秘書の入れてくれたコーヒーの味がわからない。
こんな苦味すら感じないほどに、自分は悩んでいるのか。
職場のことだけではない。兄夫婦のこと、その娘である姪のことも。
カウンセラーなどとたいそうなことを名乗っている割には、一人の女の子さえ救えない。
そんな自分に嫌気が差していた、ちょうどそんな時期。
ケイアルス・モンテスキューは「彼」に出会った。
初めは数回のすれ違い。
刑務所の面会室付近で、週に一度は彼の姿を見た。
邪魔だからまとめた、という程度に乱暴に結った髪の色は、闇にとけてしまいそうなダークブルー。
年齢は十代後半か二十代になったばかりというところだろう。
彼が名簿に残していった名前を確認すると、それはどこかで見たものだった。
名簿以外のどこか…確かあれは、歴史書だった。
家に帰ってからいくつかの書物を引っ張り出し、ページをめくる。
案外簡単に見つかった。
「…初代大総統から家名を与えられた、代々軍人の旧家…か」
本を見て確かめなくても、先々代の大総統の名を知っていれば簡単にわかる。
「彼」がその軍人家系の、現時点での末代であるということは。
しかし、彼が刑務所に来る理由は全く見当たらない。まさか親戚がいるということはないだろう。
だとしたらそれ以外の知り合いだろうか。
次にあったとき、思い切って声をかけてみようと思った。
「カスケード・インフェリアさん…ですよね」
さすがにこの声のかけ方はまずかったか。ケイアルスは少し後悔する。
驚き振り向いたカスケードは、戸惑いながら言葉を返してきた。
「どちらさまですか?」
「私はここの職員で、モンテスキューと申します。インフェリアさんとはよくすれ違っていたので、一度お話したいと思っていました」
事実だが、怪しい理由だ。ケイアルスは我ながらそう思った。
しかしカスケードの方はあまり気に留めないらしく、笑顔で応えた。
「私でよければ是非。仕事の方があまり忙しくないので、時間は有り余ってますから」
ケイアルスはそこでホッとしてお茶に誘うことができたが、実際カスケードはこうして外出することを上司に良く思われていなかった。
彼自身もそれは十分にわかっていたが、刑務所に来ることは彼にとってそんなこと以上に大切だったのだ。
職員用の面会室で、紅茶の香りと共に会話は始まった。
「インフェリアさん、失礼ですが…」
「何故よく面会に来るのか、ですか?」
意外にもカスケードが先制した。ケイアルスの問いたかったことを、彼はすでにわかっていたのだ。
どうやら他にも訊いたものがいるらしい。
「まいったな、見透かされてしまった。宜しければ聞かせて欲しいと思ってました」
「かまいませんよ。でもその前に自己紹介にしましょう」
流石にいきなり目的を話すというわけにはいかないらしい。
ケイアルスがどのような人物であるのか、伺っている。
「そうですね、マナー違反でした。失礼しました」
ケイアルスは丁寧に謝り、続けて名乗った。
「私はケイアルス・モンテスキューと申します。ここでは主にカウンセラーとして働いています」
するとカスケードがしっかりした口調で名乗り返した。
「私はカスケード・インフェリアです。エルニーニャ王国軍中央司令部の、中佐になったばかりです」
役職は軍服についているバッジでわかるが、まさかなったばかりとは。
ケイアルスは感心しながら、本筋とは関係ない質問をする。
「インフェリアさんは今おいくつですか?」
「二十歳です」
「そうですか…こんなにしっかりしておられるなら、ご両親も安心でしょうね」
「それはどうなんでしょうね…両親には、もう十年も会っていませんから」
しまった、失言だったか。
ケイアルスは再び謝罪し、カスケードの寛容な笑顔を見ることになった。
「気にしないでください。…モンテスキューさんはおいくつですか?」
「あなたより大分年を取ってますよ。二十九です」
「まだ二十代じゃないですか。お若いですよ」
「ありがとう」
互いに笑顔だが、ケイアルスには目の前の青年が自分に対して完全に心を開いてくれているとは思えなかった。
まだ何かが足りない。もう少し話してみるか。
そう思ったとき、またもやカスケードから言葉が発せられた。
「モンテスキューさんのご家族は?私はさっき申し上げたとおり十年ほど会っていませんけど、両親と妹の四人家族です」
