夏の暑さを和らげる風が、草木を撫でて吹き抜けた。土と草の青い匂いが鼻腔をくすぐる。睫毛と頬にも季節を感じた。
エルニーニャ王国軍中央司令部の中庭には、体躯の大きな軍人も余裕で抱えあげてくれるほどの立派な木がある。歳若いこの国の軍人たちは、かわるがわる木に登り、束の間の休息を得るのだ。
軍人たちの歴史を見つめてきたこの樹木が与えてくれるのは安らぎだけではない。人生を左右する、出会いの運命がここから始まることもある。
――じいちゃんはな、ここで生涯の親友と出会ったんだ。
祖父はこの場所に顔を出すたび、しみじみと語る。詳細はなかなか話してはくれないのだが、祖父にとって人生で最も大きな出来事のひとつであったことには間違いない。
自分もいつか、そう思える人に出逢えるだろうか。祖父と同じように、この場所で。期待しながら木に登り続けて、とうとう三年が経った。
「おっかしいなー……。じいちゃんも伯父さんも、入隊してすぐ出逢えたのに。俺の運命の出会いっていつだよ」
口をとがらせ文句を言っている間に、休憩時間は過ぎていく。この後は気が乗らない事務仕事だ。渋々と木から降りようとしたところに、遠くから騒ぐ声が近づいてくる。
「どこに行った!? 逃げ足が速い奴だな!」
「西方でも有名だったそうですよ。あっちを探してみますね」
上官が誰かを探しているらしい。大変だなあ、それっぽい人がいたら教えてあげよう。そんなことを考えつつ、方向転換のために後ろを振り返った。
「うわっ」
「馬鹿、声あげんな」
目が合った途端に、手で口を塞がれる。鼻も一緒に押さえられてしまい、呼吸がままならない。
いつの間に背後に現れたのだろうか。全く気配なく、彼はそこにいた。黒髪は長く、大きくてギラギラ輝く髪留めを付けている。耳や首まわりにもアクセサリーがじゃらじゃらと揺れていた。瞳はグレーがかっているが、どうやらその奥は緑だ。切れ長の目には何となく見覚えがあるような気がするのだが、彼とは確かに初対面である。
「……んだよ、ジロジロ見てんじゃねえよ」
「はっへほろはははほひんはう」
「何言ってんのかわかんねえ」
木の近くから上官がいなくなったのを確認し、彼はやっと手を離してくれた。酸素を取り入れようと荒い呼吸をして、涙目になりながら訴え直す。
「だってこのままだと死んじゃう……」
「離したんだから死なねえよ。いいか、俺がここにいたことは絶対誰にも言うなよ。言ったらマジでぶっ殺す」
「脅迫は駄目だろ、軍人なのに。……軍人だよな? 軍服着てるし」
大量のアクセサリーのせいで少々断定する自信がない。見りゃわかるだろ、と相手は言うが、見れば見るほどわからなくなってしまう。
自分と同じ夏用の軍服を、こんなにふざけて……いや、ラフに着こなす人は初めて見た。
階級バッジは曹長、つまりこちらよりも一つ上なのだが、敬いも尊びも湧いてこなかった。
「完全なる疑いの眼差しを向けるんじゃねえ。ったく、インフェリアの末裔は不躾で失礼な奴なんだな」
「そっくりそのまま返すぞ。ていうか、俺のこと知ってるんだな」
「髪と眼を見りゃすぐわかる。ダークブルーの髪に海の色の瞳。鬱陶しいくらい英雄御三家サマの子孫じゃねえか」
彼はこちらを睨めつけてから、ひらりと木から飛び降りた。そしてどこかへ走り去ってしまう。異様に足が速かった。
姿が見えなくなるまでぽかんとして眺めていると、駆ける足音が近づいてくる。
「おーい、グリン! 何やってんのさ、もう休憩終わりだよ!」
「やばい! 呼びに来てくれてありがとな、サシャ!」
太い枝を蹴り、豪快に跳び、着地。目の前には呆れと焦りの混じった顔をした幼馴染。早く早くと建物内へ向かう。
時は世界歴五六六年。グリンテール・インフェリア、十三歳の夏のこと。
結局仕事開始時間には五秒の遅刻をし、時間管理が甘いと叱られた。渡された書類のチェックをし、遅刻の罰としてそれを将官執務室へ届けるように言いつけられた。
「オレまで巻き添えじゃんか。グリン、今度の休みは奢んなよ」
書類の山を抱えながら、サシャ・ハイルが大して怒ってはいない口調で要求する。
「ごめんって。あ、アイス二段にしてやるよ。それでどうだ」
「仕方ないな、アイス二段にウエハースおまけで手を打ってやる。でもさ、なんであんなギリギリまでいつもの場所にいたわけ?」
