先々代大総統ハル・スティーナの引退も、先代大総統の失踪事件も、軍の人間として見てはいたけれど、まるで窓の向こうのことのようだった。影響はあるかもしれないが、何かが変わるならそれに対応するように動けばいい。周りの様子を見て適切な行動をとれば、ちゃんと物事は悪くない方向に動く。幸いにして器用ではあったから、おそらく他人よりも多くのことを難なくこなすことができたし、周りもそれが当然だと思ってくれていたおかげで、特に目立つことはなかった。
そうして得たものを、あの日に失い、それらとひきかえにしてあまりにも大きなものを手にしてしまった。どうして自分が、と何度も思ったけれど、未だに自分で答えを出せたことはない。
ただ、事実としてその人は自分を隣に置き、大切な仕事を任せながら、親しみを込めて名を呼んでくれるのだ。
「レオ、頼んだ」
「はい、閣下」
彼がこの国を統べる者となり、自分を補佐に選んだ瞬間に変わってしまった世界。それを疑問にこそ思えど、恨むことはない。
世界暦五三九年。大総統にレヴィアンス・ハイルが就任するということが本決まりになり、そのための式典が間近に迫っていたその日。レオナルド・ガードナーは大総統執務室に呼び出された。
先代が仕事を放棄していなくなってから、しばらくは補佐だった者がこの部屋を管理していた。だが、彼も責任をとって軍を辞するという。すでに部屋は、新しい主を迎えていた。
「ガードナー大将、ただいま参りました。お呼びでしょうか」
そこにいた赤毛の豊かな男を、これまでと同じく「ハイル大将」と呼ぶわけにはいかないことに、すんでのところで気づいた。もっとも、そう呼んだことも片手で足りるくらいしかない。
「……ゼウスァート大総統閣下」
思えば、こちらのほうが馴染みのある名ではあった。軍に入るためにいくらかの勉強をすれば必ず目に入り、そうでなくても一般教養として覚えるものだ。建国の英雄、初代大総統の家名。彼がその末裔であるというのは軍内では常識だったが、そう扱う人間はあまりいなかった。
「堅苦しいなあ、それ。やっぱりやめとけばよかったかな、大総統やるの……」
というのも、当人がこういう人間だからだ。歴史ある机に寄り掛かり、威厳もなにも意識していない口調で話す。一見不真面目そうだが実力と人望がある、レオナルドよりも二年先に軍人になったその人。
「みんなレヴィって呼んでるし、それで良いと思うんだけど」
「いけません。あなたはこの国を背負う方なのです。そのような無礼はできません」
それ以前に天上の人のように思っていた相手を、気安く呼べるわけがない。こうして言葉を述べることすらも畏れ多い。
レヴィアンスは不服そうにしながらも、まあいいか、と呟いて文句を言うのをやめた。そして一生忘れることができない、あの言葉を告げたのだ。
「レオナルド・ガードナー大将。君を本日付で大総統補佐に任命する」
意味を咀嚼するのに、レオナルドにしては長い時間を要した。大総統補佐。国を統べるその人の、すぐ傍で仕事を助ける、その役割。特に目立った功績もない自分には、一生縁がないと思っていた。
「……ねえ、返事。珍しいね、そんなに反応鈍いの」
「え、はい、申し訳ございません。しかしながら……」
呆けていた状態から我に返る。補佐なんて簡単に拝命できるものではない。だいたいにして、これまでほとんど接点のなかったレオナルドを、大切な役職に就けていいのだろうか。
たしかに相応しい人材は、ちょうどいなくなったばかりだった。ルーファ・シーケンスは家業を継ぐことを目指して、ニア・インフェリアは才能を認められた絵画の世界に進むため、それぞれ軍を辞めていた。レヴィアンスと常にともにあった人々がいない以上は、優秀な人材を適切に選ぶことがより重要になるはずだ。
だからこそ、レオナルドは自分が選ばれた意味が解らなかった。
「私は明確な実績を持たない人員です。おそれながら申し上げますが、閣下はどなたかと私を勘違いなさってはいませんか」
「いや、間違いないよ。レオナルド・ガードナー。目立った功績が見えないにもかかわらず、誰もがなれるわけではない大将という階級にいる。オレが欲しいのはそういう、地道で大切な仕事を怠らず敵をつくらない人材なんだ」