本当にさっきのことは気にしていないのか、この話題。
ケイアルスは少し戸惑ったが、笑顔で返答した。
「離れて暮らしていますが、両親と…それから兄がいます。兄嫁と、姪も」
「そうなんですか」
反応は、それだけ。
いいとも悪いとも言わない。
本来その言葉が出てくること自体おかしいとわかっていながら、カスケードには違うものを感じる。
「姪はもうすぐ十二歳で…笑うととても可愛い子なんですよ」
「それは是非会ってみたいですね」
「えぇ、私も会わせたいと思います」
いつの間にかこんなことを口にしていた。
でも、姪は今笑わないじゃないか。
心が壊れそうになって、涙の代わりに血を流して、ひたすらに死を求めているじゃないか。
「…インフェリアさん、もしも…」
彼に会わせたら、何かが変わるだろうか。
「…いえ、何でもありません」
まず姪はここには来ないし、カスケードを連れて行って会わせるのも大袈裟だ。
そんなことはできない。
「そろそろ教えてもらえませんか?ここに来る理由を」
ごまかすように、本題へ。
困ったように笑いながら――あくまでも笑顔は崩さなかった――カスケードは漸く語り始めた。
「自分の関わったことからは、最後まで目を逸らしたくないんです」
佐官になってから様々な事件に関わるようになった。
逮捕者も多く、そのうちの何名かはこの中央刑務所に入っている。
彼らの中にはカスケードに恨みをもつものもいる。人生を狂わせたと罵る者もいる。
そうでないものも、いる。
「彼らと話し合いたいと思ったんです。恨まれてもいいから、話を聞きたかったんです」
ただのおせっかいですよ、とカスケードは言う。
彼は善も悪も関係なく、ただ人間を受け止めようとここに通っていた。
彼にとってここに来るのは、病院に親しい人を見舞いに行くのと変わらないのだ。
つまりは、そういうこと。
「あなたは…私の仕事をしてくれていたんですね」
ケイアルスとは別の視点から、その人の心を明かしていく。
いや、その人が心を明かしていく。
そうして何度も自分を見つめなおす。
「モンテスキューさんは本職ですから、私では敵いません」
「そんなことはないですよ。私は…」
自分は、今迷っている。
まっすぐに人に向き合うということができていない。
自分のことにとらわれすぎていて、人を受け止めることができない。
「インフェリアさん、私の話を聞いてくれますか?」
「話?」
「さっき姪がいるって言いましたよね。…その姪についてです」
目の前のこの人物なら、自分を受け止めてくれるかもしれない。
そうだ、長い間忘れていた。
人は誰かを受け止めてばかりではいられない。
相互の関係が成り立たなければ壊れてしまうものだ。
カスケードなら、信頼できるような気がした。
どうして死なせてくれないの?!
みんな私がいなくなれば良いと思ってるの!生きてたって意味ないの!
姪のシィレーネは、そう言って手首を切る。
首を切った彼女を病院に運んだこともあった。
すると彼女はこう言うのだ。
「叔父さんが優しくしてくれるうちに死ねたらいい」
父にも母にも赤眼の因子はない。家系全体を見ても、シィレーネの持つ赤眼の遺伝子は見られない。
突然変異の彼女を、両親は疎ましがった。
学校へ行かせたのは自分たちの傍からできるだけ引き離したかったから。
そしてその学校でも彼女は上手くやっていけなかった。
死を求めるようになっていったのは、それが原因。
ケイアルスに懐いてくれたが、その思いを超えるほどの強い自殺欲。
このままでは彼女は死んでしまう。
身体より先に、精神が失われる。
それは彼女を娘のように可愛がるケイアルスにとっても大きなダメージだ。
その不安が仕事中もぬぐえない。
自分が彼女の傍を離れている間に、彼女はもっと遠いところへいってしまうのではないか。
他人には到底話せないことを、ケイアルスは初めて打ち明けたのだ。
今日、初めて話した人物に。
「忘れてくださってかまいません。話して楽になろうなんて、私はずるい考えを持ってしまった」
「いいえ、ずるくなんかないですよ」
その人物は、今まで浮かべていた笑顔を消していた。
海色は波を荒立てることはなく、しかし恐ろしいほどに静かでもあった。
思ったほど時間はたっていない。
何時間も話していたような気がするのに。
