おばけに捕まらないように、おばけの恰好で出かけよう。
子供みんなで連れ立って、美味しいお菓子を集めよう。
今夜はとても、不思議な夜。
*魔女に黒猫*
「ねえ、ニール君。もう仮装は何にするか決めた?」
エイマルはいつものように、自分より少し背の低いニールの顔を覗き込んで尋ねた。
「仮装? ……って、何のこと?」
美少女が突然視界に、しかも近距離に入ってくるので、ニールは毎度のように戸惑う。頬が熱くなるのはどうしようもないので、気にしないふりをして尋ね返した。
「十月の最後の日よ。おばけとか動物とかに仮装して、お菓子をもらいに家々を訪ねるの。もしかして、やったことない?」
「ああ……。やったことないよ。一緒に行くような友達もいなかったし」
そういうイベントがあるのは知っていたけれど、ニールが参加したことは一度もない。正直に答えると、エイマルは「そっかそっか」と頷いて、にんまり笑った。
「じゃあ、今年が初めてだね。お菓子たくさんもらっちゃおう」
「今年もやる予定じゃなかったんだけど……」
「何言ってるの。一緒に行く友達ならあたしがいるし、夜に堂々と出歩けるチャンスなんだよ。それにニール君のおうちの人はこういうお祭り好きだから、行っておいでって絶対に言う」
そんな話はしたことがなかったけれど、エイマルが言うならたしかなのだろう。ニールが世話になっている家の人たちは、危ないこと以外なら大抵のことは許してくれる。むしろニールが多少のわがままを言うのは歓迎してくれているようだった。
夜に出歩くのは少し怖いけれど、友達が、エイマルがいるなら安心だ。――本当は自分がエイマルくらい強くなれたらいいのだが、それはまだ先のようだ。
「ね、一緒に行こう。あたしね、魔女の仮装がしたいんだ」
「魔女かあ。エイマルちゃんならきっと似合うんだろうな。でも僕、一応ニアさんたちに行っていいか訊いてみるね。仮装の準備もあるし」
「オーケーが出たら、うちに電話して教えてね。それと仮装のことは心配しなくていいよ。ニール君にやってほしいことがあるから」
初めてなら好都合、と言ったエイマルは、すでに何か企んでいるらしい。きっとこのまま巻き込まれるんだろうなと思いながら、ニールは家に帰り、イベントの話をした。
相槌を打ちながら懐かしそうに目を細めたニアは、すぐに了承をくれた。
「そうか、初めてなんだね。楽しんでおいで。仮装の道具一式、僕の実家にあるけど……」
「仮装はエイマルちゃんがやってほしいことがあるって言うので、それを聞いてから決めます。ニアさんも昔、イベントに参加したんですか?」
「親がそういうの大好きだからね。ルーやレヴィと一緒にそれぞれの家に行ったり、イリスのお伴をしたり。仮装してると父さんがカメラ離さないから、撮られるのが嫌だったらちゃんと言うんだよ」
「もう写真は大丈夫です。それじゃ、エイマルちゃんに電話してきますね」
ニアが楽しそうだったから、きっとニールも楽しめるイベントなんだろう。なんだかわくわくしてきた。巻き込まれるのもたまには悪くない。どうせおばけの仮装をするなら、ちょっと強そうに見えるものにしたい。そんなことを考えながら、エイマルに電話をかけると。
「……猫?」
「そう。魔女には黒猫、でしょう? ニール君にはあたしの眷属の黒猫をやってほしかったの」
このまま巻き込まれて良いものか迷ったが、結局は強い女の子に負けてしまうニールだった。
*月のない夜、家々の灯*
猫の耳と尻尾と手袋。色は全部黒。これでも交渉の末に妥協してもらったのだ。首輪は断固拒否したし、ファーの服も勘弁してもらった。でもとりあえずは、黒猫だ。
「お前も苦労するな」
そう言いながらも写真を撮ることを忘れないルーファに、ニールは曖昧な笑顔を返した。
