エルニーニャ王国首都、レジーナにあるギャラリー。企業が簡易な展示に使うこともあれば、個人がレンタルして小規模の個展を開くこともある。用途はさまざまである。
本日そこで行われているのは、新進気鋭の人気画家の個展だ。ファンだけでなく、通りすがりの人も出入りし、盛況の様相を見せている。
しかしそれを狙って、怪しい動きをする者がいた。どんな結果が待っているかも知らないで。
「イリス中尉、例のものが欲しいのですが……」
そっと近づき囁きかけるのは、イリスと同じ軍人の女の子二人組だ。緊張した面持ちで、こちらを見上げている。
「例の、ね。いくつ欲しいの?」
「私とこの子と、あともう二人欲しいって子がいます。四で」
「まいどあり。たっぷり楽しんでね」
にい、と笑ってポケットに手を入れたイリスの頭は、後ろからスパンと叩かれた。
「お前は司令部内で、何怪しげなことしてるんだ」
「いったあ……。ゼン、本気で叩いたでしょ。頭割れたらどうするの」
「割れてもこぼれるほど中身入ってなさそうだけどな」
ぎゃあぎゃあと騒ぐルイゼンとイリスを目の前に、女子二人は戸惑っている。気づいたイリスは、慌ててポケットから四枚の紙を取り出した。短冊状のそれには、鮮やかな絵が印刷されている。
「はい、チケット四枚。合計四八〇〇エアーだけど、大丈夫?」
「ちゃんと準備してきました。ありがとうございます、中尉!」
チケットと引き換えに受け取ったお金は、イリスの普段使いの財布ではなく、お札も入る便利なコインケースへ。そこにはちゃんと「お兄ちゃん用」と書かれている。ルイゼンは呆れ果てて、大きな溜息を吐いた。
「お兄さんの個展のチケットなら、もっと堂々と捌けよ」
「宣伝は堂々としたもん。声かけてねって言ったら何組かこうやって来てくれたの。だからついノリで」
「ノリで怪しい売人ごっこするんじゃない。お兄さんにも迷惑だろ」
軍の人々がイリスのところへ買い求めに来ていたのは、イリスの兄、ニアが開く個展の前売りチケットだ。題して『海の瞳が見る世界〜ニア・インフェリア個人展〜』。ちなみにこのタイトルを考えたのは父、カスケードである。個展を開く当人は散々恥ずかしがった後に「それでいいよもう」と諦めたように言い放っていた。
それはともかく、前売りチケットの売れ行きは好調だ。軍では伝説の人として、巷ではここ数年でよく見るようになった芸術家として、ニアの名は有名である。春に出版された、装画を担当した小説がベストセラーになっていることも手伝って、今度の個展は大入りが見込まれている。イリスも楽しみだった。
「個展のための新作もあるんだよ。ここでしか手に入らないオリジナルグッズも」
「お前、いい広告塔だなあ……」
大好きな兄のためなら、気合が入るというものである。作品だって大好きだ。好きなものを知ってもらえる、触れてもらえる喜びで、イリスはキラキラしていた。その輝きに惹かれて、もともとイリスのファンだった女性軍人たちがチケットを買いにやってくる。本当に良い広告だ。
「でも、それとこれとは別だ。仕事溜まってるからな、働け」
「だよね。ゼンがわたしを呼びに来るってことは、そういうことだよね」
しばらくはこの状態が続きそうだ。まあ平和ならいいか、とルイゼンはイリスを事務室へと引きずっていく。
一方、ニアは個展の準備に忙しい日々を送っていた。自分一人の作品を展示するとはいえ、動くのは自分だけではない。方々に連絡して協力を得て、必要な人手や費用のことを常に考え、会場に施せる工夫はもっとないものかとアイディアを出し続ける。出展する作品はほぼ揃っているので問題はないが、まだ何かできるのではないか、足りないものはないだろうかとずっと動き回っていた。
「ニアさん、お昼ご飯にしましょう。お腹が空くと考えがまとまらないですから」
こんなとき、ニールというサポーターがいるのはとてもありがたいことだった。一年前までは根を詰めすぎてイライラしていたであろうところを、この子がスマートに助けて癒してくれる。子供に気を遣わせてしまうのは申し訳ないと思いつつ、今は少しだけ甘えさせてもらうことにしていた。
「ありがとう。あ、なんか香草の良い匂い」
「アーシェさんに教わったんです。ご飯と野菜とひき肉を炒めて、味と香りをつけるんですよ」
そもそも食事は、ニアよりも、同居しているルーファよりも、ニールが一番できる家なのだった。こういうときの美味しい食事は素直に嬉しい。ニア独りでは、どうせあまり味のしないものを食べるよりはと、食べないことが多かった。
「うん、すごく美味しいね。ニールはよくできた子だなあ」
「上手にできて良かったです。食べ終わったら、食器はそのままでいいですからね。ニアさんは運送屋さんとの打ち合わせを済ませてください」
「あ、それそれ。早くやらないとって思ってたんだ。言ってくれてありがとう」
スケジュール管理は得意な方だが、やらなければいけないことが重なると何かを忘れてしまうことがある。それを手伝ってくれるのも、この有能な息子だ。いつのまにかこちらの予定や進度を把握していて、随所で声をかけてくれる。ニール曰く「お母さんがちょっと忘れっぽい人だったので」とのことだが、そのために自分がしっかりしていようという姿勢が素晴らしい。すでに逝去したニールの母親にも、ニアたちは間接的に大いに救われていた。