この言葉が出るまでの数分も、数十分に感じられた。
「姪御さんを軍に入隊させてはどうでしょうか」
この言葉から、ケイアルスは感情を読み取りかねた。
軍人になるということは、身を危険に晒すということでもある。
カスケードならそれをわかっているはずなのに。
「インフェリアさん…姪をどうしろというんですか?」
「軍に入隊させて、変わるきっかけを作らせてはどうでしょう」
冗談で言っているわけではない。
冗談なら殴り倒している。
「あなたは…軍に入って変わったんですか?」
「変わりました」
だからといって、姪をこれ以上危険な目に合わせようとする気か。
変わるかどうかなんてわからない。たとえ変わったとしても、それがプラスかマイナスかもわからない。
握った拳に力を込めるケイアルスに、さらに言葉が投げかけられる。
「私は…いえ、俺は大切な、かけがえのないものを手にいれて…失くしました」
手の震えが止まる。
顔を上げてカスケードを見た。
彼は…再び微笑んでいた。
「俺は十歳の時に軍に入りました。嫌で仕方なかったんです。
けれどもそこで出会った親友が、俺を変えてくれました」
「親友…ですか?」
「はい。そいつのおかげで、俺は人生に目標ができて…こうして生きています」
カスケードが徐に左耳のカフスに触れる。
表情は少し切なげになり、言葉はこう続けられた。
「それなのに、そいつは俺の不注意で死にました。
今まで傍にあったものがどんなに重いものだったのか知りましたよ」
今の彼をつくっているのは、その親友の存在と後悔だった。
ケイアルスに伝わってきたのは、カスケードの悔やんでも悔やみきれない想い。
「出会って欲しいんです、変わるための何かに。姪御さんを救えるのは、姪御さん自身なんです。
女の子には危険かもしれません。しかし、命の大切さがわかるはずです」
命の重さを知っている彼だからこそ、軍がいかに危険かを知っている。
そして、軍がいかに生きることを教えてくれるのかを知っている。
偉そうに言ってすみません、とカスケードは謝り、しばらく沈黙した。
ケイアルスは示された道を眺め、進むべきなのかを考えていた。
そして、何度目かの姪の自殺未遂。
手首に巻かれた包帯が痛々しくて、
守れない自分が悔しくて。
「そんなに死にたいのかい、シィレーネ」
「だって私要らないもの」
こんな言葉を吐かせることが辛くて。
「君は要らなくなんかない」
「嘘!叔父さんになんかわかんないよ!」
そうだ、わからない。
わかってやろうと努力しただろうか。
それは結局うわべだけのもので、彼女のためになどなっていない。
そもそも彼女のためになんて言い方がおこがましい。
「私は悪魔なの。疫病神なの。私がいるとみんな不幸になるの」
彼女は傍にあったナイフを握る。
手首に振り下ろそうとしたので、腕を掴んで止めた。
「…放して、叔父さん」
なんて悲痛な声。
彼女をこんな風にしたのは誰だ。
責任は何もわかってやらなかった自分にある。
ケイアルスは考えた。
カスケードに会ってから、あの言葉を聞いてから、ずっと考えていた。
彼女はどこに行けば自分を死なせずに済むんだろう。
「シィレーネ、そんなに死にたいと思うなら軍に入りなさい」
その言葉を自分でも意外に思いながら、
「…軍?」
ケイアルスは頷いていた。
「そう、軍だ。…君には命をじっくり見つめることが必要だ。
どうしても死にたいんだったら、誰かを守りなさい。
それからでも遅くはないはずだよ」
姪の手からナイフをとり、彼女の赤眼をじっと見つめる。
答えが返ってくるまでの時間、ずっと。
初め、軍は彼女にとっても「死ぬためのもの」だった。
けれども、今も彼女は生きている。
軍で大切なものに出会って、変われたから。
「おじさーん!ただいまー!」
「おかえり、シィレーネ」
「こんにちは、シィのおじさん」
「こんにちは、シェリアさん」
姪には親友ができて、仲間ができて、
そして、
「カスケードさんにね、また差し入れしようと思って。何がいいかなぁ?」
想い人ができた。
奇しくもそれは彼女を間接的に導いた人物なのだが、彼女自身はそれを知らない。
知らせるとしたら、いつだろう。
かつて彼女のために祷り、自分のために祷ってくれた人について語るのは、もう少し先になりそうだ。
その先の先は、また別の未来の話。