歌姫の声は広い空を渡っていく。街を越え、平原を、山を、あらゆる村や国境を越えて響いていく。それはこの世界への愛であり、祈り。かつて壊してしまった幸せへ向けた懺悔と鎮魂でもある。
美しい旋律を支える楽器の音色は、歌に込められた意味を知らず知らずのうちに、大切に、柔らかに、そっと包んでいた。
人の耳に触れると、涙がこぼれそうなくらいに優しい。心の中にあるあらゆる感情に、じんと沁みていくのだった。
「リーゼッタ、君に仕事だ」
事務室長を務める大佐に呼ばれ、ルイゼンは書類から顔を上げた。じきに片付きそうなので、手を止めてもこの後の仕事に影響することはないだろう。
席を立ち、大佐の座る室長机の前に進むと、仕事の内容が書かれた文書が手渡される。エルニーニャ軍で定められた書式は見慣れていて、すぐに中身を把握することができた。
「この依頼を、俺にですか?」
書面には『先方はルイゼン・リーゼッタ中佐を指名』とある。依頼型任務には、時折このような指定が入ることがあるのだが、ごく稀だ。希望が通る数はもっと少ない。大佐もそれはわかっていて、「都合がつかないなら他の人員にまわす」と言った。
「リーゼッタは室長の私よりも忙しいからな、無理にとは言わないよ」
「いえ、スケジュールに問題はありませんし、それが依頼なら受けます。ただ……」
仕事なら全うする。いつでもその姿勢は変わらない。だが、この任務には疑問があった。――依頼主はルイゼンもよく知っている人物で、しかしこちらのことはあまり信用していないものと思っていた。本当に彼が依頼主なのか、そこからして疑わしい。
「……これが本当に先方の希望なのか、確認したいです」
「その点に関しては確かだ。依頼主はわざわざ司令部に出向き、君の名前を出したらしい」
ルイゼンはさらに困惑したが、事実はどうあれ、これは自分の仕事なのだ。名前がある以上、責任を持ってやり遂げなければならない。
「音楽祭警護任務、承りました」
敬礼してみせると、大佐はホッとしたように頷いた。
エルニーニャ王国首都レジーナの秋は、芸術の秋だ。商店街や大通りは街路樹と絵やオブジェに彩られ、小さな楽隊が毎日のように公園で演奏会を開く。音楽祭はそういった中で生まれたイベントだ。
主催するのは、市民の生活と文化を司る文派の人々。多くは学術機関に属している者で、音楽祭で活躍するのは彼らに教わる学生たち。音楽祭とはいうものの、披露されるのは歌や演奏に限らない。一般市民を対象とした特別講座や、スポーツに分類されそうなパフォーマンスなど、様々な催し物がある。文派が軍や王宮と立場を同等にして以降、このようなイベントが数多く提案され、綿密な計画を練って実行に移されるようになった。
音楽祭に参加するのは「市民」。普段は軍に所属していても、王宮で仕事を得ていても、誰もが等しく「この土地に住む人」として扱われる。警備は軍ではなく、警備会社に委託するのがいつものやり方だ。だが、どうやら今回に限っては勝手が違うようだった。
「今年の音楽祭の目玉は、学生楽団によるオーケストラと歌姫の歌唱だ。ところが学生楽団の運営に宛てて、当日の演奏を妨害する旨の脅迫状が届いた」
任務の内容をさらに詳しく資料にしたものを、ルイゼンは五部用意した。一部は自分でとっておき、あとは自らがリーダーを務める班員に配る。――フィネーロ、メイベル、カリン、そしてイリスに。
依頼主の名前を見て、イリスが首を傾げた。想定通りの反応だった。
「これさ、本当に受けちゃってよかったの? ゼンはまあいいとして、わたしがメンバーにいるのはまずいんじゃない?」
「俺もどうしようか悩んだ。けど、先方は俺を指名して、その俺の直属の部下がお前たちなんだ。先方がこうなることを予想していないはずはないし……」
「それでもわたしは外しといたほうがいい気がするよ。もしトラブルが起きたら、ゼンの責任になっちゃうよ」
いつもなら任務には乗り気のイリスが、今回は自分から「外せ」と言う。カリンが目を丸くして、イリスの袖を引っ張った。
「どうしちゃったんですか、イリスさん。任務は名誉挽回の機会だって、積極的に取り組んでたじゃないですか」
「カリンは中央に来て日が浅いからな、知らなくても仕方ないだろう」
口を挟んだのはメイベルだ。彼女も、そしてフィネーロも、今回の任務の妥当性を疑っている。
「依頼主のシャンテ氏は、リチェスタの親だ。ルイゼンとイリスにとっては天敵ともいえる」
資料を指先で叩き、メイベルがずばりと言う。名前の挙がった二人は苦笑を浮かべた。
リチェスタはイリスとルイゼンの幼馴染だ。現在は女学校の学生で、二人とは別の道を歩んでいるが、頻繁に連絡をとり、たまに顔を合わせる、正真正銘の親友である。
しかし文派の中でも重鎮であるシャンテ家の主人とその妻は、娘の友人のことを昔から良く思っていない。リーゼッタ家は裕福な一般家庭で近所付き合いがあること、インフェリア家は軍の名家であることで、なんとか存在を認めてもらっている状態だ。本当は、昔ガキ大将であったルイゼンや、習い事があるリチェスタを引っ張り遊びまわっていたイリスとの友人関係は、見直してほしいと思っているのである。
上品な友人と、上品な付き合いを。それを幼い頃から聞かされてきたリチェスタは、しかし学校でなかなか友達ができなかったこともあり、ルイゼンとイリスを大切に思ってくれている。学校での人間関係が上手くいくようになっても、初めての友達である二人との関係を切ることはなかった。
そんな事情を改めて説明され、カリンはほう、と息を吐く。
「リチェスタさん、イリスさんやルイゼンさんが怪我したときもすぐに駆けつけてくれて、とても良い人ですよね。でも、親御さんはそういうの、あんまり良く思ってないんですかね……」
「ゼンは親同士がうまくやってるから、わたしほどは風当たり強くないはずだけど」
「親はな。でも俺自身は昔と変わらない。……いや、昔より厄介に思われてるはずなんだ」
イリスは「なんで?」という顔をするが、メイベルは黙って頷き、フィネーロは当然のことのように補足する。
「年頃の男女が一緒にいれば、噂にもなるだろう。ルイゼンはときどき、寮を訪ねてきたリチェスタを送っているからな。それにリチェスタの態度が堂々としてきたから、心の内が親に覚られてもおかしくはないだろう」
「なるほど。リチェのとこ、恋愛も厳しそうだもんね」
