エルニーニャ王国軍に所属する軍人の多くは若者だ。大総統にでもならない限り、遅くとも三十代の半ばには身体の衰えを察して引退するのが、暗黙の了解となっている。入隊は十歳から可能。まだ子供の時分から、軍という組織で、自らを鍛えつつ仕事をする。入隊前に養成学校に通う者もあれば、諸事情でほとんど何の教育も受けずに軍人となる者も少なくない。
入隊の際には試験が行われる。いかなるいきさつがあろうと、この試験では入隊希望者たちは平等に審査される。筆記試験と実技試験からなり、筆記では事務処理能力を、実技では体力と運動能力を試される。毎月多くの人々が試験を受けるために最寄りの司令部へ赴く。その多くは十歳になったばかりの子供たちだ。基本的には誕生日がくると試験が受けられることになっている。
「あたし、軍の入隊試験を受けたい」
十歳の誕生日をひと月後に控えた少女の発言に、家族は動きを止めた。軍に入りたいという子供に対する家族の反応は様々だが、このダスクタイト家では「いよいよ来たか」といったところだ。むしろ言うのが遅すぎるくらいだ。
「アンタ、一か月でどうにかできると思ってるの?」
母、グレイヴが尋ねると、娘――試験を受けたいと言った張本人であるエイマルは、即座に首肯した。
「だって、お母さんは一か月の訓練で軍に入れたんでしょう」
「それはそうだけど……」
元軍人であるグレイヴは、かつてたった一か月の剣技の訓練と筆記の勉強で、軍に入隊した。しかしそれは父、エイマルにとっては祖父にあたるブラックに、休む暇もなく叩き込まれた結果だった。また同じことができるかと問われれば、年齢を重ねたブラックには難しく、今は軍人養成学校で技能講師を務めているグレイヴでも可能だと断言できない。
けれどもエイマルはしっかりとした目をして言う。
「あたし、真剣だよ。入隊試験に一発で合格するつもりでいる。勉強なら、今までちゃんとしてきたから大丈夫。体力も自信あるよ。あとは技術だけなの」
たしかにエイマルは、同年代の子供たちと比べると、持っている知識量は抜きんでている。応用力もある。体を動かすのも好きだし、得意だ。それに周りは軍人ばかり。両親、祖父、親戚、姉のように慕う人など誰もが軍の関係者だ。憧れ、同じ場所に立ちたいと思うのも当然といえば当然だった。
「お母さん、あたしに稽古をつけて」
「……そりゃあ、アタシができることならそうしたいけど」
しかしグレイヴはすぐに返事ができない。稽古の時間はどうやって作るか、この子には何が適しているのか、そもそもこの子の父親はどう思うか……など、懸念事項がたくさんある。お母さん、と急かすエイマルを止めたのは、祖父、ブラックだった。
「そういうことを急に言われても、母さんだって困るんだ。オレも困ってる。エイマルは一か月で入隊試験に合格できるレベルに達したいんだな?」
「ちょっと違うかな。一か月で技術を磨いて、合格を確実にするの。あたし、今のままでもきっと入隊試験はパスできると思うんだ」
さらりと言い放つ孫に、ブラックは一瞬だけ怯む。その自信の源が何なのか、予想ができないわけではないけれど、本当に言葉にするとは。
「あたしの目的は入隊試験の合格なの。きちんと合格したいの。どんな厳しい訓練でも、しっかりやるよ。絶対に諦めないし、泣き言も言わない。だから一か月、あたしに協力してください」
深く頭を下げるエイマルを見て、ブラックとグレイヴは小さく溜息を吐く。ここまで言われて、協力しないなんて言えるわけがない。この家はそういう家庭だった。
「真面目に訓練するのね?」
「真面目にやるよ」
「一発合格するんだな?」
「するよ。そう決めたんだもの」
だったら急いで計画を立て、速やかに実行に移そう。三世代は頷き合い、まずはテーブルの上に紙を広げた。


「イリス、これに番号を順に振って紐で綴じて。542080001から」
レヴィアンスから九桁の数字とともに渡されたのは、顔写真付きの書類。あどけない子供が真面目な顔をしているのが、何枚も続いている。
「あ、生年月日よく見ておいてね。ちゃんと八月の試験までに十歳になってるかどうか」
「はーい。もうこんなに来てるんだね、来月の試験の申込み」
イリスには一目でわかった。同じものを、自分も昔用意した。これは毎月行われる、入隊試験の申込書。一般受験者は満十歳以上が対象となるこの試験は、毎月一回行われている。申し込みの締め切りは試験前日で、それまで書類整理はずっと続く。実はイリスが大総統補佐として任されている書類整理の多くが、この申込書の整理だった。ナンバリングの意味ももちろん知っている。前半五桁が年と月を表し、後半は受理順だ。
この時期はまだ少ないのでいい。受験者のピークは、軍人養成学校の卒業試験を兼ねる三月だ。したがって前の月である二月は、この作業だけで一日が終わってしまうこともある。処理するほうも大変だが、受験者はもっと大変だ。三月試験は激戦区。養成学校卒業がかかっている者たちと一般の受験者たちがぶつかり合う。人数が多い分、技術や頭脳はより高いレベルを求められる。続く四月、五月くらいまでは、養成学校の浪人生たちが試験に参加するので、一般受験者は気が抜けない。
それに比べたら、八月試験はまだ易しい。この時期に誕生日を迎える一般の子供の受験者と、ときどきわずかに残った養成学校浪人生、とうに十歳は過ぎた少年少女や、ごく稀に大人。求められるレベルは相対的に、春期の試験ほど高いものではなくなる――というのが傾向だ。
もちろん軍人になるための最低限のレベルは必要なので、全員が合格するわけではないのだが。
イリスが書類整理を始めると、ガードナーが思い出したように言った。
「イリスさんは、三月試験の実技トップでしたね」
「ああ、そうですよ。実家に行けば成績と合格証が残ってるはず」
「ぶっちぎりだったもんな。筆記はまあ……ごく平凡だったけど、一応伍長入隊できてるしいいか」
それはイリスの人生における自慢の一つ。入隊試験の実技の成績が群を抜いて良かったので、成績上位者と養成学校卒業者に許される伍長入隊ができたのだ。エルニーニャ軍は三等兵からのスタートが基本だが、伍長入隊は実力や経験を評価してそれを跳び越すことができる制度だ。イリスの兄、ニアも伍長入隊を果たしているが、こちらは実技も上位だったが筆記が誰よりも良かった。
「筆記試験は本当にお兄ちゃんのおかげとしか言いようがないね。お父さんもお母さんも勉強はちょっと苦手だったし」
「ニアは叔母さんに似たんじゃないの。それはそうと、喋りながらやってナンバリング間違えるなよ」
慣れた仕事で、喋りながらでもできるが、気をつけてはいる。生年月日を確認して番号を振る、の繰り返し。生年を偽っている大総統の前での確認作業は、いつもながら妙な感じがする。
ふと、見たことのある数字に目と手が止まった。あまり受験者の名前や顔写真は見ないのだが、それだけはやけに気になって、視線をずらす。そしてそのまま、目を見開いた。ついでに口も大きく開く。
「え、あ、はああ?! 聞いてないよ、こんなの!」
「イリス、うるさい。オレも仕事してんだから静かにやって」
「だってだって、知らなかったんだもん! もしかしてガードナーさん、知ってて急にわたしの入隊試験の成績のことなんかふったんですか?」
ガードナーはにこりと笑う。有能な補佐大将である彼ならば、とっくに申込書には目を通していただろう。そして、先にこのことを把握していた。
真剣な顔の美少女が、こちらをしっかりと見ている。世界暦532年8月1日生まれ。八月の試験を受ける少女の名前は、エイマル・ダスクタイト。
イリスが可愛がっている、大事な大事な妹分だ。

