エルニーニャ王国立の軍人養成学校には、三種類のコースがある。一つは十歳から入学し、一年間の学習と訓練を経て入隊の準備をするもの。一つは一般の学校で教育を受けた後で、軍人に必要な技能訓練を主とするもの。そしてもう一つは、十歳から軍に入隊するためにその一年前から準備を始めるものである。
十歳入隊を目指すコースは新設されてから十年も経っていない。優秀な人材の早期育成のために、第二十九代大総統ハル・スティーナのときに定められたのだ。同時に軍人養成学校にも特待生制度と奨学金制度が設けられ、入学試験の成績によっては学費の免除や減額が受けられるようになった。
軍人養成学校に限らず、エルニーニャの多くの学校は学費が高いために、裕福な家の子供が通うところという認識がある。制度がどんなに変わろうと、人々の意識はなかなか変わらず、現在も学校に通う子供は家計に余裕がある者ばかりだ。より多くの子供に学習の機会をと創られた私立の学校には、いわゆる中流層の一般市民が通うこともある。だが学校に行って学ぼうという意識を持つ人間は、まだこの国には多くはないのだった。
無論、貧困層には学校に通うなどという考えはなく、それならば子供でもできる仕事を探した方がずっと生活には役立つというのが普通だった。
軍人になるならば、ある程度自分で一般常識と相応の体力を身につけておけば、学校になどわざわざ通う必要がない。それゆえに、軍人養成学校を卒業した軍人のほとんどは、軍家や貴族家、商家といった名家の出である。


リッツェ家は文派の重鎮であるが、軍人も多数輩出してきた名家だ。幼少期からレベルの高い教育を受け、相応の年齢になれば国立学校に入学する。しかし学校は十歳になる前に一度退学し、軍人養成学校へと編入して、そのまま軍人を目指すのが家の習わしとなっていた。
エルニーニャ軍人は若い。三十代ともなれば退役し、第二の人生を歩むこととなる。その道として文派に属することを用意されているのが、このリッツェという家だった。軍人でありながら文派にも通ずるという姿勢を保ち、文派でありながら軍の事情にも精通している人間になる。四男であるフィネーロも、親や兄たちと同様に文武両道であることを求められてきた。
もっともフィネーロは、武というものがあまり得意ではない。身体を動かすよりもおとなしく本を読むのが好きで、机の上の勉強と頭の回転の速さならば、時に兄ら以上の力を発揮する。兄たちはそんな弟の特性をよく理解し、かつ末っ子をとても可愛がっていた。
なので、フィネーロも慣例通りに軍人養成学校に編入させると父が決めたとき、兄たちは反対した。この子にはずっと勉強をさせてやり、ゆくゆくは父のように国立大学で教鞭をとったり、研究にうちこんだりする方が良いはずだと。
しかし父がフィネーロに「どうしたい?」と尋ねると、八歳のフィネーロはおずおずと答えた。
「僕も、お父様や兄さんたちのように、軍人をやってみたいです」
動くのは嫌いではない。それどころか、フィネーロは好奇心旺盛な少年だった。おそらく兄たちが思っていたよりも、ずっと。

かくして九歳になる年の四月、フィネーロは軍人養成学校の学生となった。この学校に運動着以外の制服はないが、誰もが名家の人間らしく仕立てのいい服を着て初日に集まっていた。もちろんフィネーロも例に漏れない。
だからこそ、彼女の姿はとても目立っていた。周囲がひそひそと噂をし、眉を顰めるくらいには。
大勢の視線につられて、フィネーロも目を動かした。視界の端に映ったのは、周りに比べると、いや、フィネーロが知る「一般」に即しても、あまりにみすぼらしい恰好の少女だった。
ぶかぶかのシャツは袖を大きく捲り上げている。ズボンは綻びていて、しかも彼女の足には裾が短い。他に着るものがなかったのだとすれば、明らかな「貧民」だ。本来、軍人養成学校にはいないはずの。
普通はいても学費を懸命に捻出した一般人で、それでも着衣はきれいだ。髪だって整えている。けれども少女は、長く伸びた髪を梳かしもせずに束ねているようだった。せっかく琥珀か蜂蜜かという、綺麗な色なのに。
どうして、という疑問は周囲の声で解けた。あの少女はどうやら、最近になって始まった特待生制度によってここにいるらしい。特待生は入学金が無料で、その枠に入るには入学試験での好成績が必要だ。家柄は問わない、というのは本当の事らしい。
