タスク・グランはエルニーニャ王国軍大将であり、中央司令部将官室長だ。
実力が高いが故に態度は尊大で、時に傍若無人な振舞いは部下たちを困惑させる。強さこそが正義であるという主張には辟易する人間がいる一方で、信奉する者も少なくなかった。
――が、最近は随分と大人しくなった。本人が隠しているつもりで全く隠しきれていなかった大総統への反抗心もなりを潜めている。
嵐の前の静けさではと思う者もいたが、実は嵐の後であった。
苦虫を噛み潰したような顔で、ルイゼンが事務室に戻ってきた。書類をまとめていたブロッケン姉妹のうち、妹のカリンは心配そうな視線をくれ、姉のメイベルは鼻で笑う。
「何か大変なことでもあったんですか?」
「聞くだけ時間の無駄だ。どうせ閣下に無茶ぶりされたんだろう。大方、あの単細胞大将を手伝うように言われたというところか」
相変わらず辛辣なメイベルだが、事態を正確に把握している。もっと冷静な表情を作らなければと、ルイゼンは眉間を揉んだ。
「あまりそういうことを職場で言わないように」
「大丈夫ですか? お姉ちゃ……大尉の言う通りなら、ちょっと辛いお仕事だと思うんですけど」
カリンはルイゼンの腹部に目を落とす。数ヶ月前には刺されて深手を負っていたところだ。直接の加害者は罰を受けているが、元はといえばタスク・グランが加害者を唆して起こした事件だった。
「わたし、これだけは閣下がわかりません。どうしてあの人は咎められずにいられるんでしょう。それどころか大きな仕事のリーダーを任されるようになりましたよね」
姉ほど言葉は悪くないが、募る不信感は同等だ。あまり似ていないと言われる姉妹も、眉の顰め方には血の繋がりを感じる。
「閣下には考えがあるし、俺は自分の仕事を全うする。心配するな」
カリンに笑顔を見せて、ルイゼンは自席に向かう。事務仕事を片付けつつ、先程任された仕事の準備を進めなければならない。
かねてより軍が追い、ルイゼンたちにも無関係ではない「人身売買案件」。仲介組織の情報を得たので、数日中に乗り込むことになった。実働部隊のリーダーに指名されたのはタスクであり、ルイゼンはその補佐を務めるように指示されている。
勉強しといで、と大総統レヴィアンス・ゼウスァートは言った。彼の含みのある笑顔と、補佐大将レオナルド・ガードナーの目配せで、ルイゼンは自分の本当の役割を察した。
損な役回りであることには間違いない。だが、それでもやらなければならない理由がルイゼンにはある。
頼んだよ、と頭の中で声が響く。尊敬する先輩の穏やかだが厳しいそれが、今の彼を奮い立たせていた。
大総統執務室では、レヴィアンスがコーヒーを啜っていた。丁寧に落としたものではなく、泥のようなインスタントだ。
「レヴィ兄、そんなに悩むなら別の方法を取ったら良かったのに」
イリスは呆れて息をつく。先程までのルイゼンとのやりとりの一部始終を見ていた彼女は、その場の全員の疲弊を感じていた。
「案が全くないわけじゃないんだよね。だったらもうちょっと全体的に負担を軽くできたんじゃない? いっそグラン大将を外しちゃうとか」
「いや、タスクとルイゼンを同時に育てる機会だからそこは変えられない。二人だけじゃなく、マー坊とかも皆。これを乗り越えたら色んなことが楽になる」
今だけだよ、と言うレヴィアンスに、イリスはさらに続けた。
「そんなに色々詰め込んで、上手くいくかなあ。統率が取れなくて対象を逃がしたら、仕事としては大失敗でしょ」
「失敗はさせない。そのための配置だよ」
目の下が黒いところを見ると、徹夜で考えたのだろう。今回の案件にレヴィアンスは多くのものを賭け、そして勝つつもりでいる。
「イリスさん、閣下と皆さんを信じましょう。ルイゼン君の実力については貴方もご存知でしょう」
ガードナーが微笑む。イリスが「そりゃあ、まあ」と呟くと、彼はゆっくりと頷いた。
「求められ評価されている彼らの実力とは、立ち回りに限ったものではありません。洞察力や正確な伝達、他者との協力が出来るかなど、あらゆる面を総合して今回の精鋭部隊が構成されています。たしかにルイゼン君はタスクのブレーキ役として、少し荷が重いかもしれません。ですがタスクだって、きちんと力を認められて大将の地位にいる人間です。間違った使い方をしなければ、彼は非常に優秀なんですよ」
その間違った力の使い方で、ルイゼンは怪我を負っているのだが。まだ納得がいかないイリスだったが、話はドアを叩く乱暴な音で遮られた。返事をする間もなく開かれる。
「閣下、今度の任務の計画書だ。確認願おう」
よく通る声に尊敬は一切感じられない。げんなりした表情を隠すように、イリスは立ち上がって一礼した。
「タスク、もう少し静かに」
ガードナーは闖入者を諌めるが、相手は馬耳東風といった様子だ。大股で執務机の前まで来ると、レヴィアンスに片手で書類を突き出す。無礼極まりない態度に、しかしレヴィアンスは怯むどころか笑顔まで浮かべていた。
「ご苦労。すぐチェックするから、そこに座ってなよ」
「読んで判を押すだけだろう」
大袈裟な、と文句を言いながら、タスク・グラン大将はイリスの向かいに座った。以前は状況に応じて言葉や仕草を取り繕うくらいしていたと思うのだが、最近はそれもない。普段は自分もレヴィアンスに気安く絡むことが多いくせに、イリスはつい口をへの字にする。
「インフェリア、その顔は何だ。まさか私に文句でもあるのか」
相手や場面でタスクの一人称は「私」だったり「俺」だったりする。イリスの父も一人称を使い分けることがあるが、絶対に同質のものだとは思いたくない。父は「私」を使って無闇に威張らない。
「まさかも何も、これで文句ないのは心広すぎだと思います」
「なんだと、貴様……!」
「イリス、めんどくさいからオブラートに包んで。タスクはちょっと来て」
レヴィアンスが手招きすると、タスクは素直に従う。一応手懐けているらしい。
「もう判を押したのか」
「押してもいいんだけどね。多分これでほぼ上手くいくと思うし、オレが思ってたのとそんなに違わない」
うそぉ、と漏れそうになった声をイリスは手で抑えた。レヴィアンスがにやりとして続ける。
「でもさ、まだ他の人に見せてないよね? 今回はトーリス准将とリーゼッタ中佐が補佐するから、せめてこの二人には先に意見を聞いてほしい」
「閣下が認めさえすれば、彼らには従わせるだけだ。計画に問題はないのだろう」
「オレとタスクは考えが似てるから、視点の違う考えも欲しいんだよ。全体会議での余計な折衝を避けて、現地で楽に動くためにも、ちょっと話し合っておいで」