大総統執務室での仕事が終わると、ちょうど終業時間を迎えた。早く寮に戻って、エイマルの受験のことを確かめなければと、イリスは急ぐ。そこへ、事務室での仕事を終えたルイゼンとブロッケン姉妹、情報処理室にいたフィネーロがちょうど出くわした。
「イリス、お疲れ」
「お疲れさまです、イリスさん! 今日はあんまり会えなくて寂しかったです」
「そんなそぶり、今までなかっただろう。調子のいい奴め。で、今日は閣下からどんな面倒を押し付けられていたんだ」
「今の時期なら、そろそろ来月の受験者を確認する頃だな」
仲間たちは賑やかだ。一時期はみんなで集まれないこともあったので、こうして揃うのはいつだって嬉しい。イリスは表情を緩め、頷いた。
「毎月やってるから、フィンはわかるよね。そうだよ、受験申込書のナンバリングやってた。それで、すっごくびっくりしたことがあってね……」
ここには周りに人が多い。誰が受験するかは本来秘密にしておかなければならないので、ここでのネタばらしはまずい。とりあえずは全員部屋での夕食に誘うことにした。もともと今日は、手に入ったばかりの夏野菜でイリス得意のトマトカレーを作るつもりだったので、ちょうどいい。特に初めてイリスの手料理を食べられるカリンが大喜びだった。
全員が私服に着替えてイリスとメイベルの部屋に集合し、夕食の準備をしながら本日の大ニュースを話す。思ったより驚かれなかった。
「エイマルちゃんが軍に入ってくれるなら心強いな。頭良いし、動けるし。ていうかあの子、サラブレッドだろ」
ルイゼンが野菜を切りながら言う。首を傾げるカリンに、メイベルが食器を出しながら説明した。
「エイマル・ダスクタイトは、軍人学校のダスクタイト先生の孫でな。……ああ、グレイヴさんも教えてるから、娘でもあるのか。十歳にしては博識だし、運動能力も軍の伍長入隊組並にはあるんだ」
「軍人学校の先生のお子さんなんだね。できる子なんだ」
「おまけに父親はノーザリア軍大将だ」
「え? ノーザリア軍……てことは、ダイ・ヴィオラセント大将だよね。あれ、なんだかこんがらがってきた」
エイマルの家の事情は、少々複雑だ。イリスもうまく説明しきれない。だが、エイマルがダイとグレイヴの血を引く娘だというのは確固たる事実である。
「とにかく、エイマルちゃんはすごいよ。軍に入れば大活躍できると思う。……でも、本当に大丈夫かな。ただでさえ、今の軍の状況って良くないのに。主にわたしのせいだけど」
季節は夏に入ったが、今年初め以降の事件がまだ尾を引いていた。イリスの持つ異能の眼を狙い、裏組織が暗躍している。軍としては、何があっても適切に、冷静に対処できる人材を育てたい。初めから高い能力を持っていればもっと良い。
それを思うと、たしかにエイマルは期待の大きな軍人になるだろう。その分、負担も大きくなる。まして祖父と母が軍人学校の教師で、さらにあの北の狂犬ダイ・ヴィオラセント大将が父親だとわかったら、軍内だけでなく裏からも注目を集めるのは必至だ。
トマトを煮込む鍋をかき混ぜながら、イリスは複雑な思いだった。嬉しくて心配で、応援したいけれど本当にそれでいいのか疑問で。それはそのまま表情に出る。
「変な顔になってるぞ。野菜、先に炒めたほうが良いのか」
「あ、ううん、それ素揚げにする。ていうか変な顔って何よ、失礼だな」
「だって変な顔だったし。お前のことだから、エイマルちゃんを危険な目に遭わせたくないなんて思ってるのかもしれないけど」
図星を突いてくるルイゼンに、イリスは彼曰く「変な顔」を継続して向ける。切った野菜を受け取りながら、だってさ、と口をとがらせた。
「わたし、エイマルちゃんが生まれたときから、あの子のこと知ってるんだよ。元気で明るくて、でも本当は寂しがり屋で。だからわたしが守るんだって、思ってたんだけど……」
「やりたいことが見つかって、そのために強くなるのはいいことだろ。軍だって危険ばっかりじゃないし、そもそも危険の回避、対応を学ぶための教育機関でもある。そんなに心配することないと思うぞ」
「じゃあゼンは、もしリチェが軍人になるって言ったら、即応援できる? わたしはできない」
「リチェは別だな。あいつ体力ないし。エイマルちゃんとは違う」
そうだ、こんなたとえ話なんか、何の意味もなかった。エイマルは、きっと自分で試験を受けたいと言って申込書を出したのだ。少なくとも親や祖父から勧められることはないだろう。彼らはエイマルを、彼女の思うように生きられるよう育てている。逆に言えば、だからこそ試験を受けることに反対もしなかったのだろうけれど。
わざわざ本人に確認するまでもない。エイマルは八月の試験を受ける。それは確かなことなのだから。やりたいことの邪魔をしようとは、イリスだって思わない。
「……一つ疑問なんだが、エイマルの受験のこと、大将は知ってるんだろうか」
飲み物を冷蔵庫から出しながら、フィネーロが言う。イリスはハッとして手を止めた。
ダスクタイト家はエイマルの自由を尊重している。悪いことは悪いと叱るが、大抵のことは自分で判断してできるようにと、子供の行動に口を出すことはさほどしない。
だが普段家にいない、子供の父親――ダイは少し違う。家にいられないから子供のことにも口を挟めないだけで、実は一番の心配性だ。度が過ぎて離婚し、なかなか元鞘に戻れないくらいの。それ以外にも要因はあるのだが、この認識で間違ってはいない。
「ダイさん、知らないかも。知ってたら反対しそう」
「軍の厳しさを一番知っているだろうしな」
メイベルも頷く。まさか本当に、エイマルの受験はダスクタイト家の人々のみが了承していることなのか。ダイに何も相談していない可能性は十分にある。
「イリス、トマトの鍋焦げるぞ。あと野菜の素揚げって、普通に鍋に油入れていいのか」
「わたしがやるからいいよ。ゼンは座ってて」
だって全然進まないじゃん、と文句を言うルイゼンを台所から追い出して、イリスは再び唸る。
果たして今度の入隊試験、本当に波乱なく終えることができるのだろうか。
不安なまま作ったカレーは、やはり少し焦げていた。