イリスはシャンテ家の厳しさを幼少期から痛感している。父親は忙しいせいか会ったことはないが、母親はとにかく娘を「健全に」教育しようとしている人だった。「乱暴な子供」であったイリスやルイゼンを目の敵にして、一緒にいるところを見つかると全員に怒りが向いた。
後にルイゼンはシャンテ家への出入りが許されたが、それは近所付き合いの延長と、ルイゼンが成長して母親も黙るような「紳士」になりつつあったからだ。すでに過去のガキ大将の影は、彼が怒りを爆発させたときくらいにしか見られない。
それでもまだ「恋愛は早い」と思われている可能性は十分にある。ルイゼンにもイリスにも、シャンテ家の人々は接触を避けるはずだった。
「それがわざわざルイゼンを指名するとは。文派の重鎮ならば、軍内のこともわからないわけではないだろう。ましてルイゼンの下にイリスがついていることなんて、親の井戸端会議でわかっていそうなものだが」
「お父さんはゼンのこと信頼してるんじゃないの? 軍のことがわかってるなら、ゼンが評判のいい軍人だって知ってるはず」
「ああ、イリスは知らないのか。リチェの父さん、あんまり家には帰らないけど、娘のことは溺愛してるんだ。俺、何度か『近付きすぎるな』って釘刺されてる」
「おおう……方向性は違うけど、ちょっとうちと似てるね……」
これはますます妙な事態になってきた。はたしてこの依頼に手違いがないと断定できるのか、全員が腕組みをして唸る。そのうちカリンがやっと腕を解いて、にっこり笑った。
「でも、リチェスタさんのご家族は、厳しいけど悪い人じゃないんでしょう? だったら、ルイゼンさんの働きを正当に評価しての指名だったんですよ。文派の人なら、少しでも親交のある軍人の方が依頼をしやすいでしょうし。難しく考えることはないと思います。そしてルイゼンさんがメンバーに選ぶなら、イリスさんのことだって認めるに違いないです」
「そうだね。だといいけど」
困ったような笑みのまま、イリスはカリンの頭を撫でる。悩んでいても仕方がない。これは仕事だ。私情を挟んではいけない。やるべきことをやるしかないのだ。
「ゼン、良い方に考えよう」
「良い方だろうが悪い方だろうが、もう受けた依頼だからな。理由なんかどうだっていい。全力で音楽祭を、学生楽団を護ろう」
ルイゼンも吹っ切れた。ようやく本格的にリーゼッタ班の仕事が始まる。
学生楽団は、レジーナの音楽活動をしている学生から優秀な者が選ばれて結成される。名前が挙がればそれは名誉なことで、同時に失敗が許されないという重い責任を負うことになる。
リチェスタ・シャンテは、幼少期から続けているバイオリンを、女学校の高等部に属する今では、多くの人が素晴らしいと絶賛する領域へと昇華させていた。昔は好きでやっていたわけではなかったのだが、真剣に取り組むうちに、自分になくてはならないものの一つになった。
今回学生楽団の一員に選出されたことは、素直に誇らしく、同時に大役を重く感じた。ただオーケストラに参加するのではなく、国内外に名の知れた「歌姫」と同じ舞台に立つのだ。
――ああ、緊張するなあ。こういうとき、イリスちゃんなら張り切って練習するんだろうけれど。
親友のことを考えるのは、長年の癖だ。知り合ってから十二年、いつも心を動かされるようなことがあれば、大切な人たちはどう思うだろう、どうするだろうと想像する。それで勇気をもらうこともあった。
――私は、まずは音に気をつけながら、丁寧に練習しよう。せっかくの機会だもの、台無しになんてしたくない。
心の中で意気込むと、すぐ傍で親友が応援してくれる気がする。報告すれば、本人の声で「頑張れ」が聞けるだろう。後でこっそり電話でもしてみようか。
同じ学校の友人に声をかけられたのは、そんなことを思っていた矢先のことだった。
「シャンテさん、楽団に選出されたんですってね。おめでとう」
「あ、ありがとう」
「でも、大丈夫かしら? 楽団の運営に脅迫状が届いたそうじゃないの。もしもあなたに危害が及ぶようなことになったら……」
それは初耳だ。楽団の運営のトップにはリチェスタの父がいる。しかしそんなことは少しも言っていなかった。――いや、言わなかったのか。母の耳に入れば、音楽祭を中止しろと騒ぐかもしれない。娘である自分にも、余計な心配はさせたくなかっただろう。
「きっと質の悪いイタズラよ。当日は何事もなく終わるわ。私が演奏を失敗しさえしなければ」
「あら、シャンテさんが演奏を失敗? そのほうが可能性は低そうだわ。音楽祭当日は、念のため警備を例年より強化するそうよ。いつもは頼らないのに、軍にまで話がいったとか」
軍が動く。もしかしたら、ルイゼンやイリスも関係しているだろうか。仕事をしなければならないのなら、音楽祭を見に来てほしいと頼めなくなる。何かと催し物に誘ってくれるから、今度はこちらがと思っていたのに。
どうか無関係でいて、という願いは、その夜イリスに電話をして、見事に打ち砕かれた。
「そっか。リチェが楽団のメンバーなら、これは何が何でも絶対に護りきらないと」
「やっぱり、イリスちゃんたちも音楽祭の警護の仕事があるの?」
「あー……うん、まあね。当日は楽しい盛り上がりだけで済むようにするから、安心して舞台に立って」
イリスが関わっているのなら、その上司であるルイゼンも暇ではないだろう。残念だが、今回は誘えない。落ち込んだのを覚られないよう、明るい声を作った。
「イリスちゃんたちがいるなら、何も心配いらないね。私、全力で演奏する」
それがリチェスタにできること。やらなければならないことだから。
眼鏡の奥の目は鋭く、娘にはあまり似ていない。体つきも思ったよりがっしりしている。イリスが初めて会ったシャンテ氏――リチェスタの父親は、母親とはまた違った意味で厳しそうな人だった。
「先日依頼したように、学生楽団の警護を頼みたい。昨年、大総統閣下の暗殺未遂事件もあったことだ。こんな紙切れ一枚も馬鹿にできないからな」
軍で預かっていた脅迫状――今は机の上に広げて置いてある――をトントンと指で叩き、シャンテ氏は正面のルイゼンを睨んだ。いや、ただ視線を寄越しただけか。なにしろ目つきのおかげで判別しにくい。
「リーゼッタ中佐はその暗殺未遂事件でも閣下をお守りする最前線にいたと聞いた。私は同じくらいの緊張感をもって、この任務にあたってほしいと願う」
「もちろん、どんな任務でも緊張感と使命感を欠くことなく遂行します。今回警護にあたる人間は、先の事件でも活躍した精鋭ですので、ご安心を。……特に」