タスクは不満そうな顔をしながらも、返された資料を受け取った。「失礼する」と言った声は入ってきた時よりも随分と小さかったが、それでもイリスは驚いていた。
「よく納得させたね……」
「イリス、タスクのこと野生動物か何かだと思ってない? アイツは将官室長として、内務を長くやってきてるんだよ」
ただ横暴なだけでは、その立場には至れない。上に立つならそれなりの積み重ねがある。実績も、不満も。イリスがよく知るタスクの一面は、不満が激しく噴出した結果だ。
なるほどと思っていると、ガードナーが目を細めた。
「タスクは閣下に打ち解けてきましたね」
親が子供に愛情を持って向ける眼差しに似ている。またも困惑するイリスをよそに、レヴィアンスも頷いた。
「ちょっとは信頼してくれるようになって良かったよ」
「え? あれで?」
「はい。距離を縮めた相手には素で振舞います。それでも許してくれるはずだという信頼が、彼の中にはあるようです」
子供のようだ、とイリスは思う。人を態度で試すなんて、あまり褒められたことではない。口をとがらせ扉を睨んでいると、ガードナーが眉を下げた。
「彼も多くの人がそうであるように、苦労をした経験があります。そして同じように、これからどうするべきかを考え、自分を変えていくでしょう。イリスさんは大切な人を傷つけた彼を許せないかもしれませんが、それはそれでいいので、気が向いたら見てあげてください」
イリスとルイゼンが幼馴染であるように、ガードナーもタスクとの付き合いは長い。思うところはあるはずだ。誰も知らない彼らだけの認識だって。
イリスは頷き、自分の仕事に戻った。
――すごいですねえ、坊ちゃんは何でもお出来になる。
感嘆の声を聞きながら、新品の武器を手入れする。手にはまだ馴染んでいないが、今日一日十分に訓練すれば実戦で使うのに問題はないだろう。
練習相手は様子を見に来たという年配の女性に捕まっている。どうやら実家の使用人らしいが、邪魔をするならさっさと帰って欲しい。
――奥様にも伝えます。きっと褒めてくださいますよ。
知らず、奥歯を噛み締めていた。
ベッドに突っ伏していると、名前を呼ばれた。続いて首に冷たいものが押し当てられ、思わず情けない声が出た。
「フィン、やめろよ。びっくりするだろ」
「普段は気配で起き上がるだろう。余程疲れているんだな」
フィネーロが差し出したグラスには、淡いオレンジ色の液体が泡を立てている。フルーツシロップを炭酸水で割った飲み物は、いつもならルイゼンがフィネーロに作ってやっているものだ。
「ありがとうな。……トーリス准将と一緒に、グラン大将の計画書を見せてもらったんだ。文句があるなら言えって言ったくせに、こっちが何か言おうとするとあからさまに不機嫌になるんだぞ、あの人」
眉根を寄せて愚痴を零したルイゼンだが、飲み物は美味しいと微笑んだ。フィネーロはホッとして続きを促す。
「計画書には指摘すべき問題があったのか」
「いや、そんなに。あの人、性格には難があるけど仕事はできるから。驚いたよ、あの作戦の立て方はレヴィさんの考えとよく似てる。本当にあの通りに動けたらいいだろうな」
「ああ、閣下の方針と似ているのなら、君は随分動きやすいだろう」
ルイゼンは入隊前からレヴィアンスに鍛えられている。だからこそレヴィアンスも安心と期待を込めて色々と任せてくる。それに慣れているので、たしかにタスクの計画は理解しやすく動きもとりやすいと感じた。だが。
「レヴィさんとの決定的な違いは、柔軟性だ」
本当にあの通りに動けたら――こちらの力が相手に左右されないほど圧倒的であれば、全く問題なく作戦は遂行できる。
しかし相手がある以上、予想外のことは起きる。もしものときにどうするか、という視野はタスクの方が狭い。こうするのが最善なのだからこうしろ、という考えが彼にはあまりにも強いのだ。
「成程。イレギュラーを許さない……閣下と似ていても相性は良くないな」
「そう。だからもう少しだけ余裕を持った方が良いんじゃないかと思ったんだけど、あの人は聞いてくれない。トーリス准将が例を幾つか出して対応を引き出そうとしたけど、そうしたら」
――精鋭部隊ならそんな問題は起こさないだろう。私の言う通りに出来ないのなら、そんなものは精鋭でもなんでもない。
ふんぞり返り、見下すような視線を投げるあの姿。大袈裟かなと思うくらいに真似てみせると、フィネーロが噴き出した。
「……見事な再現だ。それは腹が立っただろう」
「お前、笑ってんじゃん……。ムカついて言い返そうかと思ったよ、でも准将がさ」
――お言葉ですが、部隊に選出された者は、皆高い実力と自己判断能力があります。あなたの言う通りにしなくても既に「精鋭」だ。
マインラート・トーリス准将は上司に楯突くようなタイプではない。タスクとの関係も穏やかなものだった筈だが、おそらくはルイゼンの様子を見て矛先を自分に向けようとした。
案の定、タスクは激昂する。しかし彼が怒鳴るより先に、トーリスが続けた。
――「精鋭」の判断として、あなたの計画が最高のものであるとし、それに従います。あなたは私たちの力を信じてくださっているからこそ、先程のような厳しい言葉を使われたのでしょう。私たちもあなたを信じておりますので、万が一の場合には上に立つ者として適切なご判断をお願い致します。
深く頭を下げると、タスクは黙った。その後も話を進めようとすると度々不機嫌にはなったが、トーリスが場を調整してくれた。おかげでルイゼンも意見を述べることができ、タスクも最終的にはこの話し合いを有意義に感じてくれたようだった。
「トーリス准将はやっぱりすごい人だよ」
「そうだな。『そこまで言うなら責任持てよ』を巧く表現していた」
「うん。俺ならそのままそう言ってた」
だろうな、と笑うフィネーロも、ルイゼンのことをよく理解している。思えば長い付き合いだ。彼とも、トーリスとも。ルイゼンが入隊して間もない頃は、トーリスが面倒を見てくれていたのだ。
「グラン大将は、なんであんな態度とるんだろうな。同期のガードナー大将と違いすぎる」
「別の人間なんだから当然だろう」
「何かしらの影響は受けないか? フィンだって……」
「僕の同期はメイベルとイリスだが、影響されたのはどこだろうな。無鉄砲さとか?」
「……ごめん」
冗談だよ、と笑い合っているうちに、タスクへの疑問は頭の隅に追いやられた。
翌日、レヴィアンスの顔色が少し良くなっていた。ガードナーも安堵の表情を浮かべ、丁寧に落としたコーヒーを用意している。山は越えたんだな、とイリスも一安心した。
だが仕事量は相変わらず多く、イリスが朝から手伝わなければならないほどだ。気合を入れてかからなければ。