つまりあの少女は「できる」のだ。勉強も、運動も。どんな環境で育ってきたのかはわからないが。
同じ十歳入隊コースの、同じクラスになった彼女の名は、出席をとる際に知った。メイベル・ブロッケン。たしかにブロッケンという名前は聞いたことがない。返事をする声は女の子にしては低く、どこか機嫌の悪さが窺えた。
「態度の悪い貧乏人」というレッテルはたちまち学内に知れ渡る。彼女が特待生であることよりも、金を払わずに入学してきたということのほうが話題としては面白かったのかもしれない。フィネーロにはちっとも面白くはなかったが、彼女がその噂を耳にしているはずなのに特に何も言わないので黙っていた。
もとより、話しかけるきっかけを与えようとしない相手だった。いつも透明で分厚い壁を自分の周りに作っているような少女に、どう接しろというのだ。
そんな人物が同じクラスにいるということは、すぐにフィネーロの家族にも知れた。父は何も言わなかったが、兄たちは口々に弟を心配した。
そんな問題児が一緒で、この先まともにやっていけるのか。今年のクラスは、フィネーロは、気の毒だ。何かあったらすぐに言いなさい、兄さんたちが学校に駆けつけてやるから。
兄たちはまともな人なのだけれど、弟のことになると我を忘れることがある。これからは何があっても黙っていよう、とフィネーロは誓った。

最初の一か月、メイベル・ブロッケンはおとなしい学生だった。衣服がいつも体に合っていなかったり、ぼろぼろだったことを除けば、問題も起こさない。何を言われても反論や反抗はせず、ただ黙々と授業を受け、実習に取り組んだ。成績はさすが特待生というべきか、どれも素晴らしかった。少なくともフィネーロは感心していた。
他人はどうだろう。その瞬間は黙ったようだが、以降も陰口は止まない。貧乏なくせに生意気だとか、軍人になるのもきっと金目当てだろうとか、そんな僻みを含んだ囁きがいつもどこからか聞こえていた。
文句があるなら、実力で示せばいいものの。それができないから僻むのか。そんな人間たちが、これから軍に入ろうとしているのか。そんな根性のまま大人になろうとしているのか。それを考えると、頭が痛くなった。
そうして五月の中旬、フィネーロは初めて彼女と接触する機会を得た。
「隣の席の人と、解答用紙を交換して採点するように」
そう言ったのはたしか、数学の教員だった。優しいと評判だが、やたらと学生同士を仲良くさせたがるので、人見知りをするフィネーロはこの教員の言動に度々困っていた。
他の学生たちからもこのときばかりは文句が出たと記憶している。自分の点数をクラスメイトに、それも大して仲良くない相手に知られるのは、あまり好ましくない。誰もが嫌々ながら解答用紙を机の上で滑らせて、隣の者に渡していた。
座席は決まっているわけではない。教室に来た順に、好きな場所に座ることになっている。彼女はいつも早くに来て一番前の端の席を確保していたが、その隣には誰も座ろうとしなかった。その日、家の都合で遅刻ギリギリに教室に到着したフィネーロには、その空いた席しか残されていなかったのだった。
隣から、解答用紙が差し出される。全ての欄がきちんと埋まった、見事なものだ。フィネーロも同様に空欄のない解答用紙を彼女に渡した。そのとき、案外彼女の字は読みやすいのだな、ということを知った。
「全問正解していた」
採点が終わった解答用紙を彼女に返すとき、フィネーロは何も考えずに一言を添えた。すると彼女は切れ長の目を見開き、こちらを向いた。その瞳は若草の色だった。
「何か問題でも?」
フィネーロが問うと、彼女は「いや」と小さく言った。
「ここに通うようになってから、初めて話しかけられたものだから」
彼女が纏っていた壁が薄くなったと感じた。驚いた顔は無防備で、フィネーロや他の学生と同じ、ただの九歳の少女だった。
休み時間に入ってから、フィネーロは彼女にさらなる接触を試みた。普段なら次の授業の準備と読書で暇を潰すところだが、今日はなんだか彼女と話をしてみたかった。