刀、サバイバルナイフ、棍、弓、拳銃、ライフル。ずらりと並んだ道具は、どれも練習用のものだ。刃物は切れないようになっており、銃はエアガンでプラスチック製の弾を撃ち出せる。弓と対になっている矢も先が丸い。だが、いずれも人に向けるのは危険だ。
一つ一つの基本的な使い方を、エイマルは完全に覚えてしまっていた。その講釈を、ニールは先ほどからずっと聞いている。正直なところ、武器として使われるものをあまり長く見ていたくはないのだが。
「やっぱりニール君に聞いてもらうと、ちゃんと覚えてるって実感できる。あとは扱いを完璧にするだけだね」
「うん、僕が役に立てたならいいけど。……ねえ、エイマルちゃん、本当に試験受けるの?」
意気込むエイマルに、ニールは不安を感じていた。エイマルの能力は確かに高いが、それは軍で使うものなのだろうか。確かに軍人は人を救うことができる立派な職業だ。ニールもイリスたち軍人に命を救われ、現在は幸せな日々を送ることができている。けれどもその仕事には大きな危険が伴うというのもよくわかっているつもりだ。春にイリスが大怪我をしたときには、泣くのを我慢するのでせいいっぱいだった。
エイマルまで血を流すようなことになったら。もしかして命にかかわるようなことになったら。それを考えると、胸がしめつけられたようになる。
ところがそんなニールの気持ちをよそに、エイマルは輝かんばかりの笑顔で頷くのだった。
「十歳になったら試験を受けようって、実はずっと前から考えてたことなの。それこそ、ニール君に会う前からね。あたし、このときをずっと待ってたんだよ」
「待ってたんだ……」
無理もない、とは思う。ニールが周りを見ても、軍人や元軍人で溢れかえっている状況だ。生まれたときからこの環境にいたエイマルが、軍を意識しないはずはない。ニールよりも、かっこいい軍人たちの姿をたくさん見てきているだろう。
エイマルとニールにとってはお姉さんのような存在であるイリスなど、その最もたる例だ。身体能力と剣技、おまけに特殊能力まで備わって、エルニーニャ軍の大きな戦力として活躍している。蹴りを繰り出せば華麗、剣を振るえば激烈。情熱をもって任務に向かい、人には優しく手を差し伸べる。子供が憧れる軍人像そのものだ。――イリスが一番力を出し惜しみしないというだけで、インフェリア家の人が大体そうなのも、ニールは知っている。
「エイマルちゃんは、イリスさんみたいになりたいの?」
「そうだね、イリスちゃんはすごいと思う。あんなふうになれたらいいなとは、昔から思ってた。強くてかっこいい女の人に、あたしもなるんだって」
「エイマルちゃんならもうなってるよ。初めて会ったときがそうだったもの」
「そうだっけ? あ、でも、今のあたしが目指してるのは、イリスちゃんじゃないよ。姿勢は見習いたいけど、進路は違う」
「え、そうなの?」
しかし軍の入隊試験を受け、合格するのではないのか。何が違うというのだろう、と首を傾げたニールに、エイマルの顔がずいっと近付く。
「わ、何?!」
「ニール君には教えてあげる。あたしが入隊試験を受ける本当の目的」
「ほ、本当の……?」
ごくり、と息を呑む。そこへエイマルが囁いたのは、まるで呪文のように流れる言葉。ニールの頭の中に沁み込んで、それまでの不安をあっというまに吹き飛ばしてしまう魔法だった。
言い終えてにっこりしたエイマルに、ニールは呆けたまま言った。
「……なんか、すごいね。そんなことまで考えてたんだ」
「結構あたしって計画的でしょう? これはきっとダスクタイトの血ね」
「それはどうかな。エイマルちゃんのお母さんやおじいちゃんは、もっと地道なタイプだと思うよ……」
むしろやっぱりお父さんに似たんじゃ、と言うと、それでもエイマルは喜んだ。誰に似ていようが、そんなのは彼女にとって些細なことなのだ。
入隊試験すらも、彼女の進む道に至るための一歩でしかないように。
「一応訂正するけど、おじいちゃんもお母さんもそんなに地道じゃないよ」
「ええ……その訂正はあんまり聞きたくなかった……」
いずれにしても、ニールにできることといえば、彼女の前途を祈るばかりだ。親友として。

試験日の前に、エイマルの誕生日がくる。八月一日。夏真っ盛りの暑い日に生まれてきたのがエイマルだ。あの日の暑さは一生忘れない、とグレイヴは毎年語ってくれる。
「病院に行く前に死んでたまるかって、根性でおじいちゃんに連絡したんだから」
「うんうん、それでおじいちゃんと一緒に病院に行って、あたしを産んだんだよね。でも、タクシー使って先に病院行ったほうが良かったんじゃないの」
「そういうアンタのコメントが年々大人になっていくのが面白くて話してるのよ」
今日は刀を使った訓練をした後、いつもより豪華な夕食の準備をすることになっている。エイマルが持つ模造刀は、昔グレイヴが入隊試験対策に使っていたものだ。修復が必要な部分をブラックが直してきてくれたので、受け取ったときは新品かと思った。けれどもそれも、試験当月ともなればところどころに綻びが出てきていた。それを自分でメンテナンスするのも含めて、エイマルの訓練である。
「イリスちゃんが言ってた。お母さんの技は、ミナト流を取り入れてるんだって。それって東方の刀術一門だよね」
「取り入れてるなんて大袈裟ね。ちゃんとした技は一つしか使えないわよ。あとはおじいちゃんから習ったのと、自分の経験。おじいちゃんは軍に入ったばっかりの頃、ミナト流を教わってたらしいんだけど、あんまり経たないうちに破門されたし。以来、技は使わないようにしてきたみたい」
刀の点検をしながら、エイマルの頭には自分で調べた一文が浮かぶ。「邪心を持って刀を振るい、人の命を奪った者は、ミナト流の人間とは認められない」――軍人時代の、若かった祖父には、そういうこともあったのかもしれない。性格が随分丸くなったのだと、昔のブラックを知る人はよく言う。
それでも今、エイマルにとって優しい祖父であるならば、過去のことは関係ない。わざわざブラックにその話をさせようとも思わない。ダスクタイトの名は、遠い昔には悪名だったとしても、今は軍人学校の生徒たちに慕われる先生の代表だ。それでいい。
「お母さん、点検終わったよ」
「見せて。……うん、大丈夫ね。これなら本物も扱える」
「やった!」
一か月。その短い期間で、エイマルは順調に力を伸ばしていた。ブラックやグレイヴとの手合わせも、日に日にレベルが上がっている。成長ぶりにはブラックも驚いていて、「うちの生徒だって、こんな急に伸びるヤツはめったにいねーよ」と汗を拭いていた。教え方がいいのは間違いないが、エイマルの吸収率も半端なものではないということだ。
今日は誕生日。実力はお墨付き。頼みごとをするなら、今日しかないだろう。相手は祖父でも母でもない――これまで訓練していることも隠してきた、父だ。
「父さんから電話が来る前に、夕飯の支度をしようか。コロッケ、たくさん揚げようね」
「うん!」
今年も父、ダイはノーザリアから帰ってこられない。向こうは今、短い夏だ。気温は平年通りならエルニーニャほど高くはならないというが、それでも涼しさに慣れているノーザリアの人々には暑いと感じるそうだ。ダイは涼しい顔をしているが暑がりだから、苛立ちながら仕事をしているかもしれない。
「怒られちゃうかな……」
グレイヴに聞こえないように呟く。両親が離婚するに至った理由は、最近になってようやく知った。亡くなった父方の祖父の、その死に不審な点があり、調べが進むとダイの家族を狙った犯行であったことが判明した。再び悲劇が起きることを避けるために、ダイはグレイヴとエイマルの「家族」をやめたのだ。独断だったその行動を、けれどもグレイヴはすんなり受け入れた。引き留めても無駄だと、そういう人と一緒になったのだと、諦めた。エイマルもその日から、ダイは「お父さん」ではなく、たまに家に来てくれる「おじさん」なのだと教えられるようになった。まだ一歳になるかならないかの頃だ。
ろくに結婚生活など送っていない両親の距離が再び近づき、エイマルがダイを「お父さん」と呼べるようになったのが、八歳の誕生日。それからは、いやそれまでも、随分甘やかしてもらった。最近では離婚しているなんて信じられないくらい、この家に帰ってきては「家族」として振る舞うようになっていた。
大切にされればされるほど、ダイのことを知れば知るほど、エイマルは抱いている夢を口にすることができなくなっていった。きっと反対されるだろうと、常に思ってきた。あの人は父親であると同時に、一国の軍の長なのだ。この世界がどんなに過酷なものか、よく知っている。エイマルが本で読んだよりも生々しく「体験」をしている。
けれども、その「体験」を自分もしてみたいと強く願ってしまったら、それ以外の自分をごまかすような夢なんか見られなくなった。反対されたら、押し切るまでだ。
夕飯の支度が終わる頃を狙ったように、電話が鳴った。エイマルが走っていって受話器を取ると、優しいけれど疲れているような声がする。
「エイマルか? 暑いだろうに、元気だな」
「お父さんは夏バテ? それとも忙しかった?」
「どっちも。でも夏は嫌いじゃない」
知ってるよ。それはあたしが生まれたからでしょう。
「十歳の誕生日おめでとう、エイマル」
「ありがとう、お父さん」
毎年電話をくれ、プレゼントを送ってくれた。今年も少し遅れて、荷物が着くはずだ。その優しさを、エイマルはこれから裏切ってしまうかもしれない。父の期待に応えられない、酷い娘になってしまうかもしれない。
「あのね、お父さん。ちょっと大事な話があるの。聞いてくれる?」
「どうした。言ってごらん」
「あたしね、今月のエルニーニャ軍の入隊試験、受けるの」
電話の向こうには、どんな顔があるだろう。こんなとき、離れているのは不便だ。


