あんなに嫌いだったのに、

なんだか弱く見えたから。

 

奴と別れて寮に戻ったアタシは、改めて独りであることを感じた。

親友の結婚を期に自分の思いにけじめをつけようとした、あの時を思い出した。

告げられた言葉は、ずっと記憶に残るだろう。

ありがとう。でも、ごめん。

好きな人がいるんだ。

答えがわかっていても辛いのは、まだ僅かな期待があったからだろうか。

ゼロに限りなく近いのに、アタシはそれにかけていたんだろうか。

馬鹿みたいだと思う。

馬鹿みたいだけれど、四年も想い続けた自分はちょっと偉いと思う。

アタシは誰かの優しい言葉を求めていたのかもしれない。

だから、奴の言葉にも応じたんだと思う。

 

独りの部屋でふと考えることは、あの子は今頃どうしているだろうということ。

そろそろ起きているだろうか。

それともまだ眠っているだろうか。

愛する人の、隣で。

あの子は幸せになった。アタシはそれが嬉しい。

あの子の子供を早く見たいと思う。

あ、でも子供の顔を見るまでの過程は考えたくないな。

あのロリコンちゃらんぽらんがあの子に手を出すのかと思うと気が滅入る。

何でアタシ許しちゃったかなぁ…。

たとえアタシが許さなくても、二人は結婚しただろう。

あの子が幸せになるのは良いけれど、なんだか複雑だ。

あとで悪戯電話でもかけてやろうか。

そんなことを考えながら、アタシはまどろみ落ちていく。

親友の幸せを素直に祝えない自分を責める。

 

結局起きたのは夕方で、仕事が休みだったことに安堵する。

夕焼けが綺麗。アタシの好きなオレンジ色。

顔を洗って、着替えて、残り少ない今日をどう使おうか考える。

どうしたらいいかな。

あの子がいれば、こんなに退屈することもなかったのに。

そうだ、電話でもしてみようか。

アタシが重い身体を引きずって受話器に手を伸ばすと、タイミングよくベルが鳴った。

思わず引っ込めてしまった手をまた伸ばして、受話器を取る。

「…もしもし」

『暇か?』

奴の声だ。朝別れたばかりじゃない。

「暇だったらなんだっての?」

『部屋行って良いか?』

昨日までのアタシならすぐに断っていただろう。

だけど今は、断る理由がない。

奴は今朝言った。

俺と付き合わねぇ?と。

アタシはそれに対し付き合ってやろうじゃないと答えた。

奴も長年付き合ってきた彼女(というには不適切だけど妙にしっくりくる)にふられたらしい。

何があったか知らないけど、アタシたちが惨めな恋人同士になったことは事実。

傷の舐めあいなんて、ごめんだと思ってたのに。

だけどいざあの腕に引き寄せられたら、温かくて思わず涙を流してしまった。

なんてずるい男だろう。女の子を泣かすなんて。

アタシは奴の申し出に応え、受話器を置いた。

ずるくてデリカシーのない大嫌いなタイプの男に、アタシは確実に惹かれていた。

 

奴との時間が長くなればなるほど、アタシは奴が好きになった。

だけど、奴はアタシなんか見ていなかった。

見ていたかもしれないけれど、アタシよりもあの人を見ていた。

奴の元恋人は、あの子の夫の妹と付き合っているらしい。

あの子はアタシと電話で話す度、あの人の話題を出した。

 

「シェリア、こっち来い」

奴はその日、アタシの部屋にいた。

「何?」

「いいから」

アタシは何の疑いも持たずに奴の隣に座った。

そのあとは、あっという間のできごとだった。

唇に軽く触れるだけの、短いファーストキス。

奴にとっては慣れたことかもしれないけれど、アタシは初めてだった。

しばらく声も出なかった。

奴がはっとしたような顔をして、

「あ、…悪ぃ、いきなり」

と言ってから、漸く口が動いた。

「…いいの?」

「あぁ?」

「アタシにキスなんかしていいの?」

「好きなら良いだろ。嫌か?」

嫌じゃ、ないけど。

でも、もしアタシにあの人を見ていたのなら…

 

アタシたちの関係は、それ以上進むことはなかった。

多分、奴はあの人とじゃないとそれ以上はできないんだと思う。

 

あの子はあの子の夫以外と結ばれたいとは思わなかった。

奴もきっと同じ。あの人以外なんて、本当は考えられないんだ。

アタシのことも好きになろうとしてくれてるのはわかる。

好きでいてくれるのは、痛いくらいにわかる。

だけど、本当に愛しているのはあの人だけなんでしょう?