「手伝えることがあったら何でも言ってくださいね。僕、頑張りますから」
「そんなに頑張りすぎなくてもいいよ」
「頑張りたいんです。だって、僕もニアさんの作品のファンですから。個展、絶対成功させたいです」
にこ、と笑う小さなスタッフに、感謝のあまり涙が出そうだった。ニアは大きく頷く。
「そうだね、絶対成功させよう。イリスの話だと、結構たくさんの人が来てくれるみたいだし」
過去にも個展は何度かやった。グループ展も。回を重ねるたびに訪れる人は増え、おそらく今回は最大になる。ニールが来てからしばらくは外での仕事を控え、個展は一年以上やっていなかった。そのあいだにも、次はいつやるんですか、楽しみにしています、という声があった。そういう人たちが、今回を応援し、盛り上げてくれている。前評判は上々だ。だったら期待に応えなければ。
「運送屋さんとの打ち合わせが終わったら、そろそろ雑誌のエッセイにも手を付けたほうが良いと思います。ニアさんは筆が速いですけど、さすがに今回は後に詰まってくると大変でしょうし」
「エッセイかー。あれもそろそろ連載一年になるんだね」
しみじみと予定を整理しながら、昼食を終えた。エネルギーを充填したら、活動再開だ。
ところがその晩、予想していなかった事態が発生した。帰宅したルーファが、テーブルの上に封書を置いたのだ。
「郵便受けに入ってた。ニア宛だから、個展関係かも」
「なんだろう。手続きは順調なはずだけど」
軍人時代からの癖で、ニアは封筒をまじまじと眺めてしまう。消印あり、ちゃんと郵便局を通して届けられたものだ。宛名書きは印刷。そして差出人は――どこにも記載がない。
「個展関係者ならちゃんと名前書くよ。やだなあ、こういうの開けるの」
「ニアさん、ペーパーナイフ持ってきました」
ファンレターが届くことはまれにある。絵を買ってくれた人がうっかり自分の名前を書き忘れることも、ときどきある。だが、嫌がらせもごくわずかにある。作品への文句は感想として受け取るのでともかくとして、ニアの軍人時代を掘り返して難癖をつけてくるのが、最も質が悪い。
ニールからペーパーナイフを受け取って開封すると、嫌な予感は当たった。
『人間兵器が芸術などおこがましい。今度の個展はせいぜい気をつけろ』
便箋に印刷された文面に、ルーファとニールが顔を顰める。ニアは溜息を吐いて、便箋をテーブルに落とした。
「たぶん、同時期に軍にいた人だね。じゃなきゃこんな書き方はしない。人がたくさん来るから、一応対策をしておかないと」
「どうしましょう。警備は一応頼んでますよね。軍にも相談しますか?」
「イリスに言ってみたらどうだ。動いてくれると思うけど」
しかしニアは首を横に振る。イリスは今回、一般の来場者として来てくれることになっている。せっかく楽しみにしてくれているのに、台無しにはしたくない。とすると、警備を少し厳しくしてもらうか。あるいは。
「……ちょっとこっちも準備しておこうか」
静かに怒るニアに、ルーファとニールはぞっとする。これが一番怖いということを、差出人は知らないのだろうか。
「二人にお願い。この手紙のことは絶対、誰にも言わないで。警備会社にだけ連絡しておくから」
「わかった。でも、俺にできることは協力するからな」
「本当に軍に言わなくていいんですか? これ、犯罪ですよね。ただのいたずらならまだいいですけど、何か起きたら……」
「大丈夫」
口元だけで、ニアは笑う。瞳は、グロテスクな魚が泳ぐ深海の色をしていた。――ああ、本気だ。
「何か起こそうものなら、僕が絶対に許さない」
邪魔する者を、本気で潰そうとしているのだ、この人は。
怪文書が届いたこと以外は順調にことが運び、個展の前に発売された雑誌には無事にニアのエッセイが掲載された。もちろん個展の宣伝もしてある。
何も知らないイリスはその雑誌を買い、兄が担当した箇所だけを何度も読み返していた。いよいよ明日から、個展が始まる。
「イリス、兄君の個展は九日間だったか。まさか全日程行く気ではないだろうな」
メイベルが疑いの眼差しを向けてくる。本当はそうしたかったところだが、仕事がある身としてはそうもいかないのが現実だ。
「休みとってる日だけだよ。逆に言えば、休みの日は全部通い詰めるんだけど」
「イリスさん、自分でチケット四枚くらい買ってましたよね」
クスクスとカリンが笑う。そういう彼女らもチケットを買ってくれていた。一日はイリスと見に行き、そして別の日にもう一度、家族で行くのだという。こういう機会でもないと出かけられないからな、と大量のチケットを購入してくれたブロッケン姉妹に、イリスは頭が上がらない。
「九日間か。お兄さん、忙しいだろうな。迷惑かけないようにしないと」
ルイゼンが書類に視線を落としたまま、さりげなくイリスを牽制する。ルイゼンも一日は行く予定だ。リーゼッタ班は一番忙しいルイゼンの予定に合わせて、全員で個展を見に行く日をつくっているのだった。これにリチェスタも誘ったので、六人で行くことになっている。
「一日は僕たちと行くとして、あとの三日は?」