練兵場に人が集まり始める。少年や少女ばかりで、今回の最年長は十四歳。年齢も体格もそう変わらないおかげで、実技に含まれる対人格闘の組み合わせが楽に決まった。
エルニーニャ軍入隊試験当日。まずは全員が練兵場に集まり、大総統の言葉を聞く。隣に控える補佐は毎月交代しているが、今回はちょうどイリスの番だった。
「わあ、緊張するー……」
「いつも平気な顔してるくせに。ていうか、なんでイリスが緊張するのさ」
「だって、エイマルちゃんがいるんだよ。ほら、あそこで一際輝いてる!」
イリスの表現は多少過剰だが、レヴィアンスから見てもたしかにエイマルは目立っていた。少年の比率が多く、少女は全体の二割程度。中でもエイマルは、特に少年たちの視線を集めているようだった。これから人生が決まるかもしれない試験を受けるのに、突然美少女が現れたら動揺するのかもしれない。でもそれじゃ勝ち抜けないぞ、とレヴィアンスは内心苦笑した。油断をしたら痛い目に遭う。レヴィアンスの代のアーシェが男子どもを実力で黙らせたように。入隊試験時のイリスが圧倒的な強さを見せつけたように。女子を舐めると怖いのだ。
集合時間になるとともに、練兵場は閉められる。事前に申し込みがあった者全員が揃っていた。遅刻をすれば失格になるので、ここまでは上々。
「ただいまより、入隊試験を行います」
気を取り直したイリスがいつもの口上を述べると、ざわついていた場が静まる。先ほどまでのイリス以上に緊張した顔が並ぶのを見渡し、レヴィアンスは口を開いた。
「暑い中、よく来てくれた。これから今月の入隊試験を始めるけど、具合が悪くなったら無理をせずに係の者に申し出ること。体調管理も仕事のうちだからね。それから承知しておいてほしいのは、毎月合格者が必ず出るってわけじゃないこと。今回がうまくいかなくても、そんなに落ち込まないで帰ってね。次があるから」
必ず合格者を出さなければならないのは、三月試験だけだ。毎月新人を採っていたら、軍の人員は膨れ上がってパンクしてしまう。だからこそ超えなければならない最低ラインが設けられ、さらに超えなければならないランクがある。
軽い口調で言うが、レヴィアンスの言葉は「お前ら全員落とすこともあるから覚悟しろ」ということだ。そして実際次があるかというと、よほどの者でない限りは次に受かる可能性は低くなる。こちらでデータが取れてしまっているからだ。自分を超えなければ、未来はない。
――見る側になって改めて思うけど、甘く見せかけた厳しい仕組みなんだよね。
果たして今回は何人が合格できるだろう。エイマルの実力はどうなのか。気になることは多々あれど、イリスが見られるのはここまでだ。筆記試験の監督は大尉以上の階級の者から選ばれるし、実技試験は将官が監督する。大総統と補佐は実技試験を見に来ることができるが、今回イリスは来られない。レヴィアンスからストップがかかったのだ。
「だってイリス、エイマルに声援送りそうだし。それはまずいじゃんか」
そんなことしないと何度も言ったのに、とうとう許可は下りなかった。今日は試験を気にしながら、通常業務に就かなければならない。
筆記試験を受けるために移動する受験者たちを見送りながら、イリスは溜息を吐いた。

筆記試験の内容は一般常識だ。難易度は三月試験、つまり軍人養成学校で学んできた者に合わせてある。しかし一般受験者が解きにくいということもない。出題のバランスは担当将官たちのさじ加減と、大総統の最終決定次第だ。
普通に市井をよく見て生活していれば、特に難しい勉強をしなくても、考え方次第でクリアできる。しかし軍に入隊しようとする者は、実は市井を見るだけの余裕がない者や、市井のことなど高みの見物をしながら育ってきた者がほとんどだ。ようするに、筆記試験でまともに点数をとれる人間は割合少ない。学校でわざわざ常識を学ばなければならないのは危うい。
その点、エイマルは有利だった。普通の子供として育ってきたうえに、日ごろから祖父に勉強を教わっている。おまけにあまりある知識欲で、様々な事柄を頭に詰め込んでいた。たとえば大総統史などは、何代目が誰だったか、どんな政策が有名かなどということは基礎の基礎で、伝記などからその人がどんな人生を送ったのかまで知っているので、要求されればいくらでも語れる。難しいのは情報の取捨選択だ。
――こんな問題じゃ足りない。解答欄がもっと大きければいいのに。
余裕で全問を解き終わってしまい、暇になる。一応見直しもしたけれど、名前と受験番号もきちんと書いているし、解答には間違いがあると思えない。何もすることがなくなってしまうと、電話で聞いたダイの声が頭の中によみがえる。
「もっとよく考えてみろ。そうする必要があるのか。他に方法はないかどうか。じゃないと俺は、賛成できないな」
予想の範囲内だ。いや、随分優しいほうだった。けれども父を納得させるのは難しいと思い知らされた。入隊試験にただ合格するだけでは、やはり足りない。
エイマルは自分に自信がある。それゆえに見えていないものもある。もっと自分の世界を広げたい。これはそのための試験だ。他人と優劣を競うものではなく、自分の進みたい道へ行くためのもの。だから周囲など気にしてはいなかったのだが。
――たぶん、それだけじゃだめなんだ。周りも気にしないと。じゃなきゃ、また見えなくなる。
実技はその意識を確認する機会になるかもしれない。

