これからあなたに待っているのは、月の満ち欠けのような人生。
愛や希望で満たされていくこともあれば、喪失や裏切りに削られていくこともあるでしょう。
それでもあなたには精一杯、生きてほしいのです。
ニアが見せられたのは、ぎっしりと人名が書いてあるメモ。
男性のものも女性のものも、どちらでも違和感のないものまでたくさん候補が挙げられている。
この中からどれを選んでも、父の愛情が込められていることには間違いないだろう。
「…でも、考えすぎじゃない?」
ニアが苦笑すると、カスケードは頭を掻きながら机に突っ伏した。
「お前の時は決めてたけど、今回はなかなか難しくてな」
インフェリア家に第二子が生まれる。この冬が終わったら、ニアはいよいよ兄になる。
父と一緒に名前を考えながら、期待で胸がいっぱいだった。
「お父さんは、男の子と女の子どっちがいい?」
「うちの子なら、どっちでも可愛いだろうな。でも女の子もいいな」
どちらであろうと、カスケードがとにかく可愛がるであろうことは確定的だ。
ニアの時もそうだった…いや、今でもそうだ。
「ニアは、弟と妹どっちが良いんだ?」
「ん…僕もどっちでもいいかな。一緒に遊んだり、絵を描いたりできれば楽しいだろうなぁ」
二人で楽しい未来を想像しながら笑っていると、外で車の音が止まった。
病院からシィレーネが帰ってきたのだろう。
ニアは玄関まで走っていき、母を迎えた。
「お母さん、おかえり!」
「ただいま。帰ってきてたのね、ニア」
「今日と明日はお休みなんだ」
母の代わりに荷物を運びながら、ニアの視線は一方向へ。
大きくなった母のお腹には、これから生まれる子どもがいる。
自分もこうして生まれてきたんだと思うと、なんだか不思議な感じがした。
経過は良好。このままいけば、予定通りに生まれるはずだということだった。
検診の結果を報告すると、カスケードは嬉しそうに頷いていた。
「無事に生まれるといいな。ニアが生まれてから、もう十年以上経ってるし…」
「大丈夫よ。私、まだ若いもの」
「…地味に傷つくなぁ、その言葉」
「カスケードさんが老けてるなんて言ってないじゃない」
暫く談笑していたが、ふと、シィレーネから笑顔が消える。
彼女が時折こんな表情をする理由を、カスケードは知っていた。
ニアが産まれる前も同じことがあって、その時に話を聞いていたから。
「不安なのか?赤眼のこと…」
訊ねると、シィレーネははっとしたように顔を上げ、それから小さく頷いた。
シィレーネの眼は赤い。だが、彼女の家系をいくら辿っても、赤い眼の人間は存在しなかった。
それが理由で両親から虐げられてきた過去を持つ彼女は、生まれてくる子どもの眼が赤くないようにと願っていた。
ニアはインフェリアの血を濃く受け継いだ、海色の瞳だった。だから生まれたとき、ホッとした。
だけど次もそうである保証はない。インフェリアの色が本当に優性遺伝であるとは言い切れない。
「もし生まれてきた子の眼が赤くても、俺たちの子供には変わりないだろう?」
「そうだけど…私、自分が両親と同じ事をしてしまわないか、不安なの」
魔性の赤眼――今まで出会った人々の一部からはそう言われた。
その眼を見ていると恐ろしくなる。まるで悪魔のよう。
子どもも同じことを言われたら。自分と同じ不幸を背負ってしまったら。
そう思うと、シィレーネは胸が張り裂けそうになる。
「この子が酷い目にあって、私まで鬼になってしまったら…そう考えたら、怖くて…」
これでも、今回はまだマシだった。
ニアが産まれる前、彼女はその不安のために自らを傷つけさえしたのだから。
それがないだけ、落ち着いていると思っていい。
カスケードは、今なら聞いてくれるだろうと信じて、何回目かになる言葉を繰り返す。