「レヴィ兄、こっちのはもう片付けちゃっていいんだよね」
「うん、お願い」
「閣下、おそらく午前のうちにタスクが来るかと。昨日は良いお話ができたようです」
「そりゃ良かった。じゃあその時間も考えとこう」
昨日の話といえば、例の計画書のことだろう。ちゃんとルイゼンたちと話し合いができたのか、イリスも気になっていた。
今朝、ルイゼンの様子はいつもと変わらないようだった。全く話の通じない大惨事には陥っていないと思う。
「ガードナーさん、グラン大将から何か聞いたんですか」
「少しだけ。どうですかと尋ねたら、満足そうにしていました」
数ヶ月前、ガードナーはタスクと対峙している。下手をすれば大怪我では済まなくなっていた筈だが、現在の関係はそれを感じさせない。
ガードナーの心が広いのはイリスも承知しているが、果たしてそれだけだろうか。二人の関係は外から見ただけでは推し量ることが難しい。
ともかく作業にかかろうと書類に向き直った途端、電話が鳴り響いた。ガードナーが素早くとり、応答する。
「大総統執務室です。……お客様、ですか。予定にはありません。お名前を伺えますか」
時々、急な来客がある。こちらも忙しいので事前に連絡が欲しいのだが、基本的にレヴィアンスが断らないために約束しない客は絶えない。
だが、ガードナーの顔色が変わったのを見て、レヴィアンスは珍しく身構えた。
「……少々お待ちください。閣下に確認します」
いつもなら「いいよいいよ、通しちゃって」と即答するところだ。だが、今回は名前を聞き、そして考え込んだ。
「グラン夫人がいらっしゃいました」
「……そっか、もう来ちゃったか」
どっちにしても怒るんだよな、という呟きを、イリスは聞き逃さなかった。「通して」と言う声に苦手が滲み、立ち上がる動作も渋々といった様子だ。会ってくるね、と部屋を出たのを見送ってから、イリスはガードナーに尋ねる。
「そんなに憂鬱なお客さんなんですか?」
「ええ、まあ。今回はタイミングも良くないですね。もしかしたらイリスさんが取次ぐこともあるでしょうから、今のうちにお教えしましょう」
イリスの正面に座り直し、ガードナーは息をつく。こちらも憂鬱そうだ。
「グラン夫人は、タスクのお母様です。今は月に一度気が向いたらという程度ですが、以前は二週間に一度くらいの頻度でいらっしゃっていました」
「グラン大将じゃなく、レヴィ兄に会いに来るんですか? どんな用事で?」
「先々代の頃からいらしてますよ。用件はずっと同じです。タスクの様子を聞き、より出世できるかどうかを確認なさいます」
先々代――それはつまり、タスクが入隊して以降ずっとということか。子の出世を打診する親がいるということは耳にしていたが、まさか。
「タスクの立場は正当なものですよ」
「ですよね。でも、今でも来るのはどういうことですか? だってグラン大将はもう将官室長だし、これより上って……」
もう大総統しかないのでは。大総統補佐は基本的に大将格から選出されるが、レヴィアンスはガードナーの他に尉官であるイリスを選んでいる。もはや階級は関係ない。
大総統の地位にしても、レヴィアンスは王に任命されているのだから、彼に訴えたところで仕方がない。
「以前は先代からの指名が基本でしたから、夫人の行動の理解はできます。正しくはありませんが。とにかく、彼女はタスクの立場に非常にこだわっています」
グラン家からは過去にも大総統が出ている。イリスの実家であるインフェリア家と同じ、由緒ある軍家なのだ。
グラン夫人は我が子の名も先人たちに連ねたかった。彼女は家を愛し、我が子を愛している。
「閣下がタスクとの関係を慎重に考えておられる段階で、グラン夫人が主張を強めてくるのは効果的ではありません」
「想像はつきます。わたしの友達のお母さんにちょっと似てるので」
要するに面倒な手合いが面倒な時に来たのだ。状況によって、取次段階で判断が必要なこともあるだろう。
心しておきましょう、とガードナーとは約束した。イリスにできるのはそこまでだ。今はレヴィアンスの応対に任せるしかない。その後はタスクの問題で、こちらは進んで首を突っ込むべきではない。
「まずは閣下が戻るまでに、仕事を進めましょう」
表情を柔らかく戻したガードナーの声が、ほんの少しだけ掠れた。
お父様は負けたのよ。何度も聞いた台詞は、ふとしたときに頭の中で響く。すると喉や胸が押し潰されるような気がして、そこから逃れなければと思う。そうすることで不利な状況を打開する力を得てきた。
自分は負けてはいけない。厳しく誇り高い彼女を失望させてはいけない。彼女は幼かったこの身を抱きしめ、言ったのだ。
――もう私には、あなたしかいない。
この人を守るため、悲しませないために、立派な人になろうと決めた。
グラン夫人の陳情は小一時間ほど続いた。曰く、我が子がどれほど上に立つ人間として相応しいか。グラン家がいかに由緒正しい軍家であるか――これはレヴィアンス自身も思っている事だが、「ゼウスァート」は既に断絶した家であり、今や由緒正しいとはいえない。
またガードナー家は軍家ではあるがその中でも中流で、補佐にするならもっと上流の軍家の人間にするべきだとも主張された。
言い返したいことは山ほどある。そもそも上流だの中流だの、そんなレッテルは不要だ。歴代大総統補佐には軍家出身ではない者も沢山いる。先々代に至っては大総統も補佐も軍家の人間ではない。
しかし反論は彼女の気が済むまでの時間を長引かせ、仕事の多い一日においてはそれが命取りになる。かといって居留守を使えば、大変なことになるのは部下たちだ。
相槌や返事を間違えないように、そして話の全てを真面目に受け取って感情を動かさない。彼女が飽くまで喋り倒すのを待つ。
お子さんが可愛くてしょうがないのはあるだろうけど、といつか相談した先々代は言った。
――立派なお子さんを育てた、手助けしてきた、そんな自分を認めて欲しいという気持ちもあるんだと思う。だから僕は毎回「頑張りましたね」って言って聞いてたよ。
訪ねてくる頻度はともかく、訴える内容は今ほど激しくなかったらしい。この手はレヴィアンスが使っても通じなかった。いや、彼女の息子と同年代で、この地位に就いてしまったレヴィアンスだから、この手は使えなかったのだ。先々代は同年代の子を持つ親同士だったので、夫人も溜飲を下げてくれたのかもしれない。
「タスクをよろしくお願いしますね」
とてもお願いなんて窺えない眼差しで、夫人が告げる。これが聞けたらおしまいだ。レヴィアンスは気づかれないように力を抜いた。
ところが応接室を出たところで、夫人が声を上げた。
