「写真撮ってこいって」
溜息交じりに言う彼女に、しかしレヴィアンスは一瞥もくれない。「何の」と言いながら、急ぎの書類を捌いている。本当は来客予定時間前に終わるはずだったのだが、急な任務受理などでおしてしまい、まだ残っているのだった。
その状況に慣れている彼女――大総統付記者エトナリアは、こちらもぎっしりと情報の詰まった取材ノートだけを見ながら続ける。
「大総統閣下のプライベート写真、奥さんを添えて」
「そんな料理みたいに。プライベートは大総統じゃないから嫌だ」
「だよね。今回も適当にごまかしておくわ。幸い、事件記事ならどれから手を付けたらいいのかわからないほどあるし」
そんな二人の様子を、ガードナーは大総統執務室備え付けの小さなキッチンからこっそり覗いている。お茶を淹れるふりをしてここに下がったのだが、相変わらずレヴィアンスとエトナリアは仕事の話ばかりだ。ここがレヴィアンスの職場で、エトナリアも仕事のために来ているのだから、当然といえば当然なのだけれど。
だが、二人の左手薬指には同じ指輪がある。シンプルで、宝石の一つもついていない、銀細工。二人は紛れもなく夫婦である。それが互いが主張するような「仕事に都合がいいから」というだけの関係ではなく、それなりに愛情を持ったものであるはずなのに、そんなそぶりはあまり見せない。いつもエトナリアが仕事に来て、レヴィアンスがそれに応じ、その日のうちに解散する流れだ。
――もう半年以上になるんですけれどね……。
少しは閣下も態度を示せばよろしいのに、とガードナーは嘆息する。けれどもこちらがいくら心配したところで、どうしようもない。これは二人の問題であり、夫婦が何もしなければそれまでのことだ。これ以上話すこともなさそうなので、ガードナーは仕方なくキッチンから出てくる。
「お茶をどうぞ。今日は暑いので、アイスティーです」
「わあお。レオナルド君、いつもありがとう。きれいな色ねえ、あたしじゃこんなきれいに淹れられないよ」
「せっかくいただいたので、より丁寧に淹れるよう心がけました。東方のお茶なんて、こちらではめったに手に入りませんから」
カップには透き通った薄い緑色。東方で好まれるグリーンティだ。中央では紅茶が主流なので、緑茶は珍しい嗜好品である。フォース社の社長はこのお茶が昔からお気に入りだという。
レヴィアンスも礼を言って、カップに口をつけた。
「美味いね。エトナ、今度また買ってきてよ。代金出すから」
「いいけど、今日持って来たのはクレリアからのお土産よ。あんた、またあの子に何か仕事させたでしょ。便利に使える人材が増えたからって、あんまり無理させないでよ」
「無理はさせてない……と思うんだけど、気を付ける」
お茶を出してみても、空気は和やかになったが、夫婦感はまるでない。これが彼らの普通であるとガードナーもわかってはいるのだが、なんだかもやもやする。もっと仲睦まじくできないものか。いや、あれで本人たちは仲が良いはずなのだが……。
「でさ、手が空いたなら、先日の事件の続報を書きたいから、いろいろ話してもらいたいんだけど」
「ごめん、もうちょっと。レオが淹れた美味い茶でも飲んで、ゆっくりしていきなよ」
この態度から、ガードナーは察している。レヴィアンスはエトナリアのいる時間を長引かせたいのだ。今日に限って急な仕事が入ってきたのは、単に運が悪かっただけではない。今日に引き延ばしていたこともいくつかある。
そしてエトナリアは、ガードナーから見るに確実にレヴィアンスのことが好きだ。それもずっと昔から。仕事以上の恋はない、と公言している彼女だが、内心は結婚相手にべた惚れなのだ。
お互いが自分の仕事に集中するための策略結婚。二人は夫婦ではなく協力及び共謀関係。それが表向きの姿だが、実は両片思い状態が続いたままであることを、有能な大総統補佐は見抜いている。それゆえにもどかしいのだ。
閣下にも、閣下が選んだ方にも幸せになっていただきたい。それが大総統補佐レオナルド・ガードナーの願いです。
レヴィアンスの仕事が一段落すれば、今度はエトナリアの取材が始まる。