にい、と笑って、レヴィアンスはこちらへ手を伸ばす。契約の右手。この手をとれば世界は変わる。レオナルドがいた場所から、一気に「あちら側」へ引き上げられてしまう。
「よろしくね、レオ」
しかし抗う術も、レオナルドは持っていなかった。――環境が変われば自分が対応すればいい。ずっとそうして生きてきたから、疑問を持ち否定はできても、強い拒否はできなかったのだ。
レヴィアンスの人事はめちゃくちゃだった。レオナルドのほかにもう一人補佐を立てたが、それは少尉の少女だった。イリス・インフェリア。軍家インフェリアの名を持ってはいるが、軍を辞した兄に比べれば功績は圧倒的に足りず、むしろしょっちゅう他の軍人たちと手合わせをしては叩きのめしているという問題行動が見られる。名前だけの大総統に名前だけの補佐、と批判されるのは当然のことだった。
「だからこそレオが必要だったんだよ。オレたちは名前ばっかり有名になっちゃって、それなりに反感を持つ人間がいる。敵をつくらない人が欲しかったのはそういうわけ」
その言葉で、腑に落ちた。所詮レオナルドの存在は、本当に育てたい人材であるイリスの、そして批判を一身に受けるはずのレヴィアンスの、楯でしかないのだ。大勢の人員の中から選ばれたことは名誉だろう。死ぬときに箔がつく。
割り切ってしまえば、動くのはさほど難しいことではなかった。レヴィアンスの行動パターンはまもなくして掴むことができ、彼が求めるものをすぐに用意することができた。イリスからも「ガードナー大将は昔からレヴィ兄のこと知ってたみたいですね」という評価を得られた。彼女には公私を分けることを覚えてほしい。
仕事は順調だった。あまりに順調すぎて、終業後は暇だった。初めのうちはそれなりに忙しかったが、落ち着いてくると独りの時間が多くなった。持て余した時間を訓練や仕事に必要になりそうな知識の吸収に使った。すると日々のことは一層順調に片付いた。
「レオは本当に有能で助かるよ」
「勿体ないお言葉です」
慣れないのはこれだけだった。今までは何をこなしてもそれが当然のことで、褒められたり礼を言われたりすることはなかった。だが、レヴィアンスは逐一褒める。礼を言う。挙句の果てに部下や客に自慢する。「うちの補佐は有能だからね」とノーザリア大将に紹介されたときは、その場から逃げ出したかった。
自分はそんな人間ではないのに、どうしてそう持ち上げようとするのだろう。もう一人の補佐に比べればいくらかはできることも多いが、それは人生経験の差によるものだ。
上に立つ者の言葉は、より多くの人々に向けられるべきだろう。レオナルドひとりには、言葉通り勿体なかった。こんな特徴のない人間の、何をこの人はそんなに。
そもそもこの人は、どうやってレオナルドを見つけたのだろうか。
あくる日の朝、執務室に入るとコーヒーの香りがした。大総統執務室は便利なもので、部屋の主一人ならしばらく生活できるくらいの環境が整っている。小さなキッチンで湯を沸かし、客用のお茶を淹れることも、レオナルドはすぐに慣れた。コーヒーもインスタント粉末を溶かすだけならすぐに用意できる。
だが、今部屋を満たしている匂いは、もっと濃くて深い。「おはようございます」と声をあげつつキッチンへ向かうと、すでに来ていたレヴィアンスが「おはよ」と軽く手をあげた。
「何をしていらっしゃるんですか」
一応訊いたが、見ればわかる。ドリッパー、フィルター、ミル。そしてコーヒー豆の入った袋。基本的な道具と良い豆を、この人はどこから持って来たのだろう。昨日までなかったのだから、わざわざ調達してきたのだ。
「しばらく紅茶ばっかりで、コーヒー飲んでなかったなって思って。父親がコーヒー党で、オレはこっちのほうが馴染んでるんだよ。紅茶も好きだけど」
馴染んでるわりには、と思ったが言わなかった。しばらく見ていてわかったが、レヴィアンスはおそらく手先がさほど器用ではない。このコーヒーはあまり美味しく仕上がらないだろう。
「レオも飲む?」
「お気遣いありがとうございます。いただきます」