情報処理室から新たな書類を持って来たフィネーロが尋ねる。イリスはちょっと視線を逸らしながら答えた。
「一日はエイマルちゃんとニールと一緒に。まあ、ニールは家族特権で全日程行くんだけどね。で、一日は一人でゆっくり見たいんだ」
「あとの一日は」
「まさか」
フィネーロが詰め寄り、メイベルは不機嫌そうな表情になり、カリンは困った顔をし、ルイゼンは書類に集中しようとする。イリスに嘘はつけないことを、同じ班の人間なら当然知っている。結局、耐えられずに白状してしまった。
「ウルフにもチケット買ってもらったから、一緒に行くことになった……」
全員が、やっぱり、と肩を落とす。ウルフとはまだ付き合ってもいないが、認められてもいないのだ。
「変態盗人を連れて行ったら、作品を盗まれないか。展示品は絵だけではないんだろう」
「しないよ。警備の人、ウルフの勤め先の人たちだし。ウルフもシフト入ってるはず」
「イリスさんとデートするなんて、盗人さんずるいです」
「いや、だから盗まないって」
「イリスの兄さんの作品は、今とても相場が良いらしいな。気をつけろよ」
「フィンまで疑ってる……」
事務室は一気に賑やかになった。室長はこちらを苦笑いして見ていて、周囲も「また始まった」と生温かい視線をくれる。そこにルイゼンの一喝が飛んだ。
「お前ら、いいから仕事しろ!」
副室長ルイゼン・リーゼッタは、今日も胃が痛い。みんなで出かけるとなったら、いったいどうなってしまうのだろうか。
会場設営はほぼ完璧だ。準備の段階では何事もなく、無事に明日の初日を迎えられそうだった。今夜から警備がついて、たくさんの人とともに作り上げたギャラリーを守ってくれる。まずは一段落だ。
「設営のご協力、ありがとうございます。案内スタッフさんは、明日からもよろしくお願いします」
にこやかに挨拶をして、スタッフたちを見送ってから、ニアは警備会社の担当者に向き直った。この個展期間中に何かあるかもしれないと、知っている一人だ。
「何かあったら、来場された方の安全の確保を最優先してください。作品のことは気にしなくていいですから」
「何言ってるんですか。来場者も作品も、それからインフェリアさんも、全部守ってこその我々の仕事です。うちの社員の半数は元軍人ですからね、心得てますよ」
「それでは、頼らせていただきます。でもいざとなったら、僕のことは本当に構わないでいいですから。元軍人なのはこちらも同じです」
ニアの笑みに、警備員が震える。その表情に宿る底知れないものを、同じ元軍人だからこそ感じ取ったのだった。――人間兵器、ニア・インフェリア。もし、その本領が発揮されてしまうようなことがあったら、一大事だ。そのようなことがないように、警備を厳重にしなければ。
決意を固めているところへ、警備員の同僚がやってきた。ひょろりと背の高い青年だ。ギャラリー周りの確認をしてきたらしい。
「戸締りは問題ありません。不審物も見当たりませんでした」
「おう、ご苦労。お前、今夜はシフトだったよな。しっかり守れよ」
「もちろんです」
青年はにっこり笑い、ニアのほうへ向き直った。そういえば、とニアは気づく。この警備会社には、要注意人物がいたのではなかったか。
「今夜からよろしくお願いしますね、『お義兄さん』」
元怪盗だが、現在は物の盗みはやっていない。その代わり、妹を盗まれた。警備員ウルフ・ヤンソネンの差し出す右手を、ニアはぎこちなく握る。
「よろしく。でも、『お義兄さん』になった覚えはないよ」
彼だけは外してもらうべきだっただろうか。しかし、もしもの際にはその身体能力が頼りになるのも、ニアは知ってしまっていた。
かくして、怒涛の九日間が幕を開ける。
初日は大盛況。祝いにと詰めかけたお世話になった人々と、個展を心待ちにしていたファンで、ギャラリーは溢れかえった。対応に追われながらも危険はないか確認していたニアだったが、その日は何事もなく終えることができた。
ホッとしたのもつかの間の二日目、本日は知り合いがぞろぞろとやってくることになっている。
「お兄ちゃん、来たよ!」
イリスは一日おきに来ることになっている。どうやって休みをとったのだか。一緒に来てくれたルイゼンにそれとなく確かめると「そのために頑張ってもらいました」ということだ。
「本当は初日と最終日に来たかったんだけど、ちょうど外での仕事が入っててね」
「仕事を優先しなよ。ここに来ているあいだは、ゆっくり見ていって」
イリスたちには案内はつけなくても大丈夫だろう。イリス本人が十分に案内できる。案の定、最初の作品から説明を始めていた。メイベルとカリンは、その説明を覚える気らしい。弟や妹を連れてきたときに、紹介したいのだそうだ。
「ああ、これは以前に雑誌で見た。イリスの兄君が描く海は素晴らしい」
「本当に海の中にいるみたい。展示の仕方も、光が工夫してあって素敵ですね」
カリンが気づいてくれたポイントは、ニアの自慢でもある。アイディアを出し、設営スタッフと相談を重ねて作り上げたのだ。
「お、銀細工だ。これもお兄さんの得意な分野だよな」
ルイゼンは、実は絵よりもこちらが好きだ。手先の器用なニアが一つ一つ丁寧に仕上げる細工物。初めて作ったのは今もイリスがつけているカフスで、けれどもその事実は身近な人しか知らない。
