので。自分で調べました」

ダリアウェイドは、しばらく逡巡しているようだった。唇を噛みながら、目を泳がせながら、言葉を、眠らせた記憶を、探しているように見えた。

しばらくして告げたのは、ある約束だった。

「カスケード君」

「はい」

「その名前をアーサーとガーネットの前では絶対に口にしないと、約束してくれるか」

今度はカスケードが、顔を蒼くする番だった。

しかし、今は頷くほかに、話を聞く術はない。

 

 

ダリアウェイド班、と呼ばれていた。

明るく人好きのする、しかし計算高いところもあるアレックス・ダリアウェイドが、リーダーに適していたからだ。

半面、名家出身であるはずのアーサー・インフェリアは不愛想だった。母に似て生真面目に育った彼は、人付き合いがそう上手ではなく、入隊してすぐの頃はアレックスが唯一の友人だった。

その一歳年下の後輩たちが、三人。一人はガーネット・クォートレインという、貴族家出身の少女だ。しかし家は潰えてしまい、身寄りはなかった。

あとの二人がエスト家の出身で、少年をヴォルフィッツ、少女をマリエンヌという。双子として生まれた二人に、どちらが上という概念はなく、見た目もよく似ていた。インフェリア家出身であるアーサーに対して、ヴォルフィッツはよく突っかかっていて、マリエンヌもそれに応戦していた。

最後に、一番年下のルーク・ルフェスタ。アレックスやアーサーの軍内での活躍に憧れ、彼らと行動することを志願した。

六人で、いくつもの任務に関わった。周辺の村の視察から、このときすでに度々現れていた「怪物」の退治、裏社会に関わる少々危険な仕事まで、六人で力を合わせれば怖いものなどなかった。

班はいつだって賑やかで、ヴォルフィッツがアーサーに食ってかかれば、アーサーがそれにずれた反論をする。その天然っぷりにアレックスとガーネットとルークが笑い、マリエンヌが呆れる。そんな忙しくも楽しい日常が、いつまでも続くと思っていた。

 

世界暦四八三年。アレックスとアーサーが二十歳、ガーネットと双子が十九歳、ルークが十六歳のときだった。その任務は遠征視察で、とある集落が裏社会に関係している可能性があるので調査をしてくるという内容だった。ごくありふれた任務の一つである。

エルニーニャ軍の視察の規定として、一目では軍人とわからない格好をするのが基本だ。女の子同士仲の良いガーネットとマリエンヌは一緒に服を選んだようで、シンプルで動きやすくも、どこか可愛らしく見える恰好をしていた。動きやすさを考慮しなければ完全に普段着である男性陣は、それに見惚れたものだった。アーサー以外は。

「いやあ、マリエンヌもガーネットも可愛いなあ。そう思わないか、アーサー」

「ショートパンツは動きやすそうだが、肌の露出は怪我が心配だな。少し多めに救急セットを持って行こう」

「……アーサー、お前さ……」

誰のために二人が服装を吟味してきたと思ってるんだ、とアレックスは嘆いた。ガーネットと、わかりにくいがマリエンヌも、アーサーのことが好きだった。けれどもアーサーには、ことあるごとに「だからアーサーって好きよ」とストレートに愛情表現をしてくるガーネットの気持ちも、つい素っ気ない態度をとってしまいあとで悩んでいるマリエンヌの気持ちも、通じてはいなかった。当時はそうだったのだ。

「マリエンヌのことをいやらしい目で見るのはやめろ、アーサー」

それでもヴォルフィッツはアーサーを睨む。何を言われているのか理解できないアーサーは首を傾げながら、「それはどんな目だ」と問う。

ルークはそれを聞いて堪え切れずに吹き出し、アレックスと一緒に笑いだした。

そんないつもの光景を繰り広げてから、彼らは出発したのだ。なにしろこんな仕事だから多少の危機感はあったが、きっと無事に帰ってこられると信じて疑わなかった。

「ちょっとアーサー、一言くらいマリーのこと褒めなさいよ。こんなに可愛いんだから」

「や、やめてくださいませ、ガーネット。この人にそんなこと求めても仕方のないことです」

中継地点でこんなやりとりをするくらい、ガーネットとマリエンヌは親しかった。お互いアーサーを好きなことはわかっていて、それでもなお彼女らは親友だった。

「褒める……? ああ、似合っていると思う」

「そんなの褒めたうちに入らないわよ!」

「もういいです。わたくしだって期待してたわけではありませんもの」

そう言いながらも少しだけがっかりした表情を見せたマリエンヌに、アーサーはただただ首を傾げていた。それを見ていたヴォルフィッツはイライラし、アレックスは苦笑いをする。ルークは「でも可愛いなんていったらマリエンヌさんが否定するんだろうな」と思っていた。それが常なのだ。