「まあ、タスク!」
ぎょっとしたのはレヴィアンスだけではない。名前を呼ばれた本人もその場で固まった。だがそれは一瞬のことで、すぐに彼は姿勢を正し、駆け寄ってきた母の手を恭しくとった。
「母上、いらしてたのですか。ご機嫌はいかがですか」
母を目の前にしたタスクの仕草は優雅だ。教え込んだ本人は、もっと喜び誇って良いとレヴィアンスはつくづく思う。
「見てわからない? あなたのために今日も苦労したのよ。機嫌が良いわけないじゃないの。紳士たるもの、母への気遣いを忘れてはなりません」
「はい、申し訳ございません。母上、わざわざ遠方よりお越しくださりありがとうございました。お疲れでしょうから、お茶を飲まれますか」
「いらないわ、外のお茶は美味しくないもの。それに何が入っているかわからないわ。もしかしてあなた、その辺の喫茶店なんかで飲食をしていないでしょうね。体に悪いから駄目よ」
「ご心配をおかけしてしまい、申し訳ございません。私は母上が厳選して送ってくださった物しか口にしておりません。ですから今日も健康でいられます」
「体は資本です。十分に気をつけなさい。これは当たり前のことですよ」
傍で見ているレヴィアンスは夫人に圧倒されながら、タスクを昼食に誘ってみようかと思う。彼が好物なのにこっそり食べている物を、好きなだけ食べさせてやりたくなった。
送りましょうかと申し出た息子に、車をつけているから結構と言い、彼女は去ろうとした。最後の一押しは勿論忘れない。
「グラン家の名を汚さぬように。いいわね」
母の姿が見えなくなるまで、タスクは頭を下げ続けていた。
午後からの作戦会議に向けて、ルイゼンは昼休みも資料を読む。いいから食べなよ、とイリスに促され、ようやくサンドイッチをひとくち齧った。
「仕事熱心だな、我らがリーダーは」
「今回は実働部隊長補佐だからね。でも今は食事に集中しなさいよ」
「メリハリがないといざという時に頭が働かなくなるぞ」
「どうしても資料を読みたければ、食事を口に突っ込んであげますけど……」
メイベル、イリス、フィネーロ、カリン――いつものメンバーがいつも通りに呆れるので、ルイゼンは苦笑して資料を置いた。
「わかったよ、言うこと聞くから。だから口に突っ込むのはやめてくれ。たまに姉より過激だな、カリンは」
「だって、ご飯は大事ですよ。食べられるならちゃんと食べてくださいね」
にっこりするカリンの言葉は、彼女の境遇を知っている者には重い。家庭の事情で食うや食わずの生活を余儀なくされていた時期がある彼女は、衣食住に関しては自然と厳しくなる。当然姉のメイベルもだが、彼女は「他人には他人のやり方があるのだからどうでもいい」というスタンスだ。
「あ、レヴィ兄だ」
ふとイリスが視線を遠くにやる。食堂の受け取りカウンターに、豊かな赤毛の男が立っていた。誰が見ても間違いなくレヴィアンスだ。
「閣下も食堂を使うのか」
「いや、買ったのを執務室に持っていくみたい。量からして三人分かな」
変なところで視力を使うイリスの頭を、フィネーロが軽く叩く。それから「三人?」と呟いた。
「イリスはここにいる。じゃあ三人目は……」
「今日は来客の予定はなかったから、……なかったけどあったから、多分グラン大将の分」
午前中の出来事を思い出し、イリスは僅かに眉を寄せた。あれから特に話はなかったが、レヴィアンスは疲れていたし、後から来たタスクは妙に大人しかった。
「……あのさ、ゼン。リチェのお母さんってすごく厳しい人だったよね。でもリチェは一回もお母さんが嫌いって言ったことがなかった」
イリスとルイゼンにはリチェスタという共通の幼馴染がいる。母が厳しく、幼い頃はイリスたちと遊ぶことをよく思っていなかった。娘に沢山の習い事をさせ、リチェスタはそれが辛くて逃げた時期もあった。
「ああ、リチェは家族のことは好きだぞ。しんどいなと思うことはあっても、それで嫌いはしない。なんで急に?」
「ええと、割とそういう家ってあるんだなって思って」
「何度でも言うが、家族だろうが所詮は他人の集まりだ。イリスのところみたいに仲良しこよしの方が珍しい」
メイベルは苛立ちを隠さずに吐き捨てる。カリンはそれを窘めつつも、考えはメイベルとほぼ同じだ。
「子供を自分の所有物、ときには自分自身のように扱う親は珍しくない。分けなければならないところを分けられなかったり、こうあるべきだという考えを共有するよう求めたりな。兄弟でもそういうことはある。あるいは他の集団でも」
自分も兄との関係に悩んだフィネーロが言う。それならイリスもわからないわけではない。仲間たちの事情は、完全に理解することはできなくても、そういうこともあるのだという把握はしている。
「名門とされる家なら、跡継ぎに厳しくあたることもあるだろう。まして先代が家の信用を落とすようなことをしたら、母親はそれを繰り返すまいと必死になるだろうな」
「……フィン、何か知ってるの?」
「さあ? 独り言だ、忘れてくれ」
でかい独り言禁止、とルイゼンはフィネーロに軽い手刀を入れた。イリスが何を気にしているのかは、フィネーロでなくともわかる。だからこそ迂闊なことを喋ってはいけない。たとえよくある話でも。
午前のうちに資料を確認し、会議の打ち合わせをした。午後から会議を始める旨を関係者に伝え、どうせ一緒に出るのだからとタスクを執務室に留めおいた。
昼食は食堂から入手してきた。タスクが好きな、分厚いパテを挟んだハンバーガーもある。実家じゃ絶対に食べさせて貰えないその存在を、彼は親元を離れて初めて知った。
「結構だ。俺には母上が手配してくれた食事がある」
「寮に戻らないと食べられないでしょ。冷凍してあるんだったら夕食にしたら」
突っぱねようとするタスクに突っぱね返して、レヴィアンスはジャンクな食事を彼の目の前に置く。喉が鳴る音が聞こえた。
「私の分までありがとうございます。閣下は何になさったんですか」
「オレね、ずっと食べたかったやつ。この肉がさ、カリッカリに揚がってて美味いんだって」
ガードナーまでもが先に食べ始めようとしたことで我慢できなくなったのか、タスクも大好物に手を伸ばしかけた。だが一旦止まり、食前の祈りをきちんと行う。こういうところが好ましい。
「偉いね、タスク。オレなんかしょっちゅう忘れる」
「常識だろう。なんでこんなことも出来ない者があの椅子に座っている」
この国でただ一人しか座れない椅子は、今は空いている。現在の主がソファに移動して食事をしているためだ。
「なんでかなあ。オレもよく考えるよ、それ」
「喧嘩を売っているのか」