「家具まであるのか。そういえば、フォース社からアートデザインシリーズが出ていたな」
「さすがフィンだね、よく知ってる。ルー兄ちゃんとのコラボなんだよ。これのおかげでルー兄ちゃん、ちょっと出世したんだ」
実際は手当てが多く出ただけで、何か役職に就いたとかそういうわけではない。だが、ルーファとタッグを組んで発売まで漕ぎ着けたアートデザイン家具のシリーズは、ニアとしても自信作だった。これを褒められると、ルーファも一緒に褒められたようで嬉しくなる。
「昔から見てるけど、イリスちゃんのお兄さん、なんでもできるよね。学校でも人気で、美術の模写課題ではみんな参考にするの。私も一度だけ、人物画を模写させてもらったのよ」
学生からの評判というのはあまり聞かないので、リチェスタの言葉は嬉しかった。できればその模写課題というものも見せてほしい。
「その人物画のコーナーがここみたいだね。プロのモデルさんを描くこともあるけど、見ての通りほとんどは身近な人」
そこは少し恥ずかしいコーナーで、ギリギリまで展開するかどうかを迷った。なにしろ、ニアがその人をどう思っているかがほとんどそのまま出てしまうのだ。描線や色使いが、描く対象によって異なるのは、見る人が見ればすぐに気づいてしまう。
「ほう、これは父君だな。実物より凛々しく見える」
「んー……そうだね、ベルの言う通りかも。お兄ちゃんが描くお父さんって、かっこいいんだよね。本人も真面目にしてたらかっこいいけど」
「あ、レヴィさんだ。大総統執務室に飾るのに、描いてもらえばいいのに」
「閣下の雰囲気が良く出ているな。なんかこう……適当な大人という感じが」
大総統執務室に肖像画を、という話が今までになかったわけではない。だが、そのたびにニアは断っている。あの部屋に相応しい絵は、ニアの画風では難しいのだ。個人的にならよく描かせてもらっているのだが。そういうとき、レヴィアンスには写真で返してもらっている。
「わあ、これ、とても素敵」
カリンが声をあげた。リチェスタもうっとりと溜息を吐く。なになに、と近づいたイリスが、ぴたりと足を止めた。それは説明できないだろう。誰にも内緒で描いていた新作だ。
ソファに腰かけ、そのまま眠っている三人の姿。真ん中にルーファ、左にニール、右にイリス。平和な時間を描いた一枚だった。見たままをスケッチし、それを時間をかけて仕上げた。この絵を描いているときのニアは幸福だった。
「寝顔描くなんて恥ずかしいよ、お兄ちゃん」
イリスの少々嬉しそうな抗議に、ニアはただただ笑みを浮かべていた。
ギャラリーを一周した六人は、アンケートまでしっかり記入して、ニアに挨拶をして帰って行った。今日も、何事もなかった。ただ嬉しいことがあっただけだ。
三日目も順調。四日目はイリスがエイマルを連れて再度来てくれた。ニールも一緒に見てまわる。
ニールは毎日ギャラリーに入り浸っている。スタッフ腕章をつけさせたので、出入りは自由だ。実際、日々の仕事をいくらか手伝ってもらっている。掃除の手際が良い子供として、他のスタッフにも評判が良かった。
「いつもはあたしがニール君にいろいろ話してるけど、今日は逆だね。ニアさんの作品なら、ニール君のほうが知ってるもん」
エイマルに頼られて、ニールは照れている。イリスは子供たちをにまにまと笑って見守りつつ、一度見たはずの展示をじっくり眺めていた。
「そう何度も見て、楽しい?」
手が空いたニアが声をかけると、即座に首肯される。
「楽しいよ。お兄ちゃんの作品は、何度見ても飽きない。小さい頃から見てるからかな、あると安心するものの一つなんだよね」
イリスが産まれたのは、ニアが十一歳のとき。物心つく頃にはすでに画用紙とクレヨンが友達だったニアは、そのくらいの年頃には絵を描くことがもっとも情熱を傾けられる趣味となっていた。エルニーニャ軍人として仕事をするかたわら、休みの日には絵に没頭することもあった。立体に手を出したのはその後のことだが、これも楽しかった。
そんな兄の姿を見て育ったイリスだから、兄の作るものが好きなのだ。
「そっか、安心する、か。そう言ってもらえると、作ってきた甲斐があるよ」
作品を作り上げるとき、それは楽しいだけではないこともある。思うようにいかないことや、プレッシャーに押しつぶされそうになることもしょっちゅうだ。できたものを発表するのも緊張するし、名が知れれば知れるほど様々な評価がつきまとう。
けれども何を言われようと、イリスの言葉を思い出せば、また作り続けられる気がした。いや、イリスだけではない。
「僕、ニアさんの風景画が好きなんだ」
ニールがエイマルに語るのが聞こえた。
「初めて見たのは、はがき大の、花畑の絵だった。きれいだったな。僕が涙で滲ませちゃって、ダメにしちゃったんだけどね。でもね、あの絵を見なかったら、僕はこうやってエイマルちゃんと話をすることもできなかったかもしれない」
ふわりと笑うニールは、ニアの絵を初めて見たあの頃にはいなかった。花畑の絵は、あの涙で滲んでしまった小さな水彩画は、悲しみにくれていたあの子を笑わせることができなかった。しかし前を向くきっかけにはなれたのだ。
「ニール君にとって、ニアさんの絵は特別なんだね。あたしとの出会いまで繋がった絵、か。それって、とっても素敵な魔法みたい」