まるで他人と話すように、ルイゼンは背筋を伸ばして冷静な声色で言葉を発する。視線は真っ直ぐに、シャンテ氏の目に向かっていた。が、それがイリスへと移動する。シャンテ氏もつられるようにして、こちらを見た。
「インフェリア中尉は大総統補佐も務めています」
「知っている。閣下を普段からお守りしているのだから、今回も期待している」
声も言葉も重い。イリスは腹に力を入れて、それを受け止めた。
「もちろんです。学生楽団に余計な心配はさせません」
今回の仕事には、リチェスタの無事もかかっている。あらゆる意味で失敗は許されない。何か起きた時の対処はもちろんだが、一番は「何も起きないこと」だ。不穏な要素があれば即座に取り除き、何事もなかったように処理する。
楽団員は、リチェスタの言葉から察するに、軍の警備が入ることは知っている。その理由が脅迫状にあることも、すでに聞き及んでいるかもしれない。当日はそんなことなどすっかり忘れて、ひたすらに演奏に集中してほしい。
「演奏の妨害が予告されている以上、同じ舞台に立つ歌姫の身の安全の確保にも努めてもらいたい。まだ一般には公開していないが、有名な方だ。何かあればもう二度と音楽祭が開催できなくなる危険をはらんでいる」
シャンテ氏は持参した書類を取り出した。当日舞台に立つ人間のリストらしい。すぐにリチェスタの名前を見つけ、イリスは内心で笑った。
そして最後に記されている「歌姫」の名前を見て、目を丸くし、それから口角が上がった。
「……何をにやついている、中尉」
表情をシャンテ氏に見咎められても、直せない。むしろ不敵な笑みのまま、言葉を返した。
「何もないのが一番です。それはわたしたちもわかっていますし、その状態を保つのがわたしたちの仕事です。でも、もし。万が一何かが起こってしまったとしても。……もしかしたら、歌姫が全部解決してくれるかもしれませんよ」
怪訝な表情をするシャンテ氏に、ルイゼンが慌てて「失礼しました」と頭を下げる。後で叱られるのは必至だなと思いつつも、イリスは笑顔だった。
その晩、イリスは兄たちの家を訪れた。ファミリー向け集合住宅の一室は、今日も子供がせっせと料理をしている。大人たちはそれぞれ仕事中なのだ。
「ニール、お兄ちゃんの新作は音楽祭に間に合いそうなの?」
一緒に台所に立ち、作業を手伝いながら、イリスは尋ねる。曖昧な短い唸り声が返ってきた。
「今回は何も教えてくれないんです。でもずっと部屋にいるので、ちゃんと進んでると思いますよ」
音楽祭には絵も多数出展される。イリスの兄ニアも作品を出すべく頑張っているうえに、当日には他の画家や音楽家と組んでパフォーマンスも行うという。あちらもこちらも忙しいのが、音楽祭の直前だ。
協賛企業も毎日、通常業務に加えて音楽祭関連の仕事をしているらしい。この家のもう一人の大人であるルーファも、最近は帰りが遅いようだ。
「イリスさんは、音楽祭は見に行くんですか?」
「行くけど、仕事なんだ。ゆっくりは見られないなあ」
「軍人さんが音楽祭で仕事なんて、珍しいですね」
食事ができたら、部屋にこもっているニアを呼ぶ。そのタイミングでルーファも帰ってきた。
この四人で食卓を囲むのは久しぶりだ。
「本当にこの時期の忙しさときたら……。軍にいた頃はわからなかったな」
「イベントをやるのは大変だよね。楽しいけど」
肩や首を回すルーファとニアに「お疲れ様」と声をかけ、イリスは料理を並べた。ニアがまだ仕事をするので、今日は酒は出さない。
「でも、だんだん軍も関わるようになってきたみたいだね。レヴィも今年はアーシェちゃんにかなり使われてるって?」
「レヴィ兄の様子は、今はちょっとわかんないな。班の仕事がメインだから、手伝いしてないんだよね」
文派のトップは大文卿、アーシェはその妻で補佐だ。代理も多く務めている。文派の祭りのために忙しくなるのは当然だが、大総統であるレヴィアンスまで使っているとは。
「こうやってだんだん協力体制が強くなっていくんだね」
「レヴィは親の仕事をしっかり引き継いでるよな。それに加えて、自分がやることも進めている。俺も見習わなきゃ」
「へえ、ルーでもレヴィを見習うなんて言うんだ。昔からライバルみたいだったのに」
笑いながら、イリスは思う。自分にできること、やるべきことをしっかりとやる。それは年初めの大失敗以降、ずっと意識してきたことだ。
今回のこともそう。リチェスタの親にどう思われていようと、仕事はしっかりこなさなくてはならない。学生楽団を守れなければ、音楽祭の存続が危うい。音楽祭がなくなれば、兄たちの仕事も減ってしまう。全ては繋がっているのだ。
「わたしも頑張るからね、お兄ちゃん」
「うん、応援してるよ。心配はしてない」
――何より、もっと単純に。
親友の晴れ舞台を、邪魔させてなるものか。
本番が近くなればなるほど緊張するが、奏でる音色は冴えわたっている。完成が近いことを自分で感じられる。これはいい出来だ、とリチェスタは思わず口元を緩ませた。今は一人で練習しているから、誰に見られることもない。
楽団のメンバーとの顔合わせや練習を重ね、全員が自信を高めている。選ばれた学生楽団の一員としての誇りと、レベルの高いオーケストラが自分たちで作れるという喜び。それはリチェスタの胸をも満たしている。
だからこそ、聴いてほしかった。大切な人たちに。昔のくよくよしていた自分を知っている彼らに。
――でも、警備に来るって言ってたもんね。
音は聞こえるだろう。リチェスタが一人で演奏するより何倍も素晴らしい音が、会場いっぱいに響き渡るはずだ。それが少しでも耳に入るなら、それでいい。
――それに、歌姫様と共演できるんだもの。それだけで十分贅沢だよ。
すでにリチェスタは、脅迫状のことなど忘れている。イリスたちが守ってくれるのであれば、忘れてしまっても問題はない。ただ思い切り、舞台を楽しみたい。
こんなふうに思う日が来るなんて。幼い頃は、あんなにバイオリンの稽古を嫌がっていたのに。そういえばイリスと出会ったのも稽古をさぼろうとしたからだった。それから歩んできた道のりを思うと感慨深く、あのときさぼっていたのも完全な間違いではない気がしてくる。
「私がずるをしたから、イリスちゃんと出会えて。イリスちゃんはゼン君と出会った。面白い縁よね」
リチェスタだけが別の道を行っても、二人がいつも気にかけてくれた。恋愛でやきもきすることはあったけれど、それも乗り越えてしまえば良い思い出だ。
「今度は、ずるなんてしないよ」
そっと誓い、顔を上げる。
