少年が岩場で拾われたのは、もうずっと昔のこと。
まだ人々が争い、血を流し、この地を黒く赤く染めていた頃の話。
暗い青の髪と海色の瞳の少年は、拾われた場所の地形をそのまま名としてもらった。
土地の奪い合いが、百年近く続いていた。
領土を広げていった、大きな五つの勢力があった。
東西南北と中央に、一つずつ。けれども、まだ国の形を成してはいない。
大陸の中央部は完全な内陸であるため、技術発達は他の四勢力に劣っている。
しかし、最も強い力を持していたのはその中央だった。
侵略しようと迫ってくる者たちを倒し、そこに住む人々を殺戮から「守った」、
そんな「英雄」の存在があったためだ。
後にこの土地が国となったとき、彼らは三大英雄軍人として奉られることになる。
本人たちが全く望まないにもかかわらず、だ。
大陸戦争は収束に向かっていた。それでも人は血塗れだった。
齢二十を数える彼は、現状に疑問を持っていた。
「地獄の番人」とも称される強大な力を持ちながら、この戦争を憂えていた。
つかの間の休息を樹上で過ごす間、瞼の裏に映るのは引き裂かれた骸。
全て彼自身が殺した者。
掌に赤黒い液体が残っている気がして眺めていると、下から聞きなれた声がした。
「ガロット、いるのか?」
「いる」
「降りて来い。話がある」
彼は仕方なく、ため息を吐きつつ地面に着地する。
目の前には頭一つ分は背の低い、金髪の男がいた。
「どうした?ヴィックス」
「今になって北が侵攻してきた。また戦いだ」
告げられた言葉に、暗青の青年ガロットは眉を顰める。
「また血が流れるのか…」
「そうだ」
ヴィックスと呼ばれた青年は、冷静に肯定した。
その態度に、ガロットは拳を握り締める。
「何で…土地なんかのためにこんな戦いをしなきゃならないんだ」
「たかが土地、されど土地だ。人間には生きる場所が必要だ」
「だからって」
「これは生き残った者たちの命をかけた最後の戦いだ」
最後、なんて。
その言葉を何度聞いただろう。そして何度裏切られただろう。
死んでいった者たちは、殺してしまった者たちは、その間に増え続けた。
「ワイネルは何か言ってるか?」
「それ以外には何も言わない。奴はただ事実だけを伝える」
「だよな…」
ガロットは失望の表情で俯き、ふと違和感に気づいた。
「事実…」
今までワイネルという男からは、「最後」という言葉を聞いたことがなかった。
ヴィックスや他の者たちは、戦いに出る前に必ず「これが最後だ」ということを言う。
しかし、ワイネルは違った。その戦いが最後であるはずがないということをわかっているように、絶対に言わなかった。
「ヴィックス、ワイネルが…ワイネルが最後って言ったのか?」
「私はもう嘘を吐くのをやめた。終わらない終わりなどもうたくさんだからな」
「本当に、本当なんだな?!」
なんということだ。中央地域の戦士を統制する総大将ワイネルは、本気でこの戦いを終わらせる気らしい。
次で、血で血を洗うなんて痛ましいことは終わるんだ。
「あいつはどこにいる?!」
「司令部だ」
ヴィックスが「だ」を口にするかしないかというところで、ガロットの姿はすでに見えなかった。
口の端を曲げ、向かった先を見つめながら、
「地獄の番人…か。全く貴様には似つかわしくないな」
中央の「賢者」ヴィックスは木に寄りかかり、これから始まる戦いに備え身体を休ませた。
「ガロット、そんなに息切らしてどうした?あんまり体力消耗するなよ」
長い赤毛を束ね、テントの下で総大将は暢気な笑顔を見せた。
傍らには空になった酒瓶が二本。真昼間から飲んでいたらしい。
「飲んでる場合じゃないだろ!ヴィックスから聞いたんだが…」
「あぁ」
必死の形相のガロットに対し、ワイネルは全く動じない。
三本目の瓶を手にし、栓を開ける。
「次で終わりだ。血気盛んな北の連中だって、この暑さなら討てるさ」
確かに最近、中央部は暑い日が続く。寒い北の地方出身の兵士には辛いだろう。
「でも向こうだってそれなりの対策はしてるだろ」
「それでも勝てない猛暑が、明日中央を襲う。南の奴らでさえ融けるほどだ」
「何でそんなこと…」
怪訝そうなガロットに、ワイネルは酒瓶の口を突きつける。
お前は何を慌てている?と問うように。
「ガロット、お前は南の民がどうして早々に降伏したか…その理由がわかるか?」