相談の結果、スタート地点はニールの住む家、ゴールはエイマルの家ということになった。昨年まではエイマルにイリスが付き添っていたのだが、今年は仕事が忙しいのでできないという。そのかわり、司令部にはぜひ寄ってほしいとのことだった。ついでに最近少々物騒だからと注意を受けたので、移動は歩きではなく車になってしまったが、猫耳を余儀なくされたニールにはそのほうが良かった。エイマル以外の子供たちに見られるのは、やはり恥ずかしい。
「これがお菓子を入れる籠。あっという間に話が広がったから、いっぱいになると思うよ」
ニアに手渡された籠は少し大きいように見えたが、これでも足りなかったら、と袋をおまけにつけられた。いったい大人たちは、どれほどのお菓子を用意しているのだろう。
想像しきれないうちに、玄関の呼び鈴が鳴った。エイマルが到着したらしい。
「こんばんは。今夜はよろしくね」
にっこりと笑うエイマルは、大きな帽子をかぶって、ひらりと翻るマントを羽織っていた。マントの下はワンピースのようで、スパンコールがところどころに散って輝いている。それが彼女にあんまり似合っていて、ニールは本当に魔法を使えるのではないかと思ったほどだ。
「よ、よろしく……」
「歩けないのは残念だけど、ニール君と一緒にまわるの楽しみにしてたんだ。黒猫、とってもよく似合ってるよ」
「ありがとう……」
エイマルの笑顔に負けて、イベントはスタートする。ここが一軒目。魔女と黒猫は、籠にキャラメルと飴の入った袋を入れてもらった。
「気をつけてね。なるべく大人から離れないこと。エイマルちゃん、ニールをお願いね。ニールもエイマルちゃんをしっかり守るんだよ」
守ることなんかできるのだろうか。困った顔をしたニールに、ニアがそっと耳打ちした。
「大丈夫。猫は強い生き物だから」
エイマルは母に送ってきてもらったそうだ。ここからはルーファの運転で次の家へ向かう。大人たちはリレーのように子供を次の家へと運び、子供は仮装を披露してお菓子をもらう。防犯のためにとった対策は、結果的に多くの家をまわることができるというメリットにもなった。
「コースは予習通り。俺の実家に行ってから、アーシェの家、ニアの実家、下宿、司令部、最後にエイマルの家。行った先でちゃんと挨拶しろよ」
「はい」
「イリスちゃんは司令部で待っててくれてるんですよね。最近あんまり会えてないから、楽しみだなあ」
そういえばイリスは仕事が忙しいらしく、ニールもしばらく会っていない。あの明るいお姉さんのことだから病気をしているということはないだろうが、なにしろ大変な仕事だから、怪我などしていないだろうか。
「イリスなら大丈夫だぞ、ニール。何も連絡がないってことは、元気にやってる証拠だ」
心配が顔に出たらしく、ルーファがそう言って笑った。こんなことは珍しくない、何かあれば真っ先にうちに連絡が来る、と教えてくれる。
「ニール君のおうちに連絡がいったら、知り合いみんなに情報がまわるのよ。あたしのうちにだって。だからね、あたしも心配してないの。イリスちゃんはきっと、しっかりお仕事をしてるの」
「そっか……そうだよね」
ニールは頷いて、少し笑う。そうして、今夜イリスに会えることを楽しみに思った。あの人はいつもの眩しい笑顔で、エイマルを抱きしめ、ついでにニールも腕に抱えるのだろう。
話をしているうちに、車が豪邸に辿り着いた。ルーファの実家、フォース邸である。車を降りると、窓から漏れる明かりが、ほのかにオレンジ色をしていて温かそうだ。
「今日は新月だから、おうちの明かりだけが頼りだね」
エイマルの言葉に空を見上げると、深い闇が広がり、その中に星の光がまたたいていた。
フォース家の人々は、使用人たちも総出でニールとエイマルを迎えてくれた。ルーファは彼らに子供たちを預けると、すぐに帰ろうとしてしまう。
「ルーファ様、グレン様たちにお会いにならないのですか?」
メイド長が引き留めようとすると、ルーファは「また今度」と苦笑した。
