少し汗ばむ初夏の頃。大きな窓から射し込む光も眩しいその日、彼は出会ってしまった。
 桃色の長い髪、豊かな睫毛と澄んだ瞳。身長はさほど高くはないが、すらりとした手足は美しく伸びている。
 周りから恋愛の話が出ると、そんなものにうつつを抜かすとは、と呆れたものだった。これまでそんな感情を他人に抱いたこともない。だからこれは、初めて自分を貫いた電撃。
 彼女はこちらを見て微笑んだ。
「お疲れ様です」
 サテンのように滑らかな声が、耳に心地良かった。

 エルニーニャ王国軍中央司令部に、珍しい客がやって来た。普段は電話連絡だけで、直接出向くことは殆どない。彼女は忙しいのである。
「ようこそ、クレリア」
 レヴィアンスが笑顔で迎えると、彼女もにっこりして返す。桃色の髪がさらりと揺れた。
「ご無沙汰しておりました、閣下」
「ご無沙汰って、電話したじゃんか」
「直接お会いしたのは随分前ですよ。お元気そうですね」
 クレリア・リータスはエルニーニャ王国軍東方司令部に所属する少将である。正確には本日付で少将に昇進となった。
 非常に優秀な女性で、剣の腕は東方司令部長をも凌ぐと評判だ。近年は罪を犯した若者の更生プログラム監修などにも取り組んでいる。
「明後日までこっちにいるんだっけ」
「ええ、朝の列車で戻るので、あまりのんびりはできませんね。本当は沢山お話をしたかったのですが」
 レヴィアンスにとっては遠くにいながらにしてかなり信頼の大きな部下であり、
「短い時間ですが、よろしくお願い致します。『義兄さん』」
 可愛くも絶対に逆らえない義妹である。
 レヴィアンスは昨年、大総統付記者のエトナリア・リータスと結婚した。だが互いの立場と仕事と私生活を守るため、「大総統は既婚者である」ということ以外は非公表としている。そのためクレリアとレヴィアンスが義理の兄妹であることも知っているのは身近な人間だけだ。
 クレリアも普段はレヴィアンスを「閣下」と呼ぶ。だが周囲に知っている人しかいないときやプライベートでは「義兄さん」と言う。今、この場にはレヴィアンスとクレリア、そしてガードナーしかいない。
「義兄さん、姉さんとはちゃんと会ってるの?」
「会ってるよ。エトナの休みの日を見て、そのときオレの仕事が都合つけば」
「相変わらず面倒な夫婦生活ですこと」
「全力で仕事するための結婚だからね」
 そもそもはそういう契約での結婚だった。大総統の妻になりたいという多くの申し出を罪悪感なく断りたいレヴィアンスと、職場で結婚についてのお節介や時には嫌がらせまで受けて困り果てていたエトナリアが、人生の利害を一致させる目的で組んだ同盟のようなもの。仕事に専念するための虫除けとして、付き合いが長く互いを熟知している二人が利用しあっている――という名目だ。
 しかしそれだけではないことを、周りはちゃんとわかっている。
「ご安心ください、クレリアさん。閣下はエトナリアさんを大事にされてますよ。私が彼女と話していると、少し不機嫌になられます」
「レオ、こら」
「そうよね。義兄さんと姉さんには二人に通用する愛があるのよね」
「クレリアも小っ恥ずかしいこと言うのやめて」
 こうして温かく見守られてしまうのがむず痒いので、レヴィアンスはガードナーとクレリアのタッグが少しだけ苦手だ。
 談笑していると、廊下から足音が聞こえた。すっかりお馴染みになった音に、レヴィアンスとガードナーが目配せをする。それを見たクレリアも姿勢を正した。
 大総統執務室の扉を叩く音、それに続くよく通る声。
「閣下、失礼する」
 返事を待たずに入ってきたのは、タスク・グラン大将。中央司令部将官室長を務める青年だ。
 いつもなら扉から執務机まで歩いてくる間に用件を話してしまう彼だが、今日は一歩進んで立ち止まった。
「お疲れ様です」
 クレリアはタスクのことを知らない。誰にでもそうするように、微笑んで挨拶をする。
「タスク、おいで。会うのは初めてだろうから紹介するよ。東方司令部のクレリア・リータス少将」
「ついさっきまでは准将でしたけれど。リータスです、よろしくお願い致します」
「そんでクレリア、彼はタスク・グラン大将。中央の将官室長だよ、名前は知ってたでしょ」
 おいでと言われたにもかかわらず、タスクはその場に立ち尽くしたままだった。紹介は聞こえているのだろう、会釈はしている。
「どうしたのさ、タスク。彼女が美人だからびっくりした?」
 レヴィアンスは半分からかうように言う。するとタスクは我に返り、大股で執務机の前へ進んだ。