賑やかで、退屈しない班。そんな彼らも、任務地が近づけば緊張感を持ち、冗談も言わなくなる。だからこれが、彼らが笑える最後のときだった。

任務地に到着したアレックスたちは、早速三方向に分かれて任務を開始した。すなわち、集落の状態の見回りと聞きこみである。軍人だとばれないよう、ただの旅人を装って話を聞く。集落は、各地から人が集まってできた一時的なもののようだった。交易のためだけにこのような場が設けられることは珍しくなく、旅人として紛れ込んでも自然だ。

「また西方の芸術品のようなものを売っている商人がいましたわね。偽物ですが」

マリエンヌは周囲をよく観察し、記憶にとどめるのが得意だ。殊に美術品や装飾品に関しては造詣が深く、一目見てその真贋を判断することができた。

「さっきから偽物って言ってるけど、ここで開かれている市にあるものは、偽物が多いのか?」

アレックスが尋ねると、彼女は即座に頷いた。

「ええ、中途半端な偽物をみんなで売りあっているようですね。それも高額で……」

怪訝な表情で、マリエンヌは「あれも偽物」と呟く。たしかに偽物を売る商人が、別の偽物を高値で買うというのはおかしな話だった。物の価値がわからない連中なのか、それとも偽物でもかまわない理由があるのか、そのどちらかだろう。

そもそもこの集落は、あまり雰囲気が良くない。人々が燻らせる煙草の煙は、市販のものとは違う奇妙なにおいがする。商人たちの目はみな妙にぎらついていて、しかしながらこちらに強引にものを買わせようとする気配はない。

「マリエンヌ」

「はい」

「アーサーと一緒じゃなくてよかったのか」

仕事の話をするのと同じ調子で訊くと、マリエンヌは顔を真っ赤にしてアレックスを睨んだ。

「どうして今、そんな話をしますの? こっちは真剣にお仕事をしているんですよ!」

「悪かったよ。だから静かにしようか」

なんとか彼女を宥めると、しばらくして、かすかな声で問いに対する答えがあった。普段色白な頬は薔薇色に染まり、伏せた目は潤んでいた。

「……だって、抜け駆けはできません。それ以前にガーネットのほうが、女の子らしくて魅力的です。わたくしなんて、アーサーに『父に似ている』だなんて言われたのですよ。……女性として、見られていないのですから。一緒にいたって、仕方がありません」

今、ガーネットはヴォルフィッツと行動している。互いに「抜け駆け」はできない状況だ。そんなことを考えて組み合わせを考えたわけではないのだが。

それからマリエンヌは勘違いをしている。アーサーが彼女を「御父君に似ているな」と言ったのは事実だが、それは彼女の真面目さや勤勉さを指して表したことで、彼女を女性として見ていないわけではない。彼がいざとなったらマリエンヌとガーネットを真っ先に守らなければと考えていることを、アレックスは本人から聞いて知っている。

二人とも真面目すぎて、互いに気持ちが伝わっていないんだよな、とアレックスはいつも苦笑するのだった。

 

その夜は、集落のほかの人間がしているように、テントを張ってキャンプをすることになった。六人が余裕で入れる大きなテントは、軍の支給品ではあるが、それとはわからないようにシンプルなつくりになっている。

ランプを灯して吊り下げ、小声での報告会が始まった。

「俺とルークは集落東の、煙草商と話をした」

アーサーからそう切り出した。報告会の内容は、ヴォルフィッツとルークが書き留める。

「表に出ているのは合法の煙草だった。だが、町では手に入らないような珍しいものだ。商人は東方の小国から仕入れたものだと言っていた」

「この集落で多くの人が吸っていたのは、この煙草のようです。サンプルとして少量買いました」

ルークはペンを一旦置いて、ポケットから紙包みを取り出す。この町に漂う独特のにおいが、テント内に広がる。ヴォルフィッツが咳き込み、「そんなもの片付けろ」と顔を顰めた。

