一面の銀世界に、その暗い青色はとても異質に見えた。
だが、彼は間違いなく来るべくしてここに来た。
その一点を誰が拒絶しようとも、彼はここに来なければならなかった。
それが懺悔のためか、それとも他の目的があるのか、彼自身にもわからなかったが。
戦争は終わった。しかし、彼の戦いはこの旅から還るまで終わらない。
ガロット・インフェリアの、たった一人の戦いは。
大陸に五つの大きな国が建ち、今後はそれぞれの土地の人々がその国のもとに統一されていく。
そのための手続きは、気の遠くなるほど長い時間をかけて済ませなければならない。
まずは国の代表を立て、政治や国防の体制を整え、人々が快適な生活を営めるよう規則を作る。
中央の為に戦った「英雄」達は、今後も人々を率いる立場でなければならない。
ゼウスァートという家名を冠したからには、ワイネルは大衆の中心で指揮を執らなければならず。
エストという家名を冠したからには、ヴィックスは国を成立させるために知恵を絞らねばならず。
だが「地獄の番人」インフェリアには、国の為にできることが見つからなかった。
戦いの中で父と慕った者を喪い、恋人として支えてくれた者を喪い、生きる意味を見失いかけていた。
半ば屍のようなガロット・インフェリアに、ワイネルは一言告げた。
「ガロット、お前はエルニーニャを出ろ」
この土地にはエルニーニャという名が与えられた。与えられたばかりだった。
これまで生きてきた土地には変わりない。そこを出て行けと、彼は言う。
「…役に立たないからか」
「バカ、そうじゃない。お前、大事なこと忘れてないか?」
戦いの終わったあの日、ガロットが最後に倒した相手が、彼に託したものがあった。
物はただの布切れのようだったが、言葉は決して忘れてはならないもの。
「ガロット、北へ…ノーザリアに行くんだ。そしてディンゴとの約束を果たして来い」
北の暴拳と呼ばれた男は、ガロットに平和になった後のことを託した。
残してきた妻と子に、その布切れを渡してほしい。その頼みを遂行できるのは、今だ。
「何ヶ月、いや何年かかっても絶対に行って戻って来い。それがお前の仕事だ」
その時のガロットには、ただ頷くしかできなかった。それが自分の目的であると認識することができなかった。
「本当に大丈夫だと思うか?奴は今にも死にそうな顔をしていたぞ」
ガロットを送り出した後、ヴィックスは平静を装いながら言った。
「大丈夫じゃなきゃこっちが困る。オレと片腕だけじゃ、この国を切り盛りできないだろ」
「ならどうして旅なんかさせるのだ。途中で死なれでもしたら…」
「可愛い子は一度谷に突き落とせってことさ」
「ワイネル、貴様は言葉をもう一度勉強しなおした方がいい。…とにかく、ガロットが必ず、気力を蓄えて戻ってくると見込んでいるのだな」
「まぁ、そんなところだ」
呆れながらもワイネルの行動を正しいと思える。これまでずっとそうだった。
ガロットを信じよう。きっとこの旅が終わった時、彼は少しでも自分を誇れるようになっているだろう。
そうして長い間、ガロットは歩き続け。漸く北の領土に辿り着いたのは、その土地に冬が訪れてからだった。
旅の途中、怖れられたり、恨み言をぶつけられたりもした。
地獄の番人に親しい者を奪われた者は、北の地に近付くほどに増えていく。
ノーザリアと名のついたその地では、彼が地獄の番人ガロットであると知った途端に、人々は冷たい態度をとった。
それが仕方のないことだと分かっていても、ガロットは胸を痛めた。
自分の罪が、こうして戒められている。誰かを悲しませた分だけ、自分も痛みを負わなければならない。
凍える身体を休ませることなく、彼は目的の場所を見つけた。
小さな家だった。けれども暖かな光が漏れていた。
この場所を知ったのは本当に偶然だった。人々が話しているのを聞き、それを手がかりにした。
そうでなければ、誰もガロットに情報をくれなかった。
震える手でドアを叩く。ここにいる人も、自分を怖れるだろうか。憎悪を向けるだろうか。そうする資格が、ここの住人にはある。
「はい、どなた?」