「売らないよ。椅子も当分他の人には譲れない。この立場で守らなきゃいけないものや、変えていかなきゃいけないものがあるからね。それがうまくできないと、なんでかなって思う」
指についたソースを舐め取りながら言う姿に、威厳なんてものはまるでない。レヴィアンスに傾倒しているはずのガードナーですら、呆れながら手拭きを差し出している。
それなのにタスクがこちらに向ける眼差しは、何か眩しいものを見るようだった。
「……レオナルド、お前は椅子を奪いたいと思ったことはないのか。いや、ないだろうな、お前なら」
唐突に零れた言葉に、レオナルド・ガードナーは瞠目した。レヴィアンスは平然と食事を続けている。
「ない、ね。私……僕は、その器じゃないから。その椅子にいてできることは、僕にはない」
「器用貧乏だものな、お前は」
ガードナーは大抵のことならそつなくこなす。その器用さで現在の地位にいる。だから貧乏というほど外れ籤は引いていないつもりだが、タスクから見れば地味な役回りばかり押し付けられてきたように見えるらしい。昔からそう言われてきた。
「でもね、タスク。僕はその椅子に座っても役に立たないけど、傍にいると結構色々とできるらしい。閣下がそう仰ってくださる」
「それはそこにもいられない俺への嫌味か」
「そうじゃない。タスクにはタスクに合った役割があるってこと。……ただ、その役割は、まだ大総統ではないと思う」
以前のタスクなら、ここで激昂していただろう。ガードナーを殴り、流血沙汰になっていたかもしれない。
だが今、彼は静かに俯いていた。
「俺もそう思った」
ハンバーガーを齧り、ゆっくり咀嚼する。全て嚥下してから、再び口を開いた。
「閣下、母上は今日、何と」
「タスクを補佐にするか、早いうちに辞めて後継にタスクを選ぶかしたほうが国の為になるって」
レヴィアンスは返事を躊躇わなかった。思ったより早くタスクとこの話ができたことに、微かな喜びすら感じていた。
「国の為……母上はどうすれば国の為になると考えているのだろうか」
「そこんとこは一度も聞いたことない。先々代っていうかオレの母さんも、聞いてないんじゃないかな」
「そうか、それなら仕方がない。やはり俺もその器に到っていないということか」
次の一口は大きかった。口の端を汚し、それを手のひらで拭う。きっと一番美味しい食べ方だ。
謝らなきゃな、とレヴィアンスは眇める。自分はまだ、タスク・グランという男を侮っていた。彼は彼なりに自身を整理できている。
「ごめん」
すぐに発した言葉に、彼は怪訝な顔をした。
将官室長を拝命致しました。その報告を彼女が喜ばないことはわかっていた。求められていたのは昔から頂点に立つことであり、半端な地位は寧ろ彼女の嫌うところだった。
父が失脚したときの階級は大将であった。当時の大総統ダリアウェイドは既に後継を決めており、多くの人間は彼に代わってそこに立つことを諦めていた。グランもそういった一人であり、彼らが目指せるものといえば将官を代表する立場までだった。
ダリアウェイドやその補佐のルフェスタ、後継と予想されるインフェリアに取り入ろうとする者は多かったが、大局的な損得勘定により長くその地位に君臨した大総統と補佐、そして彼らによって選ばれた後継者には通じなかった。だが可能性があると信じて縋ったのだ。
競争には勝ち負けがある。結果が全てだ。グランは出し抜かれ、さらに当時起きた事件の責任を独りで背負わされ、完全に敗北したのだ。
由緒ある軍家に嫁ぎ、将来は約束されていると信じていた母は、そのことを赦していない。
はたして報告のために実家を訪れたタスクを待っていたのは、想像通りの展開だった。
作戦決行は明日の夜明け前。計画はタスクが立案したものに少々加えている。ほんの少し足されることで、かなりの余裕が生まれた。
ルイゼンが感じていた「柔軟性の欠如」は最終案では感じられなくなっている。全体会議での意見も取り入れられた。
正直なところルイゼンは、タスクが頑固に自分がひとりで考えた計画を推し進めるだろうと思っていた。途中まではそうだった。けれどもその認識は改めなくてはなるまい。
「ルイゼン、早く帰って寝ておけ。こちらは私とカリンで片付ける」
「ああ、任せた。よろしくな」
事務仕事はメイベルたちに託し、次の仕事に備える。その間もタスクやトーリス、他の部隊員との連携についてシミュレーションを続ける。――慎重に考えてもなお、うまくいきそうな気がしていた。
レヴィアンスは会議の後、ガードナーとイリスに留守番を頼んだ。
向かったのは高い塀に囲まれた建物。その性質上、出入りは厳しく取り締まっている。門番に挨拶をすると、最敬礼が返ってきた。それでもボディチェックは欠かさず、済めば再び最敬礼。受付まで辿り着くにも手間が多い。
「閣下、本日はどなたに?」
「ディセンヴルスタに面会したい」
数ヶ月前にルイゼンを刺した者を呼んでもらう。聴取のためでも、責めるためでもない。これからの事を話すためだ。
ネイジュ・ディセンヴルスタは渋々といった様子で現れた。口元だけで皮肉を込めた笑みを作っている。
「何か用ですか、閣下。大総統というものはそんなに暇なんですか。仕事しないと税金泥棒って言われちゃいますよ」
「それを収監されてる奴が言うの?……まあいいや、年が明けたらここから出すつもりだし」
レヴィアンスの言葉に、ネイジュは口角を下げた。刑期はもっと長い予定だったので、不審がるのは当然だろう。
「来年から君を軍に戻す。刑期内の再指導って形になるから、拒否権はない」
「どういう魂胆ですか。そんなことをしたら各所の反感は免れないでしょう」
「そうだね。でもそれは覆すよ。今度こそ君にはオレたちが正しいと思う働き方をしてもらう」
「従わないかもしれませんよ。私はあなたが大嫌いだ」
「結構結構」
くつくつと笑うレヴィアンスに、ネイジュは不満と不審を顕にする。
「ネイジュ、君のことはグラン大将に任せようと思ってる」
顕になったものは、その言葉でついに爆発した。
「あなたは何を考えてるんですか。グランは私を唆した張本人で、それからあっさり切り捨てた! あいつさえいなければ、私は屈辱を味わうことなんてなかった!」
「じゃあ、もう彼が大総統になるべきだとは思ってないの」
「ふざけるな、あんな男には何も出来ない! 大体、あいつは同僚に騙されて軍を追われた人間の息子だ。元々上に立つ者として相応しくなかったんだ」
ネイジュはかつてタスクの力に傾倒し、その望みを叶えるべく動いていた。その結果、裁かれたのはネイジュただ一人。タスクやレヴィアンスを恨むのは道理だ。