暇そうに欠伸をする彼女の手元にはノートはなく、代わりにくしゃくしゃになったのを広げたような紙が一枚あった。真新しい教科書と並ぶと、なんだか妙だ。
「まさか、その紙に授業の内容を?」
話しかけると、彼女は横目でこちらを見て、それから頷いた。
「ノートなんてきれいなものを買う余裕はないんだ。本当なら、私も働いて稼がなくてはならない」
低い声で律儀に返事をする。会話ができると判断し、フィネーロはさらにたたみかけた。
「じゃあ、なんで学校に」
「将来的に働いて稼ぐためだ。軍人になればいい稼ぎになる。学校を出れば何もせず試験を受けて入隊するよりも、確実に上の階級からスタートできる。当然貰える給料も多いだろう」
「いや、たしか十八歳までは支給制限があったはずだ。子供のうちは制限以上の給料は軍で管理し、制限がなくなったらまとめて返してもらえる仕組みになっている」
「制限……それは調べていなかった。だが、それまで生きて仕事をしていればいいんだな。制限がかかるといっても、家に金を入れる分には支障がない、……といいんだが」
しきりに金のことを気にするのは、やはり家が貧しいからだろうか。金のために軍人になろうとしている、という噂は間違いではないらしい。周囲は裕福な家の人間ばかりで、育った環境にも恵まれていて、金の心配などしたことがないだろう。フィネーロはそうだ。だから収入のことなど気にしていなかった。けれども彼女は、そこにこだわる。
「金が必要なのか」
「働いて対価を貰うのは当然のことだ。そしてそうでなければ生活ができない。私には、家族を養う義務がある」
そんなものは大人のすることだと思っていた。だが彼女はそうは思っていない。自分にこそその義務があるのだと、本気で考えているようだった。
「不躾で申し訳ないが、君は孤児なのか?」
「まさか。母親がいる。……ただ、あてにならない。あの人も働いてはいるけれど、稼いだ分だけ奪われてしまう。だから我が家には、より多くの収入と、それを守る力が必要なんだ。軍人になれば」
彼女の机の上にあった手が、強く拳を作る。爪が刺さりそうなほど、力がこもっていた。
「軍人になれば、その両方が得られる。私が実現してみせる」
若草色の瞳は宝石でも埋まっているのかというほどにギラギラと光って、ここには存在しない何かを睨み付けていた。そこに決意と怒りを見て、フィネーロは鳥肌の立った腕をそっとさする。
彼女には、確固たる目的がある。自分のように、家族がそうしているから自分もそうしたいなどという、ぼんやりした理由ではなく。もっとずっと先を見据えているかのようだった。
「……喋りすぎた。まあ、貧乏人の理屈だ、忘れてくれてかまわない。お前はこんなことは考えなくてもいいのだろうし、もっと有意義なことに頭を使ったほうがいい。記憶容量というのは限られているそうだからな」
投げやりに会話を終わらせた彼女の声に、授業開始のチャイムが重なる。気が付けばすでに教員が前に出ていた。クラス委員の号令で礼をし、授業が始まる。大総統史担当の教員は、すぐに前回の続きから話し始めた。
横目で確認した彼女は、真剣に授業を聞いている。教員の言葉を一言も聞き漏らすまいとして。

翌日も、さらにその次の日も、彼女の隣は空いていた。フィネーロはその場所を選んで座り、朝は彼女に「おはよう」を、帰りには「さよなら」を言うようになった。彼女はこちらを見ずに、同じ言葉を返す。休み時間にはぽつぽつと、授業のことなどを話した。
「最近、お前の噂を聞くようになったぞ」
何日か経った朝、挨拶の後に彼女が言った。
「リッツェが貧乏人に情けをかけてるって。そうなのか、フィネーロ・リッツェ」
たしかにそんな噂が流れ始めていた。彼女と話すのがフィネーロだけだったから、誰かが言いだしたのだろう。ついでに、女子は恋だのなんだのと言っている。「リッツェ君、趣味良くないね」だそうだ。
「誰かに情けをかけたことはない。僕は僕のしたいようにしているだけだ」
「そうか、お前は私に構いたくて構っているのか。変わった奴だ」
「変わっているか? ただ会話をしているだけなのに」
「普通の人間は、こんな汚い恰好をしている奴と話そうとは思わない。思ったとして、それは同情か恩を着せようとしているかだ」