開いたドアから覗いた小柄な女性が、ガロットを見上げる。彼女は銀色の美しい髪を持ち、幼さの残る顔立ちをしていた。
「あの…ディンゴの家族ですか?」
「えぇ、私は彼の妻です。彼に用事なら、残念ですが…」
「わかっています。俺はディンゴに、これを家族に渡してくれと頼まれたんです」
恐る恐る、預かっていた布を差し出す。女性はそれを見て息を呑み、そっと手を伸ばした。
「確かに、あの人の…。あなたは一体どなたなの?」
「俺は、」
これを伝えれば、もうここにはいられないだろう。また冷たい雪の中を、中央に向かって歩き出すのだ。
いや、頼まれごとは果たしたのだから、もうこの身が朽ちても構わない。
「…ガロット・インフェリアといいます。ディンゴを…あなたの夫を、殺した人間です」
すぐに踵を返そうと、右足を後ろへずらした。
だが、目の前の女性はガロットの服を掴み、言った。
「待ってた…あなたを待ってたの!私の夫の最期を見たのは、あなたしかいない!私に夫のことを教えてください!」
耳に届いたのは、罵倒ではなく懇願。考えなかった展開に、ガロットは戸惑う。
しかし、彼女の真剣な瞳には、頷く以外に返すものがなかった。
導かれるまま家に入ると、久方ぶりの温もりを感じた。勧められた席には毛皮製のカバーがかけられており、ガロットの身体を温めた。
「ガロットさん、ようこそ私達の家へ。私はディンゴ・ヴィオラセントの妻、ルネと申します」
ルネは茶を淹れ、丁寧に自己紹介をした。
「ヴィオラセント?」
「夫の生前の功績を認めていただき、授かった家名です。暴君という意味ですが、彼は実際とても優しい人だったんですよ」
椅子のカバーも、床に敷かれたじゅうたんも、ルネの肩を包むストールも、ディンゴが彼女の為に獣を狩ってきた為に存在する品だった。
北国に生まれ育ったにもかかわらず寒さに弱い妻を、いつも思いやっていたのだ。
「こんな家名をいただいたのは、彼がとても喧嘩好きだったからです。強い人を見れば喧嘩ばかりして、本当にしようがない人でした。
けれども彼は決して…決して、戦争を望んでいたわけではないんです。寧ろ無駄な殺生は大嫌いでした」
他所には好戦的で乱暴というイメージの強い北軍の兵士だったが、実際それはほんの一部だ。
ただ、そのほんの一部の暴走が酷かった所為で、北軍は味方を多く失った。そのため現在ノーザリアとされている土地は、他の大国に比べ狭い。
ガロットにも北軍の暴走に関して嫌な思い出があった。ヴィックスの父が北軍に命を奪われたのだ。
ヴィックスの父は、その頭脳をかわれて、中央軍の作戦参謀や人々が生活するための知恵を提供する役割を担っていた。
命を落としたその日、彼は薬になる植物を探しに出かけていただけだった。しかし北の兵士に見つかり、中央の者だと判ると殺された。
この事件をきっかけに、中央は北を最たる敵とみなすようになる。
そして父を殺されたヴィックスは、北軍を強く憎んだ。
「これからは僕が、いや私が父の役割を担う!北軍の奴らを絶対に赦すものか!」
怒りを露にしたヴィックスを見て、ガロットとワイネルは酷く戸惑ったものだった。
常に冷静だった彼が、悲しみと憎しみでこんなにも変わってしまったことに驚いた。
「ヴィックス、お前の気持ちはよく解る。オレも悲しい。だが、このけじめは大将であるオレがつける」
そう言ってリックは、北軍への対策を中心に兵士を動かすようになった。
中央の人々が他軍の捕虜にならぬよう、守るのは若い兵の役目。すなわちガロットらの仕事となった。
納得のいかないヴィックスが不安定なまま日々を過ごす様子を、ガロットとワイネルは何も言えずに見ていた。
「ガロットさん」
名を呼ばれ、ガロットは自分が物思いに耽っていたことに気付く。
ルネが心配そうに顔を覗き込んでいる。寒いですか、という問いに、否定を返した。
「少し昔のことを思い出してしまって…」
「…北軍が、あなたの大切な人を奪ってしまったのでしょうね」
「でもそれはこちらも同じです。特に俺は、“地獄の番人”ですから…」
誰が初めに呼んだかは分からないが、ガロットに対するその呼称は大陸中に広まっていた。