「聞いた? 入隊試験の話。ダスクタイトって子がいるんだって」
仕事中に聞こえてきた話題に、イリスはどきりとした。話しているのは軍人学校卒の者だ。
「大総統史の先生と関係あるの?」
「女子実技の先生は?」
「それ親子でしょ。だから、大総統史のブラック先生の孫で、女子実技のグレイヴ先生の娘」
「女の子なんだ」
「めっちゃ可愛いって噂だったよな。実際どうなの」
エイマルちゃんは噂通りの美少女だよ! とは言えず、イリスは頬の内側を噛みながら黙々と事務作業を進める。お喋りはまだ続いた。
「学校に通ってたっけ?」
「そんな話は聞かないから、先生から教わってたんじゃないの。筆記の対策とか、実技の指導とか」
「うわー、お得。金払わなくてもプロの指導受けられるんだ」
言い草にイラッとしても、ここは我慢だ。そこまでエイマルの素性が知れているのなら、イリスとも知り合いだとばれればさらに不味いことになる。口の中に血の味が広がるほど耐えていると、ルイゼンが席を立った。
「お前ら、新人候補が気になるのはわかるけど、仕事しないと終わらないぞ」
「リーゼッタ中佐、すみません!」
「でも、あの、ずるくないですか。学校に通ってないのに、学校でやるような対策ができるなんて」
叱られてもなお話を続けようとした一人を、ルイゼンはほんの一瞬だけ睨み付けた。それだけでも十分な威圧感があったようで、相手は竦みあがる。それを確認したうえで、彼は軽い口調で返した。
「あのな、それを俺に言うか。俺は軍人学校には通ってないけど、若かりし頃の閣下に稽古つけてもらってたんだぞ。お前の考えの通りなら超ずるい!」
若かりしって。超ずるいって。今度は笑いを堪えなくてはならなくなったイリスの向かいで、メイベルは盛大にふきだしていた。さすがに噂話をしていた彼らも、こちらの様子に気づく。
「いや、中佐をずるいと言ったわけでは……。そうだ、ブロッケン大尉はどう思いますか?!」
なんとか同意してもらおうと必死なようだが、彼は尋ねる相手を間違えた。メイベルは鼻で笑い、「馬鹿か」とストレートに言った。
「お前たちは親の金で軍人学校に入ってのんびりお勉強をしていた分際で、よくもまあ人をずるいだとかぬかせたものだ。素直に失言を認めていれば、こんな恥をかかずに済んだものを、本当に馬鹿だ。学校に通ってないのに学校でやるような対策? そんなものは学校に行かなくたってできる。学卒のほうが入隊時にちょっと階級を上げられるだけのことだ。たとえお前みたいな馬鹿でも伍長入隊ができるんだから、学卒は楽でいいな。私も楽をさせてもらった一人だが、けれども金は国と学校に出してもらって、ただいま返済真っ最中だ。それすらもしなくていいんだから羨ましいよ」
ずらずらと並べられる言葉に、反論の隙は無かった。ルイゼンが「その辺にしておけ」と言って、やっとメイベルは口を閉じる。すでに相手は涙目だ。
そこへ畳みかけたのが、困ったように笑顔を浮かべるカリンだった。
「お姉ちゃんはちょっと馬鹿って言いすぎだけど、でも憶測だけで人をずるいとか言うのも良くないよ。それぞれにそれぞれの環境があって、みんな努力してここにいるんだから。それはちゃんと認めなきゃだめだと、わたしは思うな」
ずるいと発言した者は、完全に負けていた。涙を拭きながら、ごめんなさい、と頭を下げる。メイベルの言葉だけでは余計に反発したかもしれないが、カリンがそれを上手に抑えていた。ブロッケン姉妹の見事な連係プレーに、イリスは人に見えないよう拍手をした。戻ってきたルイゼンにも礼を言う。
「ありがとね、注意してくれて」
「俺が一人で止めるつもりだったんだけどな。あ、でも、イリスだって言い返して良かったんだぞ。学校に行ってない軍家出身のお前にだって失礼だったんだから」
それもそうか、と今更気づく。イリスも軍人学校に通わず、兄と父と祖父の指導を受けて入隊を果たした。インフェリア家はそういう伝統がある。だがそれはけっして楽な道ではなく、むしろ裕福な分だけ市井に対する正しい理解が及ばず、軍家の人間である分だけ求められる体力や技術の水準が高かった。カリンの言う通り、努力しなければ至れないというのは、環境は違ってもみんな同じなのだ。
ずるいと言ってしまった彼も、それだけきっと大変な思いをしたのだろう。物事の感じ方というのは、本人にしかはかれない。
――エイマルちゃんは、どれほどの努力をしてきたんだろう。あの子、頑張ってるのを人に見せたがらないからな。わたしでもわかんないや。
わからないけれど、エイマルは合格する気がする。家族のことは関係なく、自分の力で。女子軍服を着た彼女を想像して、イリスは思わずにやけた。

実技試験は、基礎体力測定、技能試験、対人格闘の三つで構成されている。基礎体力測定では全員同じ内容のメニューを同時に行ない、技能試験では一人ずつ武器の扱いや体術を見る。対人格闘はあらかじめ決められた対戦相手との勝負になるが、負けても不合格になるわけではない。
再び練兵場に集合した受験生たちは、指示を待ちがてら、周囲を見ている。筆記試験に失敗し落ち込んでいる者、実技に緊張している者と様々なのは毎度のことだが、今回は平然としている美少女に注目が集まっている。
「ずっと思ってたけど、あの子、誰? すっげー可愛い……」
「なんか実技試験やらせるのかわいそうだよな。なんで入隊試験なんか受けてるんだろう」
「親が軍人学校の先生だからよ」
ひそひそと話し合う男子たちに、女子が数名割り込んだ。謎の美少女を軽く睨みながら、一人が言う。
「近所に住んでるから知ってる。あの子、軍人学校の先生の家の子なの。可愛いからって騙されちゃだめだよ、たぶん実技もかなりできるから」
噂の的になっている謎の美少女ことエイマルだが、そんな声はまるで聞こえていなかった。筆記試験中に固まってしまった体を軽くほぐし、これからのことだけに集中している。誰よりも速く走り、高く跳び、長く正しい呼吸を保つこと。それだけ意識していれば良い。
様子を見に来たレヴィアンスにも、エイマルの集中力の高さは窺えた。今回の受験者の中で、最も合格に近いのは彼女だろうと、すでに感じている。素質があるのだ。
「うわ、鳥肌立ってくる。あの雰囲気、まんまダイさんとグレイヴじゃん」
「閣下がそこまで仰るとは。私はダスクタイトさんとは仕事をしたことがないのでわかりませんが、たしかにヴィオラセント大将に似た落ち着きぶりですね。幼いのに貫禄がある」
ガードナーは頷くが、その表情は曖昧だ。どうしたの、とレヴィアンスが尋ねる前に、彼は「しかし」と口にした。
「彼女が軍に入ったとして、集団の中でうまくやっていけるかは心配です。試験は個人戦ですから、問題なくクリアできるでしょう。ですが、例えば彼女を組み入れて班を作るとしたら、閣下はどうなさいますか」
「あー……それを言われると、問題がないわけじゃないよね。同期同士の班だと浮くかも。普段は普通に子供らしいし人懐っこいんだけど、オレたちが大人だからそう思うのかもしれない」
思えばレヴィアンスは、エイマルにイリス以外の親しい友人がいるという話すら、去年まで聞いたことがなかった。仕事と友達付き合いはもちろん違う。親しくなくてもコミュニケーションは必要だし、仲が良くても割り切ることを必要とされる場面は当たり前にある。だが、かつてのエイマルはその前段階から躓いていた節があった。――同年代とコミュニケーションをとること、そこからして彼女は苦手だったのだ。
けれどもその壁は、この一年で崩された。丁寧に、きれいに、穴をあけられた。そのやり方を学んでいれば、おそらく心配はないはずだ。
「今は個人戦だから、ちょっと周りへの警戒心が強くなってるだけだよ。たぶんね」
「たぶん、ですか」
「多少のことは仕方ないよ。個人技特化型人間と人見知りのサラブレッドだから」
「……閣下、そこまで仰ると心配になります」
まあまあ、他の子も見ようよ。レヴィアンスは明るく笑いながらガードナーの背中を叩き、練兵場全体を見渡す。心配はない。過去や未来のことなど、今は考えなくていいのだから。

