珍しく客はいない。急ぐような用事もない。今が好機だと、今しかないと思った。呆れられるなら、それはそれで構わない。これが別れのきっかけになってしまったら、仕方がないと受け入れよう。
「ニア、話があるんだ。大事な話」
「大事な話? 仕事と私生活、どっちの?」
「両方」
大事だと言えば、ニアは何をしていても、ちゃんとこちらを向いてくれる。どうしたの、と落ち着いて尋ねてくれる。その声で、ルーファはやっと深呼吸ができるのだった。
「軍を辞めて、母さんの実家の会社で働こうと思うんだ。昔からずっと考えてて、そろそろちゃんと決めるべきだな、と」
ルーファの階級は大将。それも部下を大勢抱えて現場で指揮を執る立場だ。リーダーとしての資質を見込まれ、将官室では次席の扱いになっている。そんな自分が急に辞められるわけがないとわかっていたから、早くに道を決めておく必要があった。
「そっか、もうそういうことを考える時期なんだね。二十代も折り返しちゃったし、そろそろかもとは思ってたけど」
旧知の仲であるニアなら、それはわかってくれる。そのことには確信があった。問題はそれからだ。この提案を、可能性として少しでも考えてくれるだろうか。
「それで、軍を辞めたら当然寮も出ることになるだろ。実家には帰らないで、部屋を借りようと思ってるんだ。計算したんだけど、分譲を買うまではちょっと難しくて」
「うん、それで?」
これが前置きであることも、ニアはちゃんと理解していた。もしかしたらこちらが言う前に、言いたいことを見抜き、答えをとっくに用意しているかもしれない。
どんな答えでも、聞かなければ。そうしなければ前には進めない。もう一度深呼吸をしてから、ルーファはニアを真っ直ぐに見た。
「それでもよければ、だけど。俺と一緒に来てくれないか。一緒に暮らそう、ニア」
見開いた目に海が見えた。風が穏やかで、晴れた日の水面。きれいだ、と思った。どんな答えが返ってきても、この色はきっと忘れないだろうと。
見惚れていると、ニアが口を開いた。
「いいよ」
「そうだよな、普通悩むよな……って、え、何て」
我に返って尋ね返すと、だから、と苦笑された。
「いいよって。一緒に暮らそうって言ったんだよ。今更悩むようなことかな」
普通は悩むだろう。ニアだって大将の地位にいて、軍の中でも癖のある人間をまとめるエキスパートとしての立場を確立させている(そう仕向けたのは他でもないルーファだが)。寮を離れれば仕事がしにくくなるかもしれない。
けれども、彼は笑って続けた。
「実は僕も、辞め時を考えてたんだ。後輩たちは立派に育ったし、イリスだって尉官になった。僕の仕事は、正直ここまでだと思う。それに、絵の仕事を本格的にやりたいんだよね。軍にいるままじゃ、受けたい仕事をきちんととれないから」
二十代になってから、ニアの描く絵が少しずつ認められ始めたのは、ルーファも見てきたので知っている。軍人として働きながら、少しだけ絵の仕事をしていたことも。きっともっと大きな仕事を引き受ければ、それで食べていくことはできる。
「アトリエとか贅沢なこと言わないけど、絵を描く場所はちゃんと欲しかったし。ルーが誘ってくれるなら都合がいい」
「なんだ、そういう都合か」
はは、と渇いた笑いが漏れた。別にルーファと一緒にいたいから了承したわけではなく、ニアにもやりたいことがあったのだ。そこへ提案をしたという点では、たしかにタイミングは良かった。けれどもさすがに、真意までは汲み取ってもらえなかったか。
「なんで拗ねるの。ルーじゃなきゃ一緒に暮らそうとは思わないよ。絵は一人でも描けるんだし」
「いや、拗ねてない。拗ねてないけど、例えばレヴィとかが同じ話を持ち掛けたら」
「まずありえない話だけど、即答はしないだろうね。……ねえ、ルー。一緒に暮らそうって、つまりプロポーズでいいんだよね?」
ほんの少し照れたような笑顔。なんだ、ちゃんとわかってくれていた。顔が熱くなるのを感じながら、ルーファは頷いた。
「そのつもりだった。ちゃんと伝わってたんだな」
「何年一緒にいると思ってるの。だから僕、いいよ、って言ったじゃない」
「だって仕事の話始めるから」
「仕事の話から始めたのはルーのほうでしょう」
十歳のときから同じ部屋で暮らし、惚れ込んでしまった人は、いつのまにか口では勝てない相手になっていた。緊張がどっと解けて、大きく息を吐いたルーファに、ニアは重ねて言う。
「よろしくね、ルー」
言いながら優しく額をぶつけ、それから。


「……夢か」
ついベタな台詞が出た。しかし、懐かしい夢を見たものだ。おそるおそる隣を見て、ホッとする。夢だけど、あれは紛れもなく現実の回想だった。
