世界暦四五五年、ある貴族家で殺人事件が発生した。
事件を解決に導いたのは当時の大佐だった。
彼はそれが因縁の始まりになるなど、考えもしなかった。
「インフェリア大佐!降りてきてください!」
アヤネ・ハズミ大尉は大木に向かって声を張り上げる。
どうせここにいるのだ。誰かに聞かれたって構わない。
「アヤネ、もう少しサボらせてくれないか?」
案の定、寝起きの声が降ってくる。
「駄目です!緊急の仕事が入ってるんですよ!」
「知ってるよ…例の貴族家の事件だろ?」
「だったら降りてきてください!現場に行きますよ!」
木の上の軍人は欠伸を一つして、渋々と降りてきた。
ダークブルーの髪に海色の瞳。
代々軍人を生業とする一家、インフェリア家の十五代目当主になる人物。
「さぁ、行きましょう大佐」
「アヤネ、何度も言ってるけど…家とか階級で呼ぶのは他人行儀だからやめようぜ」
「上下社会での礼儀です」
「俺の名前は大佐じゃない。カスケードなんだって。」
「はいはい、わかりました。早くしてくださいカスケードさん。」
カスケード・インフェリア、二十一歳。階級は大佐。
後にエルニーニャを背負って立つ事になる人物。
何度も現場検証が行われ、容疑者は身内に絞られた。
被害者の伯父がその有力候補だった。
「何度も追及してますがね、吐きませんよ」
「吐かないなら吐かないで良いさ。犯人は別にいるかもしれない」
カスケードの軽々しい発言に、周囲は忌々しそうに舌を鳴らす。
それに気付き、アヤネがカスケードを諭す。
「あまり上官を挑発しないで下さい」
「挑発してるつもりはないんだけどな」
そう、彼に挑発しているつもりは全く無い。
ただ周りがそう受け止めるだけだ。
アヤネはそれをわかっていて、あえて言う。
「せめてエスト准将にだけは挑発発言をしないで下さい」
「だから挑発してないって。どっちかといえばあいつのほうが挑発してくると思う」
この事件で指揮を担当しているスティーレン・エストはカスケードと同期だった。
双方軍人家系ということで、スティーレンはカスケードをライバル視していた。
もちろん、今回も。
「インフェリア大佐、遅かったな」
「よぉ、スッチー」
「目上の者に向かってその態度はなんだ。慎め」
この状況で一番気まずいのはアヤネだ。
とにかく早く二人を引き離そうと、冷静を装って発言する。
「大佐、捜査を」
「そうだな。俺は何すれば良い?スッチー」
「その呼び名をやめろ。貴様は何もしなくて良い」
「何だよ、なら昼寝させてくれればよかったのに…」
「大佐!行きましょう!」
もう見ていられない。アヤネはカスケードを引っ張って、外に出た。
貴族邸の中庭は、花に彩られていた。
「エスト准将とは衝突しないで下さい!」
「だからあいつが突っかかってくるんだって」
「准将をスッチーだなんて言語道断です!」
「スティーレンだからスッチーで良いじゃん」
「駄目です!」
この殺人現場に相応しくないやりとりを遮ったのは、同じく殺人現場に相応しくない笑い声だった。
静かに、面白そうに、彼女は笑っていた。
「ふふ…楽しそうですね」
「…君は?」
栗色の髪を揺らし、少女はちょこんと首を曲げる。
そして、名を告げた。
「マカっていいます。この家の娘です」
彼女こそが被害者の妹、マカ・ブラディアナだった。
年齢は確か十七歳だ。
「マカさん、取調べ中では?」
「私はもう終わりましたの。アリバイもあるし、容疑者から外れるようですわ。
どちらにしろ私に大好きなお姉さまを殺す理由なんてありませんし…」
十七歳の少女に殺人ができるわけが無い。
軍人ならともかく、彼女は一般人だ。
そういう見方もあり、マカはほぼ無罪が確定していた。
「マカちゃん…だっけ?アリバイって何してたんだ?」
カスケードは昨日の夕飯なんだった?というように彼女に尋ねる。
「事件が起こったと思われる時間、私は部屋で本を読んでおりました。
執事がそれを証明してくれます」
執事の証明があるなら、彼女にアリバイはある。
「軍人さん、お姉さまは伯父さまとトラブルがあったと聞いていますが…」
「あぁ、俺来たばっかりでよく知らな」
「資料には目を通しておいて下さいと言った筈です!」
アヤネはカスケードを叱りつけ、呆れながらマカに告げた。
「確かに被害者とその伯父の間で痴情があったのではないかという見方があります。
でもそれがそのまま理由になるかどうかは、この先の捜査で明らかにすること。
あなたは捜査に協力してくれればそれでいいのです」
「…そうですか」
アヤネの口調は冷たかった。
カスケードは彼女の態度に不審を感じた。
「…アヤネ、資料は車にあるか?」
「あります」
アヤネが冷たい理由がそこにある気がした。
スティーレンは被害者の伯父を犯人と断定していた。
本人がどんなに否定しても、それは嘘だと決めつけた。
だからカスケードからこんなことを言われるなんて思いもしなかった。
「被害者の妹の事情聴取内容だと?」
「どうしても知りたいんだ。スティーレン、頼む」
なるほど、真剣というわけだ。
何のためかは知らないが、教えても支障はないだろう。
「人に物を頼む時の態度とは言えんな」
「…お願いします、エスト准将」
「貴様からそんな言葉が聞けるなんて、天変地異の前触れか?