音楽祭の日は爽やかな秋晴れ。文化の花開くレジーナに、芸術家たちが集う。
歌姫との舞台以外にも演奏の予定がある学生楽団は、朝の早い時間から集合し、最終調整に入っていた。
「何か起きそうには思えないね」
無線通信機と武器を装備した軍服姿のイリスたちは、ここでは目立つ。すれ違う人々が振り返り、時には眉を顰めて去る。嫌がられるのは仕方がない。この恰好が抑止力になればいい。
「まずは楽団に挨拶しよう」
ルイゼンが楽団の控室になっている会館へと向かうのに、フィネーロ、メイベル、イリス、カリンがぞろぞろと続く。
「顔出したら迷惑じゃないかな」
「シャンテさんの許可はとってある。軍人が顔を見せたくらいで動じるような者はいないってさ」
「さすがに才能を認められているだけのことはあるな。度胸もあるんだろう」
「リチェスタはその一人というわけだ。惚れ直したんじゃないか、ルイゼン」
「すごいなとは思ってるよ」
からかったりかわしたりしながら、一行は楽団を訪ねた。こちらを振り返った学生たちは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに丁寧な挨拶を返してくれた。一番動揺していたのはリチェスタだろう。イリスだけでなく、ルイゼンたちまで来るとは思っていなかったのかもしれない。
「本日、楽団の皆さんの警護をさせていただきます。何か気づいたことがあったら、遠慮なく仰ってください」
予定通りの簡単な挨拶を済ませると、すぐに控室から出た。そしてあらかじめ決めておいた配置を確認し、解散する。ここからのやり取りは無線を通じて行う。
基本的には、控室周りと演奏を行うステージ周りの、割り当てられた範囲をくまなくチェックし、怪しい人物がいないか、不審物はないかどうかに気をつける。違和感があったらすぐに無線で班員全員に報せ、行動する。イリスに割り当てられたのは、まずは会館外のちょうど控室の裏にあたる場所。ステージに移動してからは、ステージ裏を担当することになる。あまり目立つところにいると、いざというときに盛大に暴れられないだろう。ルイゼンのそんな配慮が、口にせずともわかる。
「こちら0312インフェリア。控室裏確認完了。不審物、不審者、ともになし。どうぞ」
無線に告げると、ノイズまじりの短い返事があった。――了解、どうぞ。
他の場所も今のところ異常は見られないようだ。会館内控室周りのルイゼン、会館外エントランス前のフィネーロ、会館外東樹上のメイベル、会館外西広報用櫓のカリンからも、それぞれ報告があった。名前の前には打ち合わせで決めたコードを言うこと、という決まりも守られている。
シャンテ氏によると、歌姫はまだ現地入りしていない。舞台に学生楽団とともにあがる直前、一回だけしか合同の練習ができないスケジュールなのだそうだ。忙しい人であることは、こちらもわかっていた。
付近の様子に引き続き警戒しながら、イリスは小さく呟く。
「演奏の妨害って……結局、何の目的でそんなことしようとするんだか」
今回の任務にはわからないことがいくつかあるが、これが最も重要かつ、最大の謎だった。シャンテ氏にも思い当たることはないという。学生楽団の邪魔をすることに、メリットなど一つも見いだせない。単なる愉快犯なのだろうか。
「歌姫が目的だったら、楽団運営に脅迫状を送る意味がわからないよね」
何度も話し合った。班でのミーティングでも、寮の部屋での雑談の中でも。答えは一向に見えず、今日を迎えてしまった。せめて目的がわかれば、もっと確実な対策が練られたかもしれない。
本当は、レヴィアンスにも相談したかったのだ。けれどもそんな暇はなかった。隙を見て大総統執務室を訪ねたイリスを迎えたのは、一人で仕事をしていたガードナーだった。
――閣下は所用で外出されています。言伝があるならお受けしますよ。
――あ、じゃあ、今わたしたちの班が持ってる任務についてなんですけど……。
彼も上司だ。もしかしたら糸口を見つけてくれるかもしれない。そう期待したのだが、事情を聞いたガードナーはゆっくりと首を横に振った。
――それだけでは材料が足りませんね。もう少し、シャンテ氏から話を聞いてみることはできませんか。
それができればそうしている。しかし心当たりがないということに変わりはなかったし、楽団の運営状況などにも問題は見られなかった。
ガードナーはレヴィアンスに話をしてくれると言ったが、以降、何の連絡もない。こちらが訪ねる時間もなくなってしまった。
「わたしたちで何とかしろってことなのかな。小班の任務だしねえ……」
そうそう特別扱いもできないか、と思い直して、目を閉じる。眉間のあたりに意識を集中させ、再び瞼を持ち上げると、さっきより視界がクリアに、周囲の動きに敏感になる。眼の力をほんの少し使って、不穏な気配がないかどうか探る。――まだ、何もないようだ。周囲の人の動きに不審なものは感じられない。
耳をすませると、会館から漏れる楽器の音色が聞こえた。リチェスタの奏でるバイオリンの音までは聞き分けられないが、ほんの少し聴くだけで、胸のあたりが温かくなった。そして会館の向こう側、全体が音楽祭の会場となっている広場のほうからは、賑やかな人々の歓声や音楽。市民の祭りは始まっている。
このまま平和に過ぎてくれたら。自分たちが動くようなことがなければ。願っていると、無線がルイゼンの声を受信した。
「こちら0804リーゼッタ。まもなく学生楽団が一回目の演奏のために動く」
最初の移動の合図だ。歌姫はまだ到着していない。彼女が参加するのは最後の演奏だけなのだ。
「了解」
だが、一度たりとて気が抜けない。どこで妨害が入るのかわからないのだから。
大勢の観客の前。注がれる視線。それを意識するのは最初の一瞬だけ。いつもならそれができる。
しかし今、リチェスタの傍にはルイゼンがいる。正確には近くにいるわけではなく、舞台袖でこちらを見ているのだが、どうあれ同じだ。リチェスタは普段の倍は緊張していた。
心臓の鼓動がリズムを乱すのではないかと不安になる。ルイゼンの前でそんな失敗はできない。思わぬ形で訪れた、自分の成長を示す機会だ。嬉しくて、怖くて、手が震える。
けれども不思議なもので、掲げられた指揮棒が目に入れば、震えはぴたりと収まった。
音楽に真面目に向き合うようになったのは、いつからだったろう。幼い頃は嫌で仕方なくて逃げたのに、それをしなくなったのは。
――俺は軍に行くけど、リチェ、大丈夫か?