拒否はできない。朝から相手の機嫌を損ねても困る。レオナルドに対しては、レヴィアンスは一度も機嫌を損ねたことはなかったが。
そうして二つのカップに注がれた真っ黒なコーヒーは、やはり残念な出来だった。
「うわ、不味い。なんか失敗したかな。レオ、原因なんだと思う? あとそれ不味いだろうから無理して飲まなくていいよ」
「いえ、勿体ないです。閣下が淹れてくださったのに」
「勿体なくしたのオレだから。えーと、量はたぶん間違ってない……」
レヴィアンスは首を傾げながら、レオナルドの手からカップを取り上げた。まったく惜しむことなく、あっさりと。けれどもコーヒーを淹れることは諦めていない。
これ以上良い豆を無駄にしてもいけないし、何より今後レヴィアンスに恥をかかせてはいけない。レオナルドはおそるおそるフィルターを指さした。
「閣下、豆が。……挽いた豆がフィルターからこぼれませんでしたか。細かい粒がドリッパーを抜けて、中に入ってしまったのだと思います」
「あ、それだ。最初フィルター使うの忘れたんだ」
こぼしたどころの話ではなかった。それでは美味しいコーヒーは飲めない。なぜごまかして続けてしまったのか、という疑問は呑みこんだ。
「コーヒーを召し上がりたいのであれば、私がご用意いたします。ですから閣下はお待ちください」
「いや、ここでやり方見せて。さっき馴染んでるとか言ったの恥ずかしくなってきたから、ちゃんと覚える。お願い」
「私なんかに頭を下げてはいけません」
「レオのほうが師匠じゃん。私なんか、とか言うなよ」
少し語気が強くなったように感じた。けれども一瞬で、気のせいかと思い直す。失敗した分をレヴィアンスがてきぱきと片付けたあとで、レオナルドは知っている通りに正しくコーヒーを淹れてみせた。動作をじっくり見られていたので、ゆっくり丁寧にやるしかなく、結局始業の時間を過ぎた。
仕事のお伴になった一杯のコーヒーを、レヴィアンスは褒めちぎりながら飲んでいた。今度はオレもちゃんとやってみせる、と意気込んで。
そしてその通り、午後には飲めるコーヒーを淹れてみせたのだった。
コーヒー事件以来、小さなキッチンはみるみるうちに充実した。コーヒーはもちろん豆を挽いて淹れられる。紅茶も茶葉の種類が増えた。レヴィアンスのその日の体調などを考慮して、レオナルドが適切な飲み物を選んで用意することができるようになった。
曰く、先々代ハル・スティーナがこの部屋を使っていた頃は、こんなふうに賑やかなキッチンだったのだという。道具は全てハルが持ちこんだ私物だったので、引退するときに引き上げてしまい、先代の頃はがらんとしたままだったのだとか。ちなみに第三休憩室にも良い茶葉があるという。少し気になって確かめると、そこにも茶葉やコーヒー豆と道具一式が揃っていた。
もしやこの人は司令部を私物化しているのでは、という疑いを持った頃、決定的なできごとがあった。
「閣下、資料室を片付けられましたか?」
大総統執務室には、重要度の高い資料がある特別な資料室が備わっている。めったなことでは資料の配置は変わらないはずなのだが、それが大きくずらされ、奥に謎の空間が出来上がっていた。
「あんまり古いのは移動させたよ」
「お一人でですか? それに、奥のスペースは……」
「あそこ、写真現像するのにちょうど良さそうなんだよね」
「仰っている意味がよくわからないのですが」
写真を現像するような仕事は大総統にはない。必要なら人に頼めばいい。しかしレヴィアンスはここで、自分でやりたいのだという。
「趣味でやってるんだよ、写真。遠くの知り合いに送るのに始めたらはまっちゃって。何度か仕事にも使えたから、ここでできたら便利だなと思ってたんだ」
彼の仕事ぶりは知っている。できる人だということはわかっている。どんなに忙しくても余裕を持っていて、調べ物も手を抜かない。部下は可能な限り、レオナルドも含めて定時に帰らせている。外部との関係も良好で、そんな彼を評価する者も増えてきた。
きっと今が大事な時だ。それなのにこの人は、よりによって趣味でこの場所を弄っている。
「施設の私物化は問題になります。キッチンは私も使わせていただいているので意見できる立場にありませんが、資料室はさすがにやりすぎかと」