「ならない。シィはそんなことにならないから。俺がついてるし、今はニアだっている。生まれてくる子がどんなでも、皆で優しく迎えよう」
「…私がそうならなくても、外でいじめられたら?」
「その時は俺たちが守ればいい」
シィレーネが安心してくれるなら、同じ会話を何度でもする。
いつだって傍にいて、支え続ける。
彼女と共に歩もうと決めてから、カスケードはそう誓った。
「大丈夫。…俺はその眼、好きだ。ニアだってそう言ってただろ」
「…うん、ありがとう」
やっと彼女に笑顔が戻る。
守っていかなければ。これからもずっと。
「あ、動いた!」
「本当に人間がいるんだ…」
インフェリア邸に遊びに来たレヴィアンスとルーファは、口々に感嘆の言葉を洩らした。
「ね、すごいよね!」
「うん!いいなぁ、ニアは…。ボクもお兄ちゃんになりたかったよ」
「俺たちじゃ無理だもんな」
生みの親を知らず、家庭環境からも兄弟を望めない二人は、ニアを羨ましがる。
でも最終的には、ニアのこの言葉で締めくくられるのだ。
「ルーとレヴィも、この子のお兄ちゃんだよ。ね、お母さん」
「そうね。遊びに来てくれれば、ちゃんとそう覚えるわよ」
生まれてくる子にはたくさんのお兄ちゃんがいることになる。
そう思うと、とても楽しそう。
そんな環境なら、この子は幸せになれるかもしれない。
シィレーネはそっとお腹を撫でて、そうだといいね、と呟いた。
「ねぇお母さん、この子はお母さんに似てるといいな」
「何言ってるの。もうニアがお母さんに似てるって言われてるじゃない」
ニアの色は父方のものだが、顔はどちらかといえば母似だ。
それにはルーファとレヴィアンスも頷く。
「ニアとおばちゃんはよく似てるよね」
「女の子と間違えられたことあるだろ、ニア」
「えー、あんまりなかったと思うけど…。って、そういうことじゃなくて」
ニアは一瞬つくった不機嫌な顔を、ぱっといつもの笑顔に戻して言う。
「色のこと!お母さんと同じ、黒い髪と赤い眼がいいな」
シィレーネは息を呑んだ。
自分が不安に思っていることを、この子は望んでいる。
それが不幸の原因になるかもしれないと、知らないのだ。
「…どうして、ニアはそう思うの?」
子どもを驚かせないように、笑顔のままで。
言葉が少しぎこちなくなりながらも、シィレーネは問う。
それとは対照的な、無邪気な笑みでニアは答えた。
「だってお母さんの目、珊瑚みたいで綺麗なんだもん」
「…珊瑚?」
「うん、南の海の写真が絵はがきとかになってるでしょ?あれに写ってた珊瑚」
「あぁ、ニアがこの間買ってきた…確かにそうだな」
「ホントだ、あの写真みたい!綺麗だよね!」
困惑した。こんなことを言われたのは初めてだったから。
さらにニアの友人たちまで、この眼を見て同意してくれるなんて。
あんなに悪魔のようだと言われたのに。この子達は、そんなふうには思わなかった。
この眼を綺麗だと言ってくれた。
「そういえば、ニアの眼は海の色だよな。これってすごいことじゃないか?」
「そっか、ニアのお父さんも同じ色だよ!」
「お父さんとお母さん、すっごく相性良いんだね」
こんなに嬉しいことをたくさん言ってくれたら、怖れる理由なんかなくなってしまう。
今まで何をあんなに怯えていたんだろう。
「ありがとう、あなたたち。…本当にありがとう!」
シィレーネは、ニアたちを抱きしめた。
いつのまにかこんなに増えていた自分の味方たちを、感謝と愛情をたっぷり込めて。
辛くなったら、この子たちの言葉を思い出そう。
思い出せないくらいの闇に沈んでも、傍にいてくれる人はたくさんいる。
あの後、ニアは例の絵はがきをシィレーネにくれた。
海と珊瑚が本当に綺麗で、見ているだけで心が洗われるようだった。
「あ、本当だ…珊瑚だ」
