あなたに深い傷をつけた。
一生消えない悲しみを背負わせた。
それが私の罪。
西への列車はとても寂しかったことを憶えている。
両親を軍に引渡し、たった一人で知らない土地に行く。
私は当時十四歳だった。
一般には小娘。心細いのは仕方がないと思われるかもしれない。
けれども、これから軍人になろうとするには少し遅いくらい。
強くならなければと心に誓った。
傷つけて放り出してしまった、「弟」のためにも。
それから数年、私は西方司令部の軍人として過ごしてきた。
周りの人たちは本当に良くしてくれるし、とても暖かな場所だったのだけれど。
軍が担当しなければならない事件は、血生臭いものばかりだった。
当時、エルニーニャの東西は殺人事件の発生率が異様に高かった。
私のいる西でも、その捜査や処理に追われていた。
ぼろぼろに引き裂かれた遺体を、直接見ることも度々あった。
「女性には辛いでしょう」
毎度のようにそう言われたが、私は吐きも泣きもしなかった。
血を見るたびに、深く刻まれた傷を見るたびに、
私が思い出すのは、「弟」のことだったから。
「弟」――実際は従弟なのだが――は、私が七歳くらいの時に引き取られてきた。
彼の両親が心中し、頼れる身寄りが私の家だけだったのだ。
初めて会ったとき、女の子かと思った。それくらいきれいな子だった。
まだ三つだというのに、彼を形容するには「可愛い」よりも「きれい」の方がしっくりきた。
そしてどういうわけか、母は彼を嫌っていた。
いや、憎んでいたと言うべきか。
彼の姿を忌々しそうに見、時折罵倒した。
幼い私には、母が何を言っているのかわからなかった。
今思い返してみれば…あれは子供に浴びせる言葉ではない。
彼にあてがわれた部屋は寒い地下室で、衣服は薄い毛布だった。
どうしてそんな仕打ちをするのかわからない私は、母に頼んで彼を地下室から連れ出した。
家事をさせるから、という名目で、暖かい部屋に連れて行ったのだ。
実際、彼はよくやったと思う。
私のお古を、出来るだけ中性的なものを選んで着せてやった。
掃除、洗濯、炊事など、あらゆる家事をやった。
仕事の前にこっそりお風呂に入れてやっていたのだが、彼の身体にはいつも新しい痣があった。
母が彼を蹴っていることは知っている。
心の中でしか「ごめんね」と言えない、弱い私がいた。
「…ですから、今回の事件は虐待が引き金となり…」
上司の言葉にはっとして、私は今まで話を聞いていなかったことに気づく。
けれども、断片だけで十分だった。今朝判明した殺人事件のことだ。
親から虐待を受けていた容疑者。抑えきれなくなって、両親を斧で殺害した。
軍人は私情を仕事に持ち込んではならない。
けれども今回の事件は、私の胸を深く抉る。
傷ついたあの子を思い出す。抵抗できなかった、幼いあの子を。
「容疑者も、かわいそうですよね…」
ぽつりと。
私は、言ってはならないことを言った。
上司は眉を顰め俯く。しまった、と思った。
「容疑者がどういう人物であっても、殺人を犯したことは変わりませんよ」
冷淡で辛辣な、しかし当然の言葉を、隣にいた部下が言った。
「…そうよね、その通りだわ。申し訳ありません」
やはり私は未熟だ。
強くなることが懺悔なら、私はまだ罪を滅ぼせていない。
「容疑者は逃走中だ。そして被害者は出続けている」
「早急な対応が必要ですね。わかりました、すぐに容疑者を確保します」
淡々と進む。私にはついていけない。
過去が、私が冷静になることを邪魔する。
弱い私が、まだここにいる。
私が十一歳、彼が七歳。
あの日、私は彼を見捨てた。
夜は特に寒くなる地下室で、私の心は凍った。
父と彼が、交わっていた。
その光景を、私は母の後ろで呆然と見ていた。
傷だらけの白い肌が、父の下から覗いていた。
もう彼には近付いてはいけないと直感した。