ルーファのすぐ横には可愛い子供がいて、さらに隣にはニアがいる。この部屋に越してくるまでの苦労と、越してきてからの様々なことは、夢などではない。
実際、ルーファはともかく、ニアを軍籍から外すというのは酷く面倒なことだった。実家が軍家だからということではない。昔起こした事件のために、在籍というよりは軍で身柄を預かって監視しているという扱いだったせいだ。多くの人を説得して回って、やっと辞めることを認められたと思ったら、まもなくして当時の大総統が失踪した。
――気にせず辞めなよ、決めたことでしょ。あとは任せろ。
そう言ってくれた、親友でありライバルでもあったレヴィアンスは、言わずもがな現大総統だ。
あれから三年の月日が流れ、当時と状況は変わった。二人暮らしは三人暮らしになり、仕事も今のところは順調。未だに軍人時代の癖が抜けないことはあるが、ルーファたちは一般市民として幸せな生活を送っている。
これでめでたしめでたし……と終わるわけではない。生活が続いていく限り。
「んー……、ルー、起きた?」
「ニアは寝てていいぞ。どうせあんまり寝てないんだろ。俺も休みだし、ゆっくりしたら」
「そうもいかないんだよ。まだ書類片付いてないんだ。他はなんとかなっても、これは期限破れない」
ニアがベッドからおりると、同時にニールも目を覚ます。
「おはようございます。ルーファさん、もう起きます? できたら朝ごはんの支度を手伝ってほしいんですけど」
家族になって一年経ったこの子は、元々持っていたのであろうしっかり者の性格を、どんどん良い方に伸ばしている。親が育てているというよりは、自分ですくすく育っている。
「手伝うけど、休みだからそんなに急がなくても」
「だめなんです。ニアさんに先に朝ごはん食べてもらわないと」
「そうか、何も食べずに延々と仕事し出すもんな」
三人家族の一日が、今日も始まる。

大急ぎで朝食を作り、三人揃って食べた後、案の定ニアは仕事を始めた。ルーファが休みでも、自由業のニアは一緒に休むというわけにいかない。忙しいときは今日のように、ニールが朝食の支度をしているあいだにニアに身支度を整えさせる。ルーファができる朝食の手伝いといえば、ニールの指示に従ってパンをトースターに入れたり、食器を出したりすることくらいだ。
ニールが来るまでどんな生活をしていたのかは記憶がない。子供を迎えることで、あらゆる意味で生活が一変した。子供のために、と一旦は整えた生活のリズムは、次第に子供によって、よりやりやすいかたちに変えられていった。
「ずぼらな親でごめんな」
「違いますよ。僕が何かしてないと落ち着かないだけです」
その「何か」が大いに役に立っていて、生活に欠かせなくなってしまっている。子離れできるか今から不安になりながら、ルーファは食器を片付ける。その傍らで、ニールはもう昼食の準備をしていた。「すぐに食べられるもの」にしてくれるという。
「お母さんが仕事で忙しい人だったので、こういうのは慣れてるんです」
「全部自分でやってたんだもんな。また全部やらせて申し訳ない」
「半分は趣味ですから。それに、色々なことができたほうが、きっといつか誰かの助けになるんじゃないかなって。僕にはエイマルちゃんやイリスさんほどの体力も、ニアさんみたいな強さも、ルーファさんみたいな丈夫な体もないから、他のことで頑張りたいです」
例に挙げてる人がほとんど普通じゃないだけだぞ、と言うのはやめた。それより、この子を褒めるべきだ。それから。
「ニールはもう色々なことができてて偉いよ。でも、体力とか筋肉とかは鍛えればつくから、今から諦めなくたっていい」
「そうですか? じゃあ、僕も何かやってみようかな」
「やりたいことがあったら言え。できる限り協力する」
ルーファが親としてできることは、それくらいだ。父が剣技を教えてくれたように、自分も何か教えられるようなことがあればいいのだが。
あれこれ考え、そういえば、と一つ思い出した。自分では長いこと役立てていないが、知識としてはなんとか残っている。
「ニール、勉強好きだよな」
「はい。ここに来てから好きなだけできるようになったので感謝してます」
「薬学に興味ないか? 俺がわかるのは、せいぜいが薬草の種類とか効能とかくらいだけど」
これも父に教わったものだ。けれどもルーファ自身は、昔も今もあまり実践はしていない。軍人時代にはもっと詳しい先輩がいたし、今はそれよりも自分の仕事で頭がいっぱいだ。それでも、少しくらいは。
「僕もさわりだけなら、カイさんに教わりましたよ。あとエイマルちゃんが図鑑を暗記してるので、それを話してくれました」
せっかく見つけたものも、先を越されていた。別にルーファに教わらなくても、ニールの周りは博識な人が揃っている。親の出番はなかなかない。