フィネーロのしていることは、そのどちらでもないつもりだ。しいていうなら、興味だろう。そう正直に言ったら、彼女は「なるほど」と頷いた。
「それなら納得だ。私はお前とは違う人間だからな。お前は名家の坊ちゃん、私はここにそぐわない貧乏人だ。興味はあるだろう」
「そうではないのだが……。周りの声を気にしていなさそうだから、その平常心に感心しているんだ」
「そう見えるか」
彼女は鼻で笑った。子供の顔のまま、大人みたいな表情をする。
「くだらないことにいちいち反応していたら、頭の容量と労力がもったいない。それだけのことだ」
「なるほど。たしかにそうだな」
周囲の声など気にしていたら、彼女の目的を達成する邪魔だ。彼女の労力は、彼女曰く家族を養うために使われるべきなのだから。
「しかし、雑音が多いと集中しにくいのは事実だな」
「すまない、僕が君の邪魔をしているんだろう」
「お前は邪魔じゃなくて気分転換だ」
子供なのに大人びていて、賢くて、気が利いて。なにより家族思いで。フィネーロから見れば、このクラスでメイベル・ブロッケンより出来た人間はいない。末っ子で甘やかされてきた自分が恥ずかしくなるくらいだった。
これからも彼女から学ぶことはたくさんあるだろう。そのために、できるだけ一緒にいたい。誰かの言うような恋とかではなく、きっと憧れが一番近い感情だ。
だから、彼女の頼みには驚いた。
「ところで、私は教科書以外の本というものをまともに読んだことがない。お前は私と話してばかりいるが、本当は読書が好きなんだろう」
「まあ、読書は好きだが」
「何が面白いんだ、教えてくれ。妹たちに話してやりたいんだ。私は何も知らない」
憧れは上の人間に抱くものだ。しかし彼女は、自分は何も知らないのだと言う。教えてほしいと言う。それが不思議だった。
フィネーロはちょうど鞄に入れていた本を取り出し、彼女に差し出した。
「読むといい、自分で。これくらいなら、君はすぐに読み解ける。噛み砕いて家族に話すことだって容易だろう。お薦めはいくらでもあるから、読みたいものがあれば言ってくれ」
彼女は、しかし、本を受け取らなかった。手を伸ばそうとはしたが、すぐに引っ込めてしまった。目が泳ぎ、いい、と答える。
「物を借りたくない」
「じゃあ、学校で読んでしまうのはどうだ。内容を覚えるくらいの容量は、君の頭なら十分に残っているだろう」
自分でも驚くほど強引に、フィネーロは彼女に本を押し付けた。やっと本を受け取った彼女は、その表紙をしばらく眺め、紙の並びをなぞってから、小さな声で「感謝する」と言った。
その日彼女は、授業が終わっても帰らなかった。本を読みふけり、席を立とうとしない。フィネーロは何も言わずに先に帰った。彼女は借りたくないと言ったが、引き上げるわけにもいかない。
遠慮せずに借りていればいい。持って帰って、妹や弟に読み聞かせてやればいい。何日でも、好きなだけ。――そう思っていたのだが。
翌日、本は無残な姿で返ってきた。
「すまない」
千切れた表紙と、破られたページ。汚れて、よれて、ぼろぼろになってしまったそれを、彼女は朝の挨拶よりも先に差し出してきた。
「どうしたんだ」
「……こうなってしまうから、借りたくなかった。しかしお前は先に帰ってしまったし、どうしたものかと考えて、結局持ち帰ったんだ。隠していれば大丈夫だろうと思っていたのだが、甘かった」
答えになっていない。けれども、彼女の家庭で何かあったのだということは予想がついた。妹や弟がやってしまったことならば仕方がないだろう。
「僕は気にしない。本の修復なら、兄さんが得意だ」
「直るのか」
「ああ。どうやら君は、壊れたパーツを全て持ってきてくれたようだし。それより、内容は覚えられたのか」
彼女の手から本と本だったものを受け取り、フィネーロは尋ねた。彼女は瞠目し、「それより?」と低い声で呻く。
「自分のものを壊されて、怒らないのか、お前は」
「僕は別に。壊れるものなら仕方がないだろう」
席に着いたフィネーロを、彼女は睨む。強く、鋭く。そして首を傾げたこちらに告げる。
「やはりお前は坊ちゃんだな。私とは余裕が違う」
透明な壁が、せっかく取り払われつつあったものが、また厚くなってしまったような気がした。