何とかして軍の持っている情報の「見える」部分を拡大し、裏の技術や知識を国全体、もっといえば大陸全体で有効利用できるようにしたいというのが、レヴィアンスの大総統としての目論見だ。そのためには国内に存在する格差を可能な限りなくし、裏に暮らす人間が悪事を働く必要のないようにしていかなければならない。第一段階は裏の情勢の把握と彼らのおかれている環境の底上げだ。これは先々代大総統から引き継がれている仕事でもある。
しかし裏社会は広大で、彼らのルールは根強い。エルニーニャ王国建国からあと数年で五百五十年、そのあいだにつくられてしまった格差や生まれてしまった差別の解消は難しく、「裏がいなければ軍の仕事がなくなる」という極論をいう者まで現れる。まだまだ目指す場所への道のりは遠そうだ。
大総統付記者エトナリア・リータスは――仕事のときは旧姓を使い続けている――大総統の仕事を適度に記事にし、伝えている。ときには文派や王宮、そしてエトナリア自身の批判も入れる。大総統付とはいえど、あくまで「摺り寄らない」ことを念頭において取材をするのがエトナリアのやり方だ。ただし、場合に応じて情報の規制はやむを得ないとする。不安をあおるような記事は避けるべきだ。真相を捻じ曲げるのではなく、伝えるべきことだけを伝える。その塩梅を任されているのだから、エトナリアは確かに優秀で力のある記者なのだった。
「裏を含めた全国的な調査が改めて必要である、と。でも、それってどうやってやるの? 住所不定の人たちまで調査が及ばないのは、これまでだって問題だったわよね」
「いくつか考えてることはあるんだよ。たとえばさ……」
取材によって考えの問題点や解決法が見つかることもあり、レヴィアンスはこの時間を大切にしている。エトナリアが訪れているときは、基本的にもう一人の大総統補佐であるイリスを執務室に呼ばない。いれば、女の子同士のお喋りになってしまうからだ。互いに仕事であることをわきまえてはいるはずなのだが、イリスが口を挟んだり、納得のいかないような表情をすると、エトナリアはそちらにも話を振る。そうすると、次の話をするための時間がとれなくなってしまう。
――というのは、建前で。本当はエトナリアとの時間を邪魔されたくないのではないかというのが、ガードナーの見立てである。
策略結婚の話が出たとき、ガードナーは何度もレヴィアンスの相談に乗っていた。相談をするということは、その段階ですでにレヴィアンスの心は決まっていたのだろう。エトナリアが縁談があると打ち明けた時の狼狽ぶりは――本人は平然としているように見せかけてはいたが――今でも忘れられない。
「なるほどなるほど。で、それどこまで記事にしていいの? 裏の技術に関係することには、まだ触れられないんだよね」
「確定できる段階にないし、まずイリスの眼の問題をある程度のところまで片付けないとね。むやみに使いまくるからこういうことになる」
「あんたも助けられてるくせに。……さて、こんなもんかな。じゃあホテルに戻って仕事するね」
本日の取材は済んだようだ。これからエトナリアは、定宿に行って原稿を書き、新聞社に送る。新聞社の本社はレジーナにあるので直接行って仕事をすることもできるのだが、可能な限り会社の人間に会うことは避けている。通信の発達が、彼女の仕事と立場を大いに助けていた。
立ち上がったエトナリアは、空のカップをキッチンに持っていこうとする。それをいつものようにやんわりとガードナーが制し、カップを受け取る。「ありがと」と微笑む彼女は、ガードナーから見ても可愛らしい。
「それじゃ、また。仕事頑張ってね、レヴィ」
「エトナもね。また今度」
手を振って別れれば、今度は後日。二人が一緒にいる時間は、あまりにも短い。もう少し時間があれば、と惜しむのはガードナーの仕事ではないのだが、レヴィアンスが何も言わないので代わりに惜しむ。
「次はいつでしょうね」
「順調なら来週でしょ。大きな事件が起こればすぐにでも」
大総統閣下は平気なふりをする。あくまでこれは仕事なのだと。
しかし事件はすぐに起こった。三十分も経たないうちにエトナリアから電話があったのだ。
「いつものホテル、部屋が空いてなかった! なんか予約に不備があったみたい。ねえ、今日だけレヴィの部屋に泊めてもらえない?」