「南の…?」
そういえば、南の勢力を構成するあの赤紫の人々はすでに他の地域に対し白旗をあげていた。
従って被害は比較的少なかった上、近隣の小さな村や集落が南側に就くということも起こった。
このことに、ガロットは悔しさを覚えたものだ。何故他の地域はそれができないのか、と。
それに対していつかヴィックスが言ったことがあった。
「奴らは未来が見える」
同じ台詞を、今ワイネルが口にした。
「南の民は予知夢を見る。太陽神に最も愛された彼らは、神からのお告げで戦いをやめたのさ」
「お告げって…そんなことが」
「かなり正確でな、北が万全の気候対策を整えて南に進撃しようとした直前に降伏した。北の奴らは装備が無駄になって涙目だ」
ガロットには到底信じられないことだった。しかし、太陽神の物語は知っている。
元はといえば、そんな伝説があったから北が憤慨したのだ。自分たちは太陽神から見放されているというのか、と。
「ちょっと待て。そのときに北は南下できるように装備整えてたんだから、中央なんて平気じゃないか?」
「言ったろ、南の奴らが恐れるほどの猛暑だ。ちょっと作戦を間違えればオレたちも全滅だな」
「それって全然有利じゃないだろ…」
「まぁ、そうなんだけどさ」
言葉とは対照的に、ワイネルはからからと笑う。
何か秘策でもあるのか。何もなくて言っているならそのにんじん頭引っこ抜くぞ。
「さて、ガロット。オレは今南の民には予知夢を見る力があることを話した」
「それで?」
「彼らが昨夜見た夢の内容はこういうものだ」
太陽神が中央を祝福の炎で熱する。
その熱はのちに大陸全土に渡り、熱に惹かれた者たちは中央に集まる。
そのとき大陸には花が咲き乱れるだろう。
「わかるか?南の民は、勝利は中央にありとわざわざ伝えに来てくれたんだよ」
「まさか…」
「そして中央の勝利は平和に繋がる。本当の意味でオレたちは勝てるんだ」
空瓶が三本になった。酔いか、光の確信か、それともその両方か。ワイネルは赤い顔で笑う。
「もう、悲しい血が大量に流れることはない。辛さを耐えてこの地を赤く染めるようなこともない」
聞いた話だ。確かめる方法はまだない。なのにこの男は本当に嬉しそうだ。
平和になるという言葉だけで、こんなにも喜んでいる。
事実をすぐに確かめられたなら、ガロットもこの時笑えただろう。
笑っておけばよかったと、後悔することもなかっただろう。
ガロットには大切な女性がいた。
戦いが終わったら結婚しようと決めていた。
つややかな黒髪と大きな黒い瞳が魅力的な彼女は、名をローザといった。
「まだ終わらないのね」
彼女はいつもそう言っていた。ガロットと幸せになることを、本当に楽しみにしていたから。
「もうすぐ終わるかもしれない。ワイネルに考えがあるみたいなんだ」
「そう…」
もうすぐなんて、何度も聞いた言葉だ。それが遠いと知るたびに彼女もガロットと同じように憂うのだ。
「ガロット、生きてね。私でも、死者を蘇らせることはできないから」
更に彼女は何度も無力を感じてきた。命を失った人々に、人を失った人々に、彼女は何もしてやれない。
怪我なら治せるのに、と毎日泣いた。
ローザは治癒の民だった。手をかざすだけで傷を塞ぐことができた。
でも、それだけ。埋まった銃弾を取り除くことはできない。心に負った傷を完全に癒すことはできない。
魂を呼び戻すことはできない。
「大丈夫だ、ローザ。俺は死なないから」
ガロットはそんな彼女に、そう言って聞かせることしかできない。
この戦争は、二人に大きな影を落としていた。
「怪我ならいくらでも治すわ。だから、絶対に死なないで」
「もうすぐ戦いは終わるんだ。死ぬものか」
ローザの不安は深く、暗い。出会った頃の明るい彼女は、血の大地に呑み込まれてしまった。
彼女の笑顔を取り戻したい。そのためにガロットはまた戦いに出るのだ。
人を守るために人を殺す。人を悲しませないために人を悲しませる。
その繰り返しを終わらせるために戦いは積み重なり、結局終わらない。
でももし、ワイネルの言葉を信じていいのなら。
数日後にはローザの笑顔が見られるのなら。
「いってくるよ」
これが本当に最後だ。
最後なんだ。
太陽が大陸全土を焼いた。