「報告書を提出する。……で、東方の少将が何故ここに。任命なら地方で書類とバッジを受け取れば済むだろう」
「はい、ご苦労様。用事も色々あるんだ、報告して欲しいこととかね」
 しかつめらしい表情を作りながらも自然と早口になるタスクに、レヴィアンスはにこにこしていつも通りの対応をする。内心はにやにやしているのだが、あまりからかいすぎるとタスクの機嫌が悪くなりそうだ。
 タスクは書類を渡すと踵をかえした。失礼する、と言う間にクレリアをもう一度見たのを、レヴィアンスは見逃さない。珍しい来客だからか、それとも彼女だからなのか、とにかくかなり気になってはいるらしい。
 早足で立ち去る彼を見送ってから、クレリアが首を傾げた。
「グラン大将って気難しそうねえ、義兄さん」
「いや、そうでもないよ」
 くつくつと笑うレヴィアンスを、彼女は不思議そうに見ていた。

 デスクワークを一段落させたタスクは練兵場にいた。一段落したことにしたのだ。どうにも今日は落ち着いて仕事ができない。
 そういうときは体を動かすに限る。将官室の連中には小一時間ほど席を離れると言って部屋を出てきた。よほどの用事がなければ誰にも邪魔されることはないだろう。
 愛用の剣を構える。どんな得物でも扱えるタスクだが、最も手に馴染むのは長剣だ。登録してある私物の剣は国内の著名な職人が手掛けたもので、素材と性能は勿論一流。洗練されたデザインとそれから値段も他の者には簡単に真似できない。
 当然、剣ばかり素晴らしくても使い手に実力がなければどうしようもない。その点タスクは申し分のない使い手だ。
 目の前に相手がいると想定する。想像するのは大抵、いつも訓練をともにしていた同期だ。喧嘩別れをして口もきかず極力顔も合わせないようにしていた期間でさえ、その姿を思い描いていた。
「タスク」
「うおっ?!」
 その本人が突然現れると、驚きで心臓が跳ね上がる。続けて気まずさがうるさいくらいの動悸となって全身を襲う。この感覚には同期との付き合いが復活してからどれだけ経っても慣れない。
「レオナルド、お前仕事は」
「そっちこそ。僕……私は仕事中ですよ。彼女を練兵場にご案内するよう、閣下に頼まれました」
 レオナルド・ガードナーは口調を改め、後方を振り返る。つられて視線をそちらに向けたタスクは、そのまま動けなくなった。
 先程大総統執務室で会った女性――クレリア・リータス少将が、美しく礼をしている。浮かべる微笑みは、タスクがデスクワークに集中できなかった原因だ。じっとしているとその顔がどうしても脳裏を過ぎる。いや、頭の中を埋め尽くす。
 彼女は別段インパクトのある見た目ではない。美人ではあるが。服装だって中央と同じ女性の軍服だ。誰よりも着こなしているが。
 ガードナーのせいで始まった動悸が、今はクレリアのせいで続いている。
「と、東方の少将が練兵場に何の用だ」
「中央司令部の練兵場は広くて快適なので、少しだけ使わせていただきたいんです。こちらを訪れるときにはいつも閣下にお願いするんですよ」
 彼女は手にしていたものを胸の前に掲げる。刀だ。丁寧に磨かれた鞘の黒い艶に、タスクは一瞬目を奪われた。
 しかし次の言葉が意識を引き戻す。
「本日はガードナー大将がお手合わせしてくださるんです。もう楽しみで」
「何?!」
 タスクは勢いよく顔を上げる。ガードナーは驚いたのか目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「以前リータス少将がこちらにいらっしゃったときはイリスさんがお相手していたのですが、今日は非番なので私が。でも私も少将とはいつかお手合わせ願いたいと思っていたんですよ」
 イリス・インフェリアは尉官でありながら高い実力の持ち主だ。時には将官をもしのぎ、稀に泣かせている。彼女と渡り合えるなら、クレリアもなかなかの実力者ということだ。
 如何程のものなのか気になる。それに東方で刀といえば、有名な流派がある。中央ではなかなかお目にかかれないので、それも興味がある。
 知らずそわそわしていたらしいタスクに、ガードナーが言う。
「ミナト流剣術はタスクも知っているだろう。彼女は……」
「やはりミナト流か! レオナルド、俺とかわれ。彼女の実力はこの俺が見よう」
 技をいくつか引き出せば、今後の研究に役立つかもしれない。もしかして彼女を泣かせてしまったら、そのときは励ましてやろう。