まぁいい。これが事情聴取内容だ」
スティーレン自ら書いたものらしい。所々付け加えがしてあった。
「ありがとうございます」
カスケードはほぼ確信していた。犯人は伯父ではない。
そもそも痴情など無かったのではないか。
屋敷の使用人にこっそり聞き込みをし、情報も集めた。
周囲は信じないかもしれない。
いや、信じてくれる人は一人でいい。
あとは本人が認めればいいのだ。
大佐、本当にそれで良いんですね?
あぁ、間違いないと思う。
考えれば単純なことですね。軍が甘かった。
そういうことだ。さて、スッチーに報告しに行くか。
「だめよ、余計なこと言っちゃ」
アヤネはすでに身動きがとれなかった。
マカの握るナイフは、切っ先がアヤネの喉に触れていた。
「動いたら殺すわ」
「マカちゃん…やっぱり君が殺したのか?」
先ほど見た笑顔とは程遠い、鬼の形相。
マカ・ブラディアナの本性が現れた。
「バカな姉に遺産を全部取られるのはごめんよ」
「だから殺したのか」
数日前から使用人に姉と伯父の痴情について噂を流し、
姉を殺害した後に伯父を一時間後に姉の部屋に来るように呼び寄せた。
マカと姉は声がよく似ていた。電話ならごまかすことは容易い。
使用人にも一時間後に伯父が来ることをさりげなく告げておき、
軍はその情報に惑わされて死亡時刻の確認を省略した。
もともと外傷があれば司法解剖ができないという法律のある国だ。
簡単にごまかせる。マカは全部分かっていた。
「十七歳の女の子に殺しができるはずが無いなんて…軍人でも男ってバカなのね。
ちょっと涙を見せたらすぐに信じてしまう」
「その忠告、心に留めておく。アヤネを放してくれないか?」
「できない相談ね。この女は最初から私を疑ってた。だから殺したくてしょうがなかったの。
あんたが動いても、この女が動いても、…たとえ動かなくてもこの女は殺すわよ」
マカの笑みをカスケードは睨みつける。
どうすればいい?
どうしたらアヤネを救える?
アヤネを見た。
眼が訴えていた。
私はいなかったことにしてください。
早く誰かに連絡を。
そう言っていた。
怯えているくせに。
「アヤネを放せ」
「できないって言ってるでしょ」
「俺の相棒なんだ。一生傍にいて欲しい、大切な相棒だ。
アヤネのいない世界になんて、俺は生きたくない!」
マカがナイフを握る手に力を込めるのよりも刹那に速く間合いを詰め、
赤が線になるよりも刹那に速くマカの手をアヤネから離す。
賭けだった。
「…軍人なめてたな、お嬢ちゃん」
「…インフェリアぁぁ…っ」
憎しみのこもった眼と、何事かと駆けて来る足音。
終わったのだ。
誰もがそう思った。
「今回は負けを認める」
スティーレンが言うと、カスケードは笑った。
「勝ち負けじゃないぜ、スッチー。解決するかしないか、それだけだ」
「そうですね。エスト准将は少し大佐をライバル視し過ぎです」
アヤネは首にばんそうこうを貼るだけで済んだ。
カスケードがあの時少しでも遅かったら、もっと酷い怪我をしていた。
「大佐、…いえ、カスケードさん、ありがとうございました」
「アヤネがいなくならなくて良かった。俺にはアヤネが必要なんだよ」
「…カスケードさん…」
見詰め合う二人の脇で、スティーレンが大きく咳払いをした。
この日の少女の断末魔が世界暦五〇八年まで尾を引くと、このとき誰が想像できただろう。
カスケード・インフェリアは世界暦四六〇年に大総統に就任、
アヤネ・ハズミを妻に迎え、
四七五年に退役。
四八七年にはこの世を去る。
アヤネも四九一年に亡くなり、インフェリア家はアーサー・インフェリアを十六代目当主として成り立つ。
十七代目当主カスケード・インフェリアは、十五代目に起こった出来事をほとんど知らないまま育つ。
断末魔は止まない。
一度途切れかけたが、またはっきり聴こえてきた。
歴史はそのまま十八代目ニア・インフェリアへと受け継がれようとしている。