レヴィアンスの部屋は軍人寮にある。二人部屋を一人用にした、少し広い部屋だ。しかし仕事が忙しいので、ほぼ寝に帰るだけの状態になっている。そのことは、以前からエトナリアに愚痴を言っていた。
「男子寮でもかまわないなら、オレはいいけど。一回戻っておいでよ、鍵貸すから」
「ありがとう!」
これはチャンスではないか。せっかくエトナリアが泊まるのであれば、少し話でもしたほうがいい。幸いにして、今日の夕方以降のスケジュールは空いている……と、ガードナーは把握していた。このまま平和なら余計な仕事はなく、レヴィアンスを部屋に帰すことができる。
「閣下、先ほどエトナリアさんが仰ってましたね。閣下のお写真が欲しいと」
「プライベートのは嫌だって」
「公開するものではなく、閣下個人の趣味として、お写真を撮られてはいかがですか。エトナリアさんとのお写真は、ご結婚以降まだ一度も撮影されていないでしょう。個人的な記念撮影くらいはなさってもよろしいのでは」
写真を撮ることは、レヴィアンスの趣味である。大総統執務室に暗室を作るほどだ。趣味は人に指図されてするものではないと、ガードナーもわかっている。だが、ここはあえて言わせてもらった。誰かが言わなければ、レヴィアンスもエトナリアも動けない。
目を泳がせ、頬をわずかに赤くしたレヴィアンスは、しばらくして口を開いた。
「……まあ、記念撮影くらいしてもいいか」
ちょっと背中を押せば、そのあとは行動が速い。レヴィアンスはガードナーにいくつか指示を飛ばし、ガードナーは見事にそれを遂行してみせた。
そのあいだにエトナリアが鍵を取りに来て、軍人寮に向かったが、彼女には彼らが何をしているのか、その時は見当もつかなかった。
レヴィアンスが仕事を終えて部屋に戻ると、ここでは嗅いだことのない香りで満ちていた。そもそもこの部屋で料理をすることなんてめったにないのだから、食べ物と判断できる匂いがすること自体が珍しい。
「あ、おかえりー。ご飯もうすぐできるよ」
台所には鍋を菜箸でかき混ぜるエトナリア。きちんとエプロンまで身につけている。だがその鍋とエプロンはどこから持って来たのだろう。この部屋にそんなものはない。
「あんたの部屋、相変わらずなんにもないのね。道具から食材から色々買ってきちゃった」
「わざわざそこまでするか。仕事は片付いたの」
「うん、まだ校了までもうちょっとかかるけど、あたしがやることは大体」
テーブルの上には開きっぱなしのノート型端末がある。新聞社にも普及しつつあるんだな、いやエトナが個人的に手に入れたのかな、高いだろうに、などと考えつつ、レヴィアンスは着替えを持って脱衣所に向かう。いつもならその場で着替えてしまうのだが、今日は女性がいるので気を遣った。
夫婦、という実感は今でも湧いていない。そもそもが策略と謀略の上に成り立った結婚だし、仕事が優先なのは変わっていない。レヴィアンスは大総統としてレジーナに留まっているし、エトナリアはレジーナに通いつつもいまだにハイキャッシの実家に自分の部屋を持っている。生活は別々で、戸籍と指輪が二人を夫婦であると証明している。
それ以外は、仕事をしているときの名前だって違うのだ。レヴィアンスはゼウスァートを、エトナリアはリータスを名乗り続けている。双方、現在の本名であるハイルを名乗る機会は少ない。それなのに夫婦だとか言われても、どうすればいいのかわからない。
自分から言いだしたことなのにな、とレヴィアンスは苦笑する。あのとき、それなりに緊張はしていたのだが、それが何から来る緊張だったのかは実はよくわかっていない。自分は今でもニアが好きなのだと思っているし、思いが叶わなければ仕事一筋に生きるつもりでいた。ニアには家族ができてしまったから、今では完全に後者の気持ちであるはずだった。
「何作ってくれてんの」
「今日は麺類。キノコで出汁をとったスープをかけて食べるんだよ」
それなのに、胸には新たな感情が芽生えている。麺を茹でながらこちらに振り向いた顔は、可愛いとも思うし、綺麗だとも思う。肌に触れたらすべすべしてるんだろうなとか、エプロンの紐を結んである腰が健康的にくびれているなとか、ぼうっとしているとそんなことばかり考える。
まいったな、と声に出さずに頭を掻いた。これじゃまるで、本当にエトナリアに恋をしているようではないか。
「野菜たっぷり入れたからね」
「そういうのが好きなの?」
「ささっと作れて、食べるにもあんまり時間のかからないものがいいかな。まだ仕事残ってるし」
「お疲れさん。忙しいのにありがとう」
心の内は上手く隠したつもりで、いただきますと手を合わせ、野菜たっぷりのうどんを啜る。出汁がきいていて美味しい。肉が好きなレヴィアンスだが、キノコと野菜だけを使って出した味も悪くない。エトナリアにこんな特技があったとは。
「美味いね。よく作るの、これ」
「夜食にしてるの。肉とか魚とかはさ、付き合いで結構いいのが食べられるから。仕事の合間に、こういう素朴なのが恋しくなったりするのよね」
「へえ、オレなんかは断然肉とワインだけど。でもこれは本当に美味い」
褒めるたびに、エトナリアの目が笑う。ちょっと顔が赤いのは、もしかして照れているのか。これだけのものを作れるのなら、褒められたことだって一度や二度ではないだろうに。
――いや、わかんないか。オレたち、似たもの同士だもんな。
思うほど、褒められた経験はないのかもしれない。親が忙しくて祖父に育てられたという共通の過去を持ち、成長するにしたがって自分の世界を作り上げていった者同士。寂しいという気持ちを抱えながらも、それを言葉にできない日々があったから、出会ってすぐに意気投合した。
あれから十八年以上。まさか結婚するなんて、あの頃は思いもしなかったが。
「本当は、旦那の健康管理は奥さんがしてあげなきゃいけないのかもしれないけど」
「そんなことないんじゃない。お互いちゃんと気をつけてるに越したことないよ」
「それもそうだね。でも、さすがにいっつも肉とワインは、あんまり体によくない。あと、レヴィはストレス溜まると煙草吸うでしょ。あれもできればやめたほうがいいんだよね。いくら医療にも使われてるからって、なんでもやりすぎは毒」
「はいはい、もっと気をつけるよ。不甲斐ない夫で悪かったな」
自分で言って、どきりとした。今のレヴィアンスは大総統ではない。エトナリアの夫、レヴィアンス・ハイルなのだ。
エトナリアは取材ノートを脇に置いて、視線をそちらにやりつつ食事をしている。彼女はまだ仕事中なので、記者のエトナリア・リータスだ。けれどもレヴィアンスに小言をくれているあいだは、たしかに彼女は、レヴィアンスの妻であるエトナリア・ハイルだった。
「エトナ、明日時間ある?」
「昼の列車で東方に戻るから、それまでなら。何か用事?」
「うん、プライベートの写真が欲しいって言ってただろ。あんまり公にはしたくないけど、プライベートでプライベートを撮るなら構わないよ」
「なにそれ、どういうこと」
こちらに尋ねてから、エトナリアは麺を一気に啜った。よく咀嚼して飲みこんだのを確認してから、レヴィアンスは続けた。
「オレの趣味に付き合ってよ。オレが写真を撮って、あとでエトナに送る」
「それじゃあたししか写らないんじゃないの」
「一緒に撮れるよ。タイマー機能がついたカメラも持ってる。使えそうなツーショットを一枚だけなら、仕事に提供してやらなくもない」
使えそうな、というのは、顔が見えないということだ。レヴィアンスはともかく、エトナリアが本人だとはっきりわかるように写ってしまうのは都合が悪い。大総統が結婚した、という報道はしているが、相手については言及していない。エトナリア自身も告白していない。彼女を守るためなのだが、レヴィアンスには別の理由もある。
「モデル、引き受けてくれない?」
レヴィアンスが、にい、と笑ってみせる。エトナリアは少し考えるような素振りを見せてから、口角を上げた。
「いいわよ。やるからには最高のモデルになってあげる。だから全力で撮ってよね」
互いに、全力で。これができるから結婚という契約を交わした。でも、本当にそれだけなのか。レヴィアンスは自分の気持ちを、おそるおそるながら確かめてみたかった。
泊まりの予定が上手くいかず、レヴィアンスの部屋を借りるのは初めてではない。今回のようなトラブル――学生とのダブルブッキングならこちらが譲るしかない――ならば、年に二回は経験する。一年のほとんどを東方と中央との往復で過ごすのだから、そのうちの二回なんて大した数字ではない。レジーナはそれだけ人が混んでいるし、定宿は安い分サービスを削っている。
――高いホテルでも泊まれるんだけど、それを使わないのは、あたしも期待してるからなんだろうな。
シャワーを浴びながら、エトナリアは自分に呆れていた。仕事が一番だと言いながら、レヴィアンスへの恋心を捨てきれない。結婚の提案は、驚いたが嬉しかった。けれどもすぐに虚しさに襲われた。お互い仕事のためにこの契約をするのであって、恋が実ったわけではないのだと。
けれども、レヴィアンスがエトナリアのことをある程度は好きでいてくれていることはわかっていたし、こちらは言わずもがなだ。本当に仕事のことしか考えていなかったら、結婚なんて荒業には及ばない。あのレヴィアンスだとしても、だ。
だから毎回期待して、そしてひっそりと裏切られる。部屋に泊まるのは初めてではないが、いつもエトナリアが一人で部屋を使っていた。レヴィアンスは仕事や友人たちの家に向かってしまい、ここには帰ってこない。
でも、今日はどういうわけか、ちゃんと部屋にいるらしい。ガードナーに何か言い含められたのかもしれない。あの補佐は、ものすごくよく気の回る人だから。
身体を拭いて、持って来た寝間着を着て、居間へ戻る。シャワーを浴びているあいだに消えているのではないかと思った彼は、座って本を読んでいた。
「読書なんて珍しい」
「勉強しろって、ドミノさんが貸してくれるんだよ。確かにオレが今持ってる知識だけじゃ、法整備は難しいし。でもちゃんとした提案をするにはオレがその実現可能性をわかってないと」
「そうだね。じゃないとアーシェさんや女王様にバッサリ斬られちゃう」
「それだよ。二人とも頭良いから、こっちが何言ってもなかなか通じなくてさ」
結婚前なら、この後に「女って怖いよね」と続く。けれどもあれ以来、少なくともエトナリアの前で口にすることはなくなった。意識してくれているのだろうか――「女性」として。
「エトナ、髪乾かしてくれば」
「あ、うん。ドライヤー借りるね」
いやいや、いくら今日は部屋にいるからといって、仕事をしているのには変わりがない。どうせ夜通し本を読んで、テーブルに突っ伏してちょっとだけ寝るつもりだろう。せめてベッドに寝ろと言わなければ。エトナリアは別に、毛布さえ借りられるのなら、床で寝たってかまわないのだ。
乾いて天然の癖を取り戻した髪を手櫛で整え、また戻る。仕事のメールを確認して、問題がないようなら毛布を勝手に借りて眠ろう。明日の午前中、写真撮影をするというのは、態度には出していないつもりだが、かなり楽しみだった。
「……うむ、問題なし。無事に今回の原稿も記事になります」
「良かったね。じゃあ休もうか、明日もあるし」
「それなんだけど、レヴィ、たまにはベッドで寝なさいよ。あたしは床でも椅子でもかまわないから」
「え?」
本を閉じて顔を上げた、レヴィアンスの目が真ん丸になっている。心なしか赤面しているような気もする。部屋の明かりのせいだろうか、いや、さっきまでは気にならなかった。
首を傾げるエトナリアに、レヴィアンスはもごもごと何かを言う。
「え、何」
「……だから、最初からそのつもりだったんだけどって言ったんだよ」
「ああ、あたしが床で寝るって話」
「そっちじゃなくて。……オレはてっきり、ベッドに一緒に寝るものだと思ってた」
万が一にもありえない。だって、策略と謀略のための契約としての婚姻関係のはずだ。レヴィアンスが顔を真っ赤にしてまでこんなことを言うなんて、そんな現実は想定外だ。
いやいや、単に公平性の問題だろう。そこまで深く考えてはいけない。そうは思いつつも、エトナリアの顔は湯気が出ているのではないかというくらい熱かった。
「悪い、馬鹿なこと言った。大丈夫だよ、オレが床で寝るから、エトナはベッド使って」
「だめだよそんなの。あたしが床」
これでは埒が明かない。二人で適当に床に転がる羽目になってしまう。それなら、……それよりは。
意を決して相手を見たのは、同時。目が合って、逸らせない。
「やっぱり二人でベッド使おう」
「そうだね。それがいいわ」
シングルサイズだから、狭いけれど。大人二人では、くっつかなければならないけれど。疚しいことなんか、何一つとしてない。
おそらく、昨夜のことを人に話したら。ニアなら聞き流すかもしれないが、ルーファやアーシェは呆れるかもしれない。グレイヴは励ましてくれるかもしれないが、ダイはまず間違いなく爆笑するだろう。
緊張でなかなか寝付けず、すぐにすやすやと眠ってしまった妻(一応)の顔を見ることすらできず、気がついたら寝落ちていて、目が覚めたときにはすでに隣は空だった。台所からは何かを焼いている香ばしい匂いがして、「おはよう、よく寝てたね」なんて言われてしまう、そんな朝。
何かをしようと思ったわけではない。最初からそんなつもりはなかった。「ベッド一つしかないけど一緒に寝るのか?! 一応夫婦だから自然だよな?!」とかなんとか考えていただけだ。だが、これではあんまり情けないではないか。
「昨夜、肉食べたいって言ってたでしょ。だからってわけじゃないけど、BLTサンドに目玉焼き付。飲み物はちょっと組み合わせとしては変だけど、あたしが持って来た緑茶。レオナルド君に倣ってアイスティーにしてみたんだけど、やっぱりあれほどきれいには淹れられないね」
そんな食材もこの部屋には用意していなかったはずだ。いったいどれほど買い込んできたのだろう。たった一日、泊まるだけのために。……たった一日では、ないからか?
一緒に暮らすことなんか想定していなかったから、レヴィアンスは相変わらず寮生活だし、エトナリアは実家に帰る。自分たちの仕事の仕方を考えれば、そのほうがいいと思っていた。でも、普段使わない大鍋と、可愛らしいエプロンは、きっとこの部屋に置かれることになる。これらの道具は、いつでもエトナリアの帰りを待つのだ。
「……オレは目玉焼きより、スクランブルエッグのほうが好きだな」
「そう? じゃあ、また今度ね」
「うん、また今度。いただきます」
今度、だ。毎日にはならない。二人とも仕事が第一で、相手のことまで気がまわらない。だから家庭を持つことを避け続けてきた。例えば他の多くの家庭のように、結婚して一緒に暮らし、子供が産まれたとして、自分はきっと家族に寂しい思いをさせてしまう。置いてけぼりにして、本来なら同じ秤に載せられないものを比べるようなことをして、みんな苦しむくらいなら、独り身でいたほうがいいと思っていた。
エトナリアとなら、結婚しても独り身に近い状態でいられる。双方ともに仕事に集中できる。幼い頃のように寂しい思いをすることはなく、周囲に言い訳もできて、都合が良い。そんな打算を、彼女は良しとした。後の不利に目を瞑ってくれた。
だからこそ、今更好きだなんて、一緒にいたいだなんて、言えない。
――いや、何考えてんのオレ。エトナのことは好きだけど、そういう「好き」ではなかったじゃんか。
でもこんな美味しい朝食を二人でとれるのは、良いことだ。胸がじわりと温かくなって、頭の中がふわふわしたもので満たされて。この状態がなんとも心地よい。
「ねえ、写真いつ撮るの? 急がないとお昼の列車に乗れなくなっちゃう」
「そうだった。ちょっと準備があるから、そのあいだに荷物まとめるなりしておいてよ」
発する言葉の一つ一つが、せっかく温まった胸を刺す。離れなければならないから、急がなければならない。どんな時間も永遠ではないとわかってはいるが、これはあまりにも短すぎる。
食器を片付けるのはエトナリアが引き受けてくれた。レヴィアンスは自分の支度を素早く済ませると、部屋を飛び出していった。
仕事の後だったので頭が疲れていて、すぐに眠ってしまったが、起きるのは早かった。寝返りをうつと、赤い髪――短かった時期があったが、ようやく以前に近いくらい伸びてきた――があって、少し手を伸ばせば広い背中に触れる。出会った頃はお互い小さな子供だったのに、いつのまにこんなに大きくなったのだろう。
こちらに背を向けているということは、手を出そうなんて気はなかったのだろう。そもそも布団に入った時だってそうだった。あのときはエトナリアもレヴィアンスに背を向けてしまっていて、相手がどんな様子なのかは全くわからなかった。
そっと体を起こして、こちらを向かない顔を覗き込む。昔はそう思わなかったけれど、改めて見るとなかなか整った顔立ちをしている。豊かな前髪から僅かに覗く額、すうっと真っ直ぐ通った鼻筋、少し痩せた頬。唇は、笑っている形のときのほうが好きだ。不敵な笑みは頼もしくて、かっこいい。
「これは、大総統じゃなくたってモテるよね。一緒にいたいと思う人がどれだけいても、仕方ないや」
自分もその一人だった。けれども恋より仕事を選んだはずだった。それで十分満たされていたと思っていたのに、今のエトナリアはそれ以上を求めている。レヴィアンスが面倒だと言って遠ざけていた、彼を想う人たちと同じだ。
告白したら、失望されるだろうか。失望されても、契約は継続されるのだろうか。それはあまりにもひどい地獄だ。
「……だめだ、センチメンタルは性に合わない。こんなあたしはあたしが許せない。さっさと支度して、朝ごはんでも作ろう」
ちょっと大きな独り言だったが、レヴィアンスは気づかずに眠っている。それでいい。知らないままでいてほしい。そのほうがきっと、幸せは長続きするから。
そうして朝食を作り、そのあいだに起きてきたレヴィアンスと一緒に、食事をした。きっとこれも、当たり前ではないから、楽しくて嬉しいのだ。食事の後の片付けだって、実家では面倒がりながらやっている。だからたとえ仕事を諦めたとしても、レヴィアンスとは一緒には暮らせない。
荷物をまとめて、すっかりこの部屋を出る準備ができた頃に、外に出ていたレヴィアンスが戻ってきた。
「ただいま。エトナ、ごめん、ちょっとドア押さえてて」
「うわ、どうしたの、その大荷物。どこから運んできたのよ」
「色んなとこで融通してもらった。こういうとき、大総統の肩書って便利だね」
「乱用するのやめなさいよ……」
箱やら袋やらを大量に抱えたレヴィアンスに、エトナリアは大いに戸惑っていた。これはただの荷物ではない。どれもこれも、有名店の名前が入っている。ほとんどが女性ブランドだ。
「撮影用にしては気合入りすぎじゃないの?」
「これがオレの本気だよ。まあ、手配してくれたのはレオだけどね」
「それは補佐の正しい使い方ではないわね……」
呆れている隙に、大きな袋から服が取り出された。サテン地のワンピース。淡いグリーンのそれを、レヴィアンスが広げ、エトナリアに当てる。
「サイズはこんなもんでいいかな。着てみてよ。帽子とか靴とか一式あるから、全部合わせて」
「合わせてって……こんなの着たことないわよ。だいたい、靴のサイズとか知ってたっけ?」
「正直言ってオレは知らなかった」
ほんの一瞬、レヴィアンスの表情が不機嫌そうになった。けれどもすぐに次の品物を取り出しにかかったので、よく見えなかった。
「……あの、用意してくれて申し訳ないんだけど、こういうの着るのにもちゃんとした下着が必要でね。あたしはそんなもの当然持ってきてないわけで」
「それもあるんだなあ。うちの補佐有能だからさ」
下着類は袋ごと渡された。こちらもエトナリアがちょっと勇気を出さなければ買えないような値段のものだ。写真を撮るとなったら、そこまで本気になるのか、この人は。ていうか、なんでレオナルド君があたしのいろんなサイズを把握できてるの。
「オレも自分の準備するから、とりあえず着替えてくれる?」
頷くしかない。物が多いので、脱衣所ではなく寝室を借りた。
自慢の補佐は慧眼に過ぎる。洋服や靴、下着のサイズまで迷わず淀みなく指定して、衣装一式を注文してくれた。レヴィアンスのために揃えてくれたものがぴったりだったのはまだありがたいで済むが、人の妻について夫より把握しているとはどういうことだろう。
――うん、妬いたさ。ちょっとどころじゃなく妬いた。自分で意外だったけど。
ガードナーの場合、単に目が良すぎるだけなのだというのはわかっている。きっと他の人について頼んでも、彼なら同じようにするだろう。
もやもやした気持ちで撮影の用意をしていると、レヴィ、と寝室から呼ぶ声がした。
「どうしたの。サイズ合わなかった?」
「ううん。びっくりするほどぴったりだった。でも似合ってるかどうかわかんないから、見に来てくれる?」
ぴったりなのか、となぜか残念に思う。三脚とスクリーンをそのままに、寝室に向かった。
入るよ、と一応念を押してから足を踏み入れる。少し前まで寝ていた狭い寝室には、袋や箱が丁寧に重ねてまとめてあった。そして。
「ねえ、変じゃない? 仕事で食事会とかあっても、あたしっていつもスーツだから……」
不安げだが上品な佇まいの女性が、そこに立っているのを見た。
「……って、あんたも結構良いの着てるじゃない。似合うよ。レオナルド君の見立てすごすぎるね」
レヴィアンスを見てパッと笑った顔は、化粧をし直したのか、さっきまでと雰囲気が違っていた。もうこだわりのスクリーンだとか、思い切って買ったが置き場に困る照明一式だとかはどうでもいいから、この場でシャッターを切りたかった。そしてちょうど、いつもの癖で、カメラは今手に持っている。
「待って、動かないで、そのまま」
「今撮るの? 変じゃないかどうか訊いたのに」
「あーもう、困った顔すんな。悔しいくらい似合ってるんだから笑ってろ」
シャッター音の合間に、声。
「何で悔しいのよ」
こんな音でごまかせやしないけれど、今なら言える。
「選んだのがオレじゃないから。他の男に任せたのを後悔してんだよ」
ああ、悔しいけれど、役得だ。エトナリアが一気に赤面してから花のような笑顔に変わるまでの全てを写真に収められて、その瞬間に立ち会えるのは、レヴィアンスただ一人なのだから。
後日、新聞に写真が掲載された。司令部の掲示板に貼られたそれを見てから、イリスは大総統室に走る。
「失礼しまーす。レヴィ兄、みんな写真の話題でもちきりだよ」
「ああ、あれね。よく撮れてるだろ」
「そりゃあ、レヴィ兄の持ってる道具全部惜しみなく使ったら、よく撮れるよね」
広めの部屋をさらに改造して、スタジオのように使えることを、妹分はよく知っている。大総統を引退したら写真屋でもやればいいのではないか。
掲載された写真が、レヴィアンスが急に午前休みを取った日のものであることは、イリスも承知している。そのためにガードナーに呼び出され、二人で午前の仕事を片付けたのだ。
――午前休みって、レヴィ兄、どうしたんですか?
――閣下は夫人とデートです。ですから私たちが代わりに頑張りましょう。
まさか部屋で写真を撮っただけで終わったデートだなんて、そのときは思っていなかったわけだが。
「エトナさんが顔出し厳禁なのがちょっと残念だけど、いい写真だった。そのために買った衣装全部プレゼントしたのもまあかっこいい。これでコーディネートをガードナーさんに全任せじゃなければもっと良かったね」
「やめろよー。オレだってそこ気にしてるんだから。でもいいだろ、あの恰好」
「うん、さすがガードナーさん。新聞だとモノクロになっちゃうのがもったいない。あれ、カラーで見られない? レヴィ兄、もとの写真持ってるんだよね」
新聞に載ったのは、大きな帽子をかぶったエトナリアとレヴィアンスが並んだ、その後姿。それだけでも十分きれいな写真だったのだけれど、やっぱりカラーで、できれば正面から撮ったものを見てみたい。
けれどもイリスがどんなに頼んでも、レヴィアンスは首を縦に振らなかった。「だめー」「やだー」とかわし続け、とうとう写真は見せてもらえなかった。
「いつもなら、自分で撮った写真はすごく自慢してくるのに。なんで今回のだけだめなのよ」
脹れるイリスに、ガードナーが冷たいお茶を持ってきてくれた。そしてこっそり囁く。
「私も見せていただいていないんですよ。あの日のことは、閣下と夫人の秘密なんです」
「……あー、そういうこと」
ようやくイリスにも合点がいった。つまりレヴィアンスは、エトナリアを独占したいのだ。一番きれいな瞬間は、自分と相手以外の誰にも見せまいとしているのだろう。ニヤニヤしながらレヴィアンスを見ると、「いいから仕事」と書類を寄越された。
――なんだ、レヴィ兄、新しい恋できてんじゃん。順番がめちゃくちゃだけど。
今日もレヴィアンスの左手の薬指には、銀のシンプルな指輪がある。そしてきっと、どこかで忙しく働いているエトナリアの指にも。
あたしたち、たぶん周りが思ってるより、お互いが好きよ。――あのときは本人たちにとっても「たぶん」だったのかもしれないけれど、今は確かだ。