昔々、まだこの辺りが名前のない土地だった頃。

一人の、乱暴者の男がいました。

男は周りの人からとても怖れられていて、いつも独りぼっちでした。

ある日のこと、男がオオカミを捕まえるための罠を見に行くと、そこに雪の妖精がいました。

雪の妖精は罠に足を挟まれて動けなくなっていました。

男はかわいそうに思って、罠を外して雪の妖精を逃がしてやりました。

すると何日か経ってから、雪の妖精が男に会いに来ました。

「助けてくれたお礼に、あなたの為に働きましょう」

そうして雪の妖精は、男と一緒に暮らし始めました。

雪の妖精が来てからというもの、男はとても優しくなり、周りの人々からも怖がられることはなくなりました。

家もだんだん裕福になり、男と雪の妖精はそれからずっと幸せに暮らすことができました。

めでたし、めでたし。

(たった一つの善行が、幸福につながる可能性もあるのだという教訓話)

 

 

ノーザリア軍大将カイゼラ・スターリンズの一人息子ウーノは、ダイになかなか懐いてくれなかった。

エルニーニャから移籍して以来、カイゼラの家を毎日のように訪れていたが、幼い少年はダイに近付こうとしない。

おいで、と呼べば、すぐに逃げる。

弟のユロウとは違うタイプの子どもに、ダイは仕事と同じくらい悩まされていた。

他人のことなど構わずにおけば良いのだと割り切ることができないのは、カイゼラのこの言葉の所為だった。

「おかしいな、ディアには懐くのに」

ダイの養父であり、今となっては戸籍上の父でもあるディアは、顔を見た子どもを泣かせることがしばしばあった。

だが、ウーノは平気で彼に近付き、遊んでもらっていた。珍しいと養母も言っていたほどだ。

それなのに、ダイからは逃げる。どんなに穏やかそうな笑顔を作ってみせても、ウーノは柱の陰に隠れて出てこようとしない。

「俺の何がいけないんですか」

「笑顔が胡散臭いんじゃないか」

「失礼ですね」

カイゼラとそんな会話を交わしては、溜息をつく。

上司の息子に「可愛くないガキだ」などと言えるはずもない。

スターリンズ一家以外の誰かに相談するのは悔しいので、彼はこっそり悩んでいた。

 

カイゼラとしても、よく来る部下と息子がこの状態のままでは困る。

何しろ、一緒に食事をとることもできないのだ。

そこで彼は、一冊の絵本をダイに渡した。

「ウーノが一番気に入っている絵本だ。これを読み聞かせてやってくれ」

「え、俺が?」

「お前とウーノの関係の為だ」

ダイが了承も断りもしないうちに、カイゼラはウーノを呼ぶ。

相変わらずダイの傍には来ないが、彼は父の膝にちょこんと座った。

「ダイお兄ちゃんが雪の妖精の話を読んでくれるそうだ。大人しく聞きなさい」

「…ん」

複雑な表情で返事をするウーノ。話は聞きたいけれど、この人が読むのか…、という考えがそのまま顔に出ている。

一方ダイは、こんなもので距離が縮まるのかと疑っていた。

絵本を開き、文章をざっと見る。読み聞かせなら幼かったユロウに何度もしてやっているから、できないことはない。

「昔々、まだこの辺りが名前のない土地だった頃…」

淡々と、聞きやすい発音で読み上げる物語。ウーノの表情を気にしながら、ページをゆっくり捲る。

そうしているうちに、ダイはふと気がついた。

初めて読んだはずなのに、自分はこの物語を知っている。

それは自分がウーノくらいの歳の頃、実父が語ってくれた物語によく似ていた。

ダイの表情に戸惑いが生まれてくるのを、カイゼラはにやりと笑って見ていた。

 

最後まで聞いてくれたウーノだったが、ダイが本を閉じると同時にまた部屋に戻ってしまった。

溜息をつきながら、ダイはカイゼラに絵本を渡す。

「この話、本になってるんですね」

「聞いたことがあるのか」

「えぇ、実父から。…ホワイトナイト家の成り立ちとして聞かされました」

男に助けられた雪の妖精が、その礼として働いて、家を富ませた。それが商家ホワイトナイト家の始まり。

今となっては雪の妖精などただの御伽噺だと思う。だが、それが人間であれば話はまた別だ。

「カイゼラさん、あなたは俺がヴィオラセントの血を引いているからと、ここに連れてきましたね」

「そうだな」

「ホワイトナイトはヴィオラセントの分家筋。…俺が実父から聞いた話は、ホワイトナイトが始まるよりももっと前の話なのかもしれません」

すなわち、これは商家ヴィオラセント家の始まり。

絵本にはわざわざ「乱暴者の男」と書いてある。呆れつつも、ダイは納得せざるを得ない。

「これ、誰が書いたんですか」

「さぁな。口承を文章に著しただけだ、作者などいない。けれども確かにお前の家の歴史だ」

ただ正史とは異なる点もある、とカイゼラは言う。

「男はずっと幸せに暮らしたりなんかできなかった。富を手にする前に、大陸戦争で死んだ」

「…どうしてそんなこと知ってるんですか」

「男はもともと独りなんかじゃなく、彼の強さを認めて慕う奴らに囲まれてたんだ。そのうちの一人がスターリンズ家の始祖だった」

スターリンズ家もノーザリアでは名家だ。その所以が、死後にヴィオラセントの家名を授かるディンゴという男にあった。

彼と共に大陸戦争を戦ったからこそ、現在は軍家として存在している。

「じゃあ絵本は嘘だらけじゃないですか」

「善行を目立たせるための脚色だと考えられる。怖れる奴がいたのは本当だと思うがな」

スターリンズ家に伝わる、物語の裏側。

それをダイは、食い入るように聞いていた。

本当は鋭く痛む、棘だらけの日々のこと。

 