「会うと長くなるから。でも近いうちに寄るから、その時はよろしく頼むよ、エルファ」
「かしこまりました。……さあさあ、みなさん。ニール坊ちゃまとエイマルお嬢様をお通ししますよ」
ぱんぱん、とメイド長が手を叩くのを聞きながら、ニールはルーファを見送った。少し心細くなったが、それも一瞬のこと。使用人たちに連れられて豪邸の中に入ると、そこにはフォース家の主が待っていた。
「よく来たな、ニール、エイマルちゃん」
「待っていたのよ。お菓子をたくさん用意したから、好きなだけ持って行ってね」
ルーファの祖父母が、言葉通りたくさんのチョコレートや飴、マフィンにクッキーを、テーブルに広げていた。それぞれ可愛らしく容器に盛りつけられている。
「こんばんは。今夜はありがとうございます」
「こ、こんばんは! ……あの、グレンさんとカイさんは、忙しいんですか?」
先ほどから探しているのだが、姿が見えない。二人ともそれぞれに仕事があるので、忙しくて会えないこともよくあるのだった。今夜はもしかしたら、と思ったのだが。
「カイ君は、急ぎで薬の調合を頼まれたらしいね。グレンはそろそろ来る頃だ」
ルーファの祖父、ジョージがそう言って頷くと、使用人たちがお茶を運んできた。二人が来るまでしばらくゆっくりしていなさい、というわけだ。
「おじ様たちもお仕事があるのね。お邪魔だったかな」
「いいえ、お嬢様。グレン様たちは、今日のイベントをそれは楽しみにしていたんですよ。なにしろニール坊ちゃまにとっては、初めてのイベントです。ぜひともご自分の手でお菓子をお渡したいとおっしゃっていました」
エイマルと一緒に、いただきます、と紅茶を飲んだ。胸の奥から温まるようで、ニールはなんだかくすぐったいような感じがした。
ジョージにマフィンを勧められたところで、ようやく部屋の外から二人分の足音が聞こえた。一人は大股に急いでいて、もう一人は上品だがやはり急いでいる。扉の前で止まり、声とともに入ってくる。
「お待たせしました! 今日はもう注文受け付けないって言ったのに、どうしても断り切れなくて……」
「いきなり言い訳をする奴があるか。……いらっしゃい、ニール、エイマル」
申し訳なさそうな、そして優しげな、二つの笑顔が並んだ。ニールとエイマルは椅子から立つと、きちんとお辞儀をした。
「こんばんは、おじ様」
「こんばんは。……あの、会えて嬉しいです。急いで来てくれて、ありがとうございました」
顔をあげた二人の頭を撫でたのは、グレンの手だった。横から差し出されたカイの手には、お菓子がたくさん入った袋がある。どちらも子供たちを心から歓迎している手だった。
「袋の中身は両方同じ。……それにしても、エイマルが魔女でニールが猫か。似合う似合う」
「あまり怖くない仮装で良かった。正直、俺はリアルな仮装が苦手でな。いつだったか、ルーファがニアにゾンビメイクを施してもらっていたことがあったが、あれは心臓に悪かった」
グレンが少し遠い目をしたのを見て、ニールはごまかすように笑った。実はその案も一度出たということは、黙っておこう。
紅茶を飲んでお菓子を食べて、籠に入りきらなかった袋を抱えて、ニールとエイマルはフォース邸を辞した。次の目的地には、グレンが送ってくれる。
当初の予定では、次は大文卿邸だった。しかしアーシェが変更を申し出たため、向かう先は彼女の実家であるリーガル邸だ。
「大方、リアたちも何かしらの準備をしているんだろう。エイマルは知っているだろうが、リアの作るアップルパイは美味いから、ニールは期待しているといい」
グレンがそう言った通り、リーガル邸で待っていたのは大きなアップルパイだった。アーシェが自分の双子の子供たちと一緒に出迎えてくれる。
「いらっしゃい、待ってたよ。今年もお母さんと協力して、張り切って作ったの。ここで食べても、お土産に持って行ってもいいからね」