サシャが訝しむのは、普段のグリンが意外としっかりしているからである。遅刻は今回が初めてだ。
グリンの母は元軍人で、今は王宮近衛兵の副団長だ。責任ある立場にいるため、時間にはなかなか厳しい。グリン自身もそのあたりは鍛えられているはずだった。
「変な人に捕まっちゃって。上官から逃げてるみたいだった」
「それ、報告しなよ」
「言ったらぶっ殺すって」
「脅迫じゃん! ていうか今言っちゃったじゃん!」
思わず叫んだサシャの頭に、すかさず平手がとんだ。二人に仕事を任せた上司であるヨハンナ・グラン大尉は、その綺麗な手に似合わず叩く威力が強い。しかも従弟にあたるサシャには躊躇も遠慮もない。
「真面目に仕事しなさい。急に叫んだら周りに迷惑。あんたたちを指導するあたしの出世にも迷惑」
「ハナちゃん、そろそろ少佐昇進だもんな。邪魔してごめん」
「グリンは職場でのハナちゃん呼びをやめて。三年注意しても一向に直そうとしないんだから」
叱り、呆れ、平手打ちが強烈でも、ヨハンナは優しい。後で詳しい話聞いてあげる、と自分の仕事に戻って行った。
チェックを終えた書類を将官執務室に持っていくと、すぐに気付いてくれる者が一人だけいる。早足でこちらにやってきて、書類をまとめて受け取ってくれた。
「ご苦労だったな。インフェリア軍曹、ハイル軍曹」
「ここ相変わらずピリピリしてるな、センちゃん」
「また何かでっかい任務でもあるの、センちゃん?」
「人がせっかく呼び方の手本を示したのに無視するんじゃない。ここではエスト大将と呼べ」
眉間に皺を寄せ、センテッド・エスト大将は二人をさっさと追い出そうとする。だが気心の知れたちびっこたちは食い下がった。
「なあ、軍曹階級も参加するような任務ある?」
「オレたちも早くでっかい任務やりたい」
「そんなものは無い。だが、参加なら否応なくさせられるんじゃないか。雰囲気が悪いのは大総統選挙のせいだ」
早く戻れ、と部屋から押し出される。グリンとサシャは顔を見合わせ、緊迫した空気に納得していた。
大総統はエルニーニャ王国軍の頂点である。軍政の頃は国そのもののトップでもあった。今でも王宮、軍、文派の三派で国政を行っているため、国の代表の一角であることには変わりがない。
これまでの大総統は基本的に先代による指名で決められてきた。基準は引き継ぎがし易い、実力が高い、これまでの流れに反しないなどその代によって様々だ。
初代大総統ワイネル・ゼウスァートと先代大総統レヴィアンス・ゼウスァートは王宮から命じられての就任であったが、他は時の大総統が信用、信頼する人物で固められてきた。
ところが現大総統フィネーロ・リッツェはそれに異を唱え、軍内で選挙を行い次の大総統を決めることにした――という噂が目下エルニーニャ王国軍に広まっている。本人が明言したわけではないので、あくまで噂である。しかし大将階級の人間たちが目の色を変えるには十分だった。
「派閥とかでき始めてるんだって。グリン、どう思う?」
「俺はセンちゃんがいいな。でもセンちゃんは大総統なんか絶対やりたくないって言ってるんだよなあ」
選挙の噂が流れる前は、次の大総統はセンテッドではないかと囁かれていた。四年前の作家連続殺人事件及び誘拐事件とそれに連なる案件を次々に解決に導き、准将だった彼は今日では大将にまでのし上がっている。
しかもセンテッドは大総統と補佐大将とも親しい。付き合いも長く、彼らの思惑を理解している。これまでの流れの通りなら最有力候補ではあった。
既に打診されたが、やりたくないと断ったために、選挙という方法になるのでは。そんな憶測が出回っているのは、センテッドにとっても甚だ迷惑なことらしい。
「そりゃあ、オレだってセンちゃんが大総統になってくれたら嬉しいけど。今できてる派閥はどれもちょっと怖いんだよな」
「サシャ、詳しいのか?」
「聞き齧っただけだよ。そのうちの一人が兄ちゃんたちの因縁の相手なんだ」
だから覚えちゃった、というが、実際サシャは昨年の入隊者のうち、体力と知能のいずれにおいてもトップの成績を誇っている。おそらく聞き齧りだという内容だけでも、かなりの情報量なのだろうとグリンは思う。