「そう、魔法なんだよ。とっても地道で、いろんな道具や呪文が必要な、でもすごく大きな効果を持ってる魔法なんだ」
そうなったらいい、といつかニアは思っていた。泣いていた子供を笑顔にできるような、魔法のような絵が描けたらと。それはほんの一年ほど前。その気持ちを、子供たちは知らないはずなのに。
伝わっていた、と思うと、目頭が熱くなる。なんて幸福な一年だったろう。
五日目も無事に終えて、六日目が始まった。今のところ、異常はない。予想以上の来場者数があっただけだ。本当にあの封書は、ただのいたずらだったのかもしれない。
それはともかくとして。ある意味不穏な封書よりも見過ごせない事態が、本日は発生していた。
「こんにちは、お義兄さん。今日は仕事じゃなく、プライベートでおじゃまします」
「その『お義兄さん』っていうのやめてくれるかな。僕、弟を持ったつもりはないよ」
何を考えているのかわからない笑顔と、氷の微笑が対峙する。そのあいだで、三回目の来場となったイリスは頭を抱えていた。
ウルフも前売りチケットを入手していたということは、ニアの耳にも入っていた。イリスを介してではなく、警備会社の社長が引き受けてくれた分を買ったらしい。チケットが手に入ったから一緒に見に行かないか、とウルフがイリスを誘ったのだ。単純に兄の作品を見てくれるということが嬉しくて、イリスは即座に了承してしまったのだが、やはりもう少し考えるべきだった。
ニアがウルフをあまり快く思っていないということには、イリスも気づいていた。なにしろ過去にイリスに危害を加え、今年の頭には利用しようとした人物だ。そんな人と恋人になるかどうかにかかわらず付き合うことを疑問に思っているニアは、今、すこぶる機嫌が悪い。それをウルフが煽るものだから、さらに気まずくなっているのだ。
「お兄ちゃん、ウルフもお兄ちゃんの作品を見に来たんだよ。他の人と同じ。だから、あんまり刺々しい態度は……」
「そうですよ、お義兄さん。僕はあなたの作品、好きですよ」
「ありがとう。でも『お義兄さん』はやめてほしいな」
「ウルフ、頼むからお兄ちゃんを煽らないで。ほら、作品が好きなら見なきゃ!」
イリスに引っ張られて、ウルフは順路を進んでいく。その様子が、今日のイリスが特にめかしこんでいるのも相まって、余計にカップルらしく見えてしまう。あれが他の人なら微笑ましいのに、とニアは小さく息を吐いた。
他の来場者に挨拶をしながら、ときどきイリスたちのほうを確認する。どうやら作品は真剣に見てくれているようだ。ウルフが作品について何か述べると、イリスは柔らかく笑って返事をしている。あんな表情はめったにない。好きな人を見る顔だな、と思うと、一層複雑な気持ちになるニアだった。
「憂鬱そうだね、芸術家」
たった今入ってきた者が声をかける。振り向かずとも誰だかわかった。
「ああ、大総統閣下、いらっしゃい。仕事は?」
「ちょっと休憩。一応あいつ、要注意人物のリストから外れてないし」
レヴィアンスが遠くにいるウルフを小さく指さす。なるほど、見張りというわけだ。あの二人をたきつけたのもレヴィアンスだから、いくらか責任を感じているのかもしれない。
「しかしまあ、楽しそうにしちゃって。今回は公認デートだから、堂々とできるし」
「僕は認めてないよ」
「いい加減、認めてやりなよ。せっかく妹が幸せそうにしてるんだからさ」
オレも見て来るね、とレヴィアンスは行ってしまう。見送りながら、本当は認めるべきなんだろうな、と心の中で呟く。過去にいろいろあったとはいえ、今はウルフもイリスも自分のやるべきことをきちんとやって、大人になろうとしている。だったらニアも、大人として二人を見守るべきだろう。どうしても納得がいかないのは、きっと寂しいからだ。超お兄ちゃんっ子だった妹に、他に大切な人ができて、離れていってしまうのが。
「素晴らしかったな。見てるだけで癒されるというか、心が洗われるというか。これはちゃんと仕事をして、作品に何事もないようにしなきゃ」
「頼むよ、ウルフ。……あ、お兄ちゃん、まわってきたよ。ウルフね、細工物だけじゃなくて、絵の具とかにも結構詳しいの」
「へえ。それも昔取った杵柄?」
「ええ、まあ。でも材質に関係なく、お義兄さんの作品はどれも良いものだと思います」
「『お義兄さん』呼びは許してないけど、ありがとう」
まだ完全に認めることはできない。でも、そのうちこんなやりとりが当たり前になるのだろう。寂しいけれど、厭ではない。可愛くはないけれど、そこまで憎くもない。
イリスが産まれる前、ニアは少しだけ弟が欲しかったことがある。目の前にいるような、自分より背の高い、へらへら笑う生意気そうな弟を望んだことはないが。それでもいいかと思う日が、来るのだろうか。
七日目も異常はなかった。日数が残り少なくなると、先に来てくれた人が、まだ来ていない人を伴って再び来場してくれることもあった。評判が評判を呼び、来場者数は順調に増え、アンケートも箱一杯だ。
そして迎えた八日目、イリスが一人でやってきた。最終日は来られないので、この日のうちにじっくり見納めをしておくつもりだという。