 ガードナーが目配せすると、クレリアはにっこりして頷いた。
「では、よろしくお願い致します」

 邪魔にならないようまとめますね、と髪をポニーテールにしたクレリアに見惚れた、そこまでははっきりと覚えている。
 そのあとからはもう曖昧だ。記憶するだけの余裕が一切なかった。
「ああ……負けてしまいました。やはり大将ともなれば強いですね。手が痺れました」
 クレリアはそう言いながらも恍惚とした表情をして、さらには息を殆ど乱していない。タスクは必死で彼女の得物を弾き飛ばしたが、試合開始からそこまでの時間は途方もなく長く感じた。
「まだまだですね、あたしも。もっと精進して師範らしくならないと」
 師範。それを聞いて愕然としたが、納得もした。道理で彼女の動きには無駄がない。相手は女性なのだし手加減すべきか、などと考えていたタスクは、実に浅はかだった。絶え間なく攻め込む彼女に、手加減なんかしてやるような隙など存在しない。
 呆然としたまま、タスクはクレリアを見ていた。手を握ったり開いたりしながら感覚が戻るのを確かめている彼女の目は、楽しげに細められている。その奥の瞳には炎が燃えて爆ぜ、爛々と耀く。
 彼女は美しい。容姿も声も、きっとその精神も。だからこんなにも目が離せない。
「少将、私とはまた次の機会に致しましょう。タスクの攻撃は重いので、おそらくもう暫くは感覚が戻りきらないかと」
「そうね、ガードナー大将とはまたいつかに。それからグラン大将」
 名前を呼ばれ、タスクは引き戻された。クレリアの闘志の燃える瞳は、笑みとなってこちらに向いている。タスクを見ている。
「次はあたしが勝ちます」
 確信してしまった。今日はもう仕事にならない。そしてこれからも彼女のこの表情を思い出す度に手が止まるに違いない。

 終業時間を過ぎてから、将官室にガードナーが入ってきた。周囲と挨拶をかわしながら、真っ直ぐにタスクのところへ来る。
「まだかかりそう?」
「いや、もう片付ける。追加の書類でもあるのか」
 これまでこの優秀な同期がそんなことをしたことはない。やはり彼は首を横に振る。
「閣下が、リータス少将との食事にタスクもどうかって。彼女もタスクともっと話してみたいそうだよ」
 彼女が自分と? 何故だ。もしや気に入られたのか。何の話をしたいというのだ。戸惑いで固まってしまったタスクの肩を、ガードナーが軽く叩いた。
「そんなに緊張しなくても」
「……緊張などしていない。いいだろう、同行する」
 咳払いをして誤魔化すと、付き合いの長い同期は噴き出しかけて堪えた。悔しいが、彼にはわかってしまうらしい。この混乱も、喜びも。
 食事会はレヴィアンスの馴染みの店で行うという。タスクは職務で必要な時以外の外食を避けるように母に言い含められて育ったので、あまりこのような場所には来ない。店の外観を物珍しそうに眺めてしまう。
 何を着てきたらいいのかわからず、ガードナーに決めてもらった。襟や袖口を何度も確認したが、まだ落ち着かない。
「おまたせ。ごめん、ちょっと寄り道してて」
 レヴィアンスの声に振り返ったが、そちらは目に入らなかった。真っ先に飛び込んできたのは、彼の斜め後ろにいたクレリアだ。
 昼間と雰囲気が違う。軍服を着ていないからというだけではない。私服もよく似合っていた。
 ぼうっとするタスクの背中を、ガードナーがこっそり叩く。挨拶をして、レヴィアンスを先頭に店内に足を踏み入れた。
 通されたのは最奥の個室。なるほど、人目を避けて使うには良さそうだ。だがテーブルを挟んで向かい合ったクレリアが近い。
「閣下、何故こんなところに」
 彼女から視線を逸らしたついでに尋ねた。レヴィアンスは店員が持ってきたメニューを見ている。
「肉食いたかったから。美味いんだよ、ここ」
「そうではなく、庶民的すぎるのではと言っている」
「でもちゃんと個室用意してくれるよ。それともこう言った方がタスクは納得するかな。ノーザリアの大将とよく来てる」
 それを言われては文句のつけようがない。口を閉じたタスクににやりとしてから、レヴィアンスはクレリアに水を向けた。
「先に改めて自己紹介しておこうか」
「そうですね。……改めまして、東方司令部少将クレリア・リータスと申します。本日はこのような席を設けていただき、ありがとうございます」
 深々と頭を下げるクレリアに、レヴィアンスは「楽にしてよ」と苦笑する。若輩者ですので、と返したクレリアは、続いて聞いたところによるとタスクの五つ年下だった。
