エルニーニャ王国軍中央司令部に、とある依頼が舞い込んだ。ときどき「軍は何でも屋じゃないんだけど」と言いたくなるような無茶なものまで入ってくるが、これはそう無碍にすることもできず、かといって調べるとなるとそれもまた難しい、扱いに困る案件だった。
人を探してほしい。けれども、その人は確実にもう生きてはいない。なぜならその人の名があったのは、大昔の記録の中なのだった。それでもその人の行方を知りたいのは、先祖が世話になったからだ。その人がいなければ、この家は自分の代までもつどころか、家名を与えられることもなくひっそりと滅びていた――らしい。
わざわざ軍に依頼を寄越したのにも理由があった。その古い恩人は、どうやら建国御三家にゆかりのある人なのだ。つまり大昔の資料や文献を片っ端からあさって探すよりも、直接現代の御三家に渡りをつけたほうが、早くて確実だろうという、そういうことらしい。それは、たしかにそうなのだけれど。
「……というわけで、協力してください」
「そういう頼みはたまにあるけど、まさか軍を通すなんてね」
手を合わせて拝んだイリスと向かい合っているのは、ドミナリオ・エスト。元軍人で、建国御三家の一つエスト家の現当主である。呆れたように溜息を吐いているのは、おかしな依頼に辟易しているというわけではない。いや、少しはうんざりしているかもしれないが。
最たる原因は、イリスの隣で一緒に手を合わせている、現大総統だ。
「イリス一人が来るなら、まあ納得できなくもない話だけど。どうしてレヴィアンスまで?」
「だってさ、職務上とはいえゼウスァートを名乗ってるのって、今オレだけじゃん。ここは一度、現御三家全員で調べてみようよ」
「君、仕事はどうしたんだ。……ああ、やっぱり答えなくていい。要領が良いから、ちゃんと終わらせてきてるんだろう。こんな時間だしな」
すでに日は暮れている。軍は一応、通常業務を終えている時間だ。つまりこの依頼は軍として受けたわけではなく、レヴィアンスとイリスが個人的に引き取ってきたものなのだ。自分たちを頼ってきた人を、放っておけなくて。
「ドミノさんのところなら、昔の史料たくさんあるでしょ? 前に貸してもらったもんね」
「インフェリア家にも保存してあるはずだって、前にも言わなかった?」
「エスト家のほうがいろんな記録が残ってるって、おじいちゃんに言われたの。うちでも探してくれてるから、そのあいだにこっちでも調べられないかなと思って」
「……そう思ったなら、先に連絡をくれないと」
ドミナリオはけっして、非協力的なわけではない。昔の文献などが良い保存状態で見られるということで、研究者たちからは頼りにされている。軍にいるよりもそういったレファレンスのほうが好きなドミナリオは、案外この生活が気に入ってもいる。
断りはしないだろうと思って連絡を怠ったのは、イリスのミスだ。それは素直に謝罪する。これで許して、と酒瓶を取り出したレヴィアンスは、ドミナリオに余計に睨まれた。飲みたいのは君だろう、と。
「まあいいや。玄関で話すのもなんだし、入りなよ。書庫もすぐに開ける。夕飯はうちのケータリングを利用しよう。僕が準備をしているあいだに、そっちも持ってきた資料を用意しておいてくれ」
やることを決めてしまえば、というより今回の場合諦めてしまえば、行動は早い。淀みなく指示をして、ドミナリオは書庫へと向かって行った。
「……なんか昔より喋るようになったな、ドミノさん。イリスのせいかな」
「そう? とりあえず甘えさせてもらおうよ。早く資料出しておかないと、本当に機嫌悪くなっちゃう」
感心しているレヴィアンスを引っ張って、イリスは家にあがらせてもらった。
建国御三家とは、エルニーニャ王国建国の際、軍の設立に深く関わった三つの軍家を指す。
初代大総統ゼウスァートと、その補佐を務めたインフェリアとエスト。それぞれの初代当主は、大陸戦争における中央軍の中心人物でもあった。