「こんばんは、おば様。わあ、良い匂い!」
真っ先に巨大アップルパイに向かって走っていくエイマルだったが、ニールはそれについていかなかった。自分たちよりもっと小さい子供が気になったのだ。
「こんばんは。こんなに小さいお子さんがいたんですね……」
「そうよ、二卵性の双子なの。これからよろしくね、ニールお兄ちゃん」
お兄ちゃん、と呼ばれるのは初めてだ。エイマルからも弟扱いなので、自分より小さいものがいるという意識が、今までなかったのだ。にっこりした双子に、ニールも微笑み返す。
「ねこのお兄ちゃん、ねこ似合うね」
「ほんとうのねこみたいだね」
この台詞で、自分が今どんな恰好をしているかというところに引き戻されて、微笑みが苦笑に変わってしまったが。
「でも強そうな猫よ。なんてったって、魔女の猫ですもの」
いたずらっぽく笑うアーシェに連れられて、ニールは双子とともに、アップルパイを食べに行った。
ほんのりシナモンの香りがするアップルパイは、たしかにとても美味しかった。我が家の伝統の味よ、と大きな胸を張ったのは、アーシェの母、つまりはエイマルの大伯母。とてもきれいな人だった。
アップルパイのお土産をもらって、次にやってきたのはインフェリア邸。送ってくれたエイマルの大伯母リアは、「カスケードさんとシィちゃんによろしくね」とウィンクを残していった。
窓の外からもわかる。家の中は今、大変なお祭り騒ぎになろうとしている。扉を開ければパーティの始まりだ、という気配がする。ニールが息を呑んでいるあいだに、エイマルが躊躇なく呼び鈴を鳴らした。
「よく来たな、二人とも! 待ち詫びたぞ!」
「まあ、可愛い恰好! 写真撮りましょう、写真!」
まるで玄関で待っていたかのように、カスケードとシィレーネが飛び出してくる。さすがにエイマルもびっくりしたようで、大きな目がさらに真ん丸になっていた。家の奥でちょっと呆れたような笑顔のサクラが手を振っていたので、もしかして本当に玄関で待機していたのかもしれない。
「こ、こんばんは……」
「おじいちゃん、おばあちゃん、こんばんは。あの、家の中に入ってもいいですか? 僕はともかく、エイマルちゃんがちょっと寒そうで……」
「そうだったな、入れ入れ。お菓子もたくさん用意したんだぞ。シィが腕によりをかけて、なんと甘いものを作ってくれたんだ!」
「カスケードさんが一口でギブアップするくらい甘いから、虫歯にならないようにあとでちゃんと歯磨きするのよ?」
今度はいったい何を作ったのだろう。シィレーネの作る料理は、ときどき極端だ。普通に作れば、普通に美味しいのに。一抹の不安を覚えつつも、ニールはエイマルとともに、甘い匂いの漂うリビングへ向かった。
しっとりしたカステラ、見た目に可愛いメレンゲ、ふるふるのプリンに、ひんやりしたアイスクリームまで。昨日からこつこつ作っていたのだと、サクラが教えてくれた。
「ニールとエイマルちゃんに、たくさん食べさせたかったのよ。私もエッグタルトを作ったから、お土産に持って帰ってね」
「ありがとうございます、サクラ先生。……でもこの甘い匂い、ここにあるどれとも違うような……」
「ニールは鼻がいいな。今、スイートポテト焼いてるんだよ。シィがシェリーちゃんから作り方教わってきたんだ」
どうやらまだまだお菓子があるらしい。持って帰れるものはそうさせてもらうことにして、ニールとエイマルはプリンとアイスクリームを、熱いお茶と一緒にいただいた。コーヒーの代わりに濃い紅茶をバニラアイスクリームにかけたアフォガートが、熱くて冷たくて、ちょっと贅沢な食感だった。
食べている途中でアーサーとガーネットもやってきて、クッキーを置いていった。持参した籠も袋ももういっぱいで、加えてフォース邸で貰ったものもある。