「東方では剣術指導も担当しております。グラン大将もご存知の通り、未熟者ではありますが」
「昼間の手合わせ、クレリアはすごく楽しかったって。タスクくらいの人は久しぶりだってさ」
「そうなんです。中央はやはり強い方が多くて良いですね。それにグラン大将はあたしに対して油断なさらなかった。それが何より嬉しかったです」
 いや、油断はしていた。ただその思い上がりを彼女が瞬時に斬り捨てにかかったという、それだけだ。タスクは俯き、切り出した。
「いや、正直あれほど強いとは思っていなかった。女性なのだから手加減するべきだろうと考えていたが、すぐに撤回させられただけだ」
 クレリアはきょとんとしていた。レヴィアンスと、ガードナーは何故か肩を震わせ始める。笑う要素などなかっただろう。クレリアに至っては一瞬とはいえ侮られていたのだから、怒ってもいいはずだ。
 しかし彼女は誰よりも先に破顔した。
「本当ですか? そんなに素直に仰る方、初めてです。わあ、なんだかとても嬉しい」
 これが彼女の素なのだろうか。美しいことには変わりないが、まるで少女のようだ。年下だからその認識はそう間違いでもないのかもしれないが、それまでの彼女に比べると急に幼くなったように感じる。
 飲み物と料理が来ると、彼女は一層お喋りになった。
「男性の多くはあたしを『強い』とは表現なさいません。まずは女性だというだけで格下だと思うようです。ミナト流を継いだ時だって、女に継がせるのは勿体ないといった声があがりました」
 そんなことを話してから、切った肉を美味しそうに頬張る。レヴィアンスに「ストレス溜まってんね」と言われると、大きく頷いた。
「だって聞いてくださる? 今回の昇進だって散々な言われようだったんですよ。でもあからさまに嫌な態度をとる方はまだ良いんです。問題はあたしの仕事を『女性ならではの視点でできるもの』だと言う方」
 タスクは自己紹介の続きを思い出す。クレリアは東方で少年犯罪を取り扱っているという。担当しているのは主にフォローの面で、罪を犯した若者たちを更生させ再び社会に送り出すのが彼女の仕事だ。
「女性だからできる仕事ではないんです。母親の愛情が足りなかったから罪を犯すようになってしまったんだ、だから君が彼らの母親になってくれ、なんて無責任なことを仰る方の多いこと。そしてあたしが昇進することで、彼らとの距離は遠慮の分だけ離れてしまうんですって。そんなわけあるはずがない」
 どんな理屈なんでしょうね、と皮肉めいた笑みをつくる彼女を見て、そんな表情もするのか、とタスクは思う。
「面倒な事を投げておいて、それをこなすことを仕事だと認めない。あたしの能力を認めてるんじゃなく、あたしはそれだけやってれば十分だってこと。あの人たちはそれを当たり前のことだと思ってる」
 言葉はタスクの耳にも痛かった。これまでそんな振る舞いをしていなかったという自信はない。現に少しでもクレリアを侮った。
 他の誰かが同じことを言うなら、黙って聞いていただろうか。そんなことはないと口を挟んでいたかもしれない。
 そんなことを考えて神妙な顔をしていたら、クレリアはそれを誤解したらしい。
「ごめんなさい、変な話をしてしまって。気を抜きすぎました。こんな話嫌ですよね、グラン大将」
「いや、その」
「タスクはすぐ難しい顔しちゃうんだよ。ちゃんと聞いて考えてくれてるってことだから大丈夫」
 レヴィアンスが助け舟を出してくれ、それからは対処方針の話に移っていった。その隙にタスクは、静かに食事をしていたガードナーに話しかける。
「疑問なんだが」
「何?」
「閣下と少将は親しすぎないか。先程のような訴えを直接伝えることができるなんて」
 勿論クレリアの話は重要なものだ。東方の現状があまり良くないことは報告してもいい。だが大総統に直に伝えることができる彼女はおそらく特別だ。
 レヴィアンスの手を見る。彼の左手薬指には銀に輝く指輪があるが、その片割れがどこにあるのかは誰も知らない。少なくともタスクの知るところではなかった。
 だが今、それが無性に気になる。クレリアは指輪はつけていないが、隠すために外しているのかもしれない。
 何を隠す? ――大総統との関係を。
「閣下と彼女の付き合いは長いようだよ」
 ガードナーは意外にも勿体ぶらずに答えた。
「本当はそれを話すためにタスクを呼んだんだ。……閣下、お話中に失礼致します。本来の目的にかかったほうがよろしいかと」