「いくつかは持ち主に返しちゃうんだよね。だったらちゃんと見ておかないと」
展示されている作品の何点かは、購入してくれた人に連絡をとって借りている。家具のコーナーに展示してあるものは、ほとんど全てがフォース社のものだ。明日の最終日を過ぎれば、見る機会がなくなってしまうものもある。
この個展に出したことがきっかけで、売約の決まったものも数点。もちろん信頼できる筋だ。
「あの海のコーナーは、大体が売約済みです。細工物もこれから売りに出します。人物画は頼まれても商談に応じませんでした」
「実在の人物ばっかりだしね。レヴィ兄にとっての写真、お兄ちゃんにとっての絵で、あれは全部思い出だから。ニールも成長するごとに描かれるよ」
「照れるけど、嬉しいです。ニアさんがそれだけ僕のことを見てくれてるってことですから」
歩くイリスにニールがついていき、順路をゆっくり進む。このギャラリーで急ぐ人は、基本的にはいない。誰もが作品に見入って、ゆったりとした時間を過ごす。
明日で終えてしまうのがもったいないくらい、ニアにとっても心地よい時間だった。――その時までは。
「……あれ? ねえニール、これなんかおかしくない?」
ニアの代表作である、海を描いたシリーズの一枚の前で、イリスは足を止めた。少し遅れて追いついたニールが、イリスと並んで絵を見つめる。そして、あ、と声をあげた。小さな声だったが、それが良くない驚きを含んだものであることが、ニアにはわかった。
「どうしたの」
駆け寄ったニアの袖を、ニールが引っ張る。屈めというのだ。イリスも眉を顰めて額を突き合わせた。
「この絵、これまでと違います。今朝確認した時には、たしかにニアさんの絵だったのに」
「よく見るとお兄ちゃんの描き方じゃない。これ、偽物だよ」
ずっと絵を見てきた二人には、すぐにわかったらしい。ニアも慌てて顔を上げ、絵を見た。小さなサイズの絵だ。描線、着色の仕方などは、遠くから見れば気づかないだろう。けれどもたしかにニアのものではない。ここにあった本物によく似せてはいるが、別物だ。
「そんな……こんなに人がいるのに、いつ、どうやって入れ替えたんだろう」
そして本物はどこへ消えたのか。鞄に入る大きさの絵ではあるが、周りには人も多く、警備員の監視も常にある。入れ替えられるとすれば、よほど手際が良く、会場を把握している者だ。タイミングは今朝の確認より後。今は昼を過ぎた頃だ。もう外に持ち出されているかもしれない。
「どうしよう……。本物は、展示が終わったら人に譲ることになってたのに」
今朝からの人の流れや、警備員の配置などを思い出す。どこかに隙があれば、そのときに持ち去られたのだ。だが、ニアもずっとそのコーナーだけを見ていたわけではない。
「お兄ちゃん、今日のスタッフのシフトがわかるものは?」
「名簿を預かってるよ。でも、イリスを巻き込むわけには」
「何のためにわたしが一日おきに来たと思ってるの。こういうことがあるかもしれないからだよ」
気まぐれに来ていたのではなかったのか。ニアがつい感心していると、ニールが名簿を持って来た。
「これがスタッフの名簿です。でも、どうして?」
「ずっと見に来てたけど、お兄ちゃんの展示は人気で、開場から人が集まってた。人目があったら犯行には及べない。だとすれば、確認から開場までのあいだに絵がすり替えられた可能性が高いんじゃないかな。今朝のスタッフは……」
イリスはシフト表をざっと見て、顔を顰めた。そこにあった名前は、ウルフ・ヤンソネン。今朝は隣のコーナーを、今は外を担当している。
「まさか、彼が?」
「ウルフさん、もう悪いことはしないんじゃ……」
ニールが泣きそうな顔になる。ニアはそれを抱きしめ、眉間にしわを寄せた。
「しないよ、あいつは。でもこういうことなら、あいつが詳しい」
話を聞いてくる、とイリスがその場を離れようとしたときだった。来場者の一人が、偽物の絵をじっと眺め、おや、と言う。
「インフェリアさん、もう取りおいてくれているんですか。しかし本物を出しておかないと、勿体ないですよ」
「ハーバーさん……いらしてたんですか」
ニアが無理やり笑顔を作る。ニールがイリスにそっと耳打ちした。この人が、ここにあった本物の絵を買い取る予定になっているのだ。相当絵が好きらしく、目利きでもある。だからこの絵が自分が欲しいものではないということも、すぐにわかったようだった。
「見たところ、他の絵はレプリカではないようですが」
知らないうちに絵がすり替えられていたなんてことが、他人に知られては大変だ。ニアは「ちょっと気になることがありまして」などとごまかしているが、いつまでももつわけがない。
「ニール、わたしはウルフのところに行ってくる。ここから離れないで、会場をできるだけよく見ておいて」
「わかりました」
イリスは人の合間を上手にぬって、外へ出て行った。ニアは相手に言い訳をしながら、会場の様子を思い出す。今朝の確認から、開場までのあいだ。スタッフの配置はどうだったか。今とどのような違いがあるか。人員は――変わっていない。そしてそろそろ交代の時間になる。
――もし、イリスの言うことが本当だとしたら。
容疑者はスタッフの中にいる。そして、もうすぐ逃げられてしまうかもしれない。