泣いてばかり、少ない友人の背中を追いかけてばかりだったリチェスタを心配していた、一つ年上の男の子。本当はどこにも行ってほしくなかったけれど、軍人になることが彼の夢だと知っていたから、目を擦りながら頷いた。
もう一人の同い年の友達も、軍人になると言っている。取り残されるのがわかっていた。寂しいと泣いているだけでは、昔の自分に戻ってしまいそうだった。
友人ほど強い夢は持っていない。けれどもたまに帰ってくる彼らを膝を抱えて待っているだけというのは、あまりにむなしい。手元にあるものを見て、何ができるか考えた。
引き寄せたのは、苦しい思い出がたくさんある弦楽器。
すぐには上達しなかった。友人たちが夢に向かって歩みを進めるごとに、練習量を増やした。リチェスタは彼らと離れてもなお、追いかけることを選んだのだ。別の道から、追いつきたい背中を追った。
同じ道の上には並べない。せめて、遠くからでも並行して走れるようになりたい。その気持ちに楽器は、少しずつ応えてくれるようになった。
そして今、リチェスタはここにいる。自分自身の望みを持って。
盛大な拍手に我に返り、丁寧にお辞儀をする。舞台袖に目をやると、大好きな優しい笑顔。彼の拍手が――この瞬間は彼もきっと仕事を忘れていた――何よりも幸福だった。
私は、あなたたちに並べたでしょうか。
一回目も二回目も、学生楽団の演奏は素晴らしかった。舞台の裏にいたイリスにも、それは十分に伝わっている。仕事を放りだしてリチェスタを抱きしめに行けたらどんなに良かったか。
舞台袖にいるルイゼンが羨ましくて、けれども彼にはそこが相応しいとも思う。
残るは歌姫が参加する一回。そこで何もなければ、音楽祭は無事に終わるはずだ。
会館に歌姫が到着したとき、イリスは会館裏にいた。仲間たちから報告を受けただけなので、彼女の顔はまだ見ていない。そのかわり、気になる顔を見かけた気がした。
「グラン大将……? 音楽祭に来てたの?」
似ているだけだろうか。中央司令部将官室長であるタスク・グラン大将のようだったが。昨年まで軍に頼ることのなかった文派のイベントに来るような人だとは思えないのだけれど。彼は軍頂上主義なのだ。
「一応ゼンたちに報告したほうがいいかな。……こちら0312インフェリア――」
イリスの報告を受け、ルイゼンは眉を顰めた。おそらく、イリスの見たものに間違いはない。彼女は眼の力を使っている。しかし、グランがここに現れるのはやはり不自然だ。春に司令部内で起きた傷害事件――ルイゼンは被害者となってしまったが、その裏にはグランが絡んでいるという話もあった。彼は大総統の地位を狙っていた人物だ。何をするかわからない。
「プライベートだとしたら、閣下はこのことは知らないだろうな。念のため報告して、最近の大将の様子を探っておくか」
そう無線で返事をしたが、司令部にいるはずのレヴィアンスとは連絡がつかなかった。かわりにガードナーが、大総統執務室にいた。
「ガードナー大将、グラン大将の動向をご存知ですか? たった今、音楽祭で姿を見かけたとの情報が入ったのですが」
ガードナーとグランは同期で、かつては友人だった。もしかしたら何か知っているかもしれないと思ったのだが、返答は期待したものではなかった。
「彼は仕事中のはずですよ」
「そうですか……そうですよね」
基本的に、将官室長は部屋から動くことがない。仕事をしているということは、イリスの見間違いだったのだろうか。よく似た人がいただけ? でも、イリスの眼は……。
過去には裏がクローン技術を悪用した例がある。悪いことにならなければいいが。念のため、それらしき人物に気をつけておいたほうがいいだろう。
それにしても、このくらいの考えならガードナーもすぐに辿り着くだろうに、何も言わなかったというのは妙だった。
その頃、会館正面についているフィネーロも、グランによく似た人物を見つけていた。特に隠れるようなこともない。ただ祭りを見ているようだ――ここからは会場の賑わいがよく見えた。グランらしき者は、私服だろう、カッターシャツにグレーのボトムスを身につけている。
――閣下に諭されて改心したなら、プライベートでここに来ることもおかしくはない。
あるいは、レヴィアンス直々にここに来ることを薦めたか。市民の生活を知ることは軍人にとって重要だが、グランはそうは考えていなかったと聞いている。そのあたりは、彼と直接話をしたことのあるルイゼンのほうがずっと詳しいだろう。
そのとき、ルイゼンからの報告が入った。グランについて、司令部に確認がとれたという。
「グラン大将は仕事中だと、ガードナー大将は言っていた。だとしたら、司令部にいるはずだ」
見間違いか、あるいは偽物か。ルイゼンはそのあたりを疑っているようだった。しかし、フィネーロはガードナーの言葉に引っ掛かりを覚える。
「ルイゼン、『仕事中』というのはガードナー大将の言葉そのままだな?」
「ああ、それ以上は何も言わなかった」
いかなる仕事も完璧にこなす優秀な大総統補佐が、その一言で話を終わらせるだろうか。フィネーロの頭の中で、嫌な予感が閃いた。
同じ報告を、メイベルは樹上で聞いていた。ここが櫓以外で会場全体を見渡せる絶好の位置なのである。グランらしい人物を特定することは難しいが、もしそんな人物がいたとして、そこまで気にする必要はないだろうと思う。
怪しい動きをする者がいれば撃つ。メイベルは仕事を実にシンプルに考えている。それがグランの姿をしていようと、全く知らない者だろうと、関係ない。
だがフィネーロがルイゼンに確認をとる声で、彼女にもふと疑問が湧いた。――「仕事中」。その言葉に全く間違いがなく、さらにイリスの眼にも間違いがないとするなら。
大将級が動くというのは、よほどのことがなければありえない。まして、将官室長であるグランが司令部を離れるということは。
――レヴィ兄も忙しいらしいんだよね。アーシェお姉ちゃんに色々と協力してるみたいでさ。
イリスが数日前にそう言っていた。終業後、寮での何気ない会話だ。そのときはどうでもいいと思っていたが、実はそれこそが今回の仕事の裏なのではないか。
大総統が使われている。ならば、その下にいる将官だって、動かすことができるのでは。
メイベルは手鏡を取り出し、対岸――会館西の櫓に見えるよう動かした。
反射による合図を、櫓にいたカリンは正確に捉えていた。姉からの指示は「会場全体を見ろ」。言われるまでもなくそうするのが仕事ではあるが、強調するということは何かがあるのだ。見通しの良い櫓からは、会場の様子が容易に見渡せる。双眼鏡を使えば、歩いている人の顔も判別できる。