わかってるよ。

だから、言おうと思った。

自分の気持ちにけじめをつけようと思った。

今度のきっかけも結婚式。

あの人と、あの人の「恋人」の。

 

「招待状来てたよ」

アタシがそれを渡すと、奴は舌打ちして目を逸らした。

「お前一人で行けよ」

予想していた答え。でも、それじゃダメ。

「嫌。アンタも行くの。けじめつけなきゃいけないでしょ」

これはアタシにしかできないこと。

アタシが奴に認めさせなきゃ。

「ディア、アタシ知ってるんだ。アンタがずっとアクトさんの方見てる事」

「見てねぇよ」

「嘘!アンタ、ずっと見てる!…アタシに何もしないのも、だからなんでしょ?」

「したじゃねぇか、キス」

「それだけだよね」

胸が痛くて、喉が貫かれるようで、

だけど今は堪えなきゃいけない。

「当日までに決めといてよ。行くか、行かないか…」

アタシは奴にあの人の結婚式の招待状を押し付けて、

真っ直ぐ奴を見据えた。

「アタシか、アクトさんか」

どんな答えを出すのか、今回もわかってる。

当日になって改めて尋ねて、自分の声が震えているのがわかった。

「何で行きたくないの?」

「あいつとはもう何の関係もねぇんだよ」

「だったら行ってもいいじゃない。部下の結婚式なんだから」

知ってるよ、そうは思えないこと。

好きだから、元に戻したいんだよね。

でも、これが終わればそれができなくなる。

想いを抱えたまま生きていくことになる。

失うのが怖いんだ。

だけど、アタシが背中を押せば前へ進めると思う。

アンタは、そういう人。

 

無言の時間は、

「シェリア」

アタシを呼ぶ声で、

「何よ」

漸く終わりを告げる。

「俺、お前のこと好きだった」

「…うん」

大丈夫。アタシは怖くない。

だって、失うんじゃないから。

アタシは笑える。

「決めたんならそうすれば?

…アタシは、自分の好きな人が幸せならそれで良いよ」

大好きな人になら、いくらでも笑ってあげられる。

祝福できるよ。

だから、走って。

涙の止まらなくなったアタシを、決して振り返らないで。

 

ひとしきり泣いた後、あの子が母親になることを知った。

幸せそうな親友を、アタシは今度こそ心から祝福する事ができた。

 

それから十年以上経つ。

アタシは奴と別れてから軍を辞め、実家のパン屋を手伝うことにした。

弟が継ぐことになっていたから、アタシはただの従業員。

義妹もできて、彼女のお腹には今命が宿っている。

パン屋には顔見知りのお客さんがよく来る。

初恋の人はパートナーと一緒にたまに訪れてくれる。

いつからか小さな男の子を一緒に連れるようになった。

訊いてみると、どうやら彼らの子供らしい。養子だけど。

親友は頻繁に来る。

一人で来ることもあれば、子供と一緒に来ることもある。

彼女に似て可愛いけれど、特徴的な髪と眼の色は父譲りだ。

そして、奴はほぼ毎日のように来る。

そのくせ何も買わない、性質の悪い常連。

知り合いから子供を預かっているらしく、よく一緒に連れてくる。

あのデリカシーゼロ男が意外にも良いお父さんで驚いた。

アタシは当分結婚するつもりはない。

相手もいないし、こうして気ままに生きるのも悪くないと思ってるから。

皆の幸せそうな顔を見られることが、アタシの幸せ。

 

ほら、今日も来てくれた。