「そうだった。タスクには教えておこうと思ったんだよ。これからきっと、長い付き合いになるからさ」
 レヴィアンスはこちらに向き直り、クレリアも姿勢を正した。そもそも座席の位置からしておかしかったのだ。クレリアはレヴィアンスの隣、タスクはガードナーの隣。
「タスク。クレリアはオレの」
 待て、心の準備ができていない。受け入れられなかったらどうする。そんな叫びは一言も発せないまま、告げられた。

 せっかくの良い肉の味は覚えていない。レヴィアンスの周りの人間関係を整理するので頭はいっぱいだ。店を出てからもタスクはまだ混乱していた。
 ――クレリアはオレの義理の妹なんだよ。
 それを聞いた時は、一瞬ホッとした。クレリアがレヴィアンスが隠していた妻だったら、せっかく薄れてきた恨み妬みが再び蘇っていたかもしれない。
 だが本当に一瞬だ。彼女が義妹であるなら、レヴィアンスの妻が誰なのかということになる。タスクはリータスという姓の他の人間に、たった一人心当たりがあった。――大総統付記者の女性の名が、エトナリア・リータスのはずだ。
 そのまさかであり、レヴィアンスが一年以上隠していた妻とはそのエトナリアのことだった。公にしないのはリータス姉妹の両方への不利益を避けるためだという。
 レヴィアンスが引退するまで、その関係は秘匿しなければならない。例えば今このことが東方司令部の人間に知れたら、クレリアの立場はどうなる。おかしな勘違いはさらに捻れて、何をしても「大総統の身内だから」と捉えられるようになるかもしれない。彼女の悩みは一層深まるだろう。
「厄介だな、大総統の身内になるというのは」
「そうかもしれないね」
 タスクの呟きをガードナーが拾う。レヴィアンスとクレリアは先に車を呼んで行ってしまったので、ここには二人しかいない。
「タスクも大変だね」
「俺が? 大変なのは少将だろう、職場では嫌味を言われ、閣下と姉には巻き込まれて」
「でもタスクはそんな彼女が好きでしょう」
 付き合いの長い同期はにっこりして、タスクの抱く感情を指摘した。自分でもわからなかったことを。
「……すき?」
「え、そうでしょう。ずっと少将、いえ、クレリアさんのことを意識している」
 ガードナーが彼女を「クレリアさん」と呼び直したことが、微かな苛立ちを呼び起こす。思えば大総統補佐を務める彼は、クレリアと先に出会って長く付き合いがある。
 そこにいるのが自分だったら。何度も考えたことが、別の意味を持っていた。
「好きなのか、俺は」
 好きだの嫌いだの、恋をしただの。そういう話は無駄だと思っていた。実際そんなものの為に取り返しのつかない失敗をした者も見てきた。そしてタスクはそういう人間を軽蔑していた。
 でも、そうか。あの頭のてっぺんから爪先まで駆け抜けた衝撃は、そういうことか。強い痺れは凝り固まった考えを変えることもあるのだ。
「好きでい続けるなら、タスクだってあの関係に巻き込まれていくんじゃない?」
 それはとても厄介で面倒だ。共有してしまった秘密は隠さなければならない。ただの共有ではなく、その想いを堂々たるものにしてはいけない共犯関係。本来ならそんなものに巻き込まれたくはない。
「先に側近として巻き込まれたお前はどうだ。大変だろう」
「補佐を拝命してから、大変じゃなかったことなんてないよ」
 面倒の傍にいるガードナーは、しかし晴れやかに笑う。不思議なことに、タスクも混乱はしたが、既に頭はすっきりしていた。
「明日も彼女に会えるか」
「執務室に来れば会えるよ。でもそれを逃したらまた暫くは中央には来ないだろうね」
 ひとまずのタイムリミットは明日の終業時間。もう一度会って確かめたい。抱く気持ちが本当に彼女への恋心なのか。厄介や面倒をも背負えるほどのものなのか。

 一夜明けて、始業時間の中央司令部は慌ただしい。大総統執務室にはレヴィアンス、ガードナー、イリス、そしてクレリアが集い、仕事を始めていた。
「イリスちゃん、昨日はしっかり休めた?」
 書類を捲りながらクレリアが問う。うん、とイリスも頷いた。
「おかげさまで超リフレッシュ! お兄ちゃんとのデート、楽しかったよ」
「良かった。お兄さんたちは元気?」
「元気にしてる。クレリアさんが来てるって教えたら、会いたがってた」
 クレリアがレヴィアンスたちに初めて会ったのは、彼女が四歳のときだ。東方で起きた事件を解決すべく中央からもヘルプの人員を出し、そのメンバーが当時のレヴィアンスたちだった。