夏になると、訓練の授業が本格的に始まった。各々武器を選び、その扱いを覚える。選択ごとに教員も異なり、いつものクラスとは違うメンバーが顔を合わせるようになる。
フィネーロは武器が決まらなかった。訓練は体術を習う全員共通のものと、武器を扱うものを必ず受けなければならないのだが、武器の適性がわからない場合は無難なものに振り分けられることになる。すなわち、軍で最も使用頻度の高いもの――剣や銃だ。剣はさらに細かく、長剣や短剣などに分かれる。
「武器の適性が見つからなくても、一つ基本を押さえておけば、試験には合格できます。リッツェ君はどうしますか」
「では、ナイフで」
重い剣や衝撃の強い銃は、自分には不向きだと感じた。そこでナイフを選んだのだが、これもまたフィネーロにはなかなか扱いにくい。まず、相手の懐に飛び込む動作が難しかった。
もっと訓練しなければ追いつけない、と悩んでいる間に、彼女の噂が聞こえてきた。迷いなく銃を選んだ彼女は、訓練で優秀な成績を誇っているらしい……というのは聞こえが随分いい方で、周囲の言葉通りなら「鬼気迫っていて怖いくらいだ」という。
基本の拳銃だけではなく、あらゆる火器の構造と扱いを瞬く間に習得し、実践してみせる。彼女一人で的をぼろぼろにし、それが人型ならば確実に急所を狙う。軍人になりたいのか人を殺したいのかわからない、と教員がぼやいていたこともあった。
もちろん軍人養成学校の卒業生がむやみに人を殺すようなことはあってはならない。軍の規則ではやむを得ない場合に限り相手を殺してしまうことになっても罪には問われないことにはなっている。だが、そんな状況は無くしていきたいというのが現在の軍の考えだ。いくら凶悪犯でも、殺してしまえば事件の真相はわからなくなってしまう。
彼女には指導が入った、と聞いたのは汗ばむ日が続く頃のことだった。ちょうどフィネーロが武器の変更を考えたほうが良いと、教員から指導された時期と同じくらいだ。
「ブロッケン、教員から何か言われたのか」
席はずっと隣だった。だが、会話は破れた本を返された日を境に激減していた。だから話しかけるのには、少し躊躇いがあった。けれども彼女はいつもの不機嫌そうな声で返事をしてくれた。
「ああ、もっと落ち着いて訓練に臨めと。実際に任務に就いたとき、今のままだと問題だと言われた」
「問題?」
「手加減を覚えないと死者を出す、だそうだ」
うんざりしたように溜息をついて、彼女はフィネーロに向き直った。久しぶりに真正面から、若草色の瞳を見た気がした。
「なあ、リッツェ。お前はお坊ちゃんだからわからないかもしれないが、一応訊く。性根から悪である人間は、排除すべきではないのか。そのほうが世のためじゃないのか」
いつかのように、ギラギラした眼。彼女は正義感が強いのだろうか。少々、極端な方向に。
「他人の性根なんて、わからないだろう。それに一方的な排除は物事の包括的理解に繋がらない」
「理解する必要が? そもそも理解など可能なのか? お前には、できるのか?」
自分には、と考えるとフィネーロも言葉に詰まる。理解する、というのは難しいだろう。身内でさえ考えを理解したり納得したりすることが困難なのだ。しかし、だからといって考えないというのは、違う気がする。排除するだけでは解決しない。フィネーロは父からそう教わってきた。
「……理解できなくても、物事の原因を探ること、同様の事件を防ぐことは、多少なりともできると思う。僕がなりたいのは、そういう軍人だ」
もっとも今の実力では、それすらも難しいかもしれないのだが。つい唇を噛みそうになったところで、彼女が鼻で笑った。
「いいな、お前は。先のことが考えられて。やはり余裕が違う」
「以前もそう言っていたな、君は。君には余裕がないのか」
「ない」
きっぱりと一言で返す彼女は、もうフィネーロを見てはいなかった。
それから数日が経ち、体術の男女合同訓練があった。普段は体力差や体格差を考え、男女別になっているのだが、実戦ではそうもいかない。ときどきは合同での訓練を行い、互いに対応を学ぶというのが趣旨だ。けれども体力差や体格差の考慮はそのままだ。フィネーロは力のさほど強くない女子を相手にすることになり、彼女は――フィネーロが知る限り、クラスで最も力のある男子と組んでいた。