ワイネル・ゼウスァートがリーダーとなって兵を指揮し、ガロット・インフェリアが先陣を切って強敵を倒していった。そのための作戦を立てる参謀が、ヴィックス・エストだ。彼らの子孫は代々軍人として、この国を守ってきた。
しかし現在、ゼウスァート家はすでに軍家の体を成しておらず、公に認められている子孫はレヴィアンス一人となっている。エスト家は当主であるドミナリオが軍を退き、跡継ぎになるかもしれない子供たちはまだ小さい。イリスはインフェリア家の人間として軍に籍を置いている。けれども兄のニアは家を継がないとは言っていないが、現在の仕事は画家だ。もはや元の御三家とは、事情が違う。
レヴィアンスは昔とある事件に関わって、イリスは自分で勉強する必要があって、すでに建国御三家についての基本は学んでいる。しかし彼らが関わった人々についてまでは、よく知らない。
リビングのテーブルに持参した資料を広げさせてもらったところで、ドミナリオが二人を呼びに来た。ついていくと、屋敷の奥、膨大な史料や資料が詰まっている書庫に案内される。
「相変わらずすごい光景だな……」
「レヴィ兄も来たことあるの?」
「結構前に。ドミノさんのとこの資料はエルニーニャ王国の歴史が凝縮されてるから、軍に認知されてなかった事件なんかを調べるのに利用させてもらった」
「大総統は政治経済もおさえておく必要があるから、その勉強もしに来ていたな」
喋りながら奥に進み、イリスははたと気づく。レヴィアンスが大総統になったのは、前大総統が職務を放りだして失踪したからだ。その事件にはドミナリオの元妻も関わっていて、当時の彼は世間の同情あるいは非難を浴びて引きこもっていたはずだ。レヴィアンスにも合わせる顔がないと、そう言っていたのではなかったか。
いや、本当に会えなかったわけではないのだろう。責任を感じていたからこそ、レヴィアンスに協力したということも、ドミナリオならば考えられる。何にしろ、彼らはそれ以前からの長い付き合いなのだ。
「それで、探し人というのはいつ頃の人なんだ。関わったのは誰だ?」
「家名すら与えられなかったかもしれない……ってことで、時期は戸籍が整う前じゃないかな。御三家はもう家名があって認知されているから、建国後であることには間違いなさそう」
「じゃあ、このあたりだな」
レヴィアンスの推理に応じてドミナリオが指し示した棚には、ずらりと背表紙が並んでいる。分厚いそれの一冊をイリスは手に取り、捲ってみた。古い紙に薄くなった文字が、几帳面に書かれていた。全て手書きだ。
「おお、印刷じゃないよこれ。本なのに」
「元はただの紙束で、それを昔のエスト家当主が綴じた。さらに製本したのは、ここ何十年かだ。当時使用されていた木の皮を古い技術で加工した紙に、直接文字を書いたものだから、慎重に扱わないとすぐにぼろぼろになる」
「ひええ……そんなすごいの触っちゃったよ……」
「現代技術でコーティングしてあるが、一応専用の手袋をはめてほしい」
差し出された手袋を受け取ってはめながら、もっと早く渡してほしかったと、イリスは心の中で文句を言った。そうして改めて紙を捲り、書かれた文字を睨む。――世界暦元年、とあった。
世界暦はこの大陸にエルニーニャ王国ら五つの大国が成立した記念に制定された、現在も使われている暦だ。今年は世界暦五四一年。つまり、元年ということは。
「これ、五百四十年も前に書かれたものなの? よく残ってたね……」
「世界暦制定以前のものも残っている。当時は植物を磨り潰してインク代わりに使っていたらしく、かなり変質しているが、まったく読めないということはない。これはエスト家の知恵の賜物だな。当時の記録や図録の作成は、後にエストの名を頂く者が中心となって行っていた」