 幼いクレリアは状況がよくわからなかったが、事件には姉と母が巻き込まれていた。母は元軍人であり、現役時代に残した悔いをそのとき精算することができた。そして姉は――当時は露ほども思っていなかったというが――今の夫との交流を開始した。
 事件の詳細も、そのとき姉と母に何が起こっていたのかも、クレリアが全てを理解したのは自分が軍に入ってからだ。事件から六年が経過していたその頃、十五歳になっていた姉は中央から届く手紙を楽しみにしていて、それなのに読んでは深い溜息をついていた。
 恋とはそういうものなのだと認識したのはその時だったと記憶している。そして今日まで、自分には縁がなかったと思っている。クレリアにとって最も大切なのは、大切な人がいる場所を、受け継いできた誇りを守りながら育てることだ。母の強さを目標に、姉の逞しさを見習って、ひたすら前に進むことが自分の生きる道だと信じていた。そこに恋愛など入る隙間はない。
 ――グラン大将、素敵な方ですね。
 昨夜、レヴィアンスに送ってもらう道中で切り出した言葉にも他意はなかった。かつてガードナーを大総統補佐として紹介されたときも同じことを言った。
 けれどもレヴィアンスの反応は以前とは違うと感じた。今回はより安堵していた気がする。
 ――彼のこと、もっと好きになってくれたら嬉しいよ。
 添えられた言葉には人間性に対する以上の意味があったのかどうか。クレリアは彼女にしては珍しく、寝るまでの時間をそのことを思い返し考えることになった。
 姉と義兄のせいかもしれない。彼らは結婚してからほぼ進展のなさそうに見える一年を過ごしているが、それでも幸せそうだ。
 全ての結婚が幸せだとは、クレリアは思わない。それらはイコールでは結びつかない。そんなことはしなくても幸福の要素はあるし、逆にどんなものも不幸の要素にもなりうる。
 だが、仕事こそが至上の幸福であると豪語していた姉が、それを保ったまま新たな幸福を手に入れた姿を見ていると、僅かではあるが興味は湧いた。それは自分にとっても、幸福たりうるものなのだろうか。
「さて、始めようか。まずクレリア、報告をお願い」
「はい。それでは更生プログラムの経過を報告致します。対象はシリュウ・イドマル。閣下やインフェリア大尉も彼のことはよくご存知でしょう」
 ともかく今は仕事だ。それ以外の幸福は、ひとまず二の次でいい。そうして忘れていくようなものなら、それでも一向に構わない。
 姉のように長く焦がれるような感情を、クレリアはまだ知らず、敢えて知る必要性もあまり感じない。

 昼休み、タスクは大総統執務室の前をウロウロしていた。行きつ戻りつ、扉に手をかけようとしては止める。完全に不審者だったが、勿論本人にその自覚はない。
「何やってるんですか、大将」
 その姿を目撃したのは、よりによって生意気な部下だった。
「……リーゼッタ、何しに来た」
「何って、そこ入りたいんですよ。退いていただけますか」
 敵意はないが完全に呆れた様子のルイゼンに、タスクは羞恥からの苛立ちを覚える。大体、休憩時間に大総統執務室に何の用事だ。それを訊いているというのに、彼は答えていない。
「入ってどうする。まさか閣下と昼食をとるわけでもあるまい」
「そのまさかです。通してください」
 堂々とした態度は真実を示している。嘘をつく理由も見当たらない。だが昨日から引きずっている混乱とたった今の羞恥が、タスクを意固地にしていた。
「さすがは大総統の贔屓だな。貴様如きが閣下と昼食とは、随分とお偉い佐官様だ。今来ている少将にも取り入るつもりか」
「声大きいですよ。取り入るつもりはありませんが、リータス少将にお会いするために来たんです。いいかげん通してくださらないと困るんですが」
 彼女に会いに。タスクが躊躇していたことを、この部下は易々と行おうとする。先程からちらちらと燃え始めた黒いものが、その勢いを増した。
「閣下のお気に入りだからと大層な態度だな!」
 怒鳴りルイゼンの胸倉に手を伸ばしかける。だから声が、と言いかけた相手の声は聞こえなかった。
「大層な態度はどちらですか」
 滑らかなサテンの声の冷たい響きがタスクの耳を刺す、その痛みが脳と胸に回るほうが早かった。
「失礼いたしました、リータス少将」
「お久しぶりですね、リーゼッタ大佐。中へどうぞ、閣下がお待ちです」
 ルイゼンには向けた微笑みを、タスクには一瞥すらくれず、クレリアはその美しい顔を背けた。さらりと揺れた髪には拒絶が見える。