「やっぱりそうだよね。我に返って、何してるんだろうなって思った。ちゃんと元に戻すよ」
思い切って意見すると、あっさり引き下がった。そして翌日には資料室は元通りになっている。古い資料も元あった場所に並べられ、写真の件は白昼夢だったのかとも思われた。
しかし、これが数回続いた。そのあいだにも仕事はしていて、重要な事件も解決に導いているのに、いつのまにかぽっかりと空間ができては、また消える。実害がなかったので、そのうちこの現象にも慣れてしまった。幸い、このことを知っているのは当人とレオナルドだけで、黙っていれば誰にもわからない。
だが、後になって思えば、私物化などまだかわいいものだった。むしろそれがレヴィアンスのストレスサインであったことに気づかなかったレオナルドの責任は大きかった。
大量の仕事をレヴィアンスがこなせていたのは、彼の集中力によるところが大きい。彼が大総統に就任して、つまりはレオナルドが補佐になって間もなくして気づいたことだが、レヴィアンスはあまりに集中力が高まると周りを一切気にしなくなる。呼びかけても返事をせず、ひたすら書類に向かっているのを、初めて見たときは狼狽えてイリスをわざわざ呼びに行ったほどだった。
「ときどき行っちゃうんですよね、集中力の向こう側。あっちの世界に行ったらしばらく帰ってこないんだって、お兄ちゃんたちが言ってました」
困ったように笑う彼女に、初めは「まさか」と言った。だが、二度目には本当らしいとわかり、それ以降は気にならなくなった。
体を壊せばやりすぎないようにと諌めたかもしれない。けれどもそんな様子はなく、それどころか仕事のあとは飲みに出るなどしているようなので、そのうち戻ってくるのを待つようになった。
それで仕事が片付くなら問題はない、健康なら気にしすぎるとかえって良くない。――あの「赤い杯事件」の処理のときは、まだそう思えた。そのときはレオナルドやイリスへの仕事配分もできていた。
問題はある程度慣れた頃に発生する。レヴィアンスが「自分一人でもなんとかなるだろう」と判断することが増えてから。
明らかに仕事は多かった。集中したとしても、とても一人で終わらせられる量ではない。それなのに定時にはレオナルドを帰らせてしまうことが、二日続いた。さすがに二日目には心配になって、終業後しばらくしてからもう一度執務室へ向かった。
少しだけ開けた扉から見た姿に、ぎくりとした。たった一人で机に向かう彼は、休む気配が少しもなく。昼間見せている余裕はまるで消え失せていた。――全く知らない表情をしている。あれは、誰だ。
「……違う」
閉じた扉にもたれかかって、両手で顔を覆った。あそこにいるのは間違いなくレヴィアンスだ。すぐ傍で見ていたはずなのに、あんな姿は知らなかった。いや、見ようとしていなかった。
ゼウスァートの名前を背負い、周囲の期待と羨望と妬みを一身に引き受けて、人々の理想の姿であろうとしていた。レオナルド自身、この人はやはりゼウスァートの末裔なのだと感心していた。しかしそれはレヴィアンスがそう見せかけていただけに過ぎない。
資料室にときどき現れるあの空間は、いつ作って、いつ元に戻しているのか。そのことにすら考えが至らなかった。大量の資料が移動しているのに、それにどれほどの時間が費やされたのか。レオナルドが見ていないのなら、それは終業時間以降。夜中までかかったかもしれない。
もちろん自分の役割は大総統補佐だ。プライベートにまで干渉しようとは思わない。レヴィアンスが「仕事はおしまいだよ」と言えばそれまで。だからそれ自体は問題ではない。
一番近くにいながら、彼を過信し、なおかつ侮ってもいた。そうだったのだと気づいてしまった。だから彼は、誰にも頼ることができなくなっていったのかもしれない。
「私は楯になるどころか、あなたに寄り添ってもいなかったのですね」
それでもわかってしまう。今部屋に入れば、レヴィアンスは仕事の手を止める。その分、明日に持ち越される。――そのほうが良かったのだと、思い直したのは寮にふらふらと戻ってからだった。
翌日のレヴィアンスは普段通りの余裕さをみせていた。だが、状況は変わっていない。それなのにまた同じことを繰り返そうとする。ゼウスァートであろうとするために。