基礎体力測定でのトップは、最年長の少年だった。だが彼に僅差で迫っていたのがエイマルで、その下とは大きな差がある。それでもエイマルは悔しかった。こんなに悔しくなるなんて、思ってもみなかった。
――自分が全力を出せればいいと思ってたけど、負けるのってこんなにショックなことだったんだ。
自分の中にあった絶対の自信に瑕がつく。エイマルにとって初めての感覚だった。誘拐されたときでさえ冷静に対処できたと思っていたのに。
誰かと本気で競争をするのは初めてだ。周りは年上の、それもエイマルの手の届かないような人ばかりだったし、唯一の同年代の友人であるニールは年下だ。競争しようとは思わなかったし、そんな機会はなかった。
同年代の子たちと関わりがなかったのは、話をしても話題が合わず、遊ぼうとしても興味が違い、自分は他の子とは違うのだと思っていたからだ。「子供」との関わりをやめて、大人たちの話に耳を傾けながら自分の世界に埋もれているのは、とても楽だった。優越感もあったかもしれない。
外の世界への憧れは強いけれど、それは人と関わりたいということではなく、自分の知らないものを見て、経験したいという思いからくるものだ。そこに人がいるということは、知識だけで捉えていて、関わり方なんかまともに考えてこなかった。――ということに、今この瞬間に気づいてしまった。
周りの受験者たちは自分の成績を話し合い、一緒に悔しがったり、比べることを楽しんだりしている。でも、エイマルは独りぼっちだ。誰もこちらに駆け寄ってきてはくれない。いや、違う。エイマルが誰にも話しかけようとしていないのだ。みんなが自然にしているようなことの、やりかたがわからない。急にわからなくなった。
ひとりでいることそのものは悪いことじゃないはずだ。悪くはないけれど、この敗北感の上にさらにのしかかってくる重いものはいったい何だろう。
――だめだ、こんなこと考えてちゃ。すぐに技能試験が始まる。集中しなくちゃ。
雑念はよそへ。代わりに頭の中に展開するのは、次の試験で披露する技の数々。これは一人ずつやるもので、みんなやることは違うから、人と比べるものではない。いつも通りにやればできるはずだ。
自分の順番が来るまで、目を閉じて待つ。基本的には一人一つずつの武器の扱いと、体術がセットになっている。エイマルの前までは、その基本通りに進んでいたようだ。
「次、十八番」
受験番号で呼ばれ、返事をする。そうしてやっと目を開けた。練兵場には六種の武器が用意されている。全てエイマルが使うものだ。係員をつとめる軍人も、表情が引き攣っている。
「武器六種と体術の、合わせて七種目……で、間違いないんだな」
「間違いないです。よろしくお願いします」
どの武器を使うかはぎりぎりまで迷ったが、結局全部見てもらえるならそうしようということになった。種目数の規定はない。というのも、実際に軍では複数の武器を登録して使いこなす者が僅かではあるが存在する。一つを極めるのも、いくつかを器用に使うのも、技能として認められる。
他の誰かの声なんか聞こえない。全て完璧に扱ってみせる。それがエイマルに必要なことだから。
刀は鮮やかに。ナイフは華麗に。棍は流麗に。弓は風のように。銃二種は正確に。扱いを覚えて練習した全ての得物を操る。そして体術も見事に決めてから、監督者に一礼する。顔を上げて見た彼の表情は、笑っているような、怖がっているような、よくわからないものだった。自分ではできていたと思うのだが、何かミスでもあっただろうか。
訝しんでいると、誰かの声が耳に届いた。「すごい」と。
「え、あの子何者? まだ軍人じゃないんだよな」
「だから先生の家の子なんだって。まさか、あそこまでやるとは思ってなかったけど」
「あれ全部使いこなせるなんて、現役の軍人にもいないんじゃない? 鳥肌立った……」
褒められているのだろうか。それより、全員エイマルを見ていたのかというほうに驚く。エイマルは他の受験者が何をしているのかなんて見ていなかったのに。
――自分さえ良ければ、って思ってたけど。
釈然としないまま控えの場に戻り、次の受験者をそのまま眺める。女の子だった。使う得物は剣一種。それと体術で試験に挑む。
「よろしくお願いします」
張った声、真っ直ぐな姿勢、美しい礼。そして何より、勢いのある剣技。力が入りすぎな感はあるが、遠くで見ているだけでも圧倒されるのだから、正面から斬り合う者にはさぞ強大に見えることだろう。息を呑んでいるそのあいだに、体術へ移る。こちらはうってかわってしなやかだ。体が柔らかい。あれに比べると、エイマルの動きは硬かったように思う。
――また、見えてなかったんだ。見てなかった。
エイマルの前の子たちは、どんな動きをしていたのだろう。どんなふうに得物を選び、扱い、どんな表情をしていたのだろうか。気になっても、時は巻き戻せない。
――合格する自信はある。でも、あたしには……。
技術よりも、足りないものがあったのではないか。もっと早く、それに気づくべきだったのでは。
一人一人の素晴らしい演技を見終え、エイマルの胸では感動と恥ずかしさがないまぜになっていた。

対人格闘の予定時間が迫っている。イリスと同じ事務室で仕事をしていた別班の同期が、具合悪そうに眉を歪めた。軍人学校卒で、実技の成績は良かったものの、入隊試験の最後の最後で運が悪かったことを思い出したらしい。
「毎月そんな顔しなくても」
「黙れ、インフェリア! お前と対戦したせいで俺に黒星がついたんだ!」
「わたしが勝っちゃったものはしょうがないじゃん。しつこいなあ」
以来、一緒に行動することはほとんどなかったのだが、この時期になると必ず絡んでくる。ちょっと面倒な昔馴染みだ。
そんな因縁を生むこともある対人格闘で、エイマルはどうなるだろう。噂では、個人技能はあらゆる意味で他を圧倒していたという。誰かが「インフェリアみたいなのが増えるのはちょっとな……」とぼやいていた。
「懐かしいな、対人格闘。防具は重いしエアガンは手応えないしで最悪だったが」
「ベルの『格闘させないスタイル』、なかなか面白かった覚えがあるよ。あのときはまさか寮で同室になるとは思ってなかったなあ。ていうか、格闘なのに相手に近づかないでひたすら撃ってるってどうなのって思ってた」
「そうか、私はイリスをよく跳ねる猿だと思ってた」
「なんでお姉ちゃんとイリスさんが仲良くなれたのか、本当に謎なんだけど」
仲良くなって良かったけどね、とカリンが笑う。こういうこともあるから、人との出会いは面白い。
カリンにも思い出があるようで、仕事をしながら話を聞いた。入隊試験の対人格闘の相手とは、入隊後にカリンは西方、向こうは北方と所属が分かれてしまったが、今でもたまにはがきのやり取りをしているという。ちなみに勝敗は、カリンの負けだった。
「わたしが次の手を考えているあいだに、どんどん拳がくるの。防具がなかったら大怪我だったよ」
「お前、それは……。よくここまで成長したな」
「わあ、お姉ちゃんに褒められた」
「褒めてない。呆れてるんだ」
ブロッケン姉妹のやり取りにほのぼのしていると、イリスの机にバインダーがドサッと置かれた。ルイゼンからの「真面目に仕事をしろ」という圧力かと思ったが、そこにいたのはフィネーロだった。
「頼まれていた資料を持ってきた。君は頼んだことも忘れていそうだが」
「ごめん、その通りでした。あとでなんか奢るね、フィン」
「そんなのはいい。どうせ君はエイマルのことで頭がいっぱいだろう。約束しても忘れる」
ぐうの音も出ない。項垂れるイリスだったが、次の言葉ですぐに顔を上げた。
「評判になってる。エイマルが実はノーザリア大将の娘だって」
「は?! どうしてそんな」
すぐにばれたの、をすんでのところで呑み込む。フィネーロはさらに声を潜めて続けた。
「今年の初めの誘拐事件のせいだ。あのとき、大将もいただろう」
「うわー……わたしのせいか……」
「わかったところで選考に影響はない。合格しても納得するだけの力があるようだし」
ここに来てイリスの迂闊な行動が評判として影響を及ぼしてくるのが、なんとも申し訳ない。反省で再び項垂れるイリスを慰めようと、カリンが背中を優しく叩いてくれた。
「そういえば、あの事件のときもエイマルは肝が据わっていたとか。これは余裕で合格だな」
メイベルが軽く言う。たしかにエイマルは強いから、試験も乗り越えられるし、軍人になっても大丈夫だろうとは思う。でも。
「ここまで噂になったら、大変だよね。いくら強いっていってもさ」
「イリスも期待に応えようと必死だったことがあるのか」
「わたしは……必死だとすれば今かな。インフェリアの妹のほうは残念だっていう汚名を返上しないと、家にも申し訳が立たない」
「そんなに必死にならなくていい。お前は空回りしそうだからな」
どこから話を聞いていたのか、室長の手伝いをしていたルイゼンがいつのまにか戻ってきていた。持っていたバインダーでイリスの頭を叩くと、当たり前のように言う。
「前も言っただろ。お前はもっと周りを頼って味方をつくれ。そうしたら些細なことに必死になる必要はなくなる」
「ゼン……。そうだね、まずはそこからだよね」
エイマルにも、軍人の極意として教えてあげよう。この試験が終わったら。