「父さんはともかく、エイマルか。敵わないな、あの子には」
「知識欲がすごいんです。それを誰かに話したいって気持ちも。最近は近所の子に話しかける練習とか、ノーザリアの勉強とかしてるみたいです」
子供はどんどん成長する。色々なものを吸収する。そうしていつかは、親元を離れていく。エイマルは来年、今住んでいるダスクタイトの家を出て、ダイのところへ行くらしい。そういうこともあるんだな、とついこのあいだ感心したばかりだった。

正午をまわる頃にはニアの仕事は一段落していた。いろいろな具が入ったおむすびを食べながら労う。
台所での話をニアはずっと聞いていたらしく、話題はニールの興味関心についてになる。甘い炒り玉子の入ったおむすびをしげしげと見つめて言う。
「料理は好きなの? よそからも教わってくるよね」
「好きなんだと思います。同じ名前の料理でも、家庭によってちょっとずつ味が違うのが面白いです」
にこにこして答えるニールに、ニアがふむふむと頷く。
「違うのに美味しいって不思議だよね。僕が作ってもあんまり美味しくならないのに」
「いや、ニアの飯も食えるようになった」
「ルー、それ褒めてないよね」
うっかり口を滑らせた。しかし本当に、一年前に比べたら上達したのだ。ニールにきちんとしたものを食べさせなければという決意のもとで、ニアはしばらく特訓をしていた。ニールのほうが料理ができるということが判明したのは、忙しくなってきてからである。
「でも僕、ニアさんが作ってくれるごはん、好きですよ」
「ありがとう。また時間ができたら、特訓再開するから」
今年に入ってから――ニールの誕生日を過ぎてすぐの頃から、ニアは仕事の量を増やし、スケジュールをいっぱいいっぱいに詰め始めた。昨年の夏にニールを迎えて以降、しばらく家でできる仕事のみを引き受け、時間に余裕を作っていたのだが、それを辞めたのだ。
心配したルーファに、ニアは「もう大丈夫だと思ったから、元に戻すだけ」と言った。環境に慣れ、一つ歳を重ねたニールを、常に気にしていなくても良いだろう、という判断だった。
ニールは忙しくなるならと、家のことをより積極的にするようになった。負担じゃないか、とルーファが尋ねると、首を横に振った。無理をしているのではと思ったが、そうでもないらしい。家事だけでなくニアの仕事の手伝いもしていて、仕事から帰ってきたルーファに嬉しそうに報告してくれる。
「書類関係が片付いたし、しばらくはのんびりできるかも。明日は僕がご飯作ろうか」
「本当ですか。じゃあ、今のうちにメニュー考えましょう。ルーファさん、何食べたいですか?」
「俺? ……カレーかな」
「今、無難なの探したでしょう」
「そんなことない」
「僕もカレー食べたいです。唐辛子と胡椒は少なめで」
もう少し甘やかしても、とか、世話を焼いても、とか。ときどきそう思うのだが、しっかり者の我が子にはあまり必要なさそうだ。

午後、ニールが出かけていった。エイマルと遊ぶのだという。
ニアは何か描き始め、ルーファはその向かいで新聞を広げる。二人きりの時間は久しぶりだ。
「のんびりできるんじゃなかったのか」
「のんびりしてるよ。これ、急いでないもの」
何かさらさらと描いては首を捻り、また描く。しばらくそれを続けてから、「ルー」と呼ぶ。
「この中だったら、どれがいい?」
顔を上げたルーファの目に、鉛筆画が映る。描かれているのは、三種類の指輪だった。
「作るのか」
「うん、少し時間ができるから。どうかな、好きなデザインある?」
絵を描くだけがニアの仕事ではない。少数ではあるがアクセサリーなどを作ることもする。たとえば、レヴィアンスはニアに結婚指輪を依頼した。何も装飾のついていないシンプルなもののように見えるが、裏に細かい彫りものをしてある、実はかなり凝ったものだ。
アクセサリーは自分で好きなように作る場合と、依頼主とじっくり相談をして作る場合とがある。今回のは、急がないということだし、前者だろうか。
「ニアが好きなの作ったら?」
「僕だけじゃだめなんだよ。ルーとニールと相談しなきゃ」
「ニールも?」
驚いて見た表情は、いつかのような照れた笑み。
「この一年、ニールのために何かしら作ったりしてきたけれど。ルーにはあんまりできなかったから。それと、レヴィの作ってるとき、ちょっといいなって思ったんだよね」
一緒に暮らそうと言って、それが実現してからも、「形」として残るものは持ってこなかった。ルーファは何度か贈ることを考えたのだけれど、ニアが左耳のカフス以外のアクセサリーをつけないのを知っていたから、そのたびに足踏みをしていた。