グランの話が出ていたから、彼によく似た人物を探せばいいのかと思った。だが、それを見つける前に、他の見知った顔を発見した。カリンたちリーゼッタ班が頻繁に世話になる、トーリス准将だ。五分刈りの頭と精悍な顔つきは、基本的に男性が苦手なカリンからすれば少し怖いのだが、その表情は普段以上に険しい。まるで何かを見張っているような――ちょうど自分たちがしているように。
「1105カリンです。あの、トーリス准将を見つけました。なんだか、プライベートではないようなんですが……」
無線機が、四人分の怪訝そうな声を受信した。
いよいよ音楽祭もクライマックスだ。学生楽団は歌姫との通し練習を終え、舞台に向かう。イリスたちは彼らを大きく囲むように一緒に移動し、舞台での配置についた。
これまでは何事もなかった。参加者同士の小さな諍い程度なら、周囲の人々や警備員が仲裁に入ってすぐに解決している。大きな事件は起こっていない。何かあるとしたら、このタイミングだ。
種類の違う緊張感が、会場全てを包む。演者の、観客の、警護にあたるイリスたちの、そして。
舞台雛壇に学生楽団が並び、指揮者より手前に赤いドレスの女性が進み出る。歌姫の登場に拍手が沸いた。演者たちの美しいお辞儀の後に、指揮者が指揮棒を高く掲げた。
それが合図だったかのように、破裂音が空気を裂いた。一つではない。二つ、三つ――一般市民には捉えられない、複数の銃声。それが会場の至る所からあがっていた。人々が騒めく中、一際異様な台詞が響く。――そこから動くな。地面に膝をついて両手を挙げろ。
戸惑う市民はそれにゆるゆると従おうとした。だが、そうするまでもなく事態は動く。
イリスは舞台裏にいたが、見なくてもわかった。銃声のうち、一つはメイベルの放ったものだ。観客により近いところに控えていたフィネーロは、手から銃を弾き飛ばされた人物を見ていた。すぐにそちらへ駆け寄り、それを確保する。
ルイゼンは舞台袖から出て、歌姫と楽団を庇うように剣を抜いた。無線からはカリンの声がする。
「舞台周辺だけじゃなく、会場のパフォーマンスが行われていたところには銃を持った人たちがいたみたいです。……ただ、もう動きは封じられているようですけど」
リーゼッタ班が守っていたのは学生楽団の舞台だけだ。他の場所には警備員と、そして。
「軍服が舞台付近にしかいないからと、強行したようだが。残念だったな」
私服で潜入していた中央司令部の精鋭たちがいた。指揮をとっていたのはタスク・グラン。彼は本来、座して結果を待つよりも、自ら動くほうが得意だ。
「リーゼッタ、まだ動こうとしている奴がいる! なんとしてでも押さえ込め!」
「突然来て、無茶苦茶言うな、あの人……!」
舞台から飛び降り、こちらへ向かって来ようとした者に剣を振るう。彼らが手にしていた銃やナイフを的確に払い、叩き落とす。正面に集中していられるのは、会場全体を見渡し、敵を確実に捉えられる「目」が二つあるから。東の樹上、そして西の櫓から、銃弾がまだ蠢いていたならず者を倒す。
そして舞台裏から侵入を試みていたであろう者たちは、すでにイリスが相手を終えていた。
「眼を使うまでもないね。でもわたし相手に向かって来た勇気は褒めてあげる」
こちらを知らないはずはないだろう。イリスは有名人だ。
「で、あんたら、何? 音楽祭を狙った目的は?」
胸倉を掴んで問い質すと、相手は歯の抜けた口をぱくぱくさせた。
「……文派に、瑕を。分裂させ、軍との溝を深める……」
「そりゃあ、無駄なことだよ。現にこうして文派と軍は文派は協力してる。皮肉にも、あんたたちのおかげでね」
おそらく、リーゼッタ班に持ち込まれた依頼だけではなかったのだろう。アーシェがレヴィアンスを動かしていたというのは、そういうことだ。脅迫状は一通ではなく、しかしほとんどは文派が大文卿に相談して、内々に処置を決める予定だったのだ。だが事態を重く見た大文卿は、例年通り警備会社に会場の警備を頼むと同時に、軍による会場警護を実施した。――シャンテ氏だけは直接軍に依頼をしたために、学生楽団の警護はリーゼッタ班に一任されたのだ。
見覚えのある顔が、舞台裏にやってくる。将官や佐官たちだ。レヴィアンスの指示で動いていた彼らは、この場を引き受けてくれた。
「インフェリア中尉、君は舞台へ。まだリーゼッタ中佐とリッツェ少佐が戦っている」
「ありがとうございます。お願いします!」
イリスは表へと走る。そこには守るべきものがある。自分の力を必要としている人たちがいる。
観客席にいた一人が、首に腕をまわされ、ナイフを突きつけられた。犯行に及んだ人物が怒鳴る。
「一般人がどうなってもいいのか!? 俺に近づけばただじゃ済まねえぞ!」
だがそんな行動は無意味だ。彼はまだ、現状を把握しきれていない。だからそんな無謀なことをしてしまうのだ。
「安心しろ、何もさせない」
溜息交じりにフィネーロが言うと、銃声とともにナイフを持った男は崩れ落ちた。足から血が溢れ出す。何が起こったのか男がわからないでいる間に、フィネーロは速やかに人質を逃がした。
「……っ、何をしやがった!」
「僕はまだ何もしていない。ただ、すこぶる腕のいい射手がいるだけだ」
落ち着き払った態度が気に障ったのか、男は足を引きずったままフィネーロに襲いかかってきた。それをピンと張った鎖で受け止め、分銅を男の首に巻きつかせながら、さらに鎌の切っ先を頬にひたりとあてる。さすがに動けなくなった男は、近くにいた私服の軍人に引き渡された。
「本当なら、音楽祭会場で銃を使うなんてもってのほかなんだろうけど」
例年通りの音楽祭ならば、メイベルの射撃は文派から軍への非難を呼んだだろう。しかし、今回は感謝はされなくとも、仕方なかったくらいには見てもらえるはずだ。今のところ一発も外していない。襲撃犯以外は、人も物も作品も無事だった。
銃を手に会館西の櫓に上ってきた者もいた。高い場所から乱射すれば、多くの被害が出てしまう。しかし、そこには随分前から先客がいる。
「退け、ガキ!」
軍服を着てはいるが、相手は少女。それもどこか頼りなさそうだと、敵は踏んだのだろう。けれども軍服を着てここにいるということ自体が彼女の強さの証明であるということに、なぜ思い至らないのか。
「あなたこそ、ここに来ないでください!」
カリンは相手の顔のど真ん中に渾身の蹴りを入れ、さらに衝撃に負け櫓から離れた両手に素早く銃弾を撃ち込んだ。これでもう上っては来られまい。落ちて死ぬことはないだろう、櫓の下には親切に安全マットが敷き詰められている。
「わたしがお姉ちゃんみたいな乱暴なことしなきゃいけないなんて……」
ぼやきはスイッチを入れっぱなしの無線に拾われ、「ぶつくさ言うな」という姉の声を受信した。
学生楽団は舞台の奥側に避難している。ルイゼンは舞台の上に戻り、彼らを一人で守っていた。どういうわけか、この場所をしつこく狙ってくる一団がいる。一人も逃してなるものかと剣を振るうが、力の強い相手と押し合いになった瞬間に、敵が脇をすり抜けていった。
――まずい!