急遽、対戦表を作り直した。三月試験は人数が多すぎて不可能だが、今回くらいならばそういうこともできる。実技項目の二つが終わり、受験者の大体の実力はわかった。わかった上で、予想以上だと判断した。
「いったい娘に何してんのさ……」
レヴィアンスは、いつかの両親と同じ感想を持っていた。グレイヴがたった一か月の訓練で、その年に入隊した女性軍人の中ではトップの実技成績を叩き出したときのことだ。やはりエイマルはサラブレッドだった。今のところ、三月試験入隊者よりも成績がいい。
「閣下、対戦表はこれでよろしいのですか」
「うん、決定。ちょっと見に行ってもいいかな」
ガードナーの了承を得て、レヴィアンスは休憩中の受験生を見に行った。彼らに姿は見せないで、そっと覗くだけだ。
受験生にはもうグループができていて、このあと戦わなくてはならないもの同士が和気藹々と言葉を交わしている。勝敗は関係なく、対応力を見たいので、仲良くなるのは一向にかまわない。これで遠慮がなくなって、互いに本気を出せるならそのほうがいい。
その中で、エイマルは独りだった。少し離れたところから、楽しそうな集団を眺めている。試験を受けに来たばかりのときとは、まるで雰囲気が変わっていた。
――なんで自信なくしてんの? 成績いいのに。
この後、すぐに最終試験なのに。あんなにしょんぼりして、戦えるのだろうか。
心配しても仕方がない。こればかりはエイマルが自分でなんとかするしかない。――ここでなんとかできなければ、合格してもそのあとが難しい。

思い知ったのは、自分の世界の小ささ。それから気づかないようにしていた心の狭さ。
――あたし、全然強くなんかなかったんだな。
ぼうっと眺める世界は、エイマルが知らないものでできたそこは、眩しいくらいに輝いている。明るすぎて近づけない。手を伸ばしたら火傷をしてしまいそうだ。
――こんなんじゃ、夢を叶えるどころか、その一歩さえ踏み出せないや。
父に「賛成できない」といわれた意味がわかった気がした。考えが足りなかった。視野が狭かった。せっかく十歳になって、大人に近づいたと思ったのに、まだ全然子供だった。
俯いたまま溜息を吐くと、肩を叩かれた。顔を上げると、受験者の中でも顔を覚えていた少年がいた。最年長で、基礎体力測定ではエイマルより上にいた唯一の人物だ。
「対戦表が出たよ。見に行かないの?」
「対戦……」
「それとも誰が相手でも負ける気がしないから、見に行かない? さっきの技能試験みたいに」
ぎくりとした。自分の番が来るまで他の人を見ていなかったことが、ばれている。返事ができないでいると、少年は「ごめん」と笑った。
「あんまり他人に興味ないみたいだったから。ちなみに君の対戦相手は俺だよ、ダスクタイトさん」
「……あなたが」
「だから俺のことくらいは、ちゃんと見ててね」
まるで口説き文句だ。本で読んだだけで、実際に言われたのは初めてだけれど。思っていたほど嬉しくはない。どうしたらいいのか考えていると、構わずに彼は続けた。
「君には楽勝の試験かもしれないけど、俺は、きっと他の人も、頑張ってるんだ。どうしてか落ち込んでるみたいだけど、もしやる気をなくしたんだったら、棄権したほうがいい。迷惑だから」
刺すような言葉に襲われる。たしかに落ち込んではいたけれど、やる気がないわけではない。頑張らなかったこともない。持てる力を全て出してきたのに、それがそんな言葉で片付けられてしまうなんて。
「違います、棄権なんかしません!」
気づけば叫んでいた。他の受験者が振り返り、こちらに注目する。顔が熱くなるけれど、ここで言い返さなければ誤解されたままだ。いや、言い返してもまだ信じてもらえないかもしれない。本気を見せなければ。もとより自分の気持ちを言葉にするのは、それほど得意ではない。いつもよそから得た知識を借りるばかりになってしまう。でも、動くことなら。
「あたし、勝ちますから」
「……そう。じゃあ、お互い頑張ろう」
世界が何だ、視野が何だ。そんなことを今更振り返って何になる。進む方向は前だ。

刀と剣が激しくぶつかる。火花が弾けたようなちかちかした光は、実際の衝撃なのか、対峙する二人の気迫なのか。打ち合いは間合いをとったり近づいたりを繰り返しながら、何度も繰り返される。重い防具を全身に纏っているはずなのに、動きは軽やかだ。どちらの防具にも、今のところ刃は当たっていない。
初等教育終了後に二年間の訓練を経て試験に臨んだ、最年長十四歳。対するはたった一か月半で急成長を遂げた、天性の勘と身体能力を具えた少女。二人の勝負は互角で、決着が見えない。
二人とも全身全霊をかけて戦っていた。一人は親の反対を押し切り、自分の力で生きる世界へ飛び込もうとしている。そして一人は、この戦いによって実力を示し、新たなステージに立つことを望んでいる。どちらも譲れない。一歩も引けない。勝つと宣言したならば、果たしてみせなければ。
対人格闘では武器の使用が可能だが、使えるのは一つだけだ。エイマルが扱ってみせた六種の得物から何を選ぶかには注目されていた。手にしたのは、母から受け継いだ刀。
相手の剣は軍で用意されたものだ。だが、もうずっと使っているかのように馴染んでいた。エイマルの攻撃を受け止め、さらに一太刀浴びせようとする。しかしエイマルも強力な一撃をかわし、再び素早く斬りつける。それは見ている側からも溜息が漏れるほど、鮮やかで烈しい戦いだった。
「技はグレイヴだけど、あの攻め方はまるでダイさんだね。おー怖」
「あの剣の扱いは素晴らしいですね。隙がない。彼も間違いなく合格候補でしょう」
大総統と補佐は、受験者たちからは見えないところで戦いを見守る。後ほどあがってくる報告次第だが、まず今対戦している二人は合格だろう。他にも候補者は数名いる。どうしても合格者を出さなければならない三月試験を除いて、今月の試験は最も有望な人材が集まっていた。
合格定員を決めていないということは、採れるだけ採るということでもある。今後のことを考えると、レヴィアンスも楽しみだ。今回入ることになる新人の、人との関わりや仕事適正はどうだろう。彼らはどのように成長していくのだろう。
思い切って斬りつけた少年の刃を跳んでかわし――その高さは昔のイリスに引けを取らない――宙で体を捻りながら、少女は刀を構えた。そして少年の頭に、その刀身を叩き付けた。防具がなかったら、と思うとゾッとするようなことを、躊躇いなくやってのける。彼女は間違いなく、軍人の娘だった。