――私を、頼れないために。
「そうやって余裕ぶって全部抱え込もうとしていたら、閣下はいつか壊れますよ」
「……え?」
こんなことを言える立場じゃない。もっと早くに気づいていたら、抱え込ませることもなかった。
「何言ってんの、レオ。ねえイリス、そんなことないよな」
まるで冗談でも言うみたいに笑おうとするレヴィアンスに、イリスは真剣な表情で返す。
「ガードナーさんの言う通りだと思う。少なくとも今は、一人で何とかできる状態じゃないんじゃないの」
たぶん、レヴィアンスのことは彼女のほうがわかっていた。わかっていて、レオナルドが動かなかったから、動けなかったのだ。
その日は遅くまで三人で仕事を進めた。もうこの人が「万能の指揮者」などではないことはわかっている。どれだけの支えが必要なのかも、以前よりはわかるようになった。
今度こそ、レヴィアンスの補佐ができる。そうしようとレオナルドは密かに誓った。
数日の山場を越えて、ちょっとした連帯感を覚えてしまったあとの一人の部屋は、いつになく静かに感じる。すっかり慣れたはずの空気を寂しく感じたのは、いつ以来だろう。
「補佐になったばかりの頃みたいだ」
声に出してみたら、ほんの少しの笑いもこぼれた。
思えばあの頃から、あまり成長していない。二十歳を過ぎたあたりで、もしかしたら目立たないまま生きていくのだろうと思い始めたあたりから、成長することを諦めていた。
けれども世界は変わってしまった。それに合わせていけばいいと思っていたが、きっとどこかうまく合っていなかった。今までだって、そのことに気づいていなかっただけで、本当は何かがずれていたかもしれない。
――お疲れ様。手伝ってくれて、ありがとう。叱ってもらったのも久しぶりだ。
以前なら「大総統なのにこの人は子供みたいなことを言う」と思ったかもしれない。実際、今でも少し思う。しかしその先を、その人を受け入れるということは、今のレオナルドでなければできないかもしれない。当然が当然ではなくなった、今。
ぼんやりしていると、突然、部屋の戸が叩かれた。この部屋に用があるような人はいないはずだが、と戸を開けると、さっきまで一緒に仕事をしていたその人が立っていた。
「閣下……いかがなさいました?」
「ちょっと飲まない?」
両手に瓶を持って、レヴィアンスが笑う。こんなふうに訪ねてくるのは初めてだ。でも。
「申し訳ございません、閣下。私はお酒はちょっと……」
「ああ、知ってるよ、全然飲めないって。だからこれはジュース。たまに地方から送ってもらうんだ」
酒が飲めないことを話したことはあっただろうか。覚えがないが、断る理由が見つからないことはたしかだ。
「散らかってますよ」
「どこだってオレの部屋よりマシ。おじゃましまーす」
遠慮せずに入ってきて、なんだ片付いてるじゃん、と言う。こちらが緊張していることは、わかっているのかいないのか。
「……楽にしたら? って、オレが言うのも変だけどさ」
「ご存知でしたか」
これはもう完敗だ。レオナルドは諦めて、あまり使っていないグラスを洗いに行った。
ジュースは濃い葡萄液で、炭酸水で割るとちょうど良かった。少し渋く、酸味が強い。しかしそれよりもずっと甘かった。
「これは美味しいですね」
「だろ? 毎年送ってくれるのが楽しみでさ。でもオレはなかなか受け取れないから、実家に送ってもらうようにしてるんだよ」
レヴィアンスは寮暮らしだ。ということは、わざわざ実家まで取りに行ったのか。
ジュースを少しずつ飲む間、レヴィアンスは部屋をきょろきょろと見回していた。散らかっているというのはもちろん方便で、実際はレオナルドが最低限生活できるだけの物しか置いていない、殺風景な部屋だ。奥にはベッドが二つ。そちらに目を留め、レヴィアンスは首を傾げた。
「ここ、二人部屋なんだ。道理で広いと思ったよ。同室は?」
「はい。しかし、今は私が一人で使っています。同室だった者は、別室に移動しました。……私が、閣下から補佐になるよう言い渡された日のことです」
