簡単な買い物を済ませ、家に帰る途中。
もっとも、家といってもマンションの一室だ。一人暮らしならそれで十分。
この年になって結婚する意思どころか、相手すらいない私。
元来、恋愛に興味はなかったということだろうか。
でも姉のように慕ってきた上司の恋愛やその延長の結婚に関しては、随分と楽しんだ気がする。
楽しんだ、というか、面白がった、というか。
だから、あれは恋愛に対する興味ではなくて。
「…あれ」
そんなことを考えていたら、見知らぬ影を見た。
マンションの前の公園は、この時間は空っぽのはずだ。
夕方になって初めて子供たちが数人訪れるような場所に、今日は昼間であるにもかかわらず人がいた。
本当なら、そのまま通り過ぎる。
けれど、そこにいた少年には何かを感じたのだ。
「何してるの?」
声をかけてみる。
振り向いた彼は、ごく普通の子供だった。
明るい茶色の髪が柔らかく揺れて、そこから覗く表情は驚いているような、喜んでいるような。
「散歩です」
彼が答える。
笑顔はなんとなく、今は薬屋を営むかつての上司を連想させる。そんな感じがした。
「こんなところ散歩して、面白い?」
「面白いですよ。外を歩けるだけで十分面白いんです」
「そう…」
普段外出できないのだろうか。
今まで入院していたとか?それとも可愛い顔して大悪党とか?
彼の正体をはかりかねていると、それをわかっているのかいないのか、
「少し僕の話し相手になってくれませんか?お姉さん」
唐突にそんなことを言い出した。
「いいけど…あ、名前」
「僕のことはビーと呼んでください」
なんとなく引っかかる自己紹介の仕方だったが、気にしないことにして。
自分の名前を、同じように、少し懐かしい響きで口にする。
「私のことはラディって呼んでね」
ビーはあまり外に出られないらしい。
理由は言わなかった。
語りたくないなら語らなくてもいい。強要はしたくない。
自分にだって、語りたくないことはある。
例えば、育て親を殺したあの日のこと。
一つの決着だったけれど、やはり悲しみもあった。
この話をすることを強要されたことはない。仲間たちはそんなことはしなかった。
関わった人たちも、この出来事を口に出すことはなかった。
全て自分を気遣ってのことだ。
だから、ビーが語りたくないなら語らせるつもりはない。
ビーが話すことは、散歩して目にしたもののこと。
家の塀を占拠している猫のこと、学校のグラウンドではしゃぎまわる子供たちのこと、町を見回る軍人のこと、………
これら全てが、ビーにとってはめったに見られない珍しいものだった。
「ラディさんはよく見るんですよね?」
「うん。猫にはたまに餌をあげるし、知り合いの子供とよく遊ぶし、軍人も…」
自分には珍しいことなどない。
全てが日常で、普通にあるものだ。
そしてそれを守るために、かつては軍人をしていた。
それをビーに言うと、彼は感心したように頷くのだ。
「軍人だったんですか…」
「何年も前のことだよ。でも、昨日のことのように思い出せる」
あの楽しかった、激しかった日々は忘れられない。
その日々を手に入れるきっかけとなった人にも、感謝している。
「昔ね、軍人さんに助けてもらったの。それまでは私、自分を異常だと思って…自ら鳥籠に閉じ込めていた。
外は怖くないよって扉を開けて、私に世界を教えてくれた人がいたの」
「………」
そして世界で役に立てた。それが軍人をしていた自分の、もっとも誇れること。
「ラディさんは、いい出会いがあったんですね」
「うん。本当にいい出会い。あの人たちがいなかったら、きっと私は…」
言葉をくれた。世界へ放ってくれた。世界の中で受け入れてくれた。
そうして今、ここにいる。
「僕は…鳥籠から出られるのかな」
不意にビーがそう漏らす。
どういうこと?と目で聞き返すと、ビーは寂しそうに笑った。
「僕は、鳥籠から逃げ出してきたんです」
その鳥籠にはなんでもあった。
豪華な食事に十分な教育、暖かい寝床。
そして、鳥籠の中にいながら世界の象徴でいることができた。
統べることはできずとも、この世界の中心となっていた。
けれども、とても窮屈な籠。
象徴であるがために、なんでもあって満たされていることを求められていた。
与えられた全てが、義務だった。
「一つ良かったことといえば…婚約者のことですね」
「婚約者がいるの?」
「はい」
多くの義務の中で、一つだけ苦痛ではないものがあった。
それが、ある少女の存在。
決められた将来で唯一輝いていた。
「初めて会った時の優しそうな笑顔が忘れられなくて…
でもそういうことに限って、年に数回しかないんです」
将来一緒になるとわかっていても、今こうして離れていることが寂しい。
それだけではない。彼女は自分がその立場にあることをあまり良く思っていない。
「彼女は今、軍人学校に通ってるんです。十八歳になるまでは軍人として力をつけるんだとか。
だけど…僕は彼女を危険な目にあわせたくない。
例え彼女が僕を嫌いでも…僕は彼女が好きなんです。だから…」
鳥籠を抜け出してきたのは、愛しい者のためだった。
一目でも会いたくて、話をしたくて、
駄目なら全て、あきらめるつもりで。
ビーの話に、自分の見てきた過去を重ねてみる。
愛する人のために自身を投げ出そうとする人がいた。
大切なもののために我を忘れる人がいた。
守れなくて、自身を責める人がいた。
どうして誰かを想う気持ちっていうのは、自身の傷を忘れられるのだろう。
たくさんの傷を負いながら、強固な鉄格子さえも壊せるのだろう。
ビーも、傷つくかもしれない。
傷つくことを覚悟で、こうして鳥籠を飛び出してきた。
あぁ、そういえば…あの人も。
自身が危険な状態にあるにもかかわらず、私を解放するために道を作ってくれた。
自身が恐れを抱いているにもかかわらず、愛情を受け入れ、自分もまた相手を愛した。
愛って、何なんだろう。
自分が誰かの傷を癒したいと思うのは…愛なのだろうか。
「ねぇ、ビー…その子に会えたら、話をして、それからどうするの?」
「帰ります。…鳥籠に」
「いいの?また窮屈になるよ?」
「いいんです。本気になれば飛び出せるんだってことがわかったから…十分です」
ビーは笑った。
寂しさなんて、もう消えていた。
「ラディさん、止まり木をありがとう。また会いましょう」
小鳥はそう言って羽ばたいていった。
日常の中で、ふと考えた愛の話。
この出来事を話したら、あの人は長い綺麗な髪を揺らして微笑んだ。
その傍らには、その愛を受けた子供がいた。
一人はあの人に、もう一人はその夫にそっくりで。
そうだな…愛には興味を持ってみてもいいかもしれない。
もちろん彼女への興味は忘れないつもりだ。
「リアさん」
「ん?何、ラディアちゃん」
「ありがとうございます」
「どうしたの?急に…」
ビーフォルテ・アトラ・エルニーニャ…いや、ビーの笑顔を見たら、言いたくなった。
だからこの言葉は、彼にも捧げよう。