やはり一人は無謀だったか。早く誰か、応援を。叫ぶように祈ったその瞬間、どさりと何かが崩れ落ちる音がした。
倒れたのは、たった今ルイゼンの横をすり抜けて、楽団に向かって行った者。それを倒したのは、赤いドレスの女性だった。手には美しいが意匠に年季の入っている短剣がある。
「ええと、リーゼッタ君だったかな。私も戦えるから、安心していいよ」
彼女はにっこりと笑って、さらにもう一人やってきた敵をも伏せた。その動きは、まるで激しい舞だ。対峙していた相手を倒したルイゼンは、つい見惚れてしまった。
「ゼン、ぼけっとしない!」
呼ばれて我に返り、前に向き直る。振り向きざまに一人を斬り、それから声の主を見た。
「イリス、裏は?!」
「大佐たちが来てくれたから、任せちゃった。それより、普段人に散々仕事しろって言っておいて、自分はぼんやりしてるとか……」
「悪かったよ。ちょっとびっくりしてただけだ」
「気持ちはわかるけど」
イリスは喋りながら、かかってきた相手の手から剣を弾き飛ばし、上段蹴りをお見舞いした。折れた歯と鼻血が宙を舞う。
「中央司令部の伝説だからね、あの人も」
正面から来る無謀な者たちは、だんだんと減ってきた。そろそろ学生楽団を舞台から避難させられるだろうかと、ルイゼンが思ったそのとき、舞台袖から人が出てきた。スタッフでも、警備員でも、私服軍人でもない。いつのまにか敵は舞台に侵入していたのだ。
「うわ、裏から入ってきちゃった?!」
任せたはずなのに、とイリスが眉を寄せるあいだに、敵は近くにいた楽団員を一人捕まえた。――よりにもよって、リチェスタを。
「きゃあっ!!」
「リチェ!」
駆け寄ろうとしたイリスを、しかし、まだ残っていた正面からの敵が邪魔をする。相手をしていたら、リチェスタが危ない。歌姫も舞台袖からやってきた敵と戦っている最中で、最奥のリチェスタには届きそうになかった。
今、この瞬間に動けるのは。
「ゼン、行け!」
「言われなくたってやる!」
目の前にいた敵を一瞬にして斬り伏せ、ルイゼンが舞台を駆けた。人を避け、飛び越え、秒を数える間もなく目指す場所に辿り着く。
「リチェ、目ぇ閉じろ!!」
ルイゼンの声に、リチェスタはぎゅっと目を瞑った。近くに行くと、今日のためにあつらえたのだろうワンピースが、よく似合っているのがわかる。汚してしまいたくない、それなら。
得物は剣。大剣ほど大きくなく幅も広くないが、叩きつけるのには適している。そのやり方は、先輩たちから教わってこの身に染みついている。ルイゼンは剣を振り上げ、刃ではなく面の部分を、敵の脳天に力いっぱい振り下ろした。
着地とともに、力の抜けた敵の手から素早くリチェスタを引き離す。そしてそのまま、強く抱き寄せた。
「大丈夫か。怪我は」
「……してない。ゼン君、あっという間に来てくれたもの」
涙で潤んだ目が、嬉しそうに笑った。
横目で親友の無事を確認し、イリスは口の端を持ち上げる。同時に舞台袖から現れた敵を蹴り飛ばした。あと数人。これくらいなら、すぐに片付けられる。
美しく舞う歌姫と一緒なら。
「イリスちゃん、あと半分任せていい?」
「半分もあなたに任せていいんですか? 一応、もう一般人なのに」
「そうだね。まさかこの歳になって、こんな大舞台で踊ることになるとは思ってなかった。でもね、私、鍛えるのはやめてないの」
彼女の笑みは、知らない人が見れば楽しそうだ。にっこりと可愛らしい。だがそれが経験に裏付けされた自信の表れなのだと、イリスは知っている。両親やその知り合いから、よく聞かされたものだ。
かつてのエルニーニャ王国軍中央司令部トップ入隊の実力者。敵の巣窟に潜り込み、たった一人で三十人斬りを果たした伝説の女性。テンポの速い舞を踊るかのような艶やかで華麗な戦いのスタイルは、年月が経った現在も変わっていない。
「最後よ、イリスちゃん!」
「はい、ラディアさん!」
相手が怯んだ隙をついて、二人は同時に床を蹴り、剣を振るった。
襲撃者たちは軍の人員によって連行されていく。もちろんリーゼッタ班も彼らの確保とこれからの聴取に加わらねばならず、会場をあとにせざるをえなくなった。
せっかく、遅ればせながらの歌姫と学生楽団の共演が始まろうというのに。それが見られないのは非常に残念だ。
演奏はやりましょう、とは歌姫ラディア・ローズの提案だった。幸いにして一般人に重傷者はなく、かすり傷ならば救護のボランティアで対処できる。それならば、慰労と詫びの意味も込めて舞台を最後までやりきろうということになったのだ。
学生楽団はすでに落ち着きを取り戻している。直接危害を加えられそうになったリチェスタも。誰もが歌姫との舞台を楽しみにしていたのだ。この機会を逃したくはない。
襲撃犯たちを移送用の車に乗せている途中で、オーケストラの音が聞こえてきた。それに続き、美しい歌声も。見られなくとも、少しだけなら聴くことはできそうだ。
目頭を熱くさせる、美しい旋律。様々な想いを乗せて、音は風に運ばれる。どこまでも、どこまでも。
「いいよな、ラディアさんの歌。いくつになっても衰えることを知らない」
イリスの隣に、レヴィアンスが立った。実はずっと大文卿夫妻とともに、会場にいたという。豊かな髪と見慣れた顔を隠してしまえば、なかなか気づかないものだ。
「レヴィ兄、どうして会場警護に軍が全面協力してるって教えてくれなかったのよ」
「文派の人たちは、まだまだ軍がでしゃばるのを嫌がるからね。でも大文卿はその状況を変えたいと思っている。だから徐々に慣らしていこうとしてるんだ。……もっとも、シャンテさんの行動は予想外だったけど。軍に直接依頼をした唯一の人だから、そこは応えないといけないよね」