忘れもしない。大きなものを得て、たくさんのものを失った日だ。目を眇めると、レヴィアンスの怪訝な表情がうっすらと見えた。
同室だった者とは、軍に入隊して以来の付き合いだった。少なくともレオナルドは、彼を最も仲の良い友人だと思っていた。訓練では派手な動きでよく目立ち、大きな事件に積極的に関わって次々に功績をつくった人物だ。名前を出すと、レヴィアンスも「ああ、あいつか」と頷いた。
「彼の活躍は誰もが認めるものだったはずです。しかし閣下は私を補佐に選ばれました。彼はそれが納得できなかったようで……」
当然のことだろう、とレオナルドも思った。だから彼が「どうしてお前なんかが」とがなりたてたときも、「お前なんかに補佐が務まるものか」と言い捨てて部屋を出ていったときも、仕方がないと受け入れた。彼だけではない、他の多くの同僚が、彼と似たような態度をとった。レオナルドをなんでもないもののように気にしていなかった人々が、一斉にその挙動に注目するようになった。なぜあんな、存在感の薄い平凡な人間が選ばれたのか。レオナルド自身を含む、多くの人の疑問だった。
「軍に入隊する以前から、私は平凡な人間でした。褒められることも貶されることもなく、両親は私を民間の学校に入れてから、適齢期になると軍の養成学校に進ませました。それが当たり前のことであると、私も受け入れてきました。それからも日々は変わらず、ただ坦々と過ごしてきたつもりです。目立たずにいたと思います。ですから、私もわからないのです。閣下が、何故私なんかを補佐に選ばれたのか」
どうしてあんなに、一挙一動を褒めるのか。レオナルドのいた世界を変えたのか。
レヴィアンスは黙ったままだった。言葉が切れた瞬間にグラスの中身を飲み干して、それから、ほう、と息を吐いた。あまり見せない、少し難しいことを考えるような顔をして。
もういちどグラスを、レオナルドの分まで濃い色の液体と炭酸水で満たしてから、彼はようやく口を開いた。
「最初にレオを見つけたのは、ルーファだったんだ。もう十年以上前になるかな」
瞠目したレオナルドに、レヴィアンスは微笑んだ。
「すごいやつがいるんだって、オレに教えてくれたの。練兵場に連れて行かれて、訓練をしているのを見た。入隊二年目にしては型が綺麗な剣技だと思ったら、相手に合わせて次々に得物を変えていた。訓練してたのは実は相手のほうで、レオはそれに付き合ってたんだよね」
合ってる? と尋ねられ、レオナルドは曖昧に頷いた。自分の訓練でもあったので完全に肯定することはできないけれど、ほぼ相手に、友人のやりたいように合わせていた。友人が剣の腕を磨きたいと言えば自分も剣を持ち、変わった武器を相手にしたいと言えば武器庫から様々な種類の得物を借りてきた。レオナルドは全て器用に使うことができた。少し練習すれば慣れる。けれどもそれはいつものことで、友人にだって褒められたことなんか一度もない。
「もちろんそれもすごいことだけど、後日、上司の机にお茶を置いている姿にも感心した。相手の利き手や手を伸ばすであろうタイミング、他の物品の位置関係……全部計算してるように見えたよ。ちょうど今、オレとの仕事でそうしてくれているように」
ついでに崩れかけた書類を直したり、ファイリングし損ねてたものを片付けたりもしてたよね。――レオナルドにとっては当然で、他人から見ればつまらないだろうと思っていたことを、レヴィアンスはよく見て、憶えていた。当人にとってはただの癖でも、この人の目にはそうと映らなかったらしい。
「それからずっと見てきたよ。同じ仕事はなかなかできなかったけど、しょっちゅう目に留まった。他の人が面倒がってやらない仕事を、レオは率先して片付けた。他の人が大きな功績をつくるためのサポートを徹底的にしていた。それは先々代と、先代の大総統も認めてたようだね。目立った活躍なんかしなくても、レオの階級は着々と上がっていった」
行動が当たり前すぎるから、目立たないから、誰も見ていないと思っていた。とりたてて褒められないことが当然だった。しかし、レヴィアンスにとっては。
「大総統になれって言われたとき、すぐに決めたよ。補佐は二人つけようって。一人はオレが育てたいやつを選ぶ。そしてもう一人は、確実なサポートをしてくれる人間を選ぶ。オレはつい物事にのめり込んじゃうから、身の回りのことに気を配ってくれる人が絶対に必要だった」