だがレヴィアンスにとって問題はそこではない。彼はこちらが尋ねるまでもなく、正しい認識を披露してくれた。
「期日までにグラン大将と何度か話をさせる。そうしたら盲目的に彼を信じるんじゃなくて、君が自分の目で彼を判断できると思う。やっぱり気が合うと思うんだよね、君たち」
「何を根拠に」
訝しむネイジュに、レヴィアンスは笑顔で説明を続けた。
深夜、出動準備が整った実働部隊が配置地点に向かう。ルイゼンは車両内に複数の隊員と一緒だった。
「グラン大将が大総統候補だったんだよな」
一人がぽつりと零した。それが他の声の呼び水となる。
「そうそう、候補は四人いた。今のゼウスァート閣下と、グラン大将、それからシーケンスさんとインフェリアさん」
「でも後半二人は辞めちゃったから一騎打ちで、結局女王が今のを選んだんだろ」
少し違う。ルイゼンは本人から聞いて、正しい情報を持っている。しかし勝手に暴露するわけにはいかない。
「なんでグラン大将は駄目だったんだろう。やっぱり英雄御三家には勝てなかったのかな」
「勝てるわけないって。だってあの人の父親、薬物取締ですごい失敗して辞めてるじゃん」
「あ、聞いたことある。黒幕説もあったって」
「辞めたんだったら案外ガチかも。それじゃあトップになんてなれないか」
「それが本当だったら、この仕事も怪しくないか。また裏で繋がってたりして」
沈黙を貫くつもりでいた。どうせ暇潰しの噂話だ、直ぐに忘れるだろうと。いつもならそれでも良かっただろう。
だが今のルイゼンは、部隊長補佐だ。士気を下げてはいけない。信頼がなければ、せっかくの作戦が無駄になる。
計画書の最終版を読みながら思い出した。レヴィアンスと似ているのは、作戦の立て方だけではない。いや、似ているというのも本当は違うのではないか。
タスクはおそらく、レヴィアンスから学んでいる。あの台詞はただの傲慢ではなかったのかもしれない。
――精鋭部隊ならそんな問題は起こさないだろう。私の言う通りに出来ないのなら、そんなものは「精鋭」でもなんでもない。
自己中心的な考えだと、あのときは腹が立った。けれどもレヴィアンスだって類似の発言はよくしているのだ。
――オレの信頼してるヤツらが、失敗なんてしないでしょ。
レヴィアンスのいう「失敗」の定義が単なるミスや取り逃しではないことを、ルイゼンは知っている。あれは「最悪の事態にはしない」という意味で、信頼があるから本当に危機的な状況になればレヴィアンス自身がフォローできるということだ。
しかし彼を知らない者には、それはタスクの言葉と同様に圧力となるのではないか。レヴィアンスの場合、相手を選んで言葉を遣うが。
不器用すぎる信頼。これまでタスクを慕ってきた者には通じていたのかもしれない。ルイゼンとレヴィアンスの関係のように。
「グラン大将が黒幕だなんて有り得ません」
いつかは本当に黒幕であり、ルイゼンは狙われていた。それが今、まさか自分がこんなことを率先して言うなんて。内心で苦笑する。
「お父上の件は、憶測で適当なことを言わない方がいい。大元が不確かな情報をいたずらに広めることは、必ず誰かの権利を侵害します。人を守る仕事をする俺たちが、それをしちゃ駄目です」
噂をしていたのは皆、ルイゼンより階級が上だ。けれども気圧されたのか、はたまた特例の部隊長補佐という立場を認めてくれているのか、彼らはばつが悪そうに口を噤んだ。
午後の第三会議室に、タスクとルイゼンはいた。今朝の仕事の報告書を作成するために集合したのだが、トーリスは遅れるという。
作戦は実に上手くいった。事前の諜報部隊の働きが良かったこともあり、ほぼ計画通りにことが運んだ。多少のイレギュラーも想定内の範囲で、広げておいた余裕の分で抑え込めた。
あとは別の部隊の仕事だ。報告書を速やかに渡さなければならない。
「グラン大将、お疲れ様でした。見事な采配でした」
ルイゼンが真正面から切り出すと、タスクは瞠目し、それから横を向いてしまった。耳が真っ赤だ。
「当然のことをしたまでだ。これくらいできなければ隊長の責務を果たしたとはいえない」
「そうですか。では俺もこれくらいできるようにならないとですね。そしてあなたを追い越します」
きっぱり言い切ると、視線が再びこちらに向いた。な、と言いかけたのは、「なんだと」か「生意気だ」かその辺りだろうか。
しかし一向に続きがない。怪訝に思うルイゼンに、タスクは一度閉じた口を躊躇いがちに開いた。
「……感謝している」
「え?」
「貴様に感謝すると言ったんだ、リーゼッタ。何度も言わせるな」
「任務のことなら、あなたと同じく当然のことをしてただけですよ。仕事ですし」
「そうじゃない、行きの車内でのことだ。個人用無線のスイッチを切ってなかっただろう、馬鹿め」
感謝の次は突然貶される。だが、タスクが何を言いたいのかはわかった。あの会話が丸聞こえだったのだ。
「失礼しました」
「あんなことはどいつもこいつも勝手に言うことだ。いちいち訂正するのも面倒臭い。私も周りもそう思っている。それに真実がどうだろうと、父が負けたことには変わりない」
「負けたとは、主張が通らなかったということですか」
「それだけではない。貴様もイリス・インフェリアと親しいならわかるだろう。父が現役だった頃、次代の大総統は既に席が埋まっている状態だった」
ダリアウェイドの次はインフェリア。誰もがそう認識していた。だからその椅子は皆諦めて、せめて彼の側近に就こうと様々な手を使った。
インフェリアは補佐に付き合いの長い人間を選ぶと予想されたため、残る席は将官室長。奪い合いの中で、当時起きた事件のいくつかでは責任の押し付けあいが発生した。あらぬ噂も多くたった。
一歩引いて状況を見ていたはずのタスクの父も巻き込まれた。無責任な責任と過剰な尾鰭のついた噂を一身に背負い、軍を辞した。
「お父様は人の罪を背負った立派な人なのだから、と母上は私に言い聞かせていた。……私が八歳のときまでは」
十歳から軍に入隊するために準備を始めようとしたあたりで、グラン家は再び苦境に立たされた。子供に教育を受けさせるため表に出ると、父のことを覚えている人々から後ろ指をさされるようになった。すると母はそれを父が負けたせいだと詰り、ああはなるなとタスクに言い聞かせるようになった。あなたは勝たなければならないと。
私にはあなただけ。――疲弊した母は、全てをタスクに賭けたのだ。
「リーゼッタ、貴様は軍の仕事を『人を守る仕事』と言ったな」
「はい。ずっとそのつもりでやってきました」
「私はただ一人、母を守らなければと思っていた。出世も母の為だ。それを邪魔するものは私の敵であり、母の敵だった。……それしか理由がないと思い知ったのは、つい最近だ」