ふと、ニールは「昔」のことを思い出した。まだ母と暮らしていた頃、それからニアとルーファに引き取られたばかりの頃の自分なら、こんなにたくさんのものをもらうのは、なんだか悪い気がしていただろう。もらうたびに罪悪感がちくちくと胸を刺して、こんなことをしていていいのか、自分にそんな資格はあるのかと、自問自答を繰り返していただろう。
けれども今は違う。純粋に、みんながニールに笑顔を向けてくれるのが嬉しかった。エイマルが一緒だからかとも思ったけれど、誰もが平等に笑いかけてくれている。きっと自分も、ここにいていいのだ。
「ニール君、楽しいでしょう?」
エイマルが華やかな笑顔を見せる。ニールは頷いて、できるだけ同じになるように笑った。
その瞬間を、カスケードがしっかりとカメラに収めていた。
カスケードが名残惜しそうに、次の場所へと送ってくれる。エイマル曰く、そこは「おばあちゃんと叔父さんの家」。窓から柔らかな光が零れていた。
「ここのお菓子は美味しいからな。ついでに動物と戯れてこい」
エイマルが呼び鈴を鳴らすあいだ、ニールはずっとカスケードに手を振っていた。
家主が出てくるまで、ほんの少し時間があった。ドアを開けたのは、金髪の青年。エイマルは彼を「叔父さん」と呼んだ。
「こんばんは。おばあちゃんは?」
「下宿生の晩御飯が終わったばかりで、後片付けしてるんだ。ニール君もおいでよ」
「は、はい。こんばんは、おじゃまします」
ここは下宿で、中にはいくらかの人と、それから六匹の生物がいた。ニールもこの生き物のことは知っているが、間近で見るのは初めてだ。
「ねぁーがこんなに……」
「おばあちゃんが好きなの。あたしも大好き。この子はアシモフって名前で、こっちはエリック」
紹介してもらっても、顔がほとんど同じ生き物を見分けるのは難しい。しいていうなら、アシモフと呼ばれたねぁーのほうが、どこか落ち着いた雰囲気を持っていた。
下宿人たちも口々に、いらっしゃい、と声をかけてくれる。そのひとつひとつに挨拶を返して、エイマルについていく。リビングのソファに座るよう、「叔父さん」が勧めてくれた。
「エイマル、今年も大漁だね」
「うん。ニール君のおかげで、まわる場所も増えたから」
「ニール君は今年が初めてだっけ。あ、僕のことはおじさんでもユロウでも好きなようにどうぞ」
おじさんというには若いので、ニールはこの青年をユロウさんと呼ぶことにした。ユロウはねぁーを一匹抱き上げて撫でながら、下宿生と言葉を交わしている。エイマルも顔なじみの下宿生と会話をし、ニールを紹介してくれた。
「ニール君ね、ニアさんのおうちの子なんだよ」
「ニアさんって、画家のニア・インフェリア?! わあ、いいなあ。私ファンなの」
「ぼ、僕もファンなんです。風景画と、海の絵がきれいですよね」
思いがけず好きなものの話ができて、ニールは少し興奮した。どうやら相手はニアの絵をとても好んでいるようで、いつか大きな絵を買うのが夢なのだという。
そんな話をしていると、台所のほうから下宿の主がやってきた。エイマルの「おばあちゃん」である。
「や、いらっしゃい。菓子は準備してあるから、持って行くといいよ。あんまり長居すると後が大変そうだから」
そう言って、美人な「おばあちゃん」はアイシングをかけたパウンドケーキと、小さなフルーツタルトをくれた。ニールとエイマルだけではなく、それぞれの家族分を。
「今度、また時間があるときにゆっくり遊びにおいで。エイマルがいつも、ニールのことを楽しそうに話してくれるから、おれも色々聞きたいし」
「はい。ありがとうございます」
ニールが頭を下げると、ねぁーがすり寄ってきた。しっとりした体毛が手に触れて、気持ち良かった。
ユロウが次の目的地、中央司令部まで送ってくれるという。ここから近いので、ちょっとだけ夜道を歩くことになった。エイマルははしゃいでいるが、ニールは少し怖い。