「強烈だな。これなら何を混ぜ込んでも隠せそうだ」

換気をしつつ、アレックスが呟く。続いてガーネットが発言した。

「西側は飲食物の提供をしていたわね。肉類と香草、それからお酒が主だったわ。見る限り、質はあまり良さそうではなかったけれど」

「くずを集めて固めた肉に香草をたっぷり混ぜ込んで、傷みかけているのをごまかしているようだったな。それをこれまた酷い出来の酒で流し込むのが、ここの食事の仕方のようだ。あれなら非常食をひたすら食っていたほうがましだ」

補足するというよりも悪態をつきながら、ヴォルフィッツはまだ鼻と口を手で覆っていた。書記をしながらきまり悪そうな顔をしたルークの頭を、アレックスがぐしゃぐしゃと撫でる。それからまた、「混ぜ込む、か」と口にした。

最後にマリエンヌが、この集落で売られている美術品や装飾品は偽物ばかりであることと、それがやたらと高価であることを報告した。しかしながらそれをやりとりする人々は、文句も言わずに取引を成立させていたことも付け加える。

「参考までに、サーリシェレッドの首飾りを模したものを買ってまいりました。実際はただの赤硝子。単なる偽物を通り越して粗悪品です」

サーリシェレッドは大陸南部の国サーリシェリアでのみ採掘される、希少な鉱物だ。本来なら正規の手続きを経て、認可を受けた職人が加工し、専門家を置いた店で販売される。だから確認するまでもなく、このような集落で売られているものは例外なく偽物だ。ただし、ここまで粗悪なものは逆に珍しい。もっとよく似た鉱物はあるし、それだって本物と見紛うような立派な加工が施されている。

「これが本来のサーリシェレッド製のものとそう変わらない値で出されているなんて、とんでもないことです。こんなものにお金を払うのは勿体ないと申しましたのに、アレックスは交渉もせずに買ったのですよ。自費ならともかく、経費で落とすなんて……軍のお金は国民のお金でしてよ?!」

憤慨するマリエンヌに、アレックスは苦笑いこそすれど謝りはしなかった。ということは、彼はこれが必要なことであると判断しているのだ。そうアーサーにはわかった。

「アレク、考えがあってのことなんだろう。これをどうするつもりだ」

「もちろん考えはあるし、すぐに実行してみるつもりだ。まずはその首飾りを女性陣がつけてみてくれないか。そしてその姿を、アーサーはよく見ておいてくれ」

怪訝な顔をしつつ、まずはガーネットがかけてみる。胸元に赤い硝子が、ランプの光を受けて輝いた。けれどももちろん本物には遠く及ばない。偽物をつけているところを好意を持っている相手に見られるというのは思ったよりずっと恥ずかしくて、ガーネットは困った顔をした。

「アーサー、ちゃんと目に焼き付けたか?」

「ああ」

「じゃあ次はマリエンヌだ」

首飾りは、ガーネットからマリエンヌに渡される。不満げな表情でそれをつけたマリエンヌは、こちらをじっと見つめるアーサーから目を逸らした。どうせならサーリシェレッドなんて希少品じゃなくていいから、本物の宝石をきちんとした衣装とともに身に纏っているところを見てほしかった。

「マリエンヌを舐め回すように見るのはやめてもらいたい」

「そんなふうに見たつもりはないが。ただアレクの指示通りにしただけだ」

ヴォルフィッツの文句に、アーサーは平然と答える。首飾りを外しながら、マリエンヌは少しだけ表情を曇らせた。

「さて、アーサー。二人の姿はどうだった? 首飾りは似合っていたか?」

付き返された首飾りを片手で弄びながら、アレックスが尋ねる。似合っていると言われても似合っていないと言われても、どちらも嫌だと女性陣が思っているのを、知ってか知らずか、アーサーは返答する。