前科があるウルフなら、簡単に盗むことができるかもしれない。速やかに偽物を用意することだって。だが彼は、もう足を洗っている。それにニアに取り入ろうとすることはしても、嫌がらせをする理由が見当たらない。
届いた封書との関係はあるのだろうか。『せいぜい気をつけろ』とあったが、今日まで無事だったので油断していた。でも。
――準備をしていないわけじゃない。もしものときは……。
「絵はここにありますよ、お義兄さん」
呼ぶ声がした。いけ好かないが、今このときだけは確かめたかった声。
「ヤンソネン君、それ」
振り向いたニアが見たものは、本物の絵を持ったウルフだった。隣でイリスが頷いているので、間違いない。スタッフや来場者たちも一斉にそちらに注目した。
その中で、全く別の動きを――そこから立ち去ろうとしている人間は、よく目立った。イリスがすぐさま駆け寄り、彼を捕まえる。
「絵はスタッフの控室で見つけた。もうすぐシフト交代の時間だから、それに合わせて持ち去ろうとしたんでしょう。お兄ちゃんに偽物の絵を売らせて、恥をかかせようとした。違う?」
「――っ、そんなのでたらめだ!」
叫んだのは、警備員の制服を着た男。年齢はニアより少し上だろう。準備の段階からこの展示を手伝ってくれていた者の一人だった。
「でたらめじゃない。あなたの荷物から発見したんですよ」
「ヤンソネン、言いがかりはやめろ! そんなこと言って、お前が盗んで仕込んだんじゃないのか。お前は前科者だからな!」
男はウルフを指さす。会場がざわついた。前科者を雇っていたのか、インフェリアは認識が甘かったんじゃないのか、まあお坊ちゃんだから仕方がない――などという声があちこちから聞こえる。違う、と言おうとしたイリスの手から、男が隙を見て逃れた。その動きは俊敏だった。
ウルフらが所属する警備会社の、社員の半数は元軍人。この男もまた、元軍の人間なのだ。逃げた男は近くにいたニールを捕まえ、首に腕を回した。途端にニールの顔が真っ青になる。
「あ……!」
ニールは首を触られるのが大の苦手なのだ。最悪の場合、それだけで失神してしまう。しかし男は、そんなことなど知らない。
「インフェリア、俺じゃないぞ。犯人はヤンソネンだ。さっさと妹に、その盗人を確保させるんだ。そうしたら息子は返す」
「今すぐニールを離して。その子は何の関係もないでしょう。早く!」
「こうでもしないと、お前の妹が妙なことをするだろう。赤眼の悪魔だったか、その力を使われると困るんでね」
男はニールさえ近くに置いておけば、イリスに能力を使わせることができないはずだと思っているようだ。たしかに、いつもなら躊躇いなく力を使い、男を捕まえ直すだろう。だが今、ここにはたくさんの無関係の人々がいる。そしてニールは首に触れられたことで、パニック状態になっている。イリスの眼が悪影響を及ぼしてしまう可能性は十分にあった。
「……ヤンソネン君、犯人は君じゃないんだね」
ニアは問う。凪いだ水面のような、起伏の少ない声で。
「僕じゃありません」
「そうだよね。君ならもっと巧くやるだろうね。ニールの目が良いことも、イリスが今日ここに来ることも、君は知っていただろうし」
それに男が元軍人なら、手紙とのつじつまも合う。ニアを人間兵器と称するのは、ニアの軍人時代を知っている者だ。彼ならきっと知っている。
彼はきっと、現役時代は優秀な軍人だったのだろう。だが、ニアの存在が彼の地位を揺るがしていたのかもしれない。そういう人間は彼だけではなかった。ニアには軍人も、一般人として生きることも相応しくないと、そう思っている者は少なくない。それだけのことをしてしまった自覚はある。
だが、それが他人を巻き込んでいい理由にはならない。
「イリス、カウンターの下に音声レコーダーがあるんだ。再生ボタンを押せば録音してあるものが流れるから、あとはよろしく」
「レコーダー?」
イリスが戸惑えたのは一瞬だった。瞬く間にニアの雰囲気が変わる。穏やかな青年の瞳は深海の色に染まり、静かに怒りを纏う。
「これ、やばい……! すみません、みなさん、離れて! 警備の方、誘導を!」
慌ててイリスが叫んだのと同時に、ニアが動いた。その場からいなくなったのだから、動いたはずだ。男までは距離があったはずなのに、もうそれがなくなっている。瞬時に片手でニールを奪い返し、もう片方の手で男の胸倉を掴み、持ち上げ、床に叩き付けた。その間、一秒も数えられず。
ニア・インフェリアは軍に在籍していた頃、「人間兵器」と呼ばれていた。その所以が、何をきっかけにして発動するのかわからない超人的な身体能力。ただしこれが発揮されているあいだ、彼は自分で自分の力を制御することができない。
顔面から床に落ちた男の歯が折れる。イリスは急いでカウンターに行き、その下の棚をまさぐった。音声レコーダーはすぐに見つかった。再生ボタンを確認し、素早く押す。
『やめろ、ニア!』
大音量で響いたのは、ルーファの声だった。――自我を失ったニアを元に戻す、唯一の鍵だ。
ニアの手が男から離れ、代わりにニールを強く抱きしめる。男はすっかりのびていた。