大陸戦争が激化していたある日、ディンゴと数名の取り巻きは、猟のために罠を仕掛けていた。

戦の最中でも、生活はしなければならない。北の暴拳と怖れられる戦士も、このときはただの民だった。

「ディンゴ、何か掛かってたか」

罠を見に行った彼に、取り巻きが声をかける。

すると、信じられない答えと光景が返ってきた。

「人間のガキが掛かってた」

その背には銀髪銀眼の少女が負われていた。

詳細を求めると、こういうことだった。

少女が、罠に足をとられて動けなくなっていた。

彼女を助けてやり、怪我をしたまま放置できないので、連れてきた。

「これからガキの家を探しに行くから、テメェらも来い」

そうしてディンゴと半ば無理やり連れて行かれた取り巻き達は、やっとのことで少女の家に辿り着く。

彼女の家は小さな集落にあった。敵が攻めてくれば、すぐにでも陥落してしまいそうだ。

それを防ぐためにと、少女の父親はある対策をとっていた。

少女を送り届けたついでに、夕食を馳走になる。その間にとんでもない話を聞かされた。

「よろしければ、この子を嫁にもらってくださいませんか」

聞けば、少女は五人姉妹の末っ子だという。姉達は西に、東に、中央に、あげくどうやったのか南にまで嫁いでいった。

全てはこの地が侵略されることを防ぐため。少しでも各地と関係を持っておけば、いつか役に立つのではないかという考えだった。

だが親戚がいるという言い訳など、この戦では無駄だ。それを分かっていたディンゴは、少女の父の申し出に腹を立てた。

「冗談じゃねぇよ、姉妹同士でいがみ合わせる気か!それに俺達は他の地域の奴らと戦っている。いつ死ぬか分からねぇのに嫁なんかとれるかよ」

すぐに席をたち、取り巻き達を促して、彼は帰ろうとした。

だが、少女にそれを止められる。

「あ、あの」

「あぁ?何だよ」

「私のこと、嫌いですか?私、あなたのお嫁さんになっちゃ駄目ですか?」

このときのことを、取り巻きの一人――後にスターリンズの家名を授かる男はこう伝えている。

少女は目が悪いのではないかと本気で疑った、と。

結局この時、ディンゴは「駄目だ」の一言を返して出てきてしまった。

だが数日経って、少女は再びディンゴのもとを訪れたのだった。

北国に生まれ育ちながらも寒さに弱かった少女は、それでも彼に会いに来た。

乱暴な自分と一緒になっても、幸せにはなれないかもしれない。そう言い聞かせても、彼女は彼の傍を離れようとしなかった。

自分を助けてくれたのなら、姉妹の関係を案じてくれたのなら、きっと優しい人だと信じていたのだ。

そんな彼女に、ディンゴはとうとう折れた。

それが始まりの始まり。

ディンゴはこの後大陸戦争の最中で命を落とすが、残された少女――ルネは愛しい人との間にできた子どもと共に、商売を始める。

そこから商家ヴィオラセント家、そして後にホワイトナイト家が歴史を紡いでいくこととなる。

 

「…こんなところだ。再会した時のことは、うちの先祖は見ていないようだから詳しくはわからない」

「随分と強い女性ですね」

「そういうのが好みなのも血筋なんじゃないか?」

「…否定できません」

絵本に書いてあることは脚色だらけ。

語られた正史も曖昧なもの。

それでもダイは、納得できた。自分に流れているのは、確かに彼らの血なのだと。

「ウーノ」

カイゼラが息子を呼ぶ声に顔を上げると、傍にはいつの間にか幼い少年がいた。

初めてダイの近くに来て、目を合わせていた。

「あ、えぇと…」

戸惑うダイに、ウーノは小さな声で言う。

「絵本の人なの?」

少し迷ったが、ダイは頷く。

「そう、俺は絵本の人の、ずっとずっと先の子孫」

「じゃあ、優しい?」

「ウーノにはできるだけ優しくするよ」

手を伸ばしてみた。髪に触れてみた。ウーノは逃げなかった。

そして、やっと笑ってくれた。

 

 

富など無くても、永遠など無くても、きっと男は幸せでした。

戦いで触れてきた棘に傷ついても、きっと男は幸せでした。

自分を一途に愛してくれる人達がいたから、命が尽きるその瞬間まで、彼は幸福でした。

その子孫は、幸せを感じることができるでしょうか。

棘だらけの日々を乗り越え、後悔のない人生を送れるでしょうか。

それが分かるのは、まだ先の話。