「大丈夫。司令部までは絶対安全に送り届けるから。そのためのこれだよ」
棍を片手に、ユロウはにっこりと笑った。道すがら聞いたところによると、彼は軍医だそうで、戦闘訓練もちゃんと受けているのだった。
*ホーンテッド中央司令部*
ユロウが送ってくれたのは、司令部の入口まで。今夜は勝手に入っていいって言ってたよ、とだけ言い残して、彼は帰っていった。
新月の下、司令部も真っ暗だ。他の家のように明かりも漏れていない。けれども入口は開いていて、ニールとエイマルはそうっと中を覗いてみた。
しん、と静まりかえった玄関、その向こうの廊下、並ぶ部屋。ぜひ寄ってほしいとイリスは言っていたが、はたして本当に来ても良かったのだろうか。
足を踏み入れ、一歩ずつ確かめるように前へ。そういえば、いつもならいるはずの夜勤の姿さえない。まるで人間という人間が、その存在を丸ごと削り取られてしまったかのようだ。
「急な仕事が入っちゃって誰もいない……とか?」
エイマルが不安げに言う。
「それならユロウさんに連絡がいくんじゃないかな。イリスさんならそうすると思うけど……」
けれども入れ違いになってしまったのなら、その可能性もある。なにしろ忙しいようなのだから。
人気のない司令部内は不気味だ。昼間はたくさんの人がいて、慌ただしく動き回っているのに、夜になるとこうも静かなものなのか。
「なんだか、おばけ屋敷みたいだね」
「……そうね。ニール君、あたしから離れないでね。いざというときは、あたしが……」
ぎゅっと手を握るエイマルに、いつものニールなら嬉しいやら恥ずかしいやらでドキドキして、顔が熱くなるところだ。しかし今は、そうならなかった。エイマルの手が、僅かに震えているのだ。面白い状況にわくわくして震えているならまだしも、これは……。
「ねえ、エイマルちゃん。もしかしてこわ」
「怖くない! だってあたし、お姉さんなんだから。こんなのちっとも」
強い口調で返してきたエイマルの言葉を遮るように、たたたたたっ、と何かが走るような音がした。それからどこかから、かすかな声も聞こえた。――ふふっ。そんなふうに笑ったように思う。
「ひ……っ」
小さく悲鳴をあげ、エイマルはニールに寄り添った。そしてそのまま、立ち竦んでしまった。
――やっぱり、エイマルちゃんは怖いんだ。怖いものなんか、何一つとしてないと思っていたのに。いつも強気で、このイベントだって積極的にニールを誘っていたのに。
驚いたニールは、けれども、エイマルの手を握り返して言った。
「……大丈夫だよ、エイマルちゃん。ここに誰かいるんだよ。怖い何かじゃなくて、人間。それも僕らの知ってる人だよ」
ニールの耳はしっかりと捉えていた。さっきの足音は、いつもと走り方は違うようだったけれど、覚えのあるもの。妙に高い笑い声は、作ってあるけれど、たしかに知っている声。
廊下の向こうから生ぬるい風が吹いてくる。ふふふ……と笑う声がする。しかしこれも、作り物。人間の仕業だ。
おばけ屋敷みたいだけれど、ここにおばけはいない。
「イリスさん、出てきてください! 走ったのも笑ったのも、イリスさんですよね?」
奥に向かって叫ぶと、風と笑い声がぴたりと止んだ。エイマルが目をぱちくりさせたのを確かめたように、屋内に一斉に明かりが灯った。
「うーん、やっぱりニールの耳はごまかせないか」
いつもの調子で、ちょっときまり悪そうに頭を掻きながら、近くの部屋からイリスが顔を覗かせた。彼女だけではない。廊下の奥や他の部屋から、次々にルイゼン、メイベル、フィネーロが姿を現す。階段から降りてきたレヴィアンスは、拍手をしていた。
「かっこよかったよ、ニール。さすが魔女の黒猫、十分に主を守れてたじゃないか」
それぞれの腕には、お菓子のはみ出た袋がぶら下がっている。ぽかんとしているエイマルを見て、ニールはばれないように、ほんの少し笑った。
からかっているのではない。感動したのだ。
「わたしたちも、連日忙しいと息が詰まるからさ。せっかくのイベントだから、ちょっとだけ遊んでみようと思ったのよ。でもおばけ屋敷ごっこの発案はレヴィ兄」
一般人が入ることはほとんどないはずの、中央司令部大総統執務室。ニールとエイマルは、そこでハーブティーを淹れてもらった。鎮静作用があるらしく、エイマルもすっかり落ち着いている。
「まさか怖がられると思ってなかったんだよね。いや、ニールなら多少怖がるかなとは思ったけど。エイマルは予想してなかった」
「……あんまり言わないでください。ニール君には恥ずかしいところ見せちゃったね。ごめんね」
顔を赤くし、困ったように眉を下げているエイマルは、めったに見られるものではない。ニールは首を横に振って、内心、彼女は性格も可愛いんだなと思っていた。今まで知っていたエイマルは、賢くて強くて、どんなものが相手でも怯まず、少し強引なところもある、そんな女の子だった。でもそれはついさっき、覆ったのだ。
エイマルはおばけが怖い。人間の論理で説明がつかない、得体の知れないものが怖いのだという。自分の持っている武器――彼女の場合はいくらかの知識と格闘技――が通じないから。
「人間、怖いものはいくらかあったほうがいい。じゃなきゃ無謀な暴走をするからな。イリスやメイベルみたいに」
「わたしは怖いものあるよ。ゼンってば失礼なんだから」
「人のことを無謀だなんて言える立場か」
「君たちよりは、ルイゼンは言ってもいいと思うが」
わいわいと賑やかな軍人たち。彼らがいてこその司令部だ。ニールはかつて、彼らのことも怖かった。でも今は、本当のことを知ったから、怖くはない。ニールは自分の怖がりを自覚しているが、そのフィルターは徐々にはずれてきているのだった。
「しっかし、ずいぶんたくさんもらってきたんだな、お菓子。オレたちの代に匹敵するんじゃないの。みんな気合入ってただろ」
レヴィアンスが近づいても、もう怯えないし、緊張もさほどない。いっぱいになった籠と袋を、エイマルと一緒に見せた。
「本当にイベントが好きなんだなって、よくわかりました。僕が初めてだったから気を遣ってくれてるのかなとも思ったんですけど、それだけじゃないんですね」
「もともとこんなものだよ。とくに我が家はお祭り好き筆頭だからね。今回のことだってお兄ちゃんから連絡もらったお父さんが、みんなに広めたんでしょう。衣装も貸す気だったみたいだけど、ニールの黒猫がかっこいいから、今年はそれで良かったね」
「……かっこいい、ですか」
最初は乗り気じゃなく、押され流されすることになってしまった黒猫の仮装。もうちょっとかっこいいのが良かったと思っていたのだけれど、イリスから見ればこれも「かっこいい」の範疇らしい。そういえば、レヴィアンスも「かっこよかった」と言ってくれた。
猫の耳と尻尾、手袋。どう考えても可愛い動物だと思うのだが。
「かっこよかったよ、ニール君。あたしが見込んだ通りだった。……一緒に来てくれて、ありがとうね」
どうやらエイマルも、イリスと同じ認識のようだった。
*エルニーニャの猫*
大総統執務室で写真を撮ってから、イリスがゴールのダスクタイト家へ送ってくれた。大荷物を抱えた子供たちの頭を、グレイヴが「お疲れさま」と撫でてくれる。
「荷物は適当に置きなさい。温かい飲み物淹れてあげる。今日はもう遅いから、ニールは泊まっていくといいわ。ニアとそういう約束だったの、遠慮はいらないわよ」
女の子の家に、こんなに堂々と泊まっても良いものなのだろうか。エイマルの父に知られたら大変なことになるのでは。少し怖い想像がニールの頭の中を駆け巡る。しかしエイマルの祖父ブラックが、「心配いらねーよ」と打ち消してくれた。
「せっかく子供なんだから、子供の特権使っとけ。エイマル、先に風呂入って着替えて来い」
「はーい」
帽子を脱いだエイマルは、部屋に入って着替えを持ってきて、風呂場に走っていく。それを見送ったあとで、グレイヴがニールの前に甘い香りのするカップを置いてくれた。
「ホットチョコレートよ。気に入ったらレシピつけてあげるから、家でニアにでも作ってもらいなさい」
「ありがとうございます」
温かくて甘い飲み物は、体中にしみわたるようだった。今夜はたくさん甘いものを食べたり飲んだりしたなと、改めて思い出す。
「楽しかった?」
グレイヴに問われ、ニールは頷く。
「エイマルちゃんのおかげで、楽しかったです。誘ってもらって良かったです」
「ならいいわ。あの子、今回かなり強引だったでしょう。イベントに参加したいけどできないかもしれない、って焦りがあったのよ。ニールがいたからできたの」
「したいけど、できない?」
これまで毎年やっていたようなのに、今年はどうして。首を傾げたニールに、グレイヴが一冊の本を見せた。漫画のようだ。表紙は可愛い絵柄だが……。
「これ、エイマルのお気に入りなんだけどね。こう見えて、内容がなかなかハードなのよ。子供がおばけに襲われるホラー漫画。しかも救いがある話が少ないの」
「ええ……子供向けじゃないんですか」
「子供向け全てに救いがあると思ったら大間違い、だそうよ。アタシとしてはちょっとは救ってほしいものだけど。とにかくこれにはまったエイマルは、夜中に一人でトイレに行けなくなるほど、おばけが苦手になってたの」
そんなことがあったのか。エイマルを怖がらせるほどのその内容が、ニールも気になったが、まずは話の続きを聞く。
「でもおばけの恰好をしてお菓子をもらう、このイベントは楽しいからやりたい。いつもみたいにイリスがいれば心強かったんだけど、あの子も忙しいからね。初めから、今年はお菓子をあげるくらいしか協力できないかもって話だったのよ」
実際はそれ以上のことをしてくれたわけだが。でも、あれがせいいっぱいだったのかもしれない。最近物騒だと言っていたということは、それだけ軍人の仕事は増えているのだ。
「そこでエイマルは、ニールに目をつけたの。……この漫画ね、救いがある話は少ないけど、そのほとんどが魔女と黒猫が活躍する回なのよ」
「魔女と黒猫……」
エイマルが強く希望した、今回の仮装。グレイヴが漫画のページを捲ると、そこには今日のエイマルの恰好とほとんど同じ姿をした魔女と、人間くらい大きな黒猫がいた。……大きすぎやしないだろうか。
「これ、猫ですか?」
「猫よ。この魔女の眷属で、最強の魔獣なの。魔女は登場するたびにピンチに陥るんだけど、必ず黒猫が守ってくれる。エイマルが欲しかったのは、その黒猫の役だったってわけ」
つまり今回の仮装は、とても強いものだったのだ。エイマルにとっては、夜道を歩くための、大切なパートナーだった。猫は強い生き物だから、というニアの言葉を思い出す。グレイヴとはイベントのことで相談をしていたはずだから、このことも知っていたのかもしれない。
「しっかり黒猫の役を果たしてくれたようね。ありがとう、ニール」
「いえ……どういたしまして」
思ったより頼られていた。エイマルは「自分のほうがお姉さんだから」と強がる反面、ニールに強がるための力をもらおうとしていた。そういうことだったのだ。
「カスケードがエルニーニャの獅子、イリスが獅子姫なら、ニールはエルニーニャの猫か。ま、動物としては同じ種だし、いいんじゃねーの」
大層なような、気の抜けるような。ブラックから微妙な称号をもらって、ニールは笑って頬を指で掻いた。称号のお礼に、コーヒーキャンディと「誕生日おめでとうございます」という言葉を渡すのを忘れなかった。
おばけに捕まらないように、おばけの恰好で出かけよう。
子供みんなで連れ立って、美味しいお菓子を集めよう。
今夜はとても、不思議な夜。知らなかった一面があらわれる、ちょっぴり奇妙な子供の夜。