地獄の番人となったのは、慕っていた人が命を散らした日から。
東を、西を、そして北を。
自分からは手を出してこない南以外の、全ての土地を駆け抜けて、兵と戦い続けた中央軍大将リック。
その指揮は確実に敵を追い詰め、その腕は中央に仇なすものを倒していった。
中央にとっては救い主であり、他の地域にとっては脅威。彼の首をとることは中央を潰すことに等しいと謂われていた。
しかし一分の隙も見せず、近付いた敵は薙ぎ払う彼にも、遂に死は訪れた。
若者で構成された守備隊を破ろうと、東西が一度に攻めてきた。
守備隊には当然ガロットやワイネル、ヴィックスも含まれている。東西軍を散らし、中央の人々を守ろうと、必死に戦っていた。
リックはそれまで遠征に行っており、東西強襲の報告を受けて急いで帰ってきたところだった。
「ガロット、お前は治癒の民がいる南側を守れ!ヴィックスは東側だ!」
リックがいない間はワイネルが指揮を執っていた。父のように立派に務めようとして、どこかで焦っていた。
それが彼に隙を生む。正面の敵を受け止めた時、後ろに意識を向けることができなかった。
「ワイネル!」
自分の名に振り向いた彼が見たのは、剣に身体を貫かれたリックの姿。
一振りではなく、いくつもの刃が赤く染まり、我が子を守る楯となったリックの背中から突き出ていた。
南へ向かおうとしていたガロットにも、東へ走ろうとしていたヴィックスにも、その光景は映った。
「リックさん…」
「父さん、何で…」
時間が止まったように、誰もがそこから動けなくなる。最強と謳われた中央の大将が倒れるのを、ただ見つめる。
とっさに駆けたのはたった一人。目の前の敵を一太刀で地面に叩きつけ、真っ直ぐに育ての父のもとへ。
そこには多くの人間がいたはずだった。それが瞬く間に散っていく。
瞳は深海、肌に紅を浴びて、そこに地獄を作り出す。誰一人そこから逃れ得る事はできない。番人の手にかかり、土へ還る。
剣から解放されて倒れたリックを、ワイネルが支える。
「父さん!」
「ワイネル、お前はよくやっていたようだな…これからも中央は頼んだ」
「もういいよ、もういいから…」
子どものように涙で顔をぐしゃぐしゃにするワイネルに、リックは困ったように笑いかける。
「これくらいで泣くな。…お前の家族を、兄弟を、これからはお前が…守って…」
地獄の番人が仕事を終える。血溜まりの中で泣きながら。
真っ赤な地獄を、賢者を受け継いだ少年が見渡す。
万能の指揮者の名は、先代の死をもって子に渡る。
「生き残ってる奴がいたら、聞け」
父を地面に横たえ、ワイネルは立ち上がる。
ここからは自分達の戦争だ。
「まだ中央は生きている!オレがいる限り、中央は死なない!
中央を本気で潰したいんなら、このオレを倒せ!今からオレが中央の大将だ!!」
吼えるワイネルを、生者が見る。縋るように、恨むように、あるいはただ呆然と。
――屍で埋め尽くされる大地を作ったのは、この手だ。
リックが死に、ワイネルが中央の大将となった。父を喪い、ヴィックスが作戦参謀となった。
指揮に従い、作戦通りに、敵を倒すのがガロットの役目となった。
あの時振るった力は、人を守るためではなく、自分の怒りや悲しみをぶつけるためのもの。
それを意識した時、ガロットは再び自らの力を怖れた。
しかしガロットを中心に据えなければ、他軍への勝算に自信がないのが現状。それ故にヴィックスはガロットを奮い立たせねばならなかった。
「ガロット、貴様が戦わねば終わらない。中央が負ければ、ローザ達のような民は他地域に苦しめられることになるぞ」
「いつまで戦わなくちゃならないんだ!俺は一体何人殺さなきゃならないんだ?!」
「貴様が戦えば明日にでも終わる。終わればそれ以上の犠牲は出ない」
明日にでも、だなんてことはあり得ない。それでもヴィックスはそう言い続ける。
何日も、終わりの日が来るまでずっと。
ワイネルはガロットに「終わる」と言わなかった。彼が苦しんでいることを知っていて、何も言えなかった。
ただひたすらに指揮者として、中央を導こうとしていた。