それから、私は傷つけられる彼をただ眺めるだけになった。
母が何をしても、何を言っても、私は関わらなかった。
私がすることは、彼を地下から引っ張り出して家事をさせること。
彼に食事を与えること。
優しい言葉なんてかけなかった。
彼が母に殴られ罵倒されても、父に犯されても、私ニハ一切関係ノ無イコトダッタ。
事件をまとめた書類に目を通す、軍人という名の第三者。
起こったことを事実としてのみ受け止め、処理する。
それをそのまま実行し、連続殺人に発展してしまったこの事件を、止める。
「リーガル大尉はすごいわね」
「何ですか」
「ちゃんと軍人してて。私なんてまだまだ私情が入っちゃって…」
例の事件はすぐに片付いた。
頻発する殺人事件の解決は、大抵アルベルト・リーガル大尉によってもたらされていた。
「不死身のリーガル」という二つ名は、西方司令部では有名だった。
事件を担当した時点から人死にを出さない。大したものだ。
他人とは余り関わらない人だったから、話したことはあまり無い。
だから、
「僕だって私情で動いています」
こんなことを私に言ったのは、とても意外なことだった。
「そう…なの?」
「次の仕事があるので、失礼します」
打ち切られた話が気になった。
けれども次の事件が起これば、考える暇がなくなって。
そのうち私は、この人と話したことすら忘れてしまった。
そしてまた、容疑者の置かれた立場に苦悩する。
傷跡を見ては、あの子を思い出す。
彼は、救いの無い状況を三年も耐えた。
もうすぐ十歳。この国では、十歳から軍に入隊できる。
十四歳になった私は、ある決意をしていた。
彼を軍に入隊させて、この家から出す。
両親のことを軍に通報し、狂った日々を終わりにしよう。
これは彼のためではなく、私自身のためだった。
喚く母に、狂った父に、私はこれ以上我慢が出来なかった。
「この家から出て行って」
「もう戻ってこないで」
彼にそう告げて、入隊希望書に名前を書かせた。
試験に受かれば、苦しみが終わる。
私の苦しみが、終わる。
三年ぶりに彼を抱きしめた。
やせ細って、傷だらけで、それでも生きていた。
漸くこの檻から抜け出せる。
この傷も、きっと治る。
でも、心はずっと痛みを抱えていくのだろう。
彼に残酷な人生を科したのは、私自身。
私は彼を捨てて楽になろうとしている。
実際は、私も罪を背負い続けることになるのに。
一番近くにいて、関係ないはずは無かったのだ。
手を差し伸べられる場所にいて、どうして助けなかったのか。
悔やんでも悔やみきれない。
全ては過ぎた日々なのだから。
どれだけ懺悔の言葉を並べても、許されないのはわかっている。
どれだけ強くなっても、今更のことであるのはわかっている。
私は一生、傷と血を見て過ごすのだ。
そして、彼に謝り続けるのだ。
それから、一年くらい経っただろうか。
大佐になって、南方司令部に異動した後。
「アクト!アクトじゃないの!」
「…マーシャ…?」
十年ぶりに彼に会った。
私以上に強くなっていた。
あんなに傷ついたのに、彼には信じられる人がいた。
それだけで、永遠の懺悔から救われた気がした。
もう十分なくらい嬉しかったのに、
「マーシャ、ありがとう」
「え?」
「マーシャがおれを軍に入れてくれたから、今のおれがいるんだ。
だから、ありがとう」
言われるはずのない言葉を、もらった。
私のエゴだったのに。
私自身を救うための行動だったのに。
どうしてアンタが、「ありがとう」なんて言うの…?
「アクト…ごめんね…」
「え、マーシャ?どうしたの?」
私の罪は終わらない。
でも、とても楽になった。
これからは手を差し伸べよう。
側にいるのに傍観する第三者なんて、
誰も助けないなんて、
そんなのは、許されない。
懺悔は終わり。
さあ、進もう。