説明しながら冊子を棚から抜き取っていくドミナリオは、どこか誇らしげだ。軍家エストにはさほど興味のない彼だが、歴史の記録者としてのエスト家の役割は強く意識している。だからこそ、自身の来歴を知ろうと勉強しに来たイリスに、優しかったのかもしれない。
ひとまずこれだけ、とドミナリオがレヴィアンスに持たせた冊子は、言うわりには量が多く重そうだ。いったいどれだけの資料を読みこもうというのだろう。
「オレ、肩脱臼しやすいんだけど……。ところでこれ、何の資料? 建国直後の何が書いてあるのさ?」
つらそうなレヴィアンスの問いに、ドミナリオは眼鏡をかけ直しながら答える。
「主に初代当主、ヴィックス・エストの身の回りのことやその日考えたこと、やらなくてはいけないことのメモかな。ようするに日記だ」
戸籍が整うまでなら二代目のも読むことになるかもね、という言葉に、レヴィアンスは不味いものでも食べたような顔をし、イリスは目を輝かせた。
歴史はそう苦手ではない。自分の家のことを調べてから、イリスはそう思うようになっていた。入隊試験の大総統史は、勉強が得意ではなかったイリスの強敵だったというのに。一度苦手意識がなくなってしまえば、ちょっとした話題にもできる。エイマルと遊ぶためにダスクタイト家を訪問したときは、特に役に立つ。
「そうそう、エイマルちゃんが『こどものためのエルニーニャ王国の歴史シリーズ』にはまっててね。わたしも読ませてもらったんだけど、あれすごくおもしろいよ」
「そうか、父に伝えておく」
エスト家の歴史書編纂や保存の役目は、今でも続いている。『こどものためのエルニーニャ王国の歴史』というイラスト付きの子供向け歴史本は、ドミナリオの父セントグールズの著書で、これを完成させるのが現在の彼の仕事となっている。そのために国中を調査する旅に出ているのだが、今はちょうどレジーナ近郊にいるそうだ。ドミナリオの子供たちは、今日はそちらに遊びに行っているためにいないという。
「イリスは歴史好きかもしれないけどさ、オレはそうでもないんだよね。今回みたいな依頼でもなきゃ、普段は考えもしないなあ」
「レヴィアンスは大総統閣下様なんだから、少しは考えたほうが良いんじゃない。……ふむ、この巻に登場する人名は一通り出たな。幇助関係にある人物も何名か出てきた」
「ドミノさん仕事早い! ……ええと、わたしはやっと半分かな。この巻、あんまり人は出てこないんだけど、読みこんじゃって」
会話を挟みながら、本来の仕事を進めていく。探すのは「恩人」だ。依頼では「サイモン」という名前らしいが、今のところぴったり該当する人物は見つからない。なのでもしかしたらサイモンかもしれない、という人も調べている。
頭を使うと腹もへる。ちょうど夕飯時でもあったので、資料を汚さないよう注意しながら、具がごろごろしているカップスープとパンを少しずつ摘む。作ってくれたシェフは台所で甘いものを用意しながら、こちらの仕事をちらちらと見ていた。
「ドミノさんがいう、うちのケータリング、ってホリィさんのことだったんだね。相変わらずだな」
「食べ物を持って来るんじゃなくてホリィさんが来て料理をするんだね。それ、ケータリングっていわないんじゃ……」
「頼んだら来るんだから似たようなものだよ。こういう忙しい時にはありがたい。……ほら、レヴィアンスも進めて。イリスも」
ドミナリオとホリィはこういう状況に慣れているんだろう。昔から一緒にいたせいもある。だがイリスとレヴィアンスは申し訳なさがあって落ち着かない。食事が美味しいのが、それに拍車をかける。
そうして資料を捲り人名を書き連ねる作業をひたすらやっていたが、いつまでたっても「サイモン」なる人物は出てこなかった。だが、御三家当主の動向については妙に詳しくなってしまった。彼らはとても親しい友人同士だったようだ。
「……新しい法律について、ワイネルと相談する。王に進言しつつ、ホルを遣ってガロットにも報せる……」