さすがにあれは可哀想じゃないか、と男子らは失笑する。女子らは「実力で決まったのなら仕方がない」と言っていたので、彼女の成績が女子トップであることは確かなようだ。
合図とともに組手が始まる。初めのうちは男子が手加減しようとするが、次第に本気の女子に押されていく。男だろうが女だろうが、最終的に目指す場所は一緒なのだから、油断は禁物だ。フィネーロなどは手加減などするまでもなかった。相手の攻撃を受け止めるより、かわす方が多くなってしまう。上手に受け身をとることも訓練の一環だというのに。
苦戦しているところで、担当教員が「止め」と号令をかける。ふらつきながらも呼吸を整えようとしていると、大きな音が体育館内に響き渡った。
床に何か叩き付けたようなそれに、教員までもが即座に反応できなかった。受けた当人すら、何が起こったのかわからなかっただろう。周囲は茫然と、音の方向を見ていた。
そこには彼女が仁王立ちになっていた。冷たい眼で見下ろしているのは、クラスで一番強かったはずの男子だ。彼は床に仰向けになって倒れ、手足が不規則に震えていた。
「痙攣?! おい、大丈夫か!」
教員が慌てて駆け寄り、保健委員が体育館の外へと走る。養護教員が体育館に入ってきた頃には男子学生の痙攣は治まり、意識も戻っていたが、様子を見るために体育館の隅で診察が始まった。
「ブロッケン、何をした?」
眉を寄せた教員が問い詰めると、彼女は平然と返した。
「頭を蹴り、バランスを崩したところでさらに腹に頭突きをしました。倒れかかったところでもう一度頭に一発」
「頭部への攻撃は禁止したはずだ! 銃の訓練でもそうだったが、お前の行動は危険すぎる」
「すみません。相手が訓練と関係のないことを言ったものですから、つい頭に血が上ってしまって」
謝ってはいるが、そこに反省の色は見えない。「本気を出して何が悪い」と言う彼女が、フィネーロの脳裏をよぎった。
「訓練と関係のないこととは?」
「私に対して『貧乏人は靴磨きでもしていろ』と。私だけでなく労働への侮辱でもある。こんな人間が軍人になるのだと思うと、ここで頭でも打って諦めさせた方がいい気がした」
体育館中が息をのんだ。教員に向かってあまりに正直すぎる発言をしたことと、相手に重傷を負わせる意図があったこと。彼女のしたこと全てに、教員も学生も絶句した。
だがフィネーロは、やりすぎだとは思ったが、彼女の気持ちはわからなくもない。我慢をしていたのだろう、ずっと。
「彼には病院で検査を受けてもらう。もし異常があり、障害が残るようであれば、相応の処分がある」
そう言われて、彼女はやっとほんの少しだけ動揺したようだった。口元が僅かに歪む。
幸いにも、相手の男子に異常はなかった。処分――もしかすると退学もあり得たかもしれない――を免れた彼女は、しかし厳重注意を受け、またしばらくおとなしくしていた。

夏の盛りの頃に、二週間ほどの連休がある。学校に行かないあいだの学生の過ごし方は様々だが、フィネーロに関していえば読みかけの本を読み終わり、新しい作品に手を出せる期間だ。少しばかり課題が出されているが、それは初日に片付けてしまえばいい。
図書館で勉強をし、本を借りて、ついでに書店にも足を伸ばそう。計画を立てて暑い外へ出た。図書館の前には数人の子供がいて、商店街の催し物についてのチラシを配っている。一枚受け取ると、配っていた女の子がにっこりと笑った。
顔はまるで似ていない。けれども、琥珀色の髪と若草色の瞳は、すっかり馴染んだものと同じ色だった。
「ありがとうございます。ぜひ来てみてくださいね」
年齢は六つか七つといったところだろうか。幼いのに、汗を流しながらチラシの入った籠を抱えている。傍らにはまだ開けていない箱もある。彼女と出会わなければ見過ごしていただろう。
この街には、そこかしこに「働く子供」がいる。中心部からは少し離れた場所に住む子供たちだ。富裕層の住む立派な家が建ち並ぶ区画があるのと同じくらい、古く簡素な家並の低所得者層の住む区画も存在する。働くことにこだわる彼女も、そういうところに住んでいるのかもしれない。
「カリン、まだ残っているか。もう一箱は引き受けるぞ」