「どうせ身につけさせるのなら、もっと上品なものをつけさせたらどうだ。ガーネットもマリーも、気品の高い女性なのだから」

問いの答えにはなっていない。はいでもいいえでもなく、ただ二人についてアーサーの思うことを述べた。だがアレックスはそれに満足そうに頷き、二人の女性は頬を染めた。

「やだ、アーサーったら。私、そんなんじゃないわよ」

「アレックスの質問をちゃんと聞いていまして? それから、マリーと呼ぶのはやめてくださいと何度も言っています!」

言葉とは裏腹に嬉しそうな二人を、アレックスは微笑ましく思う。ルークも同じことを考えていたのか、にこにこしていた。ヴォルフィッツは舌打ちし、アーサーは一瞬だけきょとんとしてから、もう一度アレックスに言った。

「それで、どういう考えなんだ」

「うん、本番はここからだ。これが偽物で、とっておく価値がないことは改めて確認できたからな」

首飾りがアレックスの手から滑り落ち、地面に落ちる。いつのまに装備していたのか、アレックスは腰から下げていた金槌を手にすると、すっとしゃがみこみ、首飾りに向かってそれを思い切り振り下ろした。

脆い首飾りはぱんと弾けた後、石の破片がこすれ合うじりじりという音をたてる。金槌を退けると、砕けた赤い石とその土台に混じって、白い粉が見えた。硝子かと思ったが、それにしては粒が細かい。ヴォルフィッツがルーペを取り出し、その粉を観察した。

「……なるほどな。ルーク、荷物の中から危険薬物の検査キットを出せ」

「はい!」

赤硝子の中は空洞になっていた。そこにぎっしりと粉が詰まっていたらしい。粉を持ってきた薬品につけると、それが危険薬物であるという反応を示した。

「アレックス、いつから気づいてましたの?」

「店に並んでいるのを見たときには。同様の手口は、他の班の調査でも報告されている。料理に香草とよく似た危険薬物原料を混ぜ込むのも、危険薬物の使用を煙草のにおいでごまかすのも、やつらの常套手段だ。……だろ、アーサー」

「ああ、事前に調べておいたとおりだった。この集落は、危険薬物の取引と使用のために用意されたものだ」

軍人寮で同室であるアレックスとアーサーには、初めからここが「潰さなければならない場所」であるという予測ができていた。だが情報だけでは確信には至らず、視察というかたちをとったのだ。実状がわかったら、無線で応援を呼び、一斉に摘発するつもりだった。

「そういうわけで、経費は首飾りの購入ではなく、危険薬物の押収にかかった分だ。贋作美術品の値段が異様に高かったのも、それがその中に含まれる危険薬物の価値としては妥当だったから。成分を詳しく調べないとわからないけど、ここらじゃ簡単に手に入らないような『いいもの』なんだろう」

種明かしは終わった。説明しながら無線を手にしたアレックスは、しかし、自分でそれを使わなかった。無線をルークに向かって投げると、自分の背後、テントの向こうに、素早く銃を向ける。

「危険薬物が目的で集まったやつらだ。当然そうではないやつに集落のことを知られては困る。こっちが軍人であることに気づいていようといなかろうと、どうせ襲ってくる!」

破裂音とともに、テントに穴が開く。だが、同時に丈夫に作られているはずのテントは向こう側から引き裂かれてもいた。侵入してきた鋭い刃物と倒れ込んできた屈強な男に、一同は緊張する。

だが、それも一瞬のこと。軍人がいちいちそんなことを気にしていたら、仕事にならない。現に今だって、ここは取り囲まれてしまっている。

「ルークは司令部に連絡。ヴォルフィッツはルークを守れ。二人はついでに荷物を車に積むこと。アーサーとガーネットとマリエンヌは、今のうちにできるだけ危険薬物の回収だ」

「アレクは」

「俺はお前らの道をあけてやる」

アレックスがランプをとって、テントを切り裂いてできた大穴の向こうへ投げる。光に照らされて、何人もの影ができた。

「行くぞ!」

テントは内側と外側の両方から破壊され、夜の闇の中で戦いが始まった。

 

アレックスは銃弾を全て放ち切った後、すぐに剣に持ちかえる。本来は剣技こそが戦闘スタイルだ。敵を薙ぎ払い、アーサーたちが進む道をつくった。

もちろんアーサーとて闘わないわけではない。銃と体術の両方を駆使しながら、託された仕事を遂行するために走る。別の方向に、ガーネットとマリエンヌも向かった。ガーネットは短剣を片手に、舞うように襲いくる者を撃退する。マリエンヌは両手に一丁ずつ銃を構え、立ちはだかるものの動きを止めた。

