私は薬の匂いの中を進んでいる。
慣れたもののはずなのに、今日は新鮮だ。
「おはようございます!」
笑顔で明るく、落ち着いて。
朝からそう呟いていた成果が出たようだ。
私の肩書きは、今日から軍医ではなく小児科医。
新米扱いはされないけれど、私には初めてのことばかり。
昨日の夜お兄ちゃんと電話で話したおかげで緊張はしていない。
その代わり、呆れた。
「…元気ですね」
一緒に来た看護士につい洩らしてしまった。
子供達は走ったり暴れたりして、とても入院しているとは思えない。
「ここの子供達は長い間入院してるので、退屈してるんですよ」
看護士はそう言って、子供達に向かって手を叩いた。
「ほら、ちゃんと寝てないとだめだぞー」
私たちの存在に気付いた小さな手足は、一斉にベッドに収まった。
「看護士さん、その人誰?」
「新しいお医者さん?」
落ち着いたと思ったら、今度は口が動き始める。
「そうだよ。サクラ・インフェリア先生だ。
今日からみんなの診察をするからな」
「よろしくね」
看護士の紹介で、私は微笑んだままそう言った。
しかし、
「先生、スリーサイズは?」
この言葉で私は凍りついた。
「こら、エン!先生にそういうことを言うんじゃない!」
「だって、女の先生って初めてだからさ」
「余計駄目だろ!…すみません、サクラ先生」
謝る看護士に苦笑で返し、私は息をついた。
やっぱり子供は侮れない。
でも全て覚悟で来たのだから、後戻りする気なんかない。
私はまずこの子達と信頼関係を築かなければならなかった。
「先生、ミニスカはいてこいよー」
私にこんなことばかり言ってくるのはエン君。
この子の扱いは大変そう。
「エン、黙れ。読書のじゃまだ」
厳しい言葉を投げつけるのはジーナ君。
私が担当する中で一番年上みたい。
「………」
そして、ずっと黙っているのがチェリちゃん。
私はまだこの子の声を一度も聴いていない。
「ねぇ、みんな…診察させてもらって良いかな?」
「いいよー!腹出せば良いんだろ?」
エン君はノリが良すぎて、ちょっと苦手。
「…うん、大丈夫かな。昨日の夜は苦しくなったりしなかった?」
「全然」
「そう、良かった」
次はジーナ君。
「…脱ぐの?」
「嫌なの?捲るだけで良いわよ」
「…わかった」
恥ずかしがりやさんなのかな。
私が診終わるとさっさと横になってしまった。
こういう態度…ちょっと苦手だな。
「次は…チェリちゃん、いい?」
「…っ!」
私が声をかけると、チェリちゃんは一瞬震えた。
診察の間も毛布を掴んで放さない。
私と全く目をあわせようとしない。
怖がられてるんだろうか。
こういう子も…苦手。
私って、子供苦手なのかな。
小児科医とか向いてなかったのかな…。
初日でそんな悩みを抱えてしまった。
「お兄ちゃん、私これでよかったのかな…」
受話器に語りかけると、優しい声が返ってきた。
『サクラがなりたくてなったんだろ。
きっと良かったって思えることがあるさ』
外国から帰ってきたばっかりなのに、
疲れているはずなのに、
私の愚痴を聞いてくれるお兄ちゃん。
「ありがとう、お兄ちゃん」
中央と北方は距離があるけれど、お兄ちゃんはいつも私の側にいてくれる。
語ってくれた言葉は、いつも私の心の中にある。
声を聴くと、明日また頑張ろうって思えた。
「エン君!走り回ったら具合悪くなるわよ!」
「だって先生、ボンキュボンのきれいなねーちゃんが!」
せっかく頑張ろうって思ったのに…。
こんな調子じゃまたお兄ちゃんに愚痴っちゃいそうだわ。
「先生、エンは後ろから捕まえないと駄目だよ」
ジーナ君の助言で何とかエン君を大人しくさせて、私は漸く息をつく事ができた。
小さい子供の相手って体力が必要なのね。もう少し運動しないと…。
一度病室を出ようと思ったとき、ちょうどドアが開いて看護士が入ってきた。
男の子を連れていた。
「どうですか?調子は」
「大丈夫よ。…その子は?」
私が尋ねるより少し早く、男の子は奥のベッドへ向かっていた。
チェリちゃんの所だ。
「チェリ」
「お兄ちゃん!」
可愛い声がした。
私は今、初めてチェリちゃんの声を聞いたのだ。
「彼はチェリのお兄さんです」
「チェリちゃんの…?」
「親が忙しくてこれないので、彼が毎日見舞ってるんです。
昨日はサクラ先生と入れ違いになったから会えませんでしたね」
あの声を聴けば、すぐにわかる。
チェリちゃんはお兄ちゃんが大好きなんだ。
お兄ちゃんが来てくれることは、チェリちゃんにとって毎日の楽しみなんだ。
「チェリ、あの人新しい先生?」
「うん。サクラ先生っていうんだって」
私の名前が聞こえると、嬉しくなる。
こんなに嬉しくなったのは初めて。
チェリちゃんとお兄ちゃんはそれから一時間くらい話していた。
聞こえる内容は私の心を温めた。
可愛らしくて、懐かしい。
私は昔病弱だった。
入退院を繰り返していて、子供を軍人にしたがっていた両親にはほぼ見放されていた。
私に優しく接してくれたのは病院の医師や看護士、
そして、お兄ちゃんだった。
私はお兄ちゃんが大好きだった。
多分、チェリちゃんが彼女のお兄ちゃんを想うのと同じくらい。
お兄ちゃんがいたから、私は生きようと思えた。
チェリちゃんのおかげで、私はあの頃の気持ちを思い出す事ができた。
私が小児科医になりたかったのは、私があの時子供だったから。
支えがなければ生きていけないことを知っていたから。
子供が苦手だとか、そういうことを言っている場合じゃない。
今度は私が支える番。
――サクラ、お前の名前は散るためにあるんじゃないだろ!
――きれいに咲かせるためにあるんだ!
子供たちが花を咲かせるのを、手伝ってあげなくちゃいけない。
そうだよね、お兄ちゃん。
エン君は元気だけど、本当は寂しがりや。
ジーナ君はクールに見えて、恥ずかしがりや。
チェリちゃんは…私に似てる。
皆それぞれの花を咲かせられるように、私がやらなければいけないことがある。
「私、きっとうまくやれるわ。お兄ちゃんのおかげよ」
『…なんかよくわかんないけど、サクラがそう思ってくれたならよかった』
昔、お兄ちゃんは弱音を吐いた私を言葉で支えてくれた。
しっかり手を握ってくれた。
お兄ちゃんが私の原点だった。
私は今もう一度スタートを切った。
命の花を胸に抱いて。