それは当然のことだから、達成しても誰にも褒められない。もっともっとと求められ続け、それでも手に入らないとき、望んでもいないのに地位を手に入れた友人を妬み、恨んだ。友人たちから頼りにされている後輩も憎かった。
「リーゼッタ、私は貴様が嫌いだ」
「俺もあなたは好きじゃないです」
「私に復讐したいとは思わないのか。軍から除きたいとは」
「あなたの方が歳も階級も上なので、何も無ければいつかは俺より先にいなくなるでしょう。わざわざ追い出すのに労力は使いません」
「好きじゃないと言いながら、さっき褒めたのは何故だ」
「あなたの仕事が見事なのと俺の感情は関係ないです。あれは褒めたというか感想です」
「……可愛くないガキだな」
「そりゃどうも」
あなたもよく嫌いな人間に感謝を述べましたね、と言い返すのはやめておいた。これ以上話を続けてしまうと、部屋の外に立っているトーリスに申し訳ない。先程から気配はあったが、入りづらい雰囲気だったのだろう。
案の定、やっと入室できた彼の目は真っ赤だった。目の下も何度も擦ったのか腫れてしまっている。優しい彼は持ってきた保冷袋から三人分の手作りプリンを取り出した。
与えられた立場は、部屋に籠りきりでひたすら誰かの仕事を確認するものだった。それまでのように腕っ節を披露する場もなくなり、これ以上は何も無いのだと思い知らされた。
陽のあたる場所に突然引き上げられた同僚は、逆に今までのどんなときよりも生き生きと仕事をしている。顔を見る度に苛立ちが湧き上がったが、それが何に対する物なのかは深く考えないようにしていた。
用があって大総統執務室へ向かうと、扉を隔てて笑う声がする。選ばれた者たち、そしてこれから選ばれるのであろう者たちは、きっとこの苦悩を知らない。
母はまだ諦めていないようだ。それとも、認めたくないだけなのか。大総統のもとへ足繁く通い、息子を出世させろと訴えている。当人に会うために来ることはない。
昔から本当に欲しいものはひとつも手に入らない。そのうち何が欲しいのかもわからなくなった。どうせ何も叶わないのなら、いっそ全てを壊しても何も後悔しないだろう。
けれどもいざ行動に出て、それが自分には不可能だと気づいた。他人を利用し、さらに他の大きな事件の陰に隠れ、自らの保身を優先する。腰が引けているのに、何かを壊すなんてできるはずがなかった。
だから羨み憎んだ相手に、借りなんかを作ってしまうのだ。
タスクが実働部隊長を務めた案件が一段落した。成果は上々で、得られた証言を元にさらに複数の事件が解決を見た。
「まだ広く深く根を張ってるから、これで全部終わりではないけどね」
久しぶりにレヴィアンスの顔色が良い。忙しいままではあるが、十分な睡眠をとる余裕ができたようだ。
「今回もイリスの眼を狙う奴らには辿り着けませんでしたから、俺としては悔しさが残ります」
「大丈夫だよ、ゼン。機会はきっとすぐに来る。わたしが元気でいれば、必ず奴らは釣れるから」
「その積極的な囮宣言を聞きたくないんだよ、俺は」
ルイゼンが持参した最終報告書を、イリスが紐で束ねる。量が多いので一旦まとめ、それからレヴィアンスが確認することにした。
「全部隊からの報告取りまとめ、なかなか大変だっただろ。今後もしょっちゅうやってもらうからよろしく。……で」
レヴィアンスがにやりとする。ルイゼンは身構え、イリスは目を輝かせた。大きな仕事がひとつ片付いて、かつ時間が取れるとき、このイベントは発生する。
「今夜、空いてる?」
「……俺はあんまり飲みませんからね」
「わたし、ケータリングの美味しいお店情報仕入れた! ルー兄ちゃんが教えてくれたところ!」
「それじゃ、そこに頼むか。レオ、お願い」
「かしこまりました。場所はどちらに?」
「完全にオフにしたいからオレの部屋で。今夜は働かない」
とはいえ、何か起きれば動かなければならない立場だ。平和に夜を越せるかは毎日運次第。これはそういう仕事である。
渋るふりをしつつも興味を隠せない。タスクの好奇心旺盛な一面を、おそらくガードナーは彼の親よりも知っている。
新しい得物は真っ先に試したくて、誰かに訓練の相手をさせる。そんなタスクに一番付き合ってきたのがレオナルド・ガードナーだ。
「タスク、閣下のお部屋での食事にご招待いただいたよ。今夜一緒に行こう」
「誰彼構わず呼んで……閣下は警戒心に欠ける。それで大総統が務まるのか」
溜息をついてみせるタスクがおかしくて、ガードナーはつい笑う。睨まれたが、怒ってはいない。
「大丈夫。閣下に欠けたところがあったとしても、僕とタスクがお守りすればいい」
「俺とお前? お前ひとりで十分だろう、補佐様」
「ううん、タスクは必要だ。今回のことで、その気持ちはもっと強くなった」
昔からそう思っていた。活動的で目立つタスクと、何をしても目立たないガードナー。行動を共にし、互いに足りない部分を補い、大将という階級を得たのだとガードナーは認識している。
一度は喧嘩別れしてしまったが、命懸けの勝負を経て再びこうして言葉をかわせるようになった。戦いを仕掛けてきたタスクは気まずいかもしれないが、ガードナーは嬉しい。大切な友達とまた繋がることができた。
同僚、仲間と表現できる人は沢山いるが、友達はガードナーにとってタスクただ一人だ。勝手だとは思うが、親近感を持っていた。家の者に褒められる同期を羨ましげに見ていたタスクを見て、自分と同じだと思ったときから。
タスクとは境遇こそ違うが、ガードナーも褒められることの少ない子供だった。放っておいても多くの事を容易くこなせる才能は、しかし親には「育て甲斐の無い子」と映ったらしい。なんでもできて当たり前の子を、彼らはわざわざ褒めなかった。親子関係は良好だが、互いに何も求めなかった結果でもある。
よその子は少しのことで、あんなに「偉い」「すごい」ともてはやされるのか。同じように感じた二人は、それを知らないまま手合わせの機会を持ち、互いの持つ才能に気づいた。
圧倒的な力と技そして戦略で攻め込むタスクと、どんな技も器用に受けてダメージを最小限にすることで高い持久力を保持していたガードナー。二人でいればいつまでも訓練を続けることができた。懐かしく楽しい思い出だ。
「たしかにな。お前は器用貧乏で、俺が気づいてやらないといつまでも地味な仕事を押し付けられる。今夜だって、きっと配膳ばっかりして腹を減らすに違いない。仕方ないから行ってやる」
「そんなことはないけど、君がいてくれたら嬉しいよ」
これからも、楽しい思い出を作っていきたい。もっと色んな面を知りたいし、知らせたいから。
