止まない雨はないなんて、誰が言ったんだ。

この雨は決して止まない。永遠に。

 

その報せは突然だった。予想なんてできるはずもない。

だって、朝は普通に、いつものように出て行った。

いつものように笑って手を振った。

なのに、電話は鳴った。

向こう側の声は、声になっていなかった。だけどはっきり聞こえた。

その時はまだ、大丈夫だと思えた。

昔から大怪我してもすぐに元気になったし、今回もそうだろうと思っていた。

だから衝撃は何倍にも大きくなって、すでに「悲しみ」という言葉で表現できる範囲を超えていた。

 

「ユロウ」

「……あ、カスケードさん……ですよね」

お久しぶりです、と初老の男性に微笑んで見せるユロウだったが、上手く笑みにならなかった。

カスケードもそれを痛いほどわかっていた。

「ダイは帰ってきてるのか?」

「もうすぐ空港につくと思います。……信じられないって言ってました」

「あぁ、俺もだ。まさかこんな事になるなんて、誰も想像できなかっただろ」

カスケードはこの二十三年を思い返す。あの男に出会ってから、今日の別れに到るまでを。

なんて短い時間だったんだろう。

もっとずっと、一緒にくだらないことを語りながら酒を飲んだりしたかった。

二十三年なんて、本当に僅かで足りない。

「アクトはどうしてる?」

「母さんは台所にいます。呼んでも応えなくて……」

項垂れるユロウの言葉を聞くだけで、カスケードにはアクトの状態がわかる。

いつかの自分と同じなのだろう。

大切なものを失った、あの日の自分と。

 

講堂の警備にあたっている最中、現れた暴漢に撃たれた。

放たれた弾丸五発のうち、命中したのはたった一発だった。

そのたった一発が命を奪うなんて、不幸としか言いようがない。人々はそう言った。

 

何気なく外に出たアルベルトは、普段ならば絶対に信じられない光景を目の当たりにした。

「ブラック……何して……?」

「見りゃわかるだろーが」

煙草も酒も苦手だからと手を出さなかったブラックが、咳きこみながら煙草を吸っている。

銘柄は見慣れたものだった。

「それってもしかして……」

「残しといても仕方ねーだろ。代わりに吸ってやってんだ」

苦しそうに咳をしながら、吐いた煙を空へ。

これはブラックなりの追悼儀式なんだと、アルベルトは理解する。

「体壊すよ。若くないんだから」

「うるせー」

昔と変わらないのに。

自分たちは何一つ変わっていないのに。

それなのに、足りなくなってしまった。

どうせいつかはあるかもしれない別れだ。

でも、こんなに早いなんて信じたくない。

「アイツ……スノーウィ―の時は覚悟ができてた。だが、今回は……」

ブラックが妻を亡くしたのは三年前だ。もともと難病で、いつどうなるかわからなかった。

意識していたから、覚悟ができた。

でも。

「……ブラック、行こう。グレイヴちゃんも手伝ってるみたいだから」

風は、こんなにも冷たく吹くものだっただろうか。

 

着々と進められる儀式の準備。

近付いてくる別れの時。

その中に遅れて入り込んだ者は、初めて現実を受け止めた。

「シェリアさん……ですよね?」

戸口に立っていた者に声をかけると、一瞬驚いた顔をした。

どうしてかはわかる。おそらく、錯覚の所為だ。

「えっと……ダイ、だよね。ノーザリアから帰ってきたんだ?」

「たった今。祖父たちが先に行くようにと言ってくれたので……」

ダイの言葉は、おそらくシェリアにはほとんど聞こえていないだろう。

そういえばこの人は昔……と、ダイが心の中で呟きかけた時だった。

「一瞬、アイツかと思っちゃった。そっくりなんだもの」

案の定、そう告げられた。

しかしダイはダイであって、コピーでもクローンでも幽霊でもないのだ。

それをわかっていても、きっと同じ反応をするのだろう。

客だけではなく、一番わかっているはずの母もきっと。

家の中に入ると、懐かしい顔がいくつも見えた。

長い間会っていなかった人たちが、皆集まっていた。

「ダイ」

「カスケードさん……お久しぶりです」

「あぁ、久しぶりだな」

この人、こんなに老け込んでいたっけか。

ダイはそう思ったが、すぐに答えに行き当たる。

悲しみからそのように見えるのだ。

「アクトは台所にいるってさ」

「知ってます。ユロウから聞きましたから」

たとえ聞かずともわかる。母はたいてい台所に居た。

そこに家族の思い出があるから。

「兄さん!」

「ユロウ、ただいま」

弟が駆け寄ってくる。儀式の準備を仕切っていたのは、おそらくは彼だったのだろう。

他に仕切れるものはいない。自分は今帰ってきたのだし、母は……

「おじいちゃんは?」

「カイゼラさんと一緒に来る。……俺は母さんに会ってくるよ」

本当は、会うのが怖い。

変わり果てた母を見たくない。

気丈でしっかりしてて、強い人。それが育ての母のイメージだった。

台所でうつむいているところなんて、見たくなかった。

それでも声をかけなければと思って、肩にそっと手をかけて。

「ただいま」

 