自分の手で人々に血を流させることに苦しんでいたガロットの希望は、一人の少女。
「ローザ、俺は人殺しだ」
「いいえ、ガロットは悲しかっただけ。そしてこれからは皆を守らなきゃいけない」
黒髪の少女は、自らの力を大切な人の為に使おうと決めていた。力尽きても、彼らは助けようと決心していた。
「私はあなたの傍にいる。あなたを助け、あなたと共に皆を助ける」
「こんな俺の傍にいてくれるのか?」
「傍にいたいの。いさせてくれる?」
優しく強い彼女のことを、ガロットは心から愛していた。
彼女もまた、臆病だが優しいガロットを愛していた。
「ローザ、必ず戦争を終わらせる。…だから、全てが終わったら、俺の妻になってほしい」
ずっと一緒にいたかった。平和な世界で、幸せな未来を手にしたかった。
その時はまだ、その希望が残っていた。
ガロットに残るのは、悲しい赤い記憶。
そして、何故か笑顔で散っていった人々の記憶。
ルネに問われて、ふと思い出した。
「ディンゴの最期、ですが」
「えぇ」
「あいつは、どうしてか分からないけれど、笑っていたんです」
死ぬというのに、ディンゴは苦悶の表情を一切見せなかった。
敵であるガロットに死後のことを託して、笑みを浮かべて逝った。
ディンゴだけではない。ローザも死ぬ前に微笑んだ。
あの意味が、ガロットにはどうしても理解できなかった。自分はこんなに悲しいのに、何故彼らは笑っていたのだろうか。
ルネはその話を聞いて、穏やかな声で言った。
「それはきっと、望みが叶ったからです」
「望み?」
「あの人の望みは、強い人と戦うこと。夫は“地獄の番人”の噂を聞いてから、ずっと手合わせを望んでいました」
――中央に恐ろしく強い奴がいるらしい。俺はそいつと戦ってみてぇんだ。
ディンゴは少年のようにそう語っていたという。
名を上げるためではない。戦に勝つためではない。
ただ、強い戦士と喧嘩をしたかった。
「それが叶い、しかも叶えてくれたその人は最後の願いをきいてくれる。あの人にとって、あなたは敵ではなかったはずです」
もしも望みが叶って、笑って死んでいったのなら。
ローザの望みは、何だったか。
――あなたを助け、あなたと共に皆を助ける。
最後の力でガロットの傷を治したのは、そして微笑んだのは、それが彼女の願いだったから。
ガロットが生きることで、彼女の望みは叶う。
だからこれから、ガロットがしなければならないことは。
「そうか…そうだったのか…」
涙はすっかり涸れたと思っていたのに、頬を伝い流れていく。
ルネがそっとハンカチを手渡し、言った。
「ガロットさん、夫の望みをきいてくれてありがとうございました。
もっと別の形で出会えたなら、あなたと夫は今頃、共に笑っていたかもしれませんね」
今、自分達が生きているから見られる夢。
後の人々には実現して欲しい、未来の姿。
実現させる為に、ガロットは還ることにした。友の待つ国へ。自分達が守ろうとしたあの場所へ。
愛しい人が大切に思い、今は眠っている、エルニーニャへ。
「ルネさん、あの布は、元は何だったんですか?」
不思議に思っていたことを一つだけ訊ねた。ルネは笑顔で答える。
「私が作ったお守りです。念願が叶うまで夫を守ってくれたのですから、これからは私と息子を守ってくれるかもしれません」
ちょうど奥の部屋から幼い子どもが出てきた。ディンゴによく似た、赤茶色の髪をしている。
この子がこれから、戦の無い世界を生きていく。父が守った世界を。
「俺に子孫ができて、ずっと続いていったら…いつかこの子の子孫と出会えるだろうか」
「えぇ、きっと。その時はいい友人になれると良いですね」
帰り際、ルネはガロットに、自身のこれからについて話してくれた。
「商売を始めようと思うんです。あの人が大陸を駆けたように、国境を越えて人々に良いものを提供できたら…」
「できますよ。…国境を越えるなら、いつかまた会えますね」
白く美しい手と、小さいが希望溢れる手に、自分の大きな手を振り返す。
ガロットの長い旅はこれから始まる。
戦いが終わってもずっと。愛した人の想いを受け継いで、長く、永く。