図書館のエントランス前で物思いに耽っていると、聞き覚えのある声がした。彼女の事を考えていたから幻聴でも聞こえたのかと思ったが、振り向くと現実だった。琥珀色の髪の少女が、もう一人。
「……ブロッケン」
「ん、リッツェか。こんなところで何をしている」
彼女は同じ髪の色の少女の足元から、箱を持ち上げようとしていた。よっ、と言いながら箱を抱え直したので、少し重いらしい。いったいどのくらいのチラシが入っているのだろう。
「僕は課題をやりに。君こそ何を?」
「せっかく学校が休みなんだ、稼ぎ時だろう」
当たり前のように言って、彼女は去っていこうとする。この場に残った籠を提げた少女が振り返り、フィネーロにもう一度笑顔を見せた。
「お姉ちゃんのお友達ですか?」
「友達……かどうかはわからないが。君は彼女の」
「妹のカリンです。いつもお姉ちゃんがお世話になってます」
ぺこり、と頭を下げてから、続いてやってきた人にチラシを差し出す。――働いて対価を得なければ、生活ができない。こんな小さな子供までもが。
「あの、余計なことかもしれないが、役所に行って生活補助金の申請をしたほうが暮らし向きは楽になるんじゃないか」
思わず口を出したフィネーロに、カリンは困ったように笑って首を横に振った。
「できないです。お姉ちゃんが役所で聞いてきたんですけれど、そういうのって大人が申請しないとだめなんですって。うちだとちょっと、それが難しくて」
見た目よりもしっかりと、はっきりと、少女は答えた。そしてまたチラシを配り始める。何事もなかったように。
そして人が途切れると、フィネーロを振り返って言うのだった。
「できたら、お姉ちゃんとずっと仲良くしてください。お姉ちゃん、学校のお友達の話をするときは、楽しそうだから」

夏期休暇の初日しか、彼女には会わなかった。だが、そのときには彼女は元気そうだった。
少なくとも、顔に大きな青痣などなかった。額と目元と頬が青黒くなり、見る人が思わず短い悲鳴を上げるような、そんな顔ではなかったはずだ。
「おはよう、リッツェ。休みはのんびりできたか」
「おはよう。君、その顔はどうした」
「ああ、夏だからな。化け物は夏が一番流行るだろう」
真顔で冗談めいたことを言う彼女は、それ以上を話さなかった。教員に呼び出されて戻ってきてからは、ずっと不機嫌そうだった。怪我のことを聞かれたのだろうが、おそらく詳細を語ってはいないだろう。
これまで彼女や彼女の妹から聞いた話を思い出す。彼女とのあいだにあった出来事を振り返る。どう考えても、彼女の家に問題がある。だが、他人の家はフィネーロが踏み込んでいい領域ではない。彼女が絶対に踏み込ませない。
彼女は今日もくしゃくしゃの紙に授業の内容を書いていて、傍らの教科書は気づけば破られた表紙を貼りあわせてあった。いつかフィネーロが貸した本を思い出す。
「休みのあいだ、ずっと働いていたのか」
「そうだな。それがどうかしたか」
「課題は」
「やったぞ。そうだ、リッツェに見せてもらえば答え合わせができるな」
そう言って彼女が取り出した紙束も、一度乱暴に破られた跡があった。


怪我をしていても彼女の成績は良く、運動能力は高かった。怪我はそのうちきれいに治り、そしてその頃には軍入隊のための模擬試験や実技試験に備えた本格的な演習が始まっていた。入隊試験は三月。これは軍人養成学校の卒業試験でもある。
クラスでは、筆記試験ならフィネーロ、実技試験なら彼女がトップに立つようになっていた。入隊試験でも好成績があげられそうだと期待されている。学校を卒業すれば入隊時の階級は高くなるが、全体の成績で学卒者がトップに立つことは珍しい。だから成績が良いと、今度こそはと期待がかかるらしかった。
「リッツェの家は名家だから、きっと家族は一番になってほしいと思っているんだろうな」
「そうでもない。家族は僕にはあまり期待していないんだ。頭は良いが、軍で功績を上げるのは難しいだろうと、みんな思っている」
秋になっても――じき入学から半年が経とうとしていた――フィネーロに対する家族の評価は変わっていない。兄らは今でもフィネーロに一般の学校に戻るよう勧めてくる。きっと軍に入っても認識は変わらないだろう。何か大きな功績をあげない限りは。