今日の仕事が終わったら聞いてみよう、という考えですら憶えていられるかどうかわからないグリンには、彼の才能は羨ましい。
だが終業を待たずとも、一時間半後には関連する話を耳にすることができた。
昼食時の食堂は混んでいるので、グリンとサシャは軽食を買ってきて中庭で食べることが多い。同じ思惑の人間は他にもいるので、穴場というわけではないのだが、少なくとも食堂よりは落ち着ける。
二人がそこにいることをちゃんとわかっていて、ヨハンナが自分の食事を持ってやって来た。
「あ、海老タルタルのサンドイッチ。美味しそうね」
「ハナちゃんは何?」
「あたしはササミとアボカド。……で、遅刻した理由は何だったの?」
約束を果たしに来てくれた彼女に、グリンは休憩中にあった一部始終を話した。相手の人相をざっくりと説明すると、ヨハンナには心当たりがあるようだった。
「もしかして、西方から異動してきた曹長の子かな。あたしもよく知らないけど、問題児を押し付けられたって話は聞いた」
歳はグリンと同じくらいだったような、と言うので頷いた。確かに背丈や見た目の印象は、グリンとさほど変わらないように見えた。あるいは一つか二つ年上かもしれない。グリンの身長は同い年の子供たちよりも少々高いのだ。
「やっぱり問題児扱いなんだ。不良っぽかったもんな」
「そんなやつに絡まれるなんて、グリンは災難だね。今度近づいてきたら、オレが守ってやるよ」
サシャはグリンよりもかなり背が低く見えるのに、一丁前のことを言う。ヨハンナが盛大に笑うと、なんだよう、と口をとがらせた。
気にかけてくれる上司がいて、頼もしい親友がいる。周囲の大人も多くは信用できる。現在の環境はありがたいと、グリンはしみじみ思う。あの不良少年も、そう思える日が来ればいいのだが。
「まあ、サシャがグリンを守るってのは冗談として」
「冗談じゃないってば」
「あたしはあんたたちを、この中央司令部に巣食う魔物たちから守らないとね。これから色々厄介だから」
あーあ、と大きな溜息を吐いたヨハンナに、サシャはからかわれていたのを一瞬で忘れたように返す。
「厄介って、大総統選挙のこと?」
「そうよ。魔物たちはあんたたちを取り込もうとするに違いないわ」
だってあんたたちは特別だもの。こちらを指したヨハンナの、ピカピカに磨いた爪が見えた。
入隊当初からグリンは軍内で注目を浴びていた。そしてサシャはもっと浴びていた。それぞれが大総統経験者の孫であり、子供だからだ。
建国の英雄といわれる軍の御三家、ゼウスァート、エスト、そしてインフェリア。これら三つの軍家は、大総統経験者も多く輩出している。
ゼウスァートは既に無い家だが、その血は前大総統レヴィアンス・ハイル――サシャの父親に受け継がれている。レヴィアンスの養親であるハル・スティーナも三代前の大総統だ。
グリンの祖父であるカスケード・インフェリアはハルの前の大総統であり、その祖父もまた大総統を務めている。
そんな有名軍家の人間を味方につければ、次代大総統の座に近づけるのでは。そう考えている者がいるらしい。
「全員それぞれ狙ってるみたいだけどね。ああでも、クラシャン大将がサシャを味方につけることはないか」
「そうだよ。オレ、入隊したときに『兄は文派で働いてます』って言ったもん」
ヨハンナとサシャは話をどんどん進めてしまい、グリンはおいてけぼりになっている。ようやくそのことに気付いてくれたヨハンナが、改めて説明してくれた。
現在の大総統候補者は四名。一人はセンテッド・エスト大将だが、彼自身はそうなることを望んでいない。しかし他三名は実に積極的だ。
トレーズ・クラシャン大将は、物静かで冷静な振る舞いをするが、かなりの野心家である。手柄を立てるためにあらゆる事件の指揮を引き受け、実際に八割は成功をおさめ解決へ導いている。
「有能なんだけど、活躍のためには手段を選ばないんだよね。例えば他の人の手柄に繋がりそうな情報は出さないとか」
だから八割止まりなんだよ、とサシャは憤慨している。様子からして、どうやらクラシャン大将こそが彼の兄の因縁の相手であるらしい。
フンダート・ドナー大将はクラシャン大将の同期だが、その性質は彼とはほとんど真逆だ。熱血漢で、体も声も態度も大きい。ただ野心家というところは一致しており、故にクラシャン大将とは犬猿の仲だという。