イリスはぶつぶつと、開いたページを読み上げる。
新しい法律について、ワイネルと相談する。王に進言しつつ、ホルを遣ってガロットにも報せる。
今回考えたのは、首都となるこの土地の街づくりについてだ。近頃、むやみに豪奢な邸宅を作ろうとする輩が増えてきている。取り締まらなければ、全員が快適には暮らせなくなってしまう。
「まあ、そうだよな。当然日当たりがいい場所はみんな欲しい。独占するのは良くないな」
ワイネルは頷きながら、まったく別のことをしていた。軍を組織するにあたり、仕事をどのように割り振るか、そもそも当分は何を仕事にすべきか、このところずっと考えている。当然だ、こいつは大総統、軍の指揮者なのだから。
「そこで各々の敷地の取り分を制限する法律を提案しようと思う」
「うん、ヴィックスが言うなら王様も認めるだろ。みんながそれをどう思うかは別だけど」
「反対する者が出るのは初めから承知だ。……ホル、この文をガロットのもとへ。頼んだぞ」
ホルの足に文を結び付け、空へ放つ。この優秀な鷹は、ガロットがどこにいても、必ずこちらからの文を届けてくれる。そしてガロットもホルに返事を預ける。――奴は旅の途中だ。北の国にはまだ着かないのだろうか。野垂れ死にだけはしてくれるなよ。
ワイネルは国の規律については、私と陛下に任せようと考えているようだ。私を信頼してくれているのだと周りは言うが、そうではない。奴は私のことはどうでもいいのだろう。この新しい国がうまく機能しさえすれば。ワイネルが本当に信頼し、かつ心配しているのは、ガロットのほうだ。必ず戻ってくると信じていながら、どこで何をしているのかいつも気にしている。
所詮、私は後から入ってきた人間だ。生まれたときから一緒にいる、ワイネルとガロットのようにはなれない。そんなふうに馴れ合う必要もないだろうが。
午後にナナさんから差し入れをもらう。パンは毎日何かしらの工夫を凝らして、どんどん美味しくなっている。民も作り方を教わり喜んでいるようだ。
史料、もとい日記を読みこんでいるうちに、いつのまにか日付が変わっていた。読み終わった冊子は積み上げられ、出てきた人名の数も随分と多くなったが、まだ「サイモン」は現れない。それでもこの仕事に飽きなかったのは、ドミナリオがこの作業が好きで、イリスが日記に記された「物語」を楽しんでいて、レヴィアンスがワイネルという人物の動向を気にするようになっていたからだった。
エルニーニャ王国は少しずつつくりあげられていった。土地に名前を与えられ、人々が生活し、そこに秩序が生まれ始めた。当時はまだまだ小さかったこの国の人々に、自分たちはエルニーニャ王国民なのだという意識が根付いたと思われた頃に、変化は訪れた。とても小さく、けれども日記の書き手にとってはとても重要な出来事があったのだ。
「あ、ガロットさん帰ってきた!」
突然叫んだイリスに驚いて、ドミナリオとレヴィアンスは顔をあげた。ドミナリオはさらにその先を、レヴィアンスはそれより前の日記を読んでいる最中だった。
「ああ、そこで帰ってきたのか。土産をたくさん持ち帰ってきたと記されているだろう。エルニーニャの文化が、彼の帰還を境にさらに豊かになっていく」
「うんうん、お土産のこと書いてあるよ! ……うわあ、こんなものまで……」
「どんなものだよ」
レヴィアンスもイリスの手元を覗き込む。字体から、書き手がいくらか興奮しているのがわかった。しかし書き手が見た周囲の人々は、もっと盛り上がっていた。
ガロットが帰ってきた。
最初に見つけたのはワイネルだ。突然走りだしたかと思うと、大量の荷物を抱えたでかい奴を引っ張って戻ってきた。それを見た人々の歓声といったら、戦のときに吼えた兵たちと何ら変わりがないように思えた。
