目は閉じていても、耳も鼻も肌もその感覚を研ぎ澄ましている。玄関の戸が開くのを、今か今かと待っている。
寝たふりをするのは、良い子にしていたいからだ。そうすれば安心してもらえるから。それともうひとつ、望まない展開から逃れるため。知らないふりをするため。
肌が空気の流れの変化を捉えた。部屋が少し冷える。けれども胸のあたりは温かくなって、目を開けそうになる。
でも、耳に届いてしまった。待っていた声ともうひとつ、望まないだみ声。鼻は強い酒の臭いを感じる。――わかっていた。希望は大抵裏切られるものだ。
「静かにしてよ。子供が寝てるの」
「熟睡してたら聞こえないって。なあ、飲みなおそう。寒かったから縮こまっちまったよ。あったまってからベッドにいかないと」
「だから大きな声を出さないでってば。今用意する」
もう喉が酒でやけるほど飲んでいるのに。毛布を手繰り寄せて頭から被っても、耳は塞がらない。
どうやら自分は五感が人より鋭いらしい。それが役に立ったことはあまりなくて、むしろ外に出るとたくさんのノイズを拾ってしまう。特に人混みは苦手だ。街に買い物に出る時間は極力少なくなるようにしている。
唯一助かると思うのは、料理をするときだ。僅かな変化も感じ取ることのできる感覚は、味覚にも及んでいる。
母のために学んだ料理だった。草臥れて帰ってくるその人のために、心も体も癒されるような美味しいものを用意しておきたくて。
自分で家事をできるようにしなくてはならなかった、そのことが苦痛ではないのは、全てが母のためになるからだった。
それなのに、冷蔵庫を開けた音は無遠慮だ。
「お、作って置いてあるじゃん。気が利くね」
「ああ、私じゃないの。子供が作ってくれるのよ」
保存容器が取り出される。今日は鶏肉を煮ておいたのだ。酒で負担のかかった胃を痛めないよう、さっぱりと食べられるように味付けした。
少しでも体調を整えられたらとハーブも添えて、容器の蓋を開けたら見た目も楽しめるように、綺麗に丁寧に仕上げたのだ。けれどもそれには全く言及がなく、耳障りな咀嚼音が響いた。
「美味いけど物足りねえなあ。量も少ないしよ。おい、酒はまだか」
「はいはい、すぐに」
「つまみを平らげてから酒が出てくるとかありえないだろ。他になんかないの」
薄味にしてあるのは、それが母の好みだからだ。量が少ないのは、母が少食だからだ。
知らない人のためになんか、作ってないのに。
涙を堪え、毛布の下で丸くなる。早く寝てしまわなければ、もっと聞きたくない音を聞いてしまう。
それよりは、眠った後に襲い来る悪夢の方が随分ましだ。
「……奮発してくださったんですね」
箱には色々な種類の酢の瓶が入っていた。ニール自身は普段手を出さないような、価格帯の高いメーカーのものだ。原料の果物や穀物がラベルに描かれている。
「僕は用途とかよくわからないけど、ニールなら使えるでしょう」
「このリンゴ酢は飲むこともできますよ。炭酸水で割ってみましょうか」
実母を亡くして今の親に引き取られてから、毎年、誕生日の贈り物が途切れたことは無い。直接の交流を断っていた間ですらも。それで嫌われていないということを、互いに確かめあっていた。
今年は久しぶりに、ニアが直接渡してくれた。家まで届けてくれたのは初めてだ。
「こんなにあれば、色んな風味の料理が作れます。そうだ、良かったら食べていってください。鶏肉を柔らかく煮たらきっと美味しいです」
「いや、僕もまだ仕事があるし、ルーにも悪いよ」
「じゃあ、持って行ってください。今日くらいは、できるまでお話してくれてもいいでしょう」
積もる話も話しきれてませんし。ニールがにっこりすると、ニアは苦笑しながら留まってくれる。
他愛のない話すらできなかった長い時間を、親子は少しずつ埋めている最中だ。互いの意地を解きほぐしてくれた多くの人たちにも、まだ感謝をしきれていない。
「大体、ルーも父さんもずるいんだよ。自分たちだけさっさとニールの誕生日プレゼント用意しちゃって」
「お二人とも、とても素敵なものをくれました。新しい椅子は座り心地が良くて、庭仕事の道具はこれから大活躍しそうです」
「それに比べて僕なんか、さんざん悩んで酢だよ」
「とんでもない! あれ、僕じゃなかなか買えないんですよ。良いものだから使えば絶対もっと美味しいものができるってわかってるのに、こう、予算の都合とかが色々……」
「ベストセラー作家が予算とか気にする?」
「しますよ。もともと僕は度胸がある方ではないので」
「家は買ったのに」
「……それは、だって」
炭酸水で割った酢は、果実の甘い香りがした。返事に迷ったついでに口をつけると、きゅ、と舌が丸まる。
「すっぱ……あ、でも美味しいですよ。さすが高級品」
「すごい顔だったよ。本当に美味しいの?」
「本当ですって。ニアさんもどうぞ、今すぐに」
躊躇いながらニアもグラスを傾ける。そしてやはり、きゅ、と眉間に皺を寄せた。
「わー、酸っぱい……。酸っぱいのに甘いしさっぱりしてるし、変なの……」
「お好きではないですか」
「ううん、美味しい。自宅用にも買おうかな。料理はできないけど」
一緒に住んでいれば、いくらでも料理を振る舞うのに。思っても、ニールは言えない。
この独り暮らしには大きすぎる家は、そもそも育て親――ニアとルーファと共に暮らそうと選び、買ったのだ。けれどもこの家に移る気はないと、ニアが頑なに断った。
それはニールが独り立ちする機会だと思ってのことだったが、そのまま拗れてしまい、しばらくは会うこともなくなってしまった。
しかし、それももう過去のこと。じきに笑い話にもできるだろう。
「料理、教えましょうか。お酢のお礼です」
「誕生日プレゼントなのにお礼も何も。でも、そうだね。教わっておこうかな」
「では、鶏の煮物を。ニアさんはお酒をよく召し上がりますからね。これは飲んだあとでもさっぱり食べられるんですよ」
ニール自身は酒を滅多に飲まないが、酒呑みを意識した料理は得意だ。その理由を、ニアは昔から聞いているので知っている。
お客さんとお酒を飲んで会話をする仕事をしていた、実母のためだ。けれども実母がニールの作った料理を食べてくれることは、五回に一回程度だった。大抵は、母が連れてきたお客さんの胃に収まってしまう。
――食べて欲しい人に食べてもらえるのって、とても嬉しいんです。
料理が苦手なニアとルーファにかわり、子供ながらも台所を預かっていたニールは、そう言って笑っていた。
「……ごめんね」
呟いたニアに、ニールはすぐにその真意を察して、首を横に振る。
「もう謝らないでください。僕にだって、大切な人や物が増えました。ここに来て増えたんです。だから、僕もあなたも、きっと間違っていなかった」
美味しいのを作りましょう、とまたひとつ大人になった息子が言う。
親はそれを認め、頷き、隣に立った。
朝になると、母はできる限りの豪華で美味しい朝食を用意している。そして美しい笑みを、こちらだけに向けてくれるのだ。
「昨夜も遅くてごめんね。作ってくれたのも食べそびれちゃったの」
いいよ、また作るから。そう答えてこちらも笑い返す。レシピも味も、この五感がちゃんと覚えている。同じものを作ることはできる。何度だって。
「朝ご飯は一緒に食べましょう。ニールが作ってくれたものには負けちゃうけど」
「負けないよ。僕、お母さんのご飯大好き」
この時間を感覚に焼き付けて、いつでも思い出せるようにしておこう。そうすればきっと、何があっても、幸せな記憶を持ち続けられる。
幸福の味を、忘れずにいられる。