「派閥はよく統率されてるけどね、全員むさくて暑苦しい。あとあの人、男尊女卑な考え方をするからあたしは苦手」
仕事はまあまあできるのが余計腹立つ、とヨハンナは舌打ちする。
サランディータ・パクネー大将は候補者で唯一の女性だ。強気で頭の切れる人物で、軍内での女性の地位をより向上させるべきだとした活動も行なっている。彼女が狙うのは「改革」なのだ。
「ヨハンナはパクネー大将とは気が合うんじゃないの」
「本気で言ってる、サシャ? 意に介さない相手は全員敵視する極端な人だよ、あたしあの人嫌い」
ばっさり切り捨てるからには、ヨハンナにも何かしらの因縁があるのかもしれない。
一通り話を聞いて、グリンは考え込んでしまう。本当にこれから選挙をするのであれば、この候補者たちの誰かは選ばなくてはならないのだ。
今の情報からは、どの候補者にも良い印象は持てない。やっぱりセンちゃんがいいな、とぼやくと、ヨハンナとサシャも同意した。
「……でもさ、センちゃんはやりたくないんだ、大総統」
「大将はできれば平穏なまま引退したいみたいだね。気持ちはわからなくもないけど」
「オレたちから頼もうか、センちゃんに」
ここにいる三人は、最初からセンテッドを推している。彼でなければと思っている。
――情報が一方的だと、正しい判断はしにくいよ。自分の視野を広げて確認しないと。
ふと、グリンは従兄のことを思い出した。小説家として様々な資料を扱い、物語を巧みに綴る彼は、情報の扱い方にも慎重だ。
もう少し自分で考えてみる必要があるかもしれない。グリンには、今この場で得た情報しかないのだから。
それに次の大総統が本当に選挙で決まるのかどうか、まだわからないのである。
グリンとサシャは軍人寮でも同室だ。サシャが来るまでの二年間は、グリンには別のルームメイトがいたが、ちょうど部屋替えになったのだった。
軍での立場に加え、個人の相性や背景も考慮して部屋割りをするのは、この寮の昔からの方針だそうだ。
「お腹空いたー! 今日のご飯何かなあ」
「待てよ、サシャ。俺、もう、お腹空いて走れない」
午後からたっぷり訓練だったのだが、サシャはまだ体力が余っているらしい。あらゆるパラメータが自分よりも上のようで、グリンは少しだけ悔しい。
三年前のグリンの入隊試験の成績はあまり良くはなかった。実技だけなら上位にいたのに、筆記試験でかなりの遅れをとってしまったのだ。母や伯父が果たした上位入隊がグリンにはできず、当時はまあまあ落ち込んだ。
そのとき励ましてくれたのは、大好きな祖父母だった。祖母は「私なんか実技もろくにできなかったわよ」と言い、祖父は「俺とお揃いだ」と笑った。後になって、インフェリア家の傾向として上位入隊とそうでない代が交互に並ぶことを知った。グリンはそうでない代に相当する。
ここからのし上がっていけばいいと訓練に励み、サシャの上位入隊はそこにさらに火をつけた。だが、まだまだだ。背ばかりではなく、実力を伸ばしたい。
そんなことを考えつつ、サシャを追って食堂を目指していたのだが。
「あだっ」
はしゃいでいたサシャは向かいからやってきた人物にぶつかった。グリンは慌てて駆け寄り、サシャを支えつつ相手に頭を下げる。
「ごめんなさい、大丈夫ですか」
「廊下を走り回ってんじゃねえよ、チビ」
応えたのは聞き覚えのある声だ。顔を上げると、切れ長の奥のグレーグリーンと目が合う。
やはり、昼間の少年だ。苦々しい顔で、グリンを見ると舌打ちをした。
「なんだ、インフェリアの。犬っころの躾はちゃんとしておけよ」
「犬じゃないし!」
グリンが返事をする前に、サシャが言い返した。たしかに子犬のようだとうっかり同意してしまいそうになる。だが、それを言っては余計に怒らせるので。
「サシャ、ぶつかったんだから先に謝らなきゃだめだ」
「あ、そっか。ごめんなさい。でも犬じゃないから」
譲れない部分は譲らないまま、サシャは謝罪を述べる。だが相手は特に反応もなく、かわりにグリンを睨めつけた。
「おい、インフェリア。てめえ、俺のことチクっただろ。言ったらぶっ殺すって警告したよな」