ヴォルフィッツはライフルでこちらまでやってきた者を倒し、連絡を終えたルークとともに荷物を背負って車へ走る。だが荷物を積み終えたところで、舌打ちした。タイヤがパンクさせられ、車はすでに使えなくなっている。応援が来なければ、ここから離れることはかなわない。

「ルーク、貴様は荷物を死守しろ。応援が来るまで堪えろよ」

「わかりました!」

ヴォルフィッツが戦闘に向かった後を託されたルークは剣を構え、車の周囲にいる敵を掃った。

アーサーが煙草売りの店に入り明かりをつけると、煙草のほかに、積まれた袋を見つけた。一つを開けてみると、中身は先ほど硝子から出てきたものと同じと思われる白い粉だった。他にも煙草とは違うさまざまな植物が置いてあり、全て危険薬物の原料であると判断できた。

「お客さん、営業時間は終わったよ!」

商人、いや、危険薬物の売人がナイフを手にとびかかってくる。アーサーは振り向きざまに相手を蹴りをくらわせ、その手からナイフを奪った。代わりに手錠をかけて、テーブルの脚につなげてやった。

「俺は客じゃない」

律儀に答えてから、次へ向かう。

元貴族のガーネットは、一見すると細腕の、弱々しい女性に見える。だが、それは見た目だけだ。彼女は軍人として現場に出るために、努力を怠ったことは一度もない。

そもそもは、貴族家襲撃という珍しくない事件で家族を喪い、一人で生きるために軍に入った。いつか家族を殺した犯人をこの手で捕まえようと、そして同じ思いをする人を二度と出さないようにと、願いながら戦ってきた。その彼女を甘く見る者が目にするのは、地獄だ。

女ひとり、あわよくば手籠めにしてやろうと襲ってきた敵共を、ガーネットは冷たく一掃した。

ヴォルフィッツとともにエスト家の次期当主として育てられてきたマリエンヌには、賢者の血を引く軍人としての理と力が備わっている。拳銃を一丁ではなく二丁同時に扱えるよう鍛え、男にも負けない戦闘力と、一度現場に出れば簡単には折れない心を培ってきた。

襲いくる敵はみんな動きが遅く見える。養成学校で、練兵場で、そして実戦で常に最大限の力を発揮できるようにしてきた彼女には、相手が何人いようと同じことだった。

周囲をあらかた片付けて、危険薬物を回収する。正確には、危険薬物が混入されている美術品や装飾品をだ。大きなものを運ぶのは一人では難しいので、小さく軽いものを集めていく。こういうものをさっさと回収しなければ、持って逃げられる可能性もある。まして、宝石ほどの価値があるものなら、一つ持ち去られただけでも大問題だ。

「これくらいかしら……。あとは応援が来てから、司令部に運んでもらうしかありませんね」

折りたたんでポケットに入れておいた袋は、中身は軽いものばかりのはずなのに、もうずっしりと重くなっている。これを車まで持って行くのにも一苦労だ。溜息を吐いてそこを離れようとしたとき、何かが視界の端でゆらりと動いた。

とっさに銃を向けたが、荷物の重さで速さが鈍る。次の瞬間、後ろから体を羽交い絞めにされ、口を塞がれた。

「――!」

しまった、まだ撃ち損ねていたか。装飾品の入った袋が、音をたてて地面に落ちた。

 

軍が来るまで時間がかかるのは仕方がない。だが、この小さな集落をまわってくるのに、それほど時間はいらないはずだ。まして、あの三人なら。テントを囲んでいた敵を倒したアレックスとヴォルフィッツは、顰めた顔を見合わせた。

「アーサーめ、何をしている……」

「ガーネットやマリエンヌに何かあったのかもしれない。俺たちも行こう」

アレックスが一歩踏み出した、そのときだった。叫び声と破裂音が、三、四発。

音はマリエンヌが向かった方角から聞こえ、声はたしかにこう言った。

「マリー」と。

 