暗い青の髪と、リックさん曰く海の色をしているという青い瞳は変わっておらず、ただ表情は旅立ちの時よりも随分引き締まっていた。これでやっと、死んだローザも浮かばれるというものだ。生きていたら惚れ直すかもしれない。「さすが私のガロットね」くらいは言いそうだ。きっと言う。
北国に向かうときは、あれが中央の地獄の番人だ、大殺戮の中心だ、などと石を投げられたこともあったというが、帰りはどうだ。辿ってきた道がわかるくらいに、各地の農産物や干し肉を背負ったり抱えたりして。奴の謝罪が受け入れられたのだと、誰にも明らかだった。私は、奴が謝る必要はないと思っていたが。あの戦争は仕方がなかったし、武器を振るうことが奴の役割だった。そういう時代だったのだ。
その時代に終わりを告げたのは、間違いなく奴の働きだった。
「ええと、ただいま、ワイネル」
「おかえり! ずっと、ずっと待ってたんだからな! ちゃんとお前の場所はとってある。これからは本当に、オレの片腕として働いてもらうぞ」
ガロットの背中をバンバンと叩くワイネルは、ずっと見せなかったような喜びようだった。もう私の存在は必要ないのかもしれないな、とも思うくらいに。
私は二人と、それを囲む人々を外側から見ていた。見ていたら、人が割れた。道を作ってこちらにやってきたガロットは、やはり腹が立つくらい体躯がでかくて、それ以上に腹立たしい、弱々しい笑顔を浮かべていた。
「ヴィックス、ただいま」
泥だらけで肉刺だらけの手を差し伸べてくる。私に右腕がないので、左手を。こんなに逞しくなったのに、笑い方は変わらないんだな。ローザがいれば、もっと明るく笑ったのだろうが。
「おかえり、ガロット」
握った手は硬かった。けれども驚いたのは向こうのほうで、「ペンだこすごいな」と私の手をしげしげと見つめていた。全く、どこまでも、腹立たしい。帰ってきたなら、早く休めばいいのに。
手を離した瞬間に、ガロットの背中から動物の鳴き声が聞こえた。道中で保護してきたという。毛むくじゃらだが手触りがしっとりしているそれに、ワイネルが名前をつけようと言いだした。
ここから大総統ワイネル・ゼウスァートと、補佐ガロット・インフェリア、ヴィックス・エストによるエルニーニャ王国の整備が本格的に進むことになる。建国御三家は、戦いの中心から国政の中心へと、その立場を変えていくのだ。
「まさに歴史の一ページだねえ……。ガロットさん、めちゃめちゃ強くて、でも優しいって、やっぱりお父さんやお兄ちゃんに似てるかも」
「僕が読んでいる辺りでは、もうそれぞれに家族を持っている。子供たちの成長も書かれている。そうして家は続いてきたようだ」
「このときはゼウスァートが真っ先に途切れるなんて、考えてもいないだろうな。……ん?」
イリスが感嘆し、ドミナリオが頷いているあいだに、レヴィアンスはある記述に気がついた。それはずっと探していた名前で、しかし、人ではなかった。
「……あのさ、イリス。もうちょっと読み進めて。まさかとは思うけど、サイモンって人間じゃないんじゃない?」
「え? だって依頼してきた人はサイモンさんに助けられたって、恩人だって言ってたじゃない」
「だからそれが勘違いだった可能性があるんだよ。名前があるから人間だって思ってた。でも、鷹にホルって名前がついてたように、飼育している動物に名前がついてたっておかしくない。人間じゃないなら、ドミノさんが見落としてた可能性はある」
ドミナリオも目を瞠った。だが、すぐに冊子を手に取り、記録を遡り始めた。イリスもその先に目を走らせる。――そして、見つけた。サイモンという名前を。
「でも、これって……」
ガロットが拾ってきたねぁーは、ワイネルによってサイモンと名付けられた。
呼ばれれば返事をして人に駆け寄っていくあたり、ちゃんと自分の名前だと認識しているらしい。
ねぁーは賢い動物だが、実際に近くで見てみると、人間と変わらないくらいの知能があるのではと思うときがある。
さらにページを捲る。慎重に、しかし、少し早めに。その名前を探して。