その言葉で、ヨハンナに報告した内容がちゃんと彼の上司に届いたのだと確認できた。グリンは安心したが、同時にこの人物が親友を脅迫したのだと察したサシャはさらに怒りを増した。
「チクったんじゃない、正当な報告! お前のは警告じゃなくて脅迫! 何もかも大間違いだよ」
「チビ犬とは話してねえんだよ、とっとと餌場に行きやがれ」
「はあ!? オレは犬じゃないし、食堂のご飯は餌じゃないし、グリンはオレの親友だから!」
今にも相手に噛みつきそうなサシャを、グリンは止めようとする。相手の少年はつまらなそうに視線を逸らすと、二人の脇をすり抜けようとした。ここで「ぶっ殺す」ことはないようだ。
「ねえ、君、名前は? 俺はグリンテール」
「ちょっとグリン、なに呑気に自己紹介なんかしてるのさ」
サシャの怒りが少しだけ呆れに移行する。もう押さえなくても大丈夫だろう。だが彼の毒気を抜きたかっただけではない。本当に相手のことが知りたかった。
出会い方は良くないが、あの木で顔を合わせたのだ。仲良くなれたら、なれるのなら。
「てめえに名乗るような名前はねえな」
しかし彼は振り向きもせず、廊下の奥へと去って行った。
何あれむかつく、と飽きるほど繰り返したサシャは、翌日には得られなかった解答を調べてきた。けれども釈然としない様子だ。
「あいつ、オレたちとカテゴリーが一緒だった」
「カテゴリー?」
あんまり一緒だと思いたくないけど、とサシャは呻き、それからあの少年の身元を教えてくれた。
ヨハンナから聞いていたとおり、彼は西方司令部から異動してきたばかりだ。問題を起こして中央に、というのは滅多にないが、彼にはそうなる理由があった。
名前はシャーロ――シャーロ・リッツェだ。
「リッツェ……って、閣下の身内?」
現大総統フィネーロ・リッツェは、グリンの母の友人であり、サシャの父の元部下だ。兄がたくさんいると聞いたことがあるから、甥かもしれない。ところがサシャはそれを否定した。
「身内っていうか、実の息子だよ。正真正銘の大総統の息子」
それがサシャの言う「カテゴリー」。大総統経験者の直系の子供たちであるという意味で、あの少年とグリンたちは同類なのだ。
しかしグリンにはあまり納得ができない。シャーロという少年の態度を思い返すと、彼の両親とは似ても似つかないためだ。たしかに顔はフィネーロに似ているのだが、性格は父親とあまりにも異なる。かといって母親――こちらはグリンの母の後輩だ――とも全く違う。
「あのきちんとした両親に、どうして不良息子が?」
「グリンもなかなか言うね。まあ、西方司令部から来たらしいから、両親と離れて暮らしてたのは確かだよね。その間にあの態度になっちゃったのかも」
問題を起こしたというのも、喧嘩を繰り返していただとか、任務中に勝手な行動をとっただとか、他の人なら謹慎や始末書でひとまず済ませるようなものだ。シャーロの手に負えないところは、彼が大総統の息子であり、周囲に遠慮があるという点なのではというのがサシャの考えだった。
「一度親の目につくところに置いてくれとでも言われたんじゃないの。でも多分変わってないね。閣下は閣下の仕事があるし、その間は親はできない」
「そうだな。でも……」
両親と離れて暮らすというのは、寂しいのではないか。グリンは軍に入ってから寮暮らしになったが、バスの停留所がいくつかという短い距離ですら、しばらくは寂しかった。
もともと両親は仕事が忙しくて、片方は不在になってしまうことが通常だった。だが祖父母がいてくれたので、グリンは実家で独りになることが少なかったのだ。
それに、両親との間にすれ違いが生じてひとり暮らしになった従兄を見ている。彼の寂しそうな表情を、問題がとうに解決した今でも、鮮明に思い出せる。
「寂しくてグレたのかもしれないな」
「なるほどね。オレもフィーが小さい頃は、なんとかして兄ちゃんに構ってもらおうとしたっけ」
サシャにも覚えがあるらしい。三人兄弟の中間子で、兄のことが大好きな彼だから、そういうこともあっただろう。けれどもサシャは兄のようになるべく、甘えることを控えようとした。
「もしそうだったら、ちょっと可哀想だな」
「だよな。だからさ、サシャ。シャーロと友達になれないかなって、俺は思うんだけど」
身を乗り出したグリンに、しかしサシャは眉を寄せて呻いた。