合流したアーサーとガーネットの目の前に現れたのは、痩せこけた背の高い男と、彼に後ろから拘束されたマリエンヌだった。

「お前ら、軍人だろう? おれは知ってたよ。昼間、ここを見回ってたときから知ってた」

男は血走った目をして、ひひひ、と笑い声を漏らしていた。痩せた体といい、様子といい、重度の危険薬物依存者であることは想像に難くない。

「別にさ、軍人だろうとなんだろうといいんだよ。どうでもいいんだ。ただ、お前だけはどうしても気に入らなくてさあ、……インフェリア」

「俺が?」

銃を構え、隙を探しながら、アーサーは尋ね返す。この男に覚えはなかったと思う。過去に会ったことがあるとしても、変わり果ててしまったのなら判断のしようがない。

「その青い髪、青い眼、間違いなくインフェリアの人間だろ。あのクソ忌々しい先代大総統の関係者だろ」

先代大総統――インフェリア家第十五代当主、カスケード・インフェリア。その容姿を、アーサーは見事に受け継いでいた。性格は正反対と言われるほど違うが、見た目には父の若い頃にそっくりだ。

「昔、入隊試験受けたときにさあ。あいつ、おれ見て何て言ったと思う? 首振りながら、『君には無理だ』だってさ。せっかく軍人になろうとしたのに。いつかは強くなって、誰も彼も見返してやろうと思ったのに。そして案の定、あいつはおれを不合格にした。不合格になったおれを、親は裏組織に売った。おれが死にたくなるような人生送ってきたのも、今こんなになっちまったのも、全部インフェリアのせいだ。インフェリアが途絶えなきゃ、おれは満足して死ねねえ」

不幸な境遇だったらしい。その結果、危険薬物に溺れてしまったのだ。だが、軍に入隊できなかったことについては、逆恨みだ。

「薬のせいで混乱してるんだわ。耳を貸しちゃ駄目よ、アーサー」

ガーネットの言葉に頷き、銃を構え続ける。だがこの暗闇の中、しかもマリエンヌを人質に取られている以上は、迂闊に引鉄を引けない。ガーネットが見かねて動こうとすると、また男が笑った。

「動くなよ。今、この子には、背骨に沿って特殊な爆弾を仕掛けてある。おれが火をつければあっという間に爆発するぞ。……でも、インフェリアが自殺するなら、解放してやってもいい」

死んでマリエンヌを救うか、マリエンヌを犠牲にして男を確保あるいは殺害するかの二択。ライターの火をちらつかせる男を前に、アーサーは考える。

ここにはガーネットがいる。こちら側が一人欠けたところで、マリエンヌを救うのには支障がない。銃声に気づけば、アレックスたちも来るだろう。

男に向けていた銃口を、アーサーはゆっくり、自分へ向け直した。

「アーサー、何やってるの?! 耳を貸しちゃ駄目って言ったでしょう!」

「マリーの安全が最優先だ。この体はどうにでもなる」

「馬鹿なこと言わないで!」

「死んでくれるなら確実に死ねよ! 腹や胸じゃない、頭に銃を突きつけろ!」

アーサーは男の指示通りに腕をあげた。闇の中で、男が笑っているのが、ガーネットが泣きそうな顔をしているのが見える。

それから、マリエンヌが。

「……っ、こんなやつの言いなりになんか、なる必要ありません!」

口を塞いでいた男の手に噛みつき、あらん限りの声で叫んだ。

「いってえ……いてえな、このアマ!」

逆上した男に、判断力などない。すぐさま火を灯すと、マリエンヌに近づけた。

「マリー!」

銃を捨てて走り寄ろうとしたアーサーに、マリエンヌは笑って言った。

「それでもう、死にませんね。よかった」

導火線は燃え尽き、マリエンヌと男の間で三、四発の破裂音が響いた。

 

応援に来た軍によって、集落は徹底的に調べ上げられ、そして解体された。危険薬物も全て押収され、事件は解決ということになった。

しかし、マリエンヌの容態は深刻だった。爆弾の破片は彼女の背中に深く突き刺さり、背骨の数か所を傷つけていた。一命はとりとめたものの、もう自分で体を動かすことは難しいかもしれないと、医師は告げた。