どの地方も戦力を大きく欠き、戦わずして死んでいくものも出た。
これが太陽神の祝福だなんて、よほど残酷で非情な神なのだろう。
今までとは違う意味での地獄絵図が、中央に描かれた。
その中で賢者は作戦を練り、全能の指揮者がそれを動けるものに指示し、
地獄の番人は灼熱地獄を駆けた。
頭が煮えて破裂しそうだ。でも、これで終わるならそれでもいい。
この暑さの中でも、北の戦士は攻めてきた。四六時中戦っていないと気が済まないのか。
剣を振るい、引き金を引いた。使えるものは何でも使った。
早く終わらせよう。こんな地獄は、もうたくさんだ。
地獄の番人が裁く。裁けるわけがないと知りながら、捌く。
多くの悲しみを増やし、鉄板のような地面を血肉で埋めていく。
大陸最強とも言われた戦士は、悪魔のようだった。
後には屍、前には赤茶色の髪の男が立っていた。
彼も北の戦士だろう。
「降伏しろ、北の者。熱に倒れた者の手当てにあたったほうがいい」
「そりゃこっちの台詞だな、地獄の番人」
北で生まれ育った者で、この気候に耐えうる者がいたらしい。
もっとも全身は赤くなり、水分は汗となり地面にぼたぼたと落ちている状態だったが。
しかしガロットとて大した違いはない。
「中央の地獄の番人、ガロット…お前を倒すのはこの俺だ」
「あぁそうかよ…お前の名は?」
「北の暴拳って言やぁわかるか?」
「…あぁ、ディンゴだっけ?よくもまぁ殴るだけでここまでこれるよな」
多分、向こうも同じことを考えている。
これ以上は持たない。これで最後になる。
自分の戦争は、これで終わりだ。
――ローザ…
終わらせるから。
君を笑わせるから。
今度こそ、決着をつけるから。
片腕を失くしたヴィックスが視界の端で倒れた。
ワイネルは目の前の敵を真一文字に斬って、仲間に駆け寄った。
斬られた者は下半身を失ったと言えばいいのか、それとも上半身を失ったのか。
「ヴィックス!」
「私としたことが…まぁいい、腕がなくとも思考を働かせることはできる」
「お前は頭さえあれば生きてそうだな…」
冗談を言っている間にも、敵はやってくる。
休んでいる暇は無い。死ぬことは許されない。
誰にも言っていなかったが、ワイネルは南の者からもう一つの予言を預かっていた。
それを現実とするためには、ここで倒れるわけにはいかないのだ。
「よく聞けお前ら…この大陸を統べるのは中央、そして…」
人が人じゃなくなる。塊が地に落ちる。
この気温じゃステーキにはならない。せいぜい悪臭が酷くなるくらい。
生き残るのは己と、その味方のみ。
「この中央を統べるのはこのオレ様だぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
万能の指揮者は、空に向かって吼えた。
人間の力比べだけならまだよかった。
しかし、どんな人間であれ太陽には勝てないのだ。
人間が人間を殺す間、太陽も人間を殺していた。
世界を焼き尽くしていた。
彼が大切に思っていた彼女も、例外ではなかった。
最後の戦いを終え、這いずりながら生きている人々のもとに戻ったガロットが見たのは、
「ローザ…」
最愛の人が病に倒れ、命を失う寸前の姿だった。
「ずっと怪我した人を治癒していたんです。休まずに、熱の中で、ずっと…」
傍らでそんな声が聞こえた。
あぁ、せっかく。
せっかく終わるのに。
「ローザ」
「…ガロット」
弱々しく手を伸ばした彼女は、恋人の傷を癒して、
満足そうに微笑んで、全ての力を失った。
「ローザ!ローザぁぁぁ!!!」
思い切り叫んだ。そのつもりだった。
だけど、もう声は出なくて、かすれて、意識が遠のいて、
「ガロット!」
友の声が微かに耳に入った後、全てが真っ暗になった。
予言どおり、戦いは終わった。
北の要は中央の地獄の番人に倒され、さらにこの暑さで戦力はほとんどない。
東と西も降伏し、北も渋々ながら白旗をあげた。
中央の勝利だった。
だけど、笑えなかった。
最愛の人はもういない。
それに、多くを奪いすぎた。
「何だそれは」
ヴィックスが、ガロットの握っている布を指す。
「これさ…ディンゴが家族に届けろって」
「北の暴拳のことか」
「可愛い奥さんと子供がいるんだとさ…死んでも守ってやりたいって言ってた」
どうせこれで戦争が終わるなら、渡すことは可能だろう?