カスケードは絵はがきを手にとり、そこに写る赤と目の前の赤を交互に見て言った。
「なんで俺、この事に気付かなかったんだろう…」
「良かった、ニアに芸術的感性があって。それね、よく行く画材屋さんにあったんですって」
「そっか、さすが俺たちの子だな!」
いつもは親馬鹿としかとらないその言葉も、今はとても嬉しい。
生まれてきた子がもし赤い眼をしていても、自分達の子どもなら、そしてニアのきょうだいなら、きっといい子だ。
「そういえば、名前は決まったの?」
「いや…候補はいくらでもあがるんだけど、決定打がなくて」
「見せて。私が選ぶから」
いい子に最初のプレゼント。
しっかり用意して、祝福してあげなくちゃ。
ルーファとレヴィアンスの仕事が、突然増えた。
少しではあったが、上司はすぐにそれに気付いて訊ねる。
「それ、どうしたんだ?たしかニアに頼んだはずだけど」
「ニアは早退です」
「え、なんで?」
「急な都合で。ボクたちがちゃんとやるから、ゲティスさんは安心していいよ!」
本当に急だった。
予定日まで、まだ随分日にちがあったはずだ。
連絡を受け、ニアはすぐに飛び出していった。
仕事を放り出したと怒られるかもしれないなんて考えは、頭になかった。
「お父さん!お母さんは?!」
「今頑張ってる。…ニア、来て良かったのか?」
「あ…えーと、多分ルーとレヴィは許してくれる…」
「お前も俺に似てきたな」
笑いながらも、心配は止まない。
こんなに早いと、何かあるのではないかと思ってしまう。
どうか無事であってほしい。
シィレーネも、生まれてくる子どもも。
祈る親子と、必死で戦っている親子。
ぎゅっと拳をつくって、その時を待つ。
「…あぁ、おめでとう。良かったな、無事で」
ルーファがそう言ったので、レヴィアンスもホッとした。
ニアのきょうだいが生まれた。
アーシェやグレイヴにも教えて、そこにいるメンバーで歓声をあげた。
咎める者は誰もいない。
心から、新しい命の誕生を祝福した。
生まれてきた女の子は、柔らかな黒髪と、赤い瞳を持っていた。
家族はその子への愛情を、最初の贈り物に込めた。
「イリス、生まれてきてくれてありがとう」
あなたのおかげで、お母さんはまた強くなれそうだよ。
もちろん、お父さんだって、お兄ちゃんだって。
インフェリア家の兄妹を静と動で表すのなら。
カスケードとサクラのときは、兄が動で妹が静だった。
ニアとイリスの場合はどちらかといえば逆だ。
大人しく絵を描いているニアを横目に、おてんば少女イリスは子犬のように庭を駆け回っていた。
「おにいちゃん、あーそーぼー!」
「待って、これだけ描いちゃうから」
「あーそーぼー!」
「もう、わかったよ…何して遊ぶの?」
「イリスはせいぎのためにたたかうの!おにいちゃんはわるい人の役!」
「またぁ?あんまり強く蹴らないでよ」
四歳になったイリスは、とても活発だった。
彼女もかつてのニアと同じく、軍人への憧れを抱いている。
「イリスも軍に入りたいとか言うのかな…」
「言うかもね」
「結局うちは軍人一家になるのか。何か親父に負けた気がする…」
「反対する気はないの?」
「イリスは言っても聞かないと思う」
「そうね」
あの赤眼は今のところ、誰に忌み嫌われることもない。
健やかに育つイリスを、シィレーネとカスケードは眼を細めて見守っていた。
もちろんニアだって、いい兄でいてくれている。
これからどんなことがあっても、あの子はきっと、負けずに乗り越えていくに違いない。
もしもそれが困難なことがあっても、助けてくれる手がたくさんあるから、きっと大丈夫。
たとえ月が欠けて、見えなくなっても、それはこれから光を取り戻していくということ。
そしていつかはちゃんと、綺麗に輝くようになる。
それを何度も繰り返して、素敵な人生を送ってください。