「えー……オレはあんまりそういう気にはなれないよ。だって、オレのこと犬扱いしたじゃん。グリンだって脅迫されたんだよ?」
面倒な奴には関わらない方がいいよ、と彼は言うが、グリンはもう一押ししてみる。
「問題があるってことはわかっただろ。だったらこれ以上面倒なことにはならないようにすればいい。モルドならそう言うんじゃないかなと思った」
「なるほど。じゃあ見つけたら声かけてみようか」
軍外の友人の名前を出すと、サシャはきりっとした顔で手のひらを返した。大親友がこの名前に弱いということは、とっくにお見通しなのである。
今日は訓練の時間が多い。階級が同じグリンとサシャは、同じメニューの訓練を受ける。さらに今回は一つ上の階級との合同訓練で、よりレベルが高くなる。
開始直前になって、指導担当の上官が曹長を一人引きずってやってきた。抵抗しつつ連れてこられたのは、着用しているアクセサリーの数が少なくなったシャーロだった。サボろうとしていたのかもしれない。
夏の太陽が人も地面もじりじりと灼く。その中での訓練は、体力や技能の向上よりも、その保持が求められる。過酷な環境でいかにして自らの力を保てるか、それには限界を見極めて適切な行動をとることが重要だ。
水の入ったボトルは重い。だがこれは大切な命綱だ。また訓練の中では、それを現場から運び出す必要のある何某かに見立てることもある。
「あー……また落としちゃった」
サシャはよくボトルを落としたり、何かにぶつけたりしてしまう。何事も素早くできる彼だが、動いているときの注意力は少々足りない。
一方のグリンは、ボトルを気にするあまり、動きが鈍くなる。対照的な二人を、指導担当の上官たちが興味深く見守っていた。
「グラン大尉、彼らはいつもああなのか」
「大抵は。ちょっと面白いですよね、建国の物語そのままって感じで」
やりとりの声が聞こえ、グリンとサシャは顔を見合わせて苦笑する。この国の人間の頭に――たとえ教育を受ける環境になくとも何らかのかたちで――刷り込まれる「建国の物語」は、現在のエルニーニャ軍の基礎を作り上げた三人が主人公だ。即ち、ゼウスァート、エスト、インフェリアの家名を最初に戴いた人物である。
グリンとサシャの関係は先祖のそれによく似ていると、特にヨハンナが言うのだった。
「オレは違うと思うけどなあ。グリンはグリンだよ」
「それならサシャだってサシャだろ。ハナちゃんは関係性のことを言ってるんだ」
「わかってるよ。ヨハンナはあの話が好きだからさ、色々こじつけるんだ。オレが小さい頃は、兄ちゃんがインフェリアに見立てられた」
結構いいかげんだよ、と口をとがらせたサシャだが、すぐに表情を変えた。グリンも顔を上げ、二人でにわかに湧いたどよめきの方へと目を向ける。いつの間にか上官たちもそちらに気を取られていた。
注目を浴びていたのは、障害物を軽々と避けて走る少年だった。長い髪も、水のボトルも、全く苦にしていない。飛んで跳ねて、宙返りまで決める。ボトルは空高く舞い上がったり、跳躍の頂上から落下したりするのだが、必ず着地点は彼の手の中だった。
最後には怠そうにボトルの蓋を開け、喉を鳴らして水を飲む。
「……んだよ、文句あんのか」
注がれる視線を睨み返し、シャーロは舌打ちをした。
この鮮やかさにはグリンも、そして彼に良い印象を持っていなかったサシャまでも、目を輝かせてしまう。
唖然とする軍曹、曹長階級の者たちの中に、指導担当の上官がはっとして割り込んだ。
「シャーロ・リッツェ! ボトルは貴重品として扱えと言っただろう!」
「だから何だよ」
「お前は押収品や、あるいは保護した子供などもぞんざいに投げたりするのか? 自分勝手なアクロバットを披露しろなんて指示はしていない」
「今ここにあるのは水のボトルだろ」
「想定しろと言っただろう!」
担当者は佐官で、ヨハンナよりも階級が上だ。だがシャーロは全く怯まず悪びれもしない。リッツェって閣下の、と囁く声が聞こえるが、現役大総統の息子だから何をしても怖くない、という様子ではない。少なくともグリンにはそう見える。
「グラン大尉、少しの間任せてもいいだろうか。私は彼を連れて行く」
「かしこまりました。……って、ちょっと! リッツェ曹長、逃げてますよ?!」