レオナルドならそれができる。真っ先にそう思ったのだと、彼は笑った。敵をつくらないから楯にしようだなんて、そんなのはレオナルドの勝手な思い込みに過ぎなかった。
「大総統補佐に選んだことで、友達と仲違いしたことに関しては、悪かったよ。でもそいつらだって、頭を冷やしたらレオをちゃんと認められたと思う。その証拠に、今までなんにも言ってこないでしょ。オレやイリスは名ばかりだとかよく言われるけど、レオの悪い噂なんて一つも聞いたことがない。だって、弱点がないからね、言いようがないよ」
弱点がないのではなく、特徴がないのです。そう言おうとしたら、遮られた。まるで何を言おうとしたのか、先に読まれたように。
「レオは有能だ。誰よりもたくさんのことができる。大抵のことはそつなくこなせて、実力も隠してるだけでちゃんとついてる。気が利いて、相手の様子に合わせて動くことができる。必要な知識を自分の力で吸収して、ここぞというときに生かせる。こんな超優秀な人材、なかなかいないよ」
顔が熱かった。だって、できて当たり前だと思っていたことを、「なかなかいない」と言われて。「有能だ」と表現されて。こんなに自分を褒める人は、レヴィアンス以外にいない。こんなに褒められるようなことがあるなんて、ついこのあいだまで想像もしていなかった。
変わった世界は、友人や平穏といった色々なものを失ったけれど、とても大きなものを得た世界。レオナルドの存在を、価値あるものとして認めてくれる世界だった。
「閣下、私は……私なんかが、そんなに褒められてもいいのでしょうか」
「その、私なんか、っていうのやめよう。謙遜ならまだしも、自分を卑下するのは損だよ。これ大総統命令ね」
そんなのはずるい。逆らえるわけがない。今までそうやって生きてきた。そうやって生きることすら、この人は認めてくれるのだ。
「ありがとうございます、閣下」
この人のためになら、本当に楯にだってなれる。彼のために戦って、何ものからも守り抜こう。変わる世界に合わせることはそう難しくはないけれど、この人のいない世界だけは許すわけにいかない。
それが自分の役目だと、レオナルドは心に深く刻んだ。そのためになら、これからまた何を捨てることになっても、それを厭わない。
資料室の奥を改装しましょう、とレオナルドから申し出ると、レヴィアンスはぽかんとしていた。
「そう何度も物を出し入れするのはご面倒でしょう。古い資料を整理するのも、理にかなっています。奥をあけて、閣下がお好きなようにお使いいただくのが一番かと私は思います」
もちろんレヴィアンスに余計な負担をかけず、ストレスを軽減させるためでもある。だが、それ以上に彼の趣味だという写真が素晴らしかった。イリスに頼んでいくらか見せてもらったのだが、どれもプロ並みの出来で、実際何度かコンクールに応募して入賞してもいるという。
それが近くで出来上がるのなら、レオナルドは真っ先に見せてもらえるかもしれない。そんな欲もある。とにかくレヴィアンスのことを、もっと知りたい、知る必要があると思ったのだった。
「いいの、暗室作っても? だって趣味だよ。私物化は問題だって……」
「捜査に役立つことがあるのなら、必要な設備です。閣下の気分転換も大切なことですので、この程度ならば問題はないと判断いたしました」
「そっか、それならやっちゃおうかな」
なんて嬉しそうに笑うんだろう、この人は。好きなことにも、仕事にも、一生懸命だ。その人に認められたのだと思うと、レオナルドの胸にもくすぐったさと温かさがこみあげてくる。大声で喜びを叫びたいのを我慢して、キッチンに向かった。
「今日はコーヒーにいたしますね、閣下。一番お好きなブレンドをお淹れします」
「ありがとう! 頼んだよ、レオ」
「はい。お任せください、閣下」
そういえば、「生きがい」といえるものを持ったのも初めてかもしれない。自分から何かをしたいと思うのも。
変わった世界は明るくて、そこに恨みなんか存在しない。ただ決意と感謝がある。大切なものを想う心がある。