しかし、例えば北方司令部で諜報部員として成果をあげ、重宝されている長兄と比べられてしまったら、フィネーロなどは何をしてもちっぽけなまま、小さな末っ子のままなのだろう。半ば諦めながらも、自分の選んだ道からおりるつもりはない。
「ブロッケンこそ、家の稼ぎ頭になるんだろう。期待されているんじゃないか」
「妹や弟からはな。早く稼げるようになって、いい服を着せてやりたい。そうしたらチラシ配りや靴磨きだけではなく、どこかの店で販売や案内ができるかもしれない」
彼女が働いても、妹たちもまだ働かなくてはならないようだった。彼女もまた、家の状況がすぐに変わるということはないらしい。もっとも、フィネーロはその状況とやらをいまだによくわかっていないのだが。彼女は依然として、詳しいことは何も語らない。
それからも進展はなかった。彼女はときどき青痣を作って登校してきては、教員に呼び出されている。フィネーロはとうとうその理由を聞けないまま、年を越し、卒業試験――入隊試験の日を迎えた。
結論からいって、トップにはなれなかった。学校に通っていない者がいつも通りに優秀な成績を残し、学卒者はそれに続く形での合格となった。特に実技はずば抜けて高い能力を持つ少女がいて、勝てる者がいなかった。まさに波乱の試験だったのだ。
ともあれ、フィネーロも彼女も、エルニーニャ王国軍中央司令部に伍長として配属が決まったのだった。

事件は入隊後間もなくして起こった。まだ寮の部屋も決まっていない頃、彼女はいきなり謹慎処分を受けた。なんでも上司の許可なく勝手に行動を起こしたそうで、その結果一人の男が捕まったものの、手柄は上司のものになった。
捕まった男の名はブロッケン。正真正銘、彼女の父親だった。
「妻と子供を虐待していたそうだ。酒浸りでよく暴れ、薬にも手を出していたんじゃないかと、余罪を追及中。軍に早くに通報してくれさえすれば、ブロッケン伍長も勝手なことをして謹慎になんかならなかっただろうに」
そう教えてくれた上司の言い分を、フィネーロは納得できず、けれども彼女が軍人になろうとした理由はようやく理解できた。
彼女は家族を守る力が欲しかったのだ。自分の手で家族を苦境から救いたくて、この道を選んだのだ。そしてそんな現実を知らないフィネーロには、知らないままでいてほしかったのだろう。だから本を借りることを拒否したのだ。あれから何を薦めても、彼女は学校で読むようにして、フィネーロが帰る頃には返すようにしていた。
謹慎にはなってしまったが、きっとやり遂げたのだろう。彼女は家族を救えたのだ。――そう思っていたのに、処分期間が終わって戻ってきた彼女は、まったく嬉しそうではなかった。
「私は家を壊してしまった」
明日には寮に入るというその日、彼女はフィネーロの隣でぽつりと呟いた。
「壊した、とは」
「あの男のせいで元々壊れていた家だったが、それなりに均衡は保たれていたんだ、多分。それを私が崩した。母には随分罵られたよ、『お父さんを売るなんて、なんて子だ』って」
ブロッケン家は救われなかった。彼女一人では、子供の手だけでは、どうにもできなかったのだ。そしてそれを聞いたフィネーロにも、何もできない。こちらは完全に部外者だ。手の出しようがない。
それでも、彼女は話した。フィネーロが知ることを許した。
「理解できないだろう、坊ちゃんには」
「……そうだな」
フィネーロは正直に頷いた。だが、彼女について、彼女とともに、考えることはやめたくない。
彼女も寮に入る。実家のことはすぐ下の妹に任せたという。母と一緒に生活することは無理だと判断したためだった。
「お前も寮に入るんだろう。せいぜい先日のように呼び出されて虐められることのないようにな」
「気をつけるよ。もう二度と君に助けられるなんて失態はごめんだ」
「だが、何かあったら手は貸してやる。私はお前に恩があるからな、フィネーロ」
「僕も恩返ししなくてはならないな。これからもよろしく、メイベル」
差し出した手はとられることがなかった。そのかわり、彼女は「恩返しなら」と口角を持ち上げる。
「本を。どうせ寮にも持って来るんだろう、貸してくれ。今度は誰にも破られないし、ゆっくり読める」
彼女と同じ表情で、フィネーロは「もちろん」と返した。