逃げ足の速いシャーロの姿は、既に練兵場の隅にあった。上官が慌てて追いかけ、ヨハンナは心配そうにそちらを見つつ、残った者を宥めた。
「みんなはさっきの真似しちゃだめだからね。ああいうのがかっこよく見えるのは、平和なときだけだよ」
あたしたちは仕事をしてるんだから。彼女の言葉を胸に刻み直し、全員が指示に従った。だが鮮烈な光景を忘れることはできないのか、休憩時間の話題はシャーロのことばかりだった。
もちろんグリンとサシャも例外ではない。
「側宙、すっごく簡単そうにやってたじゃん。いいなあ、オレもできるようになりたい」
「さっそく真似しようとしてる。でも、俺も同じ気持ちだ。あれだけの身体能力があればいいよな」
サシャなら少し練習すればできるようになるかもしれない。だが、自分には難しいだろうとグリンは思う。
技術的な問題というよりは、身体的な都合だ。インフェリアの血を濃く受け継いだらしいグリンの筋肉の付き方は、アクロバットにはあまり向いていない。どちらかといえば大地をしっかりと踏みしめる方が得意だろうと、教えてくれたのは伯父のパートナーだった。
ますますシャーロに興味が湧く。彼はどのようにしてあの技を身につけたのだろう。自分の身体特性を理解しているのだろうか。得物は何を使うのかも知りたい。
「なんかグリン、楽しそうだね」
サシャに顔を覗き込まれ、自分がにやついていることに気が付いた。親友にはごまかしがきかないので、正直に話す。
するとサシャは納得したように頷いた。
「なるほどなるほど。身体特性でいうなら、両親のいいとこどりかもしれないよね。オレたちもそうだけどさ」
「閣下とカリンさんの?」
「そ。二人とも動くのはあんまり得意じゃないらしいけど、閣下はあれでなかなかトリッキーな戦い方をするし、カリンさんも銃を扱うだけあって体幹がしっかりしてるんじゃないかな。うん、きっと体幹だな」
天性のものをさらに鍛えたんだろうなあ。サシャの言葉をひとつひとつ咀嚼して飲み込みながら、グリンは親友をますます尊敬する。
自分のことはよくわからないが、サシャは間違いなくシャーロと同じ「いいとこどり」の才能を持っている。父の身体能力とカリスマ性、母の知性を受け継いだ、いわばサラブレッドなのだ。
「俺が受け継いでるのは、いいとこなのかな」
グリンは両親を尊敬している。祖父母や大叔母、伯父のことも。あんなふうになれたらと思うが、近づけている実感は今のところはない。
「いいとこに決まってんじゃん」
親友は即答してくれる。
「グリンはさ、後輩に好かれてるよね。オレの同期の子たちのほとんどはグリンのこと好きだよ。それは多分、インフェリア家代々の魅力もあると思う。それからお父さんに似て穏やか。優しいのはおばあちゃんに似たのかも。でもやっぱり一番は、グリン自身が家の人たちのいい所を学んでるんだよ」
サシャはまだ褒められるよと言うが、そこで打ち止めにしてもらった。照れて顔が熱いし、あまり感情が出てしまうのもグリンにとってはよくない。かわりに呻くように褒め返した。
「そうやって人のこと褒めまくるの、レヴィさんにそっくりだよな。言葉がすらすら出てくるのはエトナさんみたいだし。サシャだってたくさん学んでるし、俺よりずっと頭の回転が速い」
「そんな当然のこと改めて言うなよ」
互いに褒め合い突き合いしている二人を、周囲は温かく見守っている。それもまた彼らが好かれる所以だと、本人たちは知らない。
その日の訓練中、サシャはいつもの通りの好成績を残し、グリンも記録を伸ばした。そしてシャーロは連れて行かれたまま戻って来なかった。
終業まであと一時間という頃、グリンとサシャはそれぞれ別の仕事を申し付けられた。というわけで、グリンは珍しく単独行動である。
相方はどうした、と声をかけられるのも何度目かというそのとき、応答に気を取られて、正面から向かってきた人物と僅かにぶつかった。
「わ、ごめんなさい」
「……すまない。こちらこそ小さいものに気が付かなかった」
珍しい返事だ。グリンは歳の割に背が高いために、特に最近はあまり「小さい」と言われない。たしかに相手は、グリンより二十センチは身長がありそうだった。