脅迫状は学生楽団の運営だけではなく、音楽祭でイベントを行う大きな団体の全てに届いていた。しかしそれを公にしたくなかったほとんどの運営は、大文卿に相談をした――リーゼッタ班が辿り着いた読みは、正しかったのだ。
「アーシェが言ってた。『もう二度と“赤い杯”の悲劇は繰り返さない』って。一般市民だろうと、警備員だろうと、誰かが命を落とすようなことはあっちゃいけなかった。そこでオレに、全力で音楽祭を守れって命令してきたんだよ」
佐官以上を使ったのは、文派に対する敬意だ。自分たちはけっして軍以外を軽く見てはいないということを示す必要があった。そのうち、こんな忖度もしなくて済むようになればいいのだけれど。
「元軍人であるアーシェやラディアさんが、軍と文派の懸け橋になってくれると助かるなあ。その分、オレがめいっぱい使われそうな気もするけどさ」
「使われてなんぼの軍人でしょ。わたしたちは市民のためにあるんだから」
イリスとレヴィアンスは顔を見合わせ、にい、と笑った。
現場から去ろうとするルイゼンを、低い声が呼び止めた。今頃は娘の晴れ舞台を見ているはずの、シャンテ氏だった。
「リチェスタさんの演奏、聴かなくていいんですか」
「聴こえている。だから、君と少し話がしたい」
彼は依頼人でもある。ルイゼンは上司たちに断りを入れ、シャンテ氏と向き合った。
「……最近、娘と頻繁に会っているようだな」
「ええ、まあ」
実際のところは、リチェスタがルイゼンのところにやってくるのだが。顔を合わせていることには変わりないので、否定はしない。
「私は、娘の幸福を願ってきた。仕事で傍にいてやる時間が限られる分、娘の望むことはしてやりたいと思っていた。なにぶん、あの子は体も心も弱い」
「弱くはないですよ。リチェスタさん……リチェは、俺も驚くほど強い女性になりました」
自分の想いを表現できるようになった。堂々と舞台に立ち、見事な演奏を披露できるようになった。幼い頃のリチェスタを知っているルイゼンからしてみれば、あまりに大きな成長だ。もしかしたら、追い抜かされているのではないかと思うほどに。
「そうだな。……うん、そうだ。実力で舞台にあがれるようになったのだから、逞しくなった」
シャンテ氏は深く頷き、それからルイゼンの目を真っ直ぐに見た。やぶにらみにも見える彼の目は、今は優しい光を湛えている。
「君の、そしてインフェリア嬢のおかげだと、私は思っている。妻もはっきりとは言わないが、内心では認めている」
娘を立派に育て上げたい。その思いから、シャンテ家の人々はリチェスタに厳しく当たり、彼女を「良くない道」へ誘惑する存在は切り離そうとしてきた。だが、それはどうやら余計なことだったらしいと、最近になって思い至ったのだった。
娘を励まし、ここまで成長させたのは、友人の存在だったのだと、今回任務を任せて確認した。
「リチェスタを救ってくれてありがとう、ルイゼン君。インフェリア嬢にもそう伝えておいてくれ」
差し出された右手を、ルイゼンはそっととり、握り返す。このペンや楽器を扱う手で、彼は娘も大切にしてきたのだ。それは不器用な方法だったかもしれない。でも。
「伝えておきます。けれども、リチェの親はあなた方です。彼女を俺たちと一緒にいさせてくれて、ありがとうございました」
愛のかたちは様々だ。ときに望まないものになってしまうこともある。けれども、シャンテ家ならば大丈夫だろう。リチェスタの存在が、その証明だ。
「君はやはりいい青年だ。どうだ、将来はリチェスタの婿に」
「それはもう少し考えさせてください。よくできたお嬢さんなので、まだ自分にはもったいないです。もっと俺自身が成長してから、そのとききちんと答えを出します」
笑って返したルイゼンに、シャンテ氏は目を細めた。
襲撃者たちの思惑――文派を襲い、動かない軍を悪者にし、協力体制に瑕をつける――は、大体は外れたが、一部はその通りになってしまった。大勢の一般人がいるところへ銃弾を撃ち込むのは危険だという苦情が、数日後の司令部に何件か入っていた。
軍と文派の溝が埋まる日は遠そうだ。
「ベルの銃は百発百中なのに」
「そんなの、知らない人にはわからないだろ。とにかくここだけはうちの班の責任問題になったから、メイベルは始末書な。俺も書くから」
「理不尽だ。そこは突っぱねてくれないと困るぞ、リーダー様」
「ルイゼンさん、わたしも銃を使いましたけど……」
「カリンは集団に向けては撃ってないから免除」
メイベルと、彼女の実力をわかっているイリスは不満そうだ。だが、これも仕方のないこと。本来であれば軍側が使用武器の配慮をすべきだった。
しかし音楽祭は、来年も開催するという。そして軍は、私服での警護を次回も任されることになった。リーゼッタ班は抑止力を狙って軍服で任務にあたったが、どうやら上層部では目立つばかりであまり意味がないという結論に至ったようだ。
「来年も関われるのはいいけどさ、軍服ぐらい何よ。グラン大将の顔のほうがよっぽど目立ってたじゃない」
「まあ、それは……本人には絶対に言うなよ」
報告書と始末書をまとめたら、今回の仕事は終わり。今夜はリーゼッタ班が揃ってイリスの兄らの家に行き、お疲れ様会をやる予定だ。レヴィアンスも「もちろん行くよ!」と酒の手配をしていた。
「早く仕事を終わらせなければ、予定が狂うぞ。通常の仕事もあることを忘れないように」
「うわ、フィン、その書類何……。なんか多くない?」
歌姫の歌声と、奏でられる音楽のように、しがらみから解放され、調和し、どこまでも遠くにいけるよう。それがイリスたちの目指す、明るい未来だ。