五日後、イリスは試験結果の文書と成績表、そして合格証を封筒に入れる作業をしていた。これを間違えると大変なことになるので真剣だ。一方ではガードナーが来月の受験者をもう確認している。結果の郵送が終わったら、すぐさま申込書のナンバリングが始まる。毎月その繰り返しだ。
「見たかったな、エイマルちゃんの戦いっぷり。イヴ姉譲りの技に、ダイさん並の度胸かあ。聞いただけでゾクゾクしちゃう」
「実物を見たらゾクゾクどころじゃ済まないぞ。筆記はパーフェクトだったし、たぶん今年最高の成績だね。これ以上が出てきたらすごい」
封筒詰め作業のために、イリスもエイマルの成績を見た。筆記は数年見られなかった満点。実技は年間トップ。女子が実技で年間ランクのトップに立つのは、イリス以来の快挙だ。
「文句なしの合格ってやつだね」
「エイマルだけじゃないよ。今回は有望株を他に六名も獲得できた。しかも七人中三人が伍長入隊レベルなんて、超豊作」
ホクホクしているレヴィアンスに、イリスもにまにまと笑う。大総統閣下の機嫌が良いのも何よりだが、春に後輩を一人失ってしまったイリスには、また後輩が増えることが嬉しい。
「ねえレヴィ兄、エイマルちゃんの指導、わたしがやりたいな」
「イリスはだめ。私情が入りまくるだろ。それに指導にあたるやつ、もう候補決めてるから」
「なによ、ケチ」
口をとがらせていると、電話が鳴った。ガードナーが速やかに受話器を取り、応じる。「わかりました、お繋ぎします」と言ってから、レヴィアンスに告げた。
「ノーザリアのヴィオラセント大将からです」
「お、ちょうどいいタイミング。結果に影響が出るの嫌で、こっちからは連絡してなかったんだよね」
受話器を受け取り、軽快に挨拶をする。イリスにも「ひさしぶりだな」というダイの声が微かに届いた。
娘が軍の入隊試験に合格したと聞いたら、どんな反応をするだろう。受験を知っていたとしても、知らなかったとしても気になる。もしかしたら反対しているかも、と思っていたが、ダイからも一切エイマルに関する連絡はなかった。
相槌を打つレヴィアンスの声を聞きながら、イリスは封書を一つ一つ仕上げていく。そのあいだに、聞こえてくる声の調子は少しずつ変わっていった。
「……え、そうなの? じゃあ、ずっと知ってて、結果に影響出ないようにって言わなかったんだ」
ダイはエイマルの受験を知っていたようだ。反対せずに受けさせるのだから、それはいいだろう。だが、レヴィアンスの声色には困惑が混じっていた。
「まあ、結果的に合格はしてるわけだけど。あとはそっちでちゃんと話し合いなよ」
電話を切る間際には、「まいったな」と呟いて、苦い顔をしていた。イリスは手を止め、レヴィアンスに近づく。
「ねえ、何かあったの? ダイさん、エイマルちゃんの受験をあんまり良く思ってなかったとか?」
「いや、受験すること自体には反対しなかったらしいよ。エイマルが決めたことだし。でも、入隊しないんだって」
「……え」
入隊試験に合格した者は、軍への入隊が許される。だが、合格した当人が必ず軍に入らなければならないという規定はない。諸事情により辞退するケースは、そう珍しいことではない。
だが、エイマルのようなパターンは、レヴィアンスやイリスにとっては初めてだった。
「エイマルは最初から入隊しようと思って試験を受けたわけじゃないんだ。だから合格しようがしなかろうが、軍人にはならないんだってさ」
「じゃあ、なんで……」
「力試し。ダイさんに、夢を叶えるための証明をするためのね」
軍人になることは、エイマルの夢ではなかった。彼女の望みはなんなのか。それはイリスも聞いたことがない。――ずっと妹のように思って見てきたのに、知らなかった。

合格証がダスクタイト家に届いたその日、エイマルは電話の前をうろうろしていた。ダイに電話をかけるか、それともやめようか。最初は合格したらすぐに父に報せるつもりだったのだが、今は悩んでいる。
だって、知ってしまったのだ。自分の知っている「世界」というものが、どんなに狭かったか。人との関わりが不足していて、そのために成長できていなかったことに気づいて、試験以降ずっとショックを受けていた。
恥ずかしくてニールにも話せなかったくらいだ。彼にだって、今まで散々失礼な態度をとっていた。「弟みたい」だなんて、どれだけ自分は上に立とうとしていたのだ。そんなのは思い上がりだった。
深くて重い溜息を吐くと、電話が鳴った。
「はい、ダスクタイトです」
「エイマルか?」
かけてきたのは、話すことを迷っていた、ダイだった。
「お父さん。……あの、あたし」
「入隊試験、合格したんだってな。おめでとう」
どうして知っているのだろうと思ったが、よく考えてみればおかしくはない。大総統とダイは仕事仲間だ。何かのついでに話したのだろう。
「ありがとう。でも、あたしね」
「大したもんだな、トップだったなんて。筆記の満点なんか初めて見たって、レヴィがびっくりしてた」
穏やかな父の声。エイマルの頼み事を、忘れているかのような。けれども忘れていれば、電話をかけてきたりはしないだろう。
エイマルは受話器を握りしめ、声を絞り出した。
「あのね、試験はトップでも、だめだったの。あたし、全然わかってなかった。自分の周りと本の世界だけを見て、全てをわかった気になってたけど、それじゃだめなんだね。試験を受けて、周りの人たちを見て、初めて気がついたの」
なんらかのかたちで他の誰かと関わらなければ、人は生きていけない。気づいていないだけで、エイマルが生活をするのにも、たくさんの人たちが手助けをしてくれている。見えない場所からも、手を貸してくれている。十歳になるまで、そのことに思い至らなかった。自分の力だけでおおよそのことはなんとかできると、本気で思っていた。
「お父さん、あたし、勉強が足りなかったみたい。お父さんの言う通り、もっと方法をちゃんと考えてみるべきだった。あたしだけじゃなく、周りのことも含めて、一から考え直さなきゃ」
「……じゃあ、やめるか? 頼み事」
考えなくてはならないのはわかっている。でも、一度そうしたいと思ったことを、ダイに協力してもらいたいと強く望んだことを、取り消したいとは思わなかった。いや、取り消そうかと思ったけれど、改めて問われて、強い思いが胸に湧きあがった。
諦めたくない。やりたいことがあるんだ。あたしには、大きな夢がある。
「やめたくない。あたし、やっぱりノーザリアに留学したい。それで今度こそもっと広い世界を、広い視野で見て、たくさんのものを見たり、聞いたり、探したりしたい」
軍の入隊試験を受けたのは、ダイに迷惑をかけないで自分の身を自分で守れると、証明したかったから。ただ合格するだけじゃなく、上を目指したのは、より力があることを示すため。でも結局、それだけではまだまだ足りないということを思い知った。自分の力だけでは、達成できないこともある。道具一つ持つのだって、誰かがそれを考案し、作り、届けてくれなければ成り立たない。
世界は、エイマルが思っているよりずっと広く、深い。ただ留学をして一人きりの勉強を続けるだけでは、きっと見たいものを見ることすらできない。
「したいけど、今のあたしじゃだめだなって、思ったの」
「そうか、今のエイマルじゃだめか」
電話の向こうで、ふ、と笑う声が微かに聞こえた。馬鹿にしているような、呆れているような、そんな笑い方ではない。どうしてか、安心したようだった。
「じゃあエイマル、来年からってのはどうだ」
「え?」
「年始に父さんがそっちに帰るだろう。ノーザリアに戻る日に、一緒に来たらいい。もちろん、エイマルがそれまでに足りなかった分の勉強をして、しっかり準備をしておくことが前提だ」
そんな提案があるなんて、思ってもみなかった。ダイはこのまま賛成してくれないだろうと、そればかり考えていた。けれども今日までの期間、ダイにだって考える時間があったのだ。そうして、この答えを出したのだろう。
「どうだ、できるか?」
「やるよ! あたし、もっともっと自分のいる世界について知る。そのために、いろんな人と関わりたい。無謀なことをするんじゃなく、いいことに積極的に挑戦したい!」
即答だった。これしか答えはない。もう何年も前から、エイマルはしたかったのだ――冒険を。世界中を旅して、いろいろなものに出会うことを。
「じゃあ、約束だ。経過報告はいつでも受け付けるからな」
「うん! お父さん、ありがとう」
――あのね、あたし、冒険家になりたいの。そのためには、まずお父さんに認めてもらって、お父さんの傍で勉強をしたいんだ。
それが叶う日は近い。予想よりももっと大きなかたちで、エイマル自身が成長した状態で、叶えられる。その日が待ち遠しい。それまでにやることがたくさんある。
これから忙しくなると思うと、嬉しかった。

夢に向かって、進むのは前。駆けて、ときには歩いて、周りをよく見てみれば、果てしなく広がる世界がある。いつかそこに、行けることを信じて、少女は再び動き出す。