色素の薄い、というよりも雪のように白い髪は長く真っ直ぐだ。瞳は夜霧のような、ほんのり藍のかかったグレー。バッジが示す階級は大将で、グリンは慌てて敬礼した。
「し、失礼しました」
「君は礼儀正しいな。インフェリアの者か」
「はい。グリンテール・インフェリアです」
相手はグリンの名前を小さく復唱し、頷いた。そしてにこりともせず――おそらくはそれが地顔であり、表情の乏しい人なのだろう――自らも名乗った。
「私はトレーズ・クラシャン。グリンテール、君とはいずれゆっくりと話がしたい」
では、と彼は優雅な足取りで去っていく。その姿を見送りながら、グリンはサシャの言葉を思い出していた。
――兄ちゃんたちの因縁の相手なんだ。
あの人がそうなのか。目的のためなら手段を選ばないというが、見た目からは想像がつかない。掴みどころのない雰囲気を持つ人だ。
「ゆっくりと話……何を話したいんだろうな」
首を傾げつつ、グリンは仕事に戻っていった。
任された仕事の締め括りは、第三休憩室に行きセンテッドに書類を渡すことだった。初めて申し付けられたときには、何故休憩室に、と思ったが、どうやらグリンの祖父の代から関係が連なる人々にとっては予備の会議室扱いであるらしい。
現在はセンテッドがよく使用しているが、大総統と補佐も出入りが多いようで、例の噂の火元の一つであることは間違いなかった。
「センちゃん、書類持ってきた」
「ありがとう。置いておいてくれ」
この部屋では、センテッドを「大将」と呼ばなくても怒られない。ついでに持っていってほしい物があると言われ、向かいの席に座って待つことにした。
「なあ、センちゃん」
「何だ」
「やっぱり大総統にはなる気ないのか?」
「無いな。器じゃない」
きっぱりと言い、手元の書類に署名をしていく。走るように書くのに美しい筆致は、彼の友人でもあるグリンの従兄も褒めていた。
「器って何だよ。俺、センちゃんが大総統なら良いなって思うぞ。俺はまだ力不足かもしれないけど、頑張って役に立つし」
「なら補佐にでもなるか。尉官は君の母親という前例があるが、それより下は前代未聞だな」
「……それは」
無茶な話では、とくぐもった声で言い返すと、そういうことだ、とさらに返る。
「僕には大総統を務めるなど無茶な話なんだ。過去、御三家で大総統を出した回数が最も少ないのがエスト家。ゼウスァートのような強い牽引力や、インフェリアのような眩い魅力に比べたら、我が家は地味だ」
「大総統なんて派手さでやるものじゃないだろ。今の閣下だって大人しい人だ」
「そう思うか? グリン、入隊時や節目の挨拶を思い出してみろ。閣下のスピーチ原稿は見事なものだ。そうだな、言葉の選び方や構成の巧みさはスティーナ氏に近いかもしれない」
書き物仕事を終えたのか、センテッドは手元を確認し始める。書類の不備は無かったようで、綺麗に揃えてグリンに差し出された。
「僕の得意なことはこういう地道で目立たないことだ。一時期は虚勢を張るなどしてみたが、結局相手の神経を逆撫ですることにしかならなかった。無知故の傲慢さで人を傷つけさえもした。前には出ず淡々と、やるべきことを片付けていく。やり方がわかっているものには対応できるが、大総統の仕事というのはそうではない」
だから無理だ。――この説明を、彼は何度も繰り返してきたのだろう。自らの能力と求められるものの不一致を飲み込むのは、グリンならばつらいことだが、センテッドはどうなのだ。
「もしその器ってのがあったら、やりたい?」
「……どちらにせよ気が進まないな。自分にとって大切なものを、いくつか犠牲にしなければならない立場だから」
それを持って行ってくれ、と言ってセンテッドは次の仕事に取り掛かる。この話はここまでということだ。
第三休憩室を出たグリンは、大きな溜息を吐いた。やはり次の大総統はセンテッド以外の人間になるのだろう。それが噂通り選挙になるのか、それとも従来の指名制によるのかはわからない。
惜しいなと思うことがセンテッドに犠牲を強いるのなら、こちらからは頼めない。
「俺もちゃんと調べてみないと」
意欲のある候補者たちには、センテッドのような考えはあるのだろうか。あるいは既に乗り越えているのかもしれない。
次にクラシャン大将に会ったときには、彼の思惑の一端でもわかