「母さん、デートしようか」

受話器の向こうから聞こえる声に、シィレーネは固まる。

デート。久しくその単語を聞くことがなかった気がする。夫であるカスケードは秋から忙しくなり、部屋に一日籠ることもあった。現大総統であるレヴィアンス(息子の友達ではあるが、立派になったものだ)の相談を受けたり、過去に大総統を経験しているハルと話したり、他にも多くの仕事を自室の電話を使ってしている。重要で大きな仕事には、シィレーネは関われない。元軍人ではあるが、難しい話はわからないし、もちろん建設的な考えを述べるなどもってのほかだった。禁止されてはいないが、自分の頭では到底追いつけないので、しないようにしている。

忙しくなる前はどうだっただろう。やっぱりデートはあまりしていない。せいぜいが毎日の生活のための買い物で、そのついでに散歩をするとか、軽食を奢ってもらうとか。まあ、デートと言えないこともないけれど、そう表現したことはない。

それが突然、実の息子から告げられた。

「デート……? どういうこと?」

「最近ずっと父さんが忙しいから、母さんも気疲れしてるんじゃないかなと思って。たまには気分転換しようよ」

「でもそんなの、お父さんに悪いわ。大変なのに」

「そろそろ落ち着いてくる頃のはずだよ。僕が誘うんだから、父さんのことは気にしなくていい」

でも、と返しながらも、シィレーネの胸はどきどきと鳴っていた。こんな誘いはいつ以来だろう。この年になってもまだときめくことがあるらしい。

「ね、決まり。三日に出かけよう。家まで迎えに行くから」

しかもその日は。「待って」という一言も発せないまま、予定を決められてしまう。カスケードに報告するべきかと思ったが、今も何やら書きものをしているようなのでやめておいた。仕事の邪魔にならないのがシィレーネの仕事だ。誰もそう言わなくても、自分自身がそう思っていた。

 

十二月三日、ニアは予定通りに家に迎えに来た。予想外だったのは、イリスも一緒だったことだ。

「イリスも行くの?」

「違うよー。わたしはお父さんに話があるの。レヴィ兄のおつかい」

現役の軍人で、しかも大総統補佐であるイリスは、カスケードとも仕事の話ができる。自分よりよほど役に立つであろう娘が、夫と一緒にいてくれるのは心強い。

「だからお兄ちゃんとのデート、楽しんできてね。いってらっしゃい」

「ええ……。じゃあ、行ってくるわね。家のこと、頼んだわ」

「大丈夫だよ、イリスはしっかりしてるから。ほら、行こう」

いつのまにかシィレーネより大きくなった手が繋がれる。なんだか昔を思い出して、頬が熱くなった。

手を繋いだまま、街を歩いた。あちこちを見て、途中で入ったブティックではワンピースを試着した。ワインカラーの、落ち着いた雰囲気の服だったけれど、気持ちは若返ったようだった。年甲斐もなくはしゃいでいると、ニアが嬉しそうに笑って、そのままワンピースを買ってくれた。「着たまま行こう」とまた手を繋ぐ。

「寒くない?」

「寒くはないけど……ねえ、いったいどうしたの? デートなんて言いだしたり、手を繋いだり。服だって、結構なお値段だったわよ」

「僕がそうしたいからしてるんだよ。値段とか言いっこなし。これでも人気画家だからね」

「それは知ってるわ。よーく知ってる」

子供たちの活躍なら、ほとんど全部知っている。話してくれないこと、教えてくれないことがあっても、どこからか情報は入ってくる。それくらい名前を知られた子たちなのだ。

自分の子であることが自慢だった。自分の子だと言えることが自慢だった。でも優しい子たちに育ってくれたのは、自分がそうしたからではなく、子供たちが自らそうなったのだ。

あるいは、父に倣ったか。

「せっかくだから髪型も変えて、お化粧ももっと華やかにしよう」

「今から? そこまでしなくても……」

「もう美容院予約しちゃったんだ。お願い、僕の我儘に付き合って」

この手際の良さは、やはり父似だ。改めて思い、頷いた。

 

ここがゴール、と連れてこられたのは、レストランだった。身なりを整えなければ来られない、高級なところだ。建物を見上げていると、ニアが楽しげに言う。

「ここも予約してある。僕じゃなくて、イリスがしてくれたんだけど」

「お食事まで準備してあるなんて、さすがね。最高の誕生日プレゼントだわ」

「あ、気付いてた?」

十二月三日は、シィレーネの誕生日。毎年家で祝ってもらっているのだから、忘れるはずがない。けれどもニアはまだ、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。タネがあかされたというのに、どうして。

「これで終わりじゃないし、僕は普段着だから店には入れない。じゃあ、母さんは誰とデートを締めくくるんだろうね?」

そういえばそうだ。ニアは普段から来ているセーターにコートを羽織っただけで、この店のドレスコードに合っていない。引き継ぐ相手がいるとするならば、それは。

「お兄ちゃん、お待たせ」

イリスの声がする。とっさに振り向くと、目に入ったのは長身の、背広姿の男性。顔を顰めながら適当な服を着て、慌ただしく仕事を重ねていたその人は、見違えていた。

「やあ、シィ。綺麗な恰好してるな、よく似合ってるよ」

穏やかに微笑み、カスケードがこちらに手を伸ばした。

「あなた……カスケードさんこそ、どうしたの」

「イリスが、たまには仕事のことを忘れてゆっくりしろって。今日はシィの誕生日だし、な」

息子と娘は目配せをしている。最初から共犯だったのだ。人が驚き喜ぶ顔が好きなのは、やっぱり父似なのだった。カスケードもこういうサプライズが好きな人だ。

「あとは二人でごゆっくり。お兄ちゃん、次はわたしとデートね」

「はいはい、イリスもお疲れ様」

「家族で一緒に食事できるようにしておけば良かったのに」

「父さんは母さんを放って仕事してたんだから、今日くらいは母さんを特別扱いしなよ」

兄妹が仲良く手を振って、遠ざかっていく。空いてしまったシィレーネの手を、今度はもっと大きく厚い、そしてほんの少し硬い手がとった。

見上げれば、昔と変わらずかっこいいと思う、けれどもやっぱり少しは年を感じるしわが刻まれた笑顔。

「じゃあ、行こうか。レディ」

「もうそんな年じゃないわよ」

「俺からすればいつまでもレディはレディだ。俺たちのデートをしよう」

そうだった。この笑顔に、一目惚れしたのだった。少女だったあの頃に。

今夜だけは、戻ってもいいだろうか。