その言葉がどう取られたのか、自分の姿がどう捉えられたのか、ダイは十分わかっていた。

自分を抱きしめる母の愛は、息子に対してのものではない。夫に対してのそれだ。

「……母さん、俺はダイです」

聞こえていない。

この人は、狂ってしまった。

悲しみの所為で、人を識別する感覚を失ってしまった。

「俺は、ダイなんです」

もう一度言ってみる。耳元で、はっきりと。

抱きしめる腕が緩んだ。

「……ダイ?」

「そう、ダイ。……俺は、父さんじゃない」

夢の世界にいたほうが良かったのかもしれない。

だけど、このまま現実から目を背けて狂うよりは、

「……そう……だよな」

残酷な世界に戻した方が良い。

「おかえり、ダイ」

「ただいま」

「……ますますディアに似たんじゃない?」

「やめて欲しいな、そういうの」

母は笑っているつもりなのだろうか。

でも、表情は少しも変わらなかった。

暗く重いまま。

「本当に、ディアが帰ってきたのかと思った」

「帰ってこないよ、父さんは」

「わかってる」

遠い昔に見たきりの、透明な一滴。震える声。

だけど、はっきり言った。

「ディアは……もういないんだよな……」

 

享年四十三歳

銃で撃たれ、病院に搬送されたが意識不明。

僅かに意識を取り戻すも、まもなく死亡。

事務的に言うと、そういうこと。

短すぎる人生だった。

愛する者を残して、逝ってしまった。

ディア・ヴィオラセントは、もうこの世にはいない。

 

「最期にあいつ……なんて言ったと思う?」

 

機械音の響く狭い個室で、二人きりの時間。

名前を呼ぶと、笑って応えた。

無茶するなよ、と言ったら、

悪ぃな、と返した。

「アクト」

「何」

「愛してるぜ」

「……何を今更」

「言っておかねぇとな、と思って」

まだ信じていた。

その可能性が僅かだということに気づきながら、

大丈夫だと信じていた。

何があっても乗り越えてきたのだから、今回だって。

「忘れんなよ」

「忘れるわけない」

「だよな」

もう、言葉を返すことはできなかった。

次の一言で、瞼は閉じられた。

 

「お前と逢えて、良かったぜ」

 

長くて短い、共に過ごした日々。

愛していた。

どんなことがあっても、愛していた。

だから、悲しい。

それは誰かと比べられるようなものではなくて、皆等しく悲しい。

だけど、一緒にいた時間が長くて濃密なほど、悲しく感じる。

なぜだろう。

なぜ人は愛するんだろう。

こんなに悲しいのに。

 

「父さんが死んだ時、どうしてここにいなかったのか……自分を呪うよ」

ダイは独り言を言ったつもりだったが、そうはならなかった。

「兄さんだけじゃないよ、そう思うのは」

「ユロウ」

いつの間に隣にいたのだろうか。

産みの母に似た眼が、遠くを見ていた。

「僕だって……医者なのにどうして父さんを助けられなかったのか、自分を呪ってる」

「……そうか」

実子ではないけれど、そうであるように接してくれた人。

だから、自分たちも本当の親のように思っている。

確かに存在していた「家族愛」。

もしそれがなければ、こんなに辛くなることはなかったのだろうか。

でもその「もし」はありえなくて、そうなるべくしてなった「悲しみ」という現実。

「でも、兄さんはすごいよ」

「え?」

「だって、兄さんと話したら…母さんは台所から離れた。父さんに会いにいったんだよ」

「偽者が現れれば、本物に会って確かめたくなるだろ」

「その確かめることは、今の母さんにとってすごく怖いことのはずだよ。でも……そうした」

乗り越えられるだろうか。

いや、乗り越えなければ怒鳴られる。

父はそういう人だ。

「ユロウ、俺……こっちにしばらくいることにするよ」

「うん」

「こっちにいる間に母さんと話して、それから……そろそろグレイヴともちゃんとしたいと思う」

「そうだね。いつまでも待たせてたら、僕がグレイヴちゃん貰っちゃうよ?」

「はは…ここで調子に乗るなってお前に言って泣かしても、父さんは俺を殴れないんだな」

「僕はもう泣かないよ。いくつだと思ってるの?」

泣くことで父にまた会えるなら、とっくにそうしている。

そうじゃないから、泣かない。

「泣くのは母さんの役目。僕たちはそれを支えなきゃ」

そうでしょう? 父さん。

そう言ったら、応えが聞こえるような気がした。

 

気を使ってくれたのか、あんなにたくさんいた人々は皆部屋から出て行った。

それだけ自分は、この男に近い存在なのだ。

近くて、特別な存在。

「おれも逢えて良かったよ」

本当は、もっとずっと先の世界で言いたかった。

だって、こんな泣かせ方はずるいから。

いつだってそうだった。

ずるいよ。

「これから……お前のいない世界に生きるんだな」

でも、あの辛かった頃に戻るわけじゃない。

だって、出逢えたおかげで、

こんなにもたくさんの愛を知ったんだから。

「悲しくて、辛い。だけど、お前はこういうおれが苦手だろ?」

だから現実を受け止めて、その上で微笑んでやる。

「また逢おう」

また笑いあおう。楽しく日々を過ごそう。

今は動かないし、話さないし、冷たいけれど。

……あぁ、手が冷たいのはあまり変わらないな。

 

ありがとう、ここまで一緒に歩んでくれて。

今だけ、声を上げて泣くことを許してください。

 

儀式が終われば、また生きるから。

 

もしもし?

あぁ、なんだ。どうしたの?

へぇ、そうなんだ。今どのくらい?

お前な……それってあの時じゃん。何やってんだよ大変な時に。

あーあ、またあいつのところに行けなくなった。

どっちにしろ当分行けないだろうなとは思ってたけどね。

そうとわかったらこっち帰ってこいよ。一人にさせちゃだめだろ。

わかったよ、おれからも電話しとくから。

じゃあな、また。

 

「孫の顔見るまでは死ねないな……あれ? 血が繋がってないから孫っていえるのかな…」

 

また愛が産まれるよ。

そこから見てるか?