死んでいくというのに、ディンゴは笑っていた。
どうして笑えるんだ。自分の一切が消えるのに。
この大陸を多くの死体が覆ってもなお、彼は自分の大切なものを守れるなら笑うのだ。
「俺に笑う資格はないな…大切なものすら守れなかった」
「治癒の民が今まで捕虜にされなかったのは、貴様が守ってきたからだ」
「でも結局死なせた」
やっぱり、あの時笑っておけば良かった。
だって、もう笑えないから。
「いつまでしけた面してるんだよ」
ワイネルが隣に腰掛ける。そういう彼も全く嬉しそうではない。
みんな同じ気持ちだった。
戦いは終わったが、これからまた別の戦いが始まる。
後始末にはとても長い時間が必要だろう。土地にも、人にも。
「終わっても終わらないもんだな。歴史はずっと語り継がれ、オレたちが生きてる限り生々しい記憶は残る」
平和はまだ遠い。大陸に花が咲き乱れるのは、一体いつのことなのだろう。
「これから、ここは国になる。周りと相談しながら、国境を設定して、王を決めて…」
一連の流れを、ワイネルはさもつまらなそうに言った。
それがどれほど面倒で時間のかかることか、ヴィックスにもわかった。
だけどそれがこれからに必要なことなのだと、ガロットも理解した。
「これから本当の意味で、この国の人を守っていかなきゃならない。そのために…矛盾してるけど」
ワイネルは言葉を切り、細く息を吐く。
「この国に、正式な軍を設置するんだ。でも戦争はしない。人のために働いて治安を守る」
誰も傷つけたくないから、誰も傷つかないように。
惨劇を知っているものだからこそ作れる、新しいものが必要だった。
「オレはその軍を統制する。要するに大総統ってとこだな。それで…」
辛いとは思うが、必要なんだ。
そう目で語って、手を伸ばした。
もう失くしたくないだろう?だったら一緒に行こうじゃないか。
「お前たちに、オレの補佐をして欲しいんだ」
ずっと一緒に戦ってきた。
そして、これからも一緒に戦っていこう。
色んなものを失ったが、互いはまだ失われていない。
国境の合意により、主要大国五ヶ国成立。
記念として世界暦を設定し、太陽の動きから施行日を決定。
もうすぐ、この大陸の新しい時代が始まろうとしていた。
悲しみは癒えない。だから、平和を語れる。
二度とあんなことは繰り返さないと、誓える。
「エルニーニャ王国初代大総統、万能の指揮者ワイネル・ゼウスァート…この国の治安は任せたぞ」
初代エルニーニャ国王は、この男に王国軍を任せた。
そして、
「これから頼むぞ。そうだ、オレからお前らに家名をプレゼントだ」
大総統は補佐となる二人に、家名を与えた。
金髪の青年ヴィックスには、賢者「エスト」。
そして海色の瞳の青年には、地獄の番人「インフェリア」。
「オレも古代語で万能の指揮者ってそのまま貰ったし、お前らもこれでいいだろ」
「私は満足だ」
「俺は納得できない。あんまりいい意味じゃないし、一応トラウマなんだけど」
「それを乗り越えてこそだ。頑張れよ、インフェリア」
「なーんか子孫に申し訳ないなぁ…恨むのならワイネルを恨めよって遺言に書いとこう」
犠牲を払って、国が生まれた。
望みもしないのに英雄が生まれた。
新たな争いも生まれた。それは少しずつ解消されては、また起こった。
大陸に花が咲き乱れては散る。だけど、決して血の荒野には戻さない。
現在も大陸では小規模の争いが絶えない。
命を奪うような事件もなくならない。
歴史はいまだ繰り返され続けている。