 わかっている。部下を認めずに理不尽な言いがかりをつけるタスクの態度は、彼女が何より悩まされているものと同質だった。昨夜省みたばかりだというのに、頭に血が上るとこうだ。
 重い足を走らせる。ここにいてはいけない。行先は考えずに、とにかくこの場所を離れなければと思った。

 中央司令部の中庭の大樹は、多くの人々を見守ってきた。訓練をサボる者、束の間の休息を過ごす者、考え事をしたい者など様々で、失恋して落ち込んでいる人物もそう珍しくはない。
「タスク、お腹空かない?」
 ガードナーがここに来たのも、必然といえばそうだ。長い付き合いで、彼はきっとわかりやすいところにいるだろう、と判断した。
 食堂で買ってきたサンドイッチを差し出すと、タスクはのろのろと顔を上げた。食べ物を受け取りはしなかったが、腹の虫は実に正直に鳴いた。
「食べないと午後に力が出ないよ」
「……何故ここにいる。閣下の傍にいるのがお前の仕事だろう」
「昼休みだよ、今。それに補佐はもう一人いる」
 ガードナーはタスクの隣に座り、自分の昼食を取り出した。タスクに構わず食べ始めると、彼はまた俯いてしまう。
「……最悪だ。彼女は嫌な思いをしただろう」
「直接嫌な思いをしたのはルイゼン君だよ」
 ルイゼンは「よくある癇癪でしょう」とすぐに流していた。だがそれを言ってやるつもりはない。
 その「よくある癇癪」を自分で処理しなければならないことを、タスク自身もわかっている。わざわざガードナーが指摘する必要はない。
「謝るにも体力は必要だよ、タスク。食べた方がいい」
「このまま餓死して消えたい」
「君の遺体を処理するのは面倒そうだ」
 彼が人間関係でここまで極端に落ち込んだのを、ガードナーでさえ初めて見る。それほどまでにクレリアには嫌われたくないらしい。友人にそんな人ができたことは嬉しいが、今はそれを顔に出せない。
「彼女はきっと、お前のような人間が好きなんだろうな」
「どうして」
「部下に八つ当たりをしない。見下したりもしない。……嫉妬もしない」
 意気消沈して普段は言わないようなことを延々と呻くタスクは、新鮮で面白い。そう思う自分がいるというのも、ガードナーにとっては発見だった。誰かの変化は、確実に周囲をも変える。
「嫉妬はするよ。出さないように頑張ってるだけ。それは望まれる僕ではないから」
「俺は何を望まれている」
「君は何を望んでるの」
 タスクは自分が変わることでガードナーを変えられた。だから、きっと彼女とのことも変えられる。
 要求の手が伸びた。サンドイッチの包みをのせてやると、彼は潰さないようそっと掴んだ。

 あれくらいどうということない、と言うと、レヴィアンスはにやにやしていた。
「普段、仕事でよく見る感じ?」
「そうですね。癇癪持ちの子は基本中の基本。寧ろそういう子はわかりやすくていい」
 クレリアの返答に、にやにやは爆笑に変わった。膝を叩いて笑う程のことだろうか、時々義兄がわからない。
 ガードナーがタスクを追いかけて行ったので、そちらは任せることにしたのか、レヴィアンスは平然と昼食を広げていた。イリスとルイゼンは初めこそ気まずそうにしていたものの、すぐに気にしなくなったようだ。
 タスクの態度は確かに好ましいものではない。だが、クレリアはそもそもタスクとルイゼンの関係を知らない。自分の関わらない部分にいちいち好悪を示すほど暇ではない。
 かといって全くショックがないというわけでもなさそうだ。その点に関しては、クレリア自身が不思議なくらいだった。もしかしたら今後彼との付き合いが素っ気ないものになってしまうのでは、と思うと寂しい。
「義兄さん、グラン大将はいつもどのくらいで機嫌が直るの?」
「んー、結構かかるかも。拗らせて引きずって色々あったからさ、あいつに関してはオレもゆっくり見てるよ」
 今日中には無理か。では、次の機会を待つしかないのだろうか。数ヶ月後か、一年後か、それとも。
 仕事での更生プログラムには仮のスケジュールがあり、それを個人に合わせて調整していく。だがだらだらと時間をかけるのは、その人の人生を無駄に費やすことになるのでいけない。無理なく確実に、ちょうどいいところを模索するのだ。それも何十人分を。
 それなのに今、クレリアはたった一人を読めずにいる。こちらが急いても仕方がないのに、短い時間で解決したいと思っている。
「荒療治できなくもないけどね。劇薬になるかも」
 レヴィアンスの少しばかり物騒な言葉に縋りそうになるくらいには。