人間兵器が芸術だなんておこがましい。どうせ金持ち軍家のお坊ちゃんの道楽だ。そう思う人は残念ながら少なくなかった。けれどもニアが作品を世に送り出し、それが人々の目に留まるようになると、そんな心無い誹謗中傷は減ってきた。今では騒ぎを企てた男のほうが、むしろ少数派になってきている。
男はそのまま軍に連行され、イリスが状況説明のために仕事に戻ることになった。
「せっかく来てくれたのに、ごめん」
「お兄ちゃんのせいじゃないよ。明日、撤収だけでも手伝いに来るね」
手を振って去っていく妹を見送ってから、ニアはすぐにギャラリーに戻った。騒然としていた会場は、けれどもまだ人がいた。全体のチェックのために一時的に外に出された人々は、ほぼ全員が入場し直して、作品を見ている。さっきまでのことなど、まるでなかったように。作品は全て無事だった。すり替えられた絵も、元の場所に戻っている。
事件発生時に辛辣なことを言っていた人々も、警備員やスタッフになだめられて、すっかり大人しくなっていた。それどころか、「やはりこれは良い作品だ」などと手のひらを返したように褒めている。
「ニアさん、ここは大丈夫ですよ。ヤンソネンさんがみなさんを説得してくださったので」
「それにほら、ニアさんの作品って癒し効果があるから。みんなさっきのことよりも、作品の美しさに心を奪われてます」
スタッフに背中を押され、ニアは礼を言ってから控室に向かった。ソファの上に、クッションを枕にして横たわるニールがいる。顔色はさっきより良いようだ。ホッとすると、目を開けて微笑んだ。
「……ニアさん、会場は大丈夫でしたか。作品は、全部無事ですか」
「うん。みんなのおかげでなんでもなかった。ニール、気分はどう?」
「僕ももう大丈夫です。でも、もうちょっと強くなりたいなあ」
小さな手が伸びて、ニアの手を握る。さっき、ニールを男から取り返した手だ。
「さっきのニアさん、かっこよかったです。僕もあんなふうに、誰かを助けられる強さがあったら……」
「ニール……」
本当は、あんな姿はこの子に見せたくなかった。人の暴力に傷ついた子に、自我を失って他人に暴力を振るうような自分は見せまいと、一年前にこの子を引き取ったときに誓ったのに。
だから、怖い思いをさせてごめんと、あんな親でごめんねと、謝るつもりだったのだ。でもこの子は、あの自分でも恐ろしいと思うニアを、かっこいいと言う。誰かを助けられる強さだと言ってくれる。
「イリスさんと、ウルフさんもちょっとかっこよかったな。僕の周りには、憧れの人がいっぱいです」
にこ、と笑うニールに、ニアは微笑み返した。目の端に浮かんだ涙を拭って、小さな体を、いや、一年前より少し大きく逞しくなった少年を抱きしめる。
「ありがとう、ニール」
「お礼を言うのは僕のほうですよ。ニアさん、助けてくれてありがとうございました」
抱きしめ返すその手は子供の体温で、けれども声はまるで優しい大人のように穏やかだった。
事件があったにもかかわらず、いや、むしろそれが更なる話題を呼んだのか、最終日は一番の大入りだった。買い取る予定だった絵を盗まれかけた人は、付加価値がついてラッキーですよとまで言ってくれ、今日も来場して知人らに昨日のことを自慢していた。ニアとしてはちょっとだけ恥ずかしい。
この日は撤収まで、一日を通してギャラリー内の警備にウルフがついている。隙を見て、ニアは彼に近づいた。
「今日はちゃんと見ててよね」
「見てますよ。お義兄さんの作品は、今度こそちゃんと守ります」
「頼んだよ。……昨日は、ありがとう。ちょっとだけ君を信用することにした」
「ちょっとですか」
意地悪を言ってしまったけれど、本当は大いに感謝している。イリスから話を聞いて、すぐに手紙と結び付け、動いてくれたのだろう。おまけに、本物の絵を扱う手は丁寧だった。そもそも、彼は本当に美術品が好きなのだ。
「今回の評判が結構いいから、またそのうちに個展をやれると思う。そのときはまたよろしくね、ウルフ君」
目をしばたたかせるウルフに一瞬だけ笑みをくれ、ニアはギャラリーを見てまわる。多くの人が作品を楽しみ、ニアに声をかけてくれた。なんて幸せだろう。自分が作りだしたものが、こんなにたくさんの笑顔を生み出せるなんて。
「ニアさん、ルーファさんが来ましたよ!」
ニールがルーファの手を引いてやってくる。まだ仕事中のはずだけど、と首を傾げると、呆れたように溜息を吐かれた。
「昨日の今日だからな、様子を見に来た。録音でも役に立って良かったけど、本当は昨日も俺がちゃんといたかった。それに、最終日くらいちゃんと見たい……と、社長に直談判済みだ」
「協賛ありがとうございましたって改めて挨拶に行かなきゃね」
ニアがにっこりすると、ルーファも笑顔で頷く。この個展を開くための最大のバックアップが、ルーファが勤めるフォース社だった。協賛のための企画や計画をルーファが主体になって出して、動いてくれていたのだ。そのために今日までずっと忙しかったのだけれど。
「さて、行くか。ニール、案内頼む」
「はい!」
手を繋いで、親子が順路を進んでいく。この個展が終わって、後片付けまで済んだら、家族でどこかに出かけよう。慌ただしかったから、少しのんびり、三人で過ごそう。
そして、また幸せに満ちた一年を始めるのだ。色とりどりの優しい景色を、大切な人たちとともに描いていこう。