ニアから持ち掛けて来るなんて、考えもしなかった。
「普段はつけなくてもいいんだ。でも、ルーは会社での付き合いとかあるでしょう。そういうときに、なんというか、役に立つかなって」
ああ、そういうことか。つまりはレヴィアンスが結婚に踏み切った理由と同じようなものだ。周囲に「相手がいる」ということをわかってもらうため。ルーファもときどき困ったことがあって、そのたびに家族がいるのだということを説明しなければならなかったので、少々面倒だった。
一目でわかるものがあれば、気を持たせずに済む。たしかに指輪は便利なアイテムになるだろう。
「……なんてね。本当は、僕が証明がほしいだけなんだ」
「証明?」
そう、とニアが頷く。苦笑しながら、ごめん、と言う。
「そんなものなくても、ルーとニールと僕で家族なんだって、一年で感じてきたんだけど。でも、目に見えるものが欲しいなって思うようになったんだ。僕ら三人、傍目には家族だってなかなかわからない。名前だってみんな違う。だから、お揃いの何かが欲しかったんだ。僕がそういう環境で育ってきたから、そう思うだけかも」
ニアの家はわかりやすい。親子に血のつながりがあるし、容姿は遺伝している。誰が見ても家族だとわかる。でも、この家はそうではない。誰一人として似てはいないし、戸籍もばらばらだ。最初はそれでもかまわないと、ニールは自分の家の名前を持っているべきだと言ってきたニアは、今になって不安になってきたのだった。
見た目だけでも、誰にでもわかるように。「証明」はそのためのものだ。
「三人で同じものを持っていたいなって、そう思ったきっかけはレヴィだよ。羨ましかったんだよね。ほら、あれでいて、レヴィってちゃんとエトナちゃんのこと好きだから。指輪の注文してくるとき、結構楽しそうだったんだ」
「指輪なら、俺に贈らせてくれればいいのに」
ルーファだって思わなかったわけではない。一緒に暮らし始めたときから、そういうことができないかどうか考えていた。けれどもどんな指輪を見てもしっくりこなくて、おまけにニアは物作りをする仕事だから指輪なんて邪魔になるだろうと思い至ってしまって、踏み切れなかった。
しかしニアの描いたデザインは、これ以上ぴったりなものはないと感じた。求めていたものはこれなのだと。そしてこれを作れるのは、ニア本人だけ。結局は、ルーファが贈るということはできなかったのだ。
「……いや、ニアのじゃなきゃだめだな。それじゃ、俺がニアに注文するようにすればいいのか。指輪を三つ」
デザインは迷うな、と言ったルーファに、ニアはにっこりした。嬉しそうで、幸せそうな顔。この顔をずっと見ていたくて、一緒に生きたいと思った。この笑顔を守り続けたいと思った。
「では、承ります」
この笑顔を見て、いつか好きだと思ったんだ。

お土産をたくさん抱えて、ニールは家に帰ってきた。エイマルの家、ダスクタイト家からのお裾分けだ。今日の夕飯はこれで足りてしまうだろう。
「また新しい料理を教わってきたので、明後日作らせてください」
「明後日? 明日でもいいんだよ」
「明日はニアさんがカレーを作ってくれるんでしょう。僕、楽しみにしてるので」
貰って来たおかずを温めながら、ニールは歌うように言う。こんなにニアの作る料理を楽しみにしてくれた人がいただろうか。感激のあまり言葉が出なくなったニアの背中を、ルーファが軽く叩いた。
和やかな夕食の時間、ニアはニールに指輪を作ろうと考えていることを話した。家族三人、お揃いの物を持とうと。するとニールは、喜んで頷いてから、提案した。
「僕のは、大きめに作ってほしいです。将来もずっとつけられるように」
「じゃあ、今はどうするの」
「ブレスレットとか、そういうのにできますか? 本当はネックレスとかが見栄えがいいのかもしれませんけど、僕は首がだめなので……」
「できるよ。そうだね、それならニールのも大人のサイズで作ろうか。大きくなるのが楽しみだ」
それまで、ずっと見守っている。たとえ離れたとしても、家族として想っている。ニアのそんな気持ちがニールにも伝わったようで、二人は笑いあっている。
こんな幸福があるなんて、この生活が始まる前は想像できただろうか。現実は簡単に想像を超えてくる。昨夜の夢が現実だった頃の自分に教えたら、信じるだろうか。ルーファは心の中で独り言ち、笑みを浮かべた。
いつか思った以上の幸せを、明日からも続けていく。
「一緒に暮らして、良かったな」
零れた言葉を、大切な人たちは優しく掬いあげて。
「ね、だから僕、即答したでしょう」
「僕もここに来ることを決めて良かったです。お二人とも、大好きです」
両方の手を優しくとってくれるのだ。
これからも、よろしく。