こんなはずじゃなかったんだけど、と言う声色はしみじみとして、どこか弾んでいる。いつか同じ台詞を、呪いを込めて吐き出したことを、彼は憶えているだろうか。
――憶えているに決まっている。忘れられるわけがない。
瞼の裏にはあの日の光景が焼き付いていて、鮮明な夢として何度も繰り返される。その罪を忘れるなと、いつまでも。
それなのに、目の前に広がる光景はあまりにも明るく、響く声は優しい。――こんなはずではなかったのだ。幸福など、それも「家族」というかたちをしたそんなものは、得られないと思っていた。

「ごめんね、ブラック。重いもの全部持たせちゃって」
眉を下げて、しかし口元は緩ませて、アルベルトは言う。その両手は片方ずつ少女たちに握られていて、軽く揺すられていた。
不自由な右手をとるのは、彼の娘であるアーシェ。ついさっき痛めた左手は、ブラックの娘であるグレイヴが手を添えている。
一方、ブラックは丸めたシートやバスケットなどの荷物を両腕いっぱいに抱えていた。
「かまわねーよ。お前のドジなんか最初から見越してるからな」
「最初から……相変わらず酷い言い草だなあ」
酷いと言いながらも、アルベルトは実に嬉しそうに笑っていた。なにしろ出会った頃は、「最初から見越している」ことができるほどの関係になれるとは思っていなかったのだから。
腹違いの兄弟である二人が出会ったのは、15年前の春。その血を繋げていたのは、それぞれの家族を壊した仇だ。
そんな血は意識したくなんかなかったから、特にブラックはアルベルトを兄だとは認めたくなかった。しかしアルベルトは、ブラックを弟として見て、関わろうとした。
仇を追い、辿り着き、倒す過程で距離が近づき、いつしかごく自然に付き合えるようになっていた。――これも、こんなはずではなかったのだ。
「お父さん、まだ手は痛い?」
「ちょっとだけ。どうして葉っぱに触れただけでこんなに痛むんだろうね」
「何でもかんでも迂闊に触ってんじゃねーよ」
「父さん、アタシも荷物持とうか」
「いや、荷物よりそっち頼む。変な方向行ったら困る」
そうして迎えた、自分たちが父親であるという現在。これも信じられない事だった。
今でも、何が夢で何が現実なのかがわからなくなる。全てが事実であると呑み込むことを、毎朝毎晩繰り返す。
――父殺しが父親気取りか。
人の記憶は声から忘れる、なんてことは自分たちは信じていない。詰る声はいつだって、手にかけた仇の色をしている。

出会ったのが15年前なら、父を殺したのも15年前だ。あの年はまさに激動で、自分たちのみならず周囲で様々なことが起きていた。
気づかないうちにゆっくりと変化していく時代の流れもあれば、人生や価値観をいっぺんにひっくり返すような出来事もある。当時はまさに後者であった。
いや、ゆっくりした変化というのは、自分が出来事に巻き込まれていない状態のことをいうだけなのかもしれない。誰かしらは急激な変化の中にいて、そうすることで世界は動いているのかも。
子供が生まれてから、そんなことを考えるようになった。
父になるというのは、先にそうなったブラックにとっても、弟の変化を見ていたはずのアルベルトにとっても、覚悟のいることだった。なにしろ自分たちは、「正しい父親」というものを一切知らない。のみならず、自分たちの手で父であったはずの男を葬った。
戸惑いはいつまでもなくならないまま、我武者羅にもがいて、気がつけば娘たちはそれぞれ11歳と10歳になっていた。アルベルトに至っては、8歳の息子もいる。
こんなはずではなかった。こんなに、幸せになるはずでは。

だからこれは、報いなのかもしれない。
「寮に入ったら、暫くお父さんとは会えなくなっちゃうね」
娘たちは、まもなく危険の中に身を置くことになる。かつて自分たちもいた場所で、戦わなければならない。その道を選んでほしくはなくとも、彼女らがそう決めたのだ。
「心配だなあ。お父さん、すぐどこか怪我しちゃうんだもの」
「大丈夫。僕にはお母さんとリヒトと、ブラックもいるから」
「おい、オレを頭数に入れるな」
道を遮るものを撃ち抜き斬り捨ててきた自分たちが、どうして彼女らの選んだ道を阻めるだろう。
彼女らは選べた。そこから決意を持って選びとった。そこには自分たちの持っていたような、昏い復讐心などない。

いつか、娘たちは自分たちの15年の全てを知るかもしれない。
その時、恨まれるのはきっと仕方がない。
そうでなければ、やはり、こんなはずではなかったと思うのかもしれない。
それでも後悔はしないでおこうと思う。たとえ汚れていても、この15年が、そしてもっと以前がなければ、現在はないのだから。