 終業間際、タスクは大総統執務室にいた。レヴィアンスが「重要な話がある」と呼び出したのだ。
 クレリアもその場にいたが、極力そちらは見ないようにしている。目が合った時に逸らされたら、と思うと挨拶すらまともにできなかった。
「タスク、そろそろ定期報告の時期だったよね。ネイジュはどう?」
 用事は昼のことではないらしい。タスクに任された部下のことを、月に一度報告することになっていた。部下といっても、刑罰の一環として軍に戻された者だが。
「半年になるが、まだ大人しいな。こちらのこともたまに睨むくらいだ」
「そう。……実はちょっと気をつけてほしいことがある。タスクは忙しいし、そんなに彼に目をつけてもいられないのはわかってるけど」
 若い軍人たちの一部で嫌がらせが起きていて、彼らを問い詰めるとネイジュの名前が出てきたという。彼に唆されたのだと。事実であってもそうでなくとも、対処は必要だろう。
 かつて彼を唆した側としては、頭の痛いことではある。タスクは苦い顔で頷いた。
「承知した。話はしよう」
「参考になるかもしれないから、クレリアに相談するといいよ。明日の朝には東に帰るから、今のうちに」
 さらりととんでもないことを言われた。いや、仕事に関する話だからさほどおかしいことではない。ただタスクが気まずいだけだ。
「ネイジュ・ディセンヴルスタ中佐についてはあたしも事情を聞いていますので、協力できます」
 ソファに座ったまま、クレリアは冷静に告げた。気にしていないのか、はたまた怒りを隠しているのか。いずれにせよこれは仕事だ、逃げられない。
 タスクはクレリアの向かいに腰を下ろした。顔を見ることはまだできない。
「……ディセンヴルスタは、私の話をまともに聞かないかもしれない」
 仕事用の口調で言うと、クレリアは「ええ」と頷いた。
「グラン大将が以前、彼に傷害事件を教唆したと伺っています」
 タスクの最も卑怯な部分は、既に彼女の知るところだったようだ。それならもう心底嫌われているだろう。
 出逢い、気づいて、嫌われて。たった二日の短い恋だった。
「……そうだ、だから奴は私の話を大抵無視する。大人しくしていたのは他で発散していたからだとは十分に考えられる」
「そうかもしれませんが、その発散方法が他者への傷害の教唆であると判断するのは早いかと」
 諦めてしまうと仕事に集中できた。加えて、クレリアとは冷静に話せる。結局方針が決まったのは、随分遅くなってからだった。
「お疲れ様」
 レヴィアンスの声で我に返る。それと同時に漂う甘い香り。タスクが顔を上げるより早く、クレリアが叫んだ。
「義兄さん、パンケーキ焼いてくれたの!?」
 思わず目を向けると、輝いた彼女の瞳があった。今まで仕事の話を真剣にしていたのが嘘のように、表情が幼い。
 それからハッとして、タスクを見る。頬が赤くなる経過なんて初めて見た。恥ずかしそうに笑った彼女に、不機嫌さは微塵もない。
「……あの、あたし、義兄さん……ええと、閣下の作ってくださるパンケーキが食べたくて、お約束をしていただいて」
 さっきまであんなにはっきりと話していたのに、照れるとこんなにしどろもどろになる。そして好きな物があるときの、幸せそうな顔ときたら。
 もっと見たい。諦められない。嫌われていたって、望むことを止められない。
「少将、また相談してもいいだろうか」
 こんなに怖くて、欲しくて、たまらなくなったのは初めてだ。
 クレリアはタスクと目を合わせる。逸らすことなく、細める。
「勿論、あたしでよければ」
 あのときから、彼女には痺れっぱなしだ。
 レヴィアンスが作ったとはにわかに信じられないような洒落たパンケーキを頬張る彼女に、タスクは愛しいという感情を覚えたのだった。

 やっぱり素敵な人だと思う。義妹は部下をそう評して帰っていった。
「レオはどう思う? タスクがオレの義弟になるようなこと、あるかな」
 いつも隣にいる彼に尋ねると、どうでしょう、と含み笑いが返ってきた。
「未来はわかりませんから。閣下もそうだったのでは?」
「確かに」
 それがゴールとは限らないし、それ以前に壁やハードルがいくつもある。それでも目指すのなら、たまに手を貸してやりたい。
「周りに興味をお持ちになることは素晴らしいですが、ご自分のこともお忘れにならないようお願い致します」
「……わかってるって」
 たまに、だってば。たまに。口をとがらせるレヴィアンスの傍らで、ガードナーが幸せそうに微笑んだ。