僕の友達はこんなに素敵な人なのだ、と。
久しぶりの美味い酒だった。レヴィアンスのおすすめだからかもしれない。彼が酒好きだという話は軍内でも有名だ。
飲み尽くしてやろうと思ったが、ガードナーが止めた。君は酔うと酷いし忘れるから、と。
後輩たちはまだ酒が飲めない者も多く、遅くならないうちにルイゼンが連れて帰った。既に飲める彼だけでも潰してやるつもりだったのに。
「タスク、意識ある?」
「あるに決まっているだろう」
「そっか、レオから酒癖悪いって聞いてたから心配してたんだけど」
頭から顔まで赤いくせに、レヴィアンスは人の心配をしている。自分はどうなんだ、と思ったのがそのまま洩れた。
「オレは落ち込んでたら悪酔いするけど、今は超楽しいから大丈夫だよ。心配してくれるなんて、タスクは可愛いなあ」
「かわ……やはり貴様酔っているだろう、気色悪いぞ」
「酔ってなくても可愛いと思ってるよ。お前も、レオも、後輩たちもみーんな。だから、タスクのことはもっとちゃんと可愛いがってやるべきだった」
ごめんな、とレヴィアンスは言う。最近、彼はよくわからないタイミングでタスクに謝ることがある。
「貴様に可愛がられても気持ちが悪い」
「ベタベタしたいとかじゃないよ。早く向き合うべきだったってこと。ルーファが軍に残ってたらタスクはもっと楽だったかもしれないけど、いるのはオレだからね。納得できないことは多かったでしょ」
かつて在籍していた、レヴィアンスの同期たち。中でもルーファ・シーケンスは、タスクの能力を買って任務によく登用してくれた。尊敬できるリーダーだったが、レヴィアンスが大総統になる少し前に引退した。
軍に残ったレヴィアンスは、以前からタスクをどう思っていたのかがよくわからなかった。彼のもう一人の同期ニア・インフェリアは明らかにタスクを苦手としていたが、彼らと一緒にいてもレヴィアンスの考えは読めない。挙句の果てに異例の人事を展開し、周囲を驚かせた。
将官室長に任命され、机での仕事が中心になり、タスクはもしやと思い始めた。レヴィアンスは体良く自分を厄介払いしたのではないかと。現場に出ないことは動きたいタスクにとって拷問にも等しい扱いであり、急に日陰に追いやられたように感じた。まして友人は、現場仕事に登用されることも自分に比べ格段に少なかった彼は、何故か大総統補佐として活躍している。
嫌われていたのか、と思うことは、考え続けることよりもほんの少し楽だった。
「タスクは何でもよくできたから、将官室もまとめてくれると思ったんだ。ルーファやニアがいなくなった分、少し緩んでた空気を引き締めてくれるかなってさ。実際、かなり効果はあったと思ってる。……でも、オレはタスクが一番力を発揮できる場所を見誤ってたんだよね」
だから関係作りを失敗してしまった。それが軍全体に混乱を引き起こす要因になってしまった。大切なものも沢山傷つけてしまうことになった。後悔と反省の末に、レヴィアンスは前に進むための答えを出したのだった。
「やっぱりタスクは現場が似合う。直接出向けなくても、実際に作戦に関わった方がいい。もっとルーファからお前のことを聞いておくべきだった。これからはそうしていく」
「将官室長の仕事は」
「それも勿論やってもらうよ。やれるでしょ、タスクは」
この男は、よく無茶なことを言う。だがその無茶は、それができると心から信用し信頼した相手にのみ向けられる。
そういうことなのだと、最近ようやくわかってきた。やっと相手が読めてきた。
「あとさ、これは提案で相談なんだけど。お父さんにかけられてる誤解をときたいんだよね」
「どういうことだ」
「タスクのお父さん、いまだにたくさんの人に誤解されてるでしょ。変な噂も残ってるしさ」
気にしていたのか、そんなことを。レヴィアンスには関係ないことだ――母が頻繁に来ることを除けば。
今更だ、とタスクは呟く。遅い、ということではなく、何度も試して駄目だったのだ。先々代大総統のハル・スティーナは冤罪を無くさなければならないと、さらにその前のカスケード・インフェリアから引き継ぐ形で父の名誉回復を図ってくれた。そうして父が負った不要な責任は本来負うべき者に戻り、書類の上では解決している。
けれども虚構の方が真実よりもずっと刺激的で、人々の間には残りやすい。どんなに訂正したところで「身内だから必死に火消しをしているんだ」ととられるばかりで、母も自分もそれに疲れたのだ。
何が真実だったのか、当人たちにも分からなくなってしまうほど、噂は蔓延してしまった。本当のことなんて、それが実はとっくに解決されたことだなんて、誰も調べないから知らないまま。
名誉の回復は全てタスクに任された。母を守る為に、父を忘れさせる為に、子供は欲しいものを捨て、誰かが求めずとも享受できたものを手に入れることができなかった。
しかしタスクにとってはそれが正しい道であり、誰かに憐れまれるのは心外だ。「可哀想に」とかけられた言葉は、これまでの人生そのものを否定するように聞こえた。
「閣下も俺が哀れだと思うか。ディセンヴルスタはそう言って俺に協力を申し出たが」
「まあ、彼は彼でタスクのこと調べて事実を知って、そう思ったみたいだけど。でもオレは別に哀れまないよ。そうされたいならそう思うことにするけどさ、人の人生勝手に評価するの気持ち悪いじゃん」
心の中で勝手に思うのは自由だけど、本人に言うのは何様って感じだよ。
口をとがらせるレヴィアンスにも、そういうことがあったのだろうか。あってもおかしくはない。彼はある日突然見つかった「英雄の末裔」だ。
「そうそう、そのネイジュだけどさ、来年から軍に戻すね。面倒見てやって」
「押し付けるつもりか。人を可哀想だと言った奴だぞ」
「可哀想じゃないって言ってやれば良いよ。そう言えるのはタスクだけなんだから。一応興味あることはちゃんと調べる癖はあるから、その辺を伸ばせばいけると思うんだよね。真っ直ぐなタスクとなら仕事の相性は悪くないよ」
わかってきたようで、やはり彼はわからない。酔っているからだろう、話の順序もめちゃくちゃだ。
タスクは大きく息をつき、「閣下」と呼んだ。
「父上のことはもういい。全力を尽くして駄目なら、もう過去のことは仕方がない」
真実を知っていて、虚言を諌めてくれる者がいる。だから安心して諦められる。
疲弊して全てを投げ出し、八つ当たりをする必要はもうない。絶対にしないとは言いきれないが。
母には認められないだろう。つらいが、それも仕方がない。それでも今いるところに、もう少しいたい。
そう思える自分自身を、タスクは少し、誇らしい。