世界暦四三八年の秋、私は生まれた。

両親は私にマカという名前を付けて、以降は育児のほとんどを乳母に任せた。

ブラディアナ家にはすでに女の子がいて、その子が病弱であったために、両親の愛情はそちらへ集中したのだ。

私の存在など、ないようなものだった。

せめて私自身は自分の存在を認識していなければと思い、幼い頃から日記をつけていた。

十七歳のあの日で止まるまで、毎日ノートを埋めていた。

それだけが、私の救い。私が頼ることのできる、一筋の蜘蛛の糸だった。

 

 

世界暦四五〇年某月某日

両親は今日も姉につきっきりだった。

私がどんなに良い成績をとってきても、見向きもしない。

庭の花を掘り返しても、知らん振り。

私が何をしようと、あの人たちには関係がないのだ。

そういえば伯父が訪ねてきた。彼も姉を特に可愛がっていて、私を見ない。

私を知るのは私だけだ。

 

世界暦四五一年某月某日

伯父が寝ている姉を触っているのを見た。

汚らわしい。

けれども、私がこれを両親に訴えたところで何にもならないだろう。

そもそもあの人たちには、私の声など聞こえないのだ。

 

世界暦四五二年某月某日

近所で事件があったようだ。軍の人が来ていた。

財産を争っての傷害事件。金が原因だなんて、くだらない。

私の家も多くの財産を持っているらしい。でも、それは全て姉に渡るだろう。

私はこの家にいるけれど、誰にも見えないのだから。

 

世界暦四五三年某月某日

毎日町を軍人が歩く。

毎日何かしら事件がある。

誰かが何かを殺しても、関係のない人がいる。

誰かに殺されても、すぐに忘れられる人がいる。

私は両親に、すぐに忘れられるだろう。何をしても褒められも怒られもしないのだから。

何をしても、何も問題はないのだ。

 

世界暦四五四年某月某日

姉の部屋に立ち入った。初めてのことだ。

何種類もの薬が棚に並んでいる。これだけの数を、両親や姉は把握しているのだろうか。

もしも、ラベルを貼りかえたり、場所を変えたりしたら。

両親は気付くだろうか。気付いて、私の仕業だとすぐにわかるだろうか。

私を見てくれるだろうか。

 

世界暦四五五年二月某日

商店街を彷徨っていたら、人がぶつかってきた。

転んだ私に手を差し伸べようとする人など、誰もいない。普段ならそうだった。

けれども今日は違った。大きな手が、目の前に伸びてきた。

「大丈夫か」と、私に向けて声がかけられた。

彼の瞳は、きっと美しいと形容して良いものだった。絵はがきでしか見たことはないけれど、あれは海の色だった。

私が手を出すと、そっととって、引いてくれた。人の手とは、あれほど温かなものだったのか。

微笑みと、風に揺れたダークブルーの髪が、とても印象的だった。

真冬なのに、私の胸の中だけはまるで春がきたようだ。

あの人にまた会いたい。

 

世界暦四五五年三月某日

カスケード・インフェリアは、軍家インフェリア家の十五代目。

中央軍に所属しており、勤務態度はけして真面目とは言いがたいが、人柄ゆえに彼を慕うものは多い。

彼が優しいのは、私にだけではない。誰にでも同じ。

両親が姉に愛情を注ぐように、彼が私へ特別に愛を注いでくれるようにするには、どうしたらよいのだろう。

彼が同僚と思われる女性と歩いているのを、遠くから眺めることでさえ苦痛だ。

私を見てほしい。私だけを見てほしい。

彼の海色の眼を抉り出すだけでは、あの声が聴けない。

彼の声帯を手に入れられたとしても、あの手の温もりが得られない。

あの手を切り取っても、微笑んではくれない。

彼の全てを私のものにできたら、私だけのものにできるのなら、それはどんなに幸せなことだろう。

 

世界暦四五五年四月某日

カスケード・インフェリアは、主に傷害や殺人などといった事件を取り扱うようだ。

そういった事件が起こった家に、彼は訪れる。家の住人と話をする。

再び彼の瞳に私を映すには、この家で何かが起こればいい。

私だけを見てほしい。同僚の、アヤネとかいう女なんかじゃなくて。

この家で何かがあって、彼がきてくれるなら、姉が邪魔だ。あれは人の気をひくのが得意だから。

姉を殺せば、彼はここにきてくれるだろうか。

来てくれるはずだ。そして私を見てくれる。

準備をはじめよう。彼を迎える為の準備。念入りに、念入りに。

人間が噂に振り回されやすいこと、伯父が姉を好いていること、両親が私を無視していること。

使えるものは何でも使おう。

 

世界暦四五五年五月某日

これを最後に、日記は燃やす。

明日は彼が来てくれる。

これから姉を刺しに行く。

もしもの時の嘘も、ちゃんと用意した。

大丈夫、あの優しい人なら、きっと誰よりも私を。

私だけを見てくれるはず。

裏切らないでね、カスケード・インフェリア。

 

 

愛がほしかったの。

でも、蜘蛛の糸はいつの間にか切れてなくなってしまっていた。

私は地の底で、愛をくれなかった全てに恨みを吐き、憎しみだけを糧に這い上がる方法を探した。

その結果、「天才」にはなれたけれど。そのころには、ほしかったものがわからなくなっていた。

 

マカが欲しくて手に入れられなかったものを、私は百年近く経って、漸く理解し始めた。