「貴様がいながら、どうしてマリエンヌが……っ!」

掴みかかってきたヴォルフィッツに、アーサーは何も抵抗しなかった。それどころか、ヴォルフィッツを止めようとしたアレックスを制止した。

「貴様のせいだ! 貴様のせいで……」

怪我によって、マリエンヌは多くのものを失ってしまった。体の自由、軍人という仕事、そして、エスト家次期当主の座。双子として生まれたヴォルフィッツとマリエンヌは、二人で当主となる予定だった。

彼女の誇りを、そして彼女そのものを、誰よりも大切にしていたヴォルフィッツに、アーサーは返す言葉がなかった。どれだけ謝っても、彼女はもとの彼女には戻れない。

「……いっそ、消してくれ」

ヴォルフィッツは呻いた。

「マリエンヌは最初から、軍人ではなかった。貴様とは出会わなかった。そういうことにしてくれ。二度とマリエンヌのことを口にすることは……思うことすらも許さんぞ、アーサー」

そのときは、混乱と怒りから出た、一時的な言葉だと思った。誰もがそう思った。

だが、その翌日にはマリエンヌの私物は軍施設から一切消え、彼女は軍籍から外された。

それだけではない。建国御三家の末裔という立場を利用して、ヴォルフィッツは大総統に、マリエンヌを全ての事件に「関わらなかった」ことにさせた。彼女が入隊していたという記録すらも消させた。

本当に、全てをなかったことにしてしまったのだった。

それを知ったアレックスがヴォルフィッツを問い詰めると、ただ「何もなかったんだ」とだけ返事があった。そのことはアーサーとガーネット、ルークにも伝わり、それがヴォルフィッツの意向なら、と受け入れることを選んだ。

 

 

「そんな……そこまでする必要があったんですか?」

カスケードの問いに、ダリアウェイドは静かに頷いた。

「それから一生マリエンヌを看ることになる人間が、そういうことにしたんだ。あの事件以来、私たちは彼女の顔を見ていない。生きているのかすらも知らない。……彼女はヴォルフィッツだけのものになったんだ」

脳裏に、セントグールズに会ったときのことがよみがえった。――軍に存在を認められていれば、こうして弔ってもらえる。彼は墓地に訪れ、そう言ったのだ。もしかしたら、マリエンヌという人は、もう生きてはいないのかもしれない。

そして事件の真相を、彼女が軍から消えることとなった経緯を、セントグールズも詳しくは知らないのかもしれない。ダリアウェイドの話がすべて真実かどうかも、カスケードにはわからないのだけど。

「あの事件で変わってしまったのは、マリエンヌやヴォルフィッツだけではない。アーサーとガーネットもだ。ガーネットはあんなに仲の良かった親友のことを一切口にしなくなり、アーサーは軍家インフェリアを続かせることにこだわるようになった」

「親父が?」

「カスケード君が生まれてからだがね。インフェリアの血筋のせいで何かを失わないように、守れるものであるように、子供を軍人にすると誓ったんだ。……君は拒否したが、結局はアーサーの思い通りになった」

カスケードが幼い頃、父は我が子を軍人にすることにこだわった。どんなに嫌がろうと、その道を行かせようとした。その陰に、彼にもまた「大切な人を失った記憶」があったのだ。

「私たちは大切なものを手放してしまった。なかったことにしてしまった。……君は、ちゃんと抱えていなさい」

日常だと思っていた日々は、当たり前だと思っていたことは、ある日突然消えてしまうかもしれないから。この国を見つめる者として、一人の人間として、それを覚えておきなさい。

ダリアウェイドはそう言い残して、去った。彼が苦しめていたのはセントグールズでも、友人たちでもなく、他でもない自分自身だった。

 

年季が入っているにもかかわらず、豪奢で重厚な、しかし凭れれば柔らかな感触が背中に伝わるその椅子。この国でたった一人だけが座ることのできる特別な椅子に、カスケードは身を沈めた。

頭の中を巡るのは、昔話と、初めて知った父の想い。何かや誰かを失くすのは、軍人であるならば、たとえそうでなくても、いずれ経験することだ。

カスケードもそうだった。そのはずなのに、父やダリアウェイドたちも「失くした者」であることに、どうして今まで思いいたらなかったのだろう。

特に父のことなんて、考えようともしてこなかった。何年経っても、再び顔をあわせるようになってからも、カスケードの中の父は「この道を強制した強情な人物」だったから。

「気は晴れたかよ」

す、と横から煙草が差し出される。そちらへ目をやると、ディアが自分もそれを口に咥えようとしていた。カスケードは差し出されたものと、ディアの口元にあったものの両方を取り、握り潰した。

