とある偉大な音楽家が亡くなった。
つい最近まで無名だったのだが、遺された曲が話題となったのだ。
多くの曲と、彼が関わってきた多くの人は、国中に知れ渡った。
しかし、ある曲は永遠に世に出ることはなかった。
不自由な右手では、もうピアノを弾くことはできない。
せいぜい鍵盤を一つ一つ叩いていくくらいだ。
「もともとあまり弾いてないから、そんなに重大なことじゃないよ」
笑って言う兄に、ブラックは眉を顰める。
いっそ、責めて欲しかった。
手を切り落とした自分を、罵倒して欲しかった。
目の前のグランドピアノは、もう歌う事はない。
アルベルトの母が唯一売らずに残しておいてくれたものだというのに。
「この曲ももう…聴けねーな」
手にした楽譜も、もう奏でられる事はない。
音楽にあまり興味のないブラックが、唯一好きな曲なのに。
「リハビリ頑張れば何とかなるかもしれないよ。…それか、ブラックが練習してみれば?」
自分が弾いたって意味がない。
この曲を弾いて欲しいと思う人は二人だけだ。
幼い頃、ブラックは病院付属の施設で生活していた。
身寄りがなくなったために、母が生前世話になっていた看護師がそこに入れたのだ。
心の傷と闇の中、ブラックは心を閉ざしていた。
目を閉じれば、殺される母が見える。
震えて動けない自分が見える。
何も信じるものか。自分すら信じられない。
他の子供達から離れ、たった一人で美しく彩色された絵本を真っ黒に塗りつぶしていた。
そんな日が続いていた中、あの人は現れた。
確か五歳か六歳の頃だ。
その人は施設のピアノに向かい、子供達のためにテンポの良い曲を奏でた。
数曲弾いていると、初めは興味深げに見ていた子供達もだんだん飽きてきて離れていく。
周囲に子供がいなくなったところで、彼はさっきとはまったく違う曲を弾き始めた。
しばらく感じたことのない風をそのまま音にしたような、見たこともない清流をそのまま音符にしたような、そんな曲だった。
それまで一人で背を向けていたブラックが、その曲には惹かれた。
ピアノの側まで歩いていき、演奏者の指が作り出す芸術をじっと聴いていた。
退屈なんか感じなかった。
それまで心にしがみついていた重いものが、その曲で洗われるような気がした。
度々施設に訪れた演奏者のその曲だけを、ブラックは側で聴いていた。
彼が現れなくなるまで、ずっと。
それから十年以上が経ち、彼とは意外な形で再会を果たした。
演奏者は音楽ホールの管理人、ブラックはその依頼を受けた軍人となっていた。
かつての演奏者はすでにピアノを弾けなくなっていた。
事故で指を欠いたのだと彼は言った。
しかし、彼はあの時の楽譜を持っていたのだ。
その調を甦らせてくれたのは、自分の兄であるアルベルトだった。
嬉しかった。
言葉にも表情にもしなかったが、本当に嬉しかった。
その楽譜は譲り受け、大事に保管していた。
また兄が弾いてくれる時を待っていた。
しかし、それはもう叶わない。
そうしたのはブラック自身だ。
自分で全てを斬り落としてしまった。
あのメロディーは、もう二度と甦らない。
どんなに望んでも。
調が封印されてから十年以上が経った。
あの楽譜は手元に置いておきたくなくて、アルベルトに押し付けた。
どうせもう二度と聴く事ができないのだと、諦めていた。
「ブラック、グレイヴちゃん連れてちょっと来ない?」
その日、そう電話で呼び出された。
特に不審にも思わず、ブラックは娘のグレイヴとともに兄の家へ向かった。
笑顔で迎えた兄に通されたのは、広い居間。
そこにはまだグランドピアノがある。
「何だよ」
「ちょっと待ってて。アーシェ、頼むよ」
ブラックとグレイヴをソファに座らせ、アルベルトは自分の娘を呼ぶ。
母似の少女が何かを持って出てきて、可愛らしく笑った。
「叔父さん、グレイヴちゃん、最後までちゃんと聴いてね」
アーシェはピアノの前に立ち、譜面台に持っていたものを置いた。
そして椅子に座り、そっと鍵盤に触れた。
もう二度と聴かないだろうと思っていた第一音が、妙に余韻を残した。
あの時の風だ。
あの時の流れだ。
もう甦らないだろうと思っていた、あの調。
それが受け継がれ、甦った。
記憶も、想いも、全てを優しく揺り起こす音色が響く。
その場の人間の心に、美しいメロディを残していく。
その流れを作り出した芸術家は先日天に召され、
今日の新聞を偉大な音楽家として飾っていた。
どんなに有名になっても、この曲だけは誰にも教えないでおこう。
彼がくれた想いを、ずっと心にしまっておこう。
楽譜は今、ブラックが持っている。
曲のタイトルは、「Secret」。
偉大な音楽家の一生のうちの一コマは、未だ誰も知らない秘密となっている。