背の高いその人は、私に向かって微笑みかけました。

軍人が私情で動いてはいけない。

私はそれを知っていながら、その笑顔に…

 

――世界暦四五四年、エルニーニャ王国首都レジーナ――

 

アヤネ・ハズミは大尉に昇進したばかりの女性軍人だ。

真面目で真っ直ぐな彼女は、軍から一目置かれ、

同時に煙たがられていた。

しかし彼女は自分を疎ましく思うものなど気にもせず、自分の仕事を確実にこなしていった。

ひたすらに一生懸命だったのだ。

「ハズミ大尉、君に任務参加要請だ」

突然の命令も嫌な顔一つせず引き受ける。その代わり、笑顔もない。

「了解いたしました」

スティーレン・エスト大佐から書類を渡され、アヤネはいつもどおりにその言葉を唱えた。

しかし、それに対する上司の反応がいつもどおりではなかった。

「エスト大佐、何か問題でも?」

どこか疲れた表情のスティーレンに、アヤネは事務的な口調で尋ねる。

「いや…その任務のことなんだが、私と…私の同期が担当でな」

スティーレンの同期と聞いて、アヤネはすぐにある名前を思い出すことができた。

ことあるごとにスティーレンと名を連ねているが、あまり上層からの評判は良くない人物。

「…担当が誰であろうと、私は自分の任務遂行に全力を尽くすまでです。

よろしくお願いします、エスト大佐」

アヤネはあくまでも仕事を見る。どのような人物が関わっても、自分さえ失敗しなければいい。

そう考えていた彼女にとって、この任務は初めての「失敗」だった。

 

まず、その人物は集合時間になっても現れなかった。

「…またか」

イラつくスティーレンの台詞から、これが初めてではないことがわかる。

アヤネは深いため息をついた。

「待っていられません。行きましょう、エスト大佐」

呆れた彼女が車に向かおうとしたその時、

「悪い、寝坊した!」

その声を、初めて聞いた。

肩で息をするその男は、ダークブルーの髪を無造作に結っている。

顔を上げて見えた瞳は、海の色をしていた。

もっともエルニーニャに海はないので、絵葉書で見た色と似ていると感じただけなのだが。

とにかく彼の第一印象は、

「…最低ですね、大佐ともあろう人が寝坊で遅刻だなんて」

アヤネがずばっと言ってしまうような、そんな人だった。

「全く、貴様という奴は…」

「悪いな、スッチー。木の上だったから目覚まし時計なんてないんだ」

「その呼び方をやめろ」

この会話で更にアヤネの中の彼の印象は悪くなる。

木の上でのんびり昼寝をしていただなんて、国を守るものとして恥ずかしくないのだろうか。

「時間がありません、急ぎましょう。…あなたがいけないんですよ、インフェリア大佐」

アヤネはそう言い捨てて車に乗り込む。

スティーレンはその後を追い、

「待ってくれよ!まだ息が…っ」

カスケード・インフェリア大佐は、慌てて走り出すのだった。

 

スティーレンが任務の確認をしている間も、カスケードは何度か欠伸をしていた。

その度にアヤネは眉を顰め、カスケードへの信頼度を落としていく。

もともとゼロだったのだから、数値にすればマイナス。

なぜこの任務の担当になったのだろう。こんな人が軍人であること自体、国にとっていいこととは思えない。

「ハズミ大尉には聞き込みをしてもらう。私とインフェリアで潜入の手筈を整えよう」

「スッチー、ガム食うか?」

「貴様、話を聞いていたか?」

真剣な話をしているのに、こうして調子を狂わされる。

アヤネの気分は最悪だった。

以前嫌な上司の下で働いた時は何とかそれを隠せたのだが、

「ハズミ大尉、大丈夫か?」

今はどうやらそれすらできないようだ。

「私は問題ありません。それよりも早く現場へ」

「そうだな。…誰かの所為で遅刻しているわけだし」

「だから謝ってるだろ、スッチー」

「その呼び方をやめろ」

そしてまた評価が下がる。

 

仕事は簡単なものだった。

アヤネがすることは情報収集くらいで、後は大佐二人に任せておけばいいのだから。

しかし、カスケードに任せていいものか。

あれではこんな任務すらも失敗してしまう。

今まで失敗なんか一度も無かった。ここで狂わされたくはない。

「必要な情報は集まった…」

あんな男に狂わされるくらいなら、自分の力で軌道を変えよう。

「…申し訳ありません、エスト大佐」

きっと自分の方がこの任務の手筈を知っている。

信用できない人に任せるよりは、自分が動いた方がいい。

一人で乗り込んでしまおう。

叱られることはわかっている。でも、失敗するなんて思っていない。

それがアヤネの「油断」だった。

 

「なぁ、スッチー」

カスケードにいつもの呼び方で話しかけられ、スティーレンはため息をついた。

「だからその呼び方をやめろと言っている」

「別に良いじゃん。…そんなことよりさ、アヤネちゃんからの連絡、遅くないか?」

ごまかされたような気がするが、確かにアヤネからの連絡が来るはずの時間はとうに過ぎていた。

いつもなら時間厳守で、確実な情報をくれるはずなのに。

「遅いな。ハズミ大尉が連絡を忘れるなど、ありえないことなのだが…」

「俺の遅刻も相当怒ってたしな。スッチー、無線に連絡いれてみたらどうだ?」

「何故貴様がいれない」

「だって俺、アヤネちゃんに嫌われてるっぽいし」

本人もわかっていたようだ。珍しくアヤネの態度はあからさまだったし、気づかないほうがおかしいのかもしれない。

スティーレンは仕方なく無線をアヤネに繋げた。

が。

「…通じんな」

「マジ?」

「電波が届かない。この付近にいないのか…」

「でも情報収集は電波の届くエリアでって言ったんだろ?

アヤネちゃんがそれを破るはずは無いと思うんだけどな」

「あぁ、彼女は規則を必ず守る」

スティーレンが知っているアヤネは、命令を無視するような者ではない。

しかし今回、任務が失敗しそうなほどに予定が狂っている。

今まで一度もミスの無かった彼女だ。それを気にしていたとしたら、もしかすると。

「スティーレン、今すぐ乗り込むべきだ」

「…インフェリア?」

カスケードの口調が変わる。

スティーレンをあだ名で呼ばない時は、彼が真剣な時。

状況を本当に重く見ているときだ。

「しかし情報が入らないことには…」

「その情報が届かないってことは、アヤネちゃんに何かあったってことだろ。

今すぐ乗り込むべきだと俺は思う」

何も情報がないまま乗り込むことは危険だ。

しかし、今乗り込まなければアヤネが危険だとカスケードは言う。

普段はちゃらんぽらんだが、ここぞという時には仲間のために動く。

それこそがカスケードが大佐である所以だと、スティーレンは知っている。

「…わかった、行こう」

「よし!」

 

手足は固く束縛され、銃は没収された。

やはり一人で乗り込むのは間違いだった。

初めてのミスを、アヤネは一人悔やんでいた。

――なんとかこの状況を打開しなければ…

でも、どうやって?

命令を無視してこうなった自分が、これ以上動いても仕方が無いのではないか。

自業自得だ。

――エスト大佐は、きっと私を信用しなくなる

もともと多くの上司はアヤネをよく思っていなかった。

スティーレンが自分を使ってくれることが不思議なくらいだった。

だから、信用されなくなるのは怖くない。

怖くないはずなのに、辛かった。

――これからは独り…か。

たとえ、ここを抜け出せたとしても。

それならいっそ死んでしまった方がいいのかもしれない。

わけのわからない辛さを抱え続けるくらいなら、ここで殺された方がマシだ。

そう思っていた時、声が聞こえた。

叫び声がして、呻き声がして、それが消えて。

その波がだんだんと近づいてくる。

それにつれて別の声。聞き慣れてしまった声が、こっちに向かってきていた。

「アヤネぇぇー!無事かぁぁーっ?!」

「い…っ、インフェリア大佐…?」

阻もうとする敵を蹴り飛ばし、殴り倒し、彼はこちらへ走ってきていた。

その後ろをスティーレンが、片付け損なった者の掃除をしながら追う。

「アヤネ、ケガはないか?!」

辿り着いたカスケードは、アヤネの手足の縄を素早く切りながら尋ねた。

「…ありません、けど…」

「あるじゃないか!立てるか?!」

膝をただすりむいただけなのに。

それよりも、カスケードのほうがよほど酷い怪我をしていた。

入手した情報を伝えていれば、見張りの少ない入り口から来ることができたのに。

これほど怪我をすることはなかっただろうに。

それなのにカスケードは、怒らなかった。

アヤネの心配をしていた。

「スティーレン、そっちはどうだ?」

「片付いた。大半が貴様の手柄だ」

「いや、スティーレンのおかげだ。サンキュ」

カスケードはそう言うと、

「アヤネ、一人で頑張りすぎるなよ。確かに俺は頼りないけどさ、スティーレンだっていたんだから」

アヤネに笑いかけた。

その笑顔が優しかった。

どうしてこんな時に笑えるんだろう。

ただだらしのない人というわけじゃなく、

この人は…。

 

任務からの帰り道、スティーレンはガムを噛みながら運転していた。

「実は車が少々苦手でな」

カスケードの緊張感の無い行動も、スティーレンを思ってのことだったと知る。

アヤネの中で、カスケードに対する印象が変わりつつあった。

当の本人は、疲れたのか寝ている。

今ならそれもかまわないと思える。

「ハズミ大尉、まだインフェリアが気に入らないか?」

「…わかりません。こんな人、今まで会ったことありませんでしたから」

「だろうな」

珍しく、スティーレンが笑う。

「この男にはどうしても勝てない」

彼にこんな表情をさせるのも、カスケードなのだ。

よくわからないからこそ、興味を持った。

胸の高鳴りも、きっと好奇心から来るものなのだろうと思った。

 

それが、アヤネとカスケードの出会いの話。

後に彼らは結ばれ、エルニーニャの未来をつくっていく。

 

「インフェリア大佐!もう仕事の時間になりますよ!」

「んー…アヤネが俺を名前で呼んでくれたら起きる」

「…カスケードさん、起きてください」

「それ良い!今度からそうやって呼んでくれ!」

「本当にあなたって人は…起きたら仕事行きますよ」

 

「…インフェリア、ハズミ大尉…そういうのは私の目の前ではなく、よそでやってくれ」