「大総統室は禁煙だぞ、不良」

「あ、もったいねぇ!」

強制された道を歩きはじめ、出会いと別れを繰り返して、今、ここにいる。国の長として、「正しく」あることを求められる立場に。

けれども今まで正しいと思ってきたものすらも、自らの過ちを悔いてきたことを知ってしまった。――「正しい」ことなんて、もしかしたら、この世のどこにもないのかもしれない。

「……晴れることは、一生ないのかもな」

後悔は、したときにはいつも手遅れだ。そして人間は、後悔が大きければ大きいほど、それに固執する。その出来事に依存してしまう。そうして自分をつくりあげていってしまうのだ。

それが大きく根を張ったとき、枝葉はとうに広がっていて、新しい道へと思いを引き継いでいってしまう。良いことであっても、そうでなくとも。

「そう簡単に晴れるほど、人ってのは楽じゃねぇよな。……でも、お前はそのトップに立つんだぜ、カスケード」

カスケードも、ダリアウェイドも、かつての父らも、後悔でできている。それを経験として積み重ねて、現在を生きている。誰かを失いながら、誰かを生かしている。

カスケードはこれから、生かさねばならない。自分にできるだけの、より多くの人を。両手にたくさんの命や想いを抱えて、大総統という地位を名乗るのだ。

「ディア。俺には、正しい大総統なんてできない」

椅子に座りながら、言う。補佐官はそれに、頷いた。

「正しい奴なんかいねぇよ。ただより良い方を選んでいくことしかできねぇだろ」

これだから、補佐官は彼で良かった。カスケードは改めてそう思い、笑った。

「さすが、国王ぶん殴って国を出てきたやつは言うことが違う」

「褒めてんのか、貶してんのか」

――君は、ちゃんと抱えていなさい。

ダリアウェイドの言葉に、カスケードはようやく頷ける気がした。一人じゃなければ、抱えられる数は、重さは、増える。だからきっと、大丈夫だ。

そしてもう一つ、心に決めた。血筋による痛ましい連鎖は、断ち切らなくてはならない。生まれたばかりの自分の子供は、ニアは、軍人にはしない。あの子には、自分も他人も喪ってほしくない。いずれそのときが訪れるなら、できるだけ平和な方がいい。守るなら、この手で守り抜く。

いつか、親友にそう誓ったように――何が何でも、守り抜け。あとで後悔しないように。

「ディア、俺の隣は頼んだぞ」

「はいよ、大総統閣下」

この国の全てを背負い、前を向いて、己の道を行こう。先人たちの想いを、胸に抱きながら。

 

* * *

 

自分の誕生と同時に、母は命を落としたのだと聞かされてきた。母を一度も見たことがないから、それはきっと本当のことだ。

父はあまり母について語らなかった。だが、軍人としての経験を話すとき、怒ったような口調で、けれどもどこか楽しそうにしていた。

アレックス・ダリアウェイドは気の良い先輩だった。ルーク・ルフェスタは素直な後輩だった。ガーネット・クォートレインは愛嬌のある人だった。……アーサー・インフェリアとは、よく口喧嘩をした。やつは永遠のライバルだ。

けれども話したあと、必ずどこか遠くを見つめるのだ。そして、ぽつりと呟いていた。

――その誰もが、忘れてしまった。誰もに忘れさせた。

その言葉の真意がわかったのは本当に最近のことだ。忘れられたのは、母のことだった。

母は軍から存在を抹消されていた。友人たちにも語られなくなっていた。誰も母のことを「知らない」ことにしていた。――父ですらも。

思い出の中から母だけを切り取って、いなかったことにしていた。

母は本当に父の中でだけ生きる人になって、父の中で死んでいったのだろう。

そうでもしなければ、父と母が結ばれることはなかったのだ。父は、誰よりも母を愛していたのに。

母が確かに生きていたということは、どうか思い出してほしい。当時を知る人にしか、できないことだから。けれども父の想いは、永遠に封じたい。そうしないと、父が救われないから。

それが彼らの子として生まれてしまった、自分の願いだ。