サイモンが妙に鳴くので、ガロットとワイネルとともに後をついていった。すると人が倒れていたので、急いで看病をする。
彼は栄養失調気味ではあったが、生きていた。途切れ途切れに言うには、どうやら東方の小さな国からやってきたらしい。五大国以外にも、国ができつつあるのだ。
それにしても、サイモンはお手柄だった。サイモンには質の良い肉を、東方からやってきた彼には私たちの王から、ここに住むための土地と家名を与えることにした。これでゆっくり療養できるだろう。
恩人ならぬ、恩ねぁー。他に記述がないところをみると、どうやらこれが真相のようだ。
ずっと日記と格闘していた三人は、思い切り脱力した。
「……これ、どうやって報告しような……」
レヴィアンスが顔を手で覆いながら、渇いた笑いを漏らす。
「ねぁーは寿命が長いから、たぶんこのあたりに……。あった、ワイネルらがその地位を次世代に渡すのとほぼ同時に寿命を迎えている。その墓は、現在の軍の墓地の片隅にあるようだ。たぶん軍に関係した生き物らをまとめて供養しているあの墓碑が、そもそもはサイモンという名のねぁーの墓だったんだろう」
素早く記録を探しだしたドミナリオが、その部分をイリスにも見せた。今はキメラや任務に関わった動物たちの魂を鎮めるための慰霊碑となっているものがあるのを、もちろんイリスも知っている。
「あれかあ……。建国御三家に縁があって、人を助けていて、その行方もはっきりした。この通りに伝えて、軍の墓地にでも来てもらうしかないんじゃない?」
「来られるならな。依頼人が高齢だっていうこと、忘れてないか?」
「あ、そうだった。じゃあ迎えに行くよ。サイモンを連れてきたインフェリアの人間の代表として、わたしが」
依頼人が先祖のことについて知ることになったのは、自分が高齢で、跡継ぎもいないことで、身辺の整理をしなければと家の片づけをしたのがきっかけだった。何代か前の者が、先祖代々言い伝えられてきた家名にまつわる物語を書き記していたのを、そうして見つけた。
あとどれくらい生きられるかわからない身、この家最後の人間として、この家のことを心に持っておきたいのだという切なる願いを、イリスとレヴィアンスは拾い上げたのだ。
話したら、どんな反応をするだろうか。笑ってくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。なにしろその家を救ったのはねぁーという、小さく賢い、一匹の動物だ。まず、納得してくれるだろうか。
大きな名前とともにあった、たくさんの人々の物語。現在のエルニーニャは、その物語の積み重ねでできている。
欠伸を噛み殺しながら、イリスとレヴィアンスは出してきた日記を書庫に戻す。ドミナリオの指示通りに並べ直し、改めてその数に溜息を吐いた。
「ねえ、ドミノさん。うちにもこれだけの日記があると思う?」
イリスの問いに、ドミナリオは少し考え込んだ。
「……ガロットからの文も、うちには残っているのだが。逆にこちらからの文が、インフェリア家にあったはずだ。日記は、旅のあいだに書いたものが残っていると聞いたことがある。興味があるなら、調べてみるといい」
ふ、と微笑んでから、思い出したようにレヴィアンスに向き直ったドミナリオは、「しかし」と続ける。
「ワイネル・ゼウスァートは自分の視点からの記述を全くと言っていいほど残していない。残らなかったんじゃない、最初から書かなかったのだと、ヴィックスら代々のエスト家当主が語っている。思い立って書き始めてもいつも三日坊主だと、何度も記してあった。君はそうならないように、大総統としてしっかりと国の動きを記録しておくように」
「うわ、耳に痛い……。オレも記録関係はみんなが出してくれる報告書と、補佐に任せっきりだからなあ……」
残ろうと残るまいと、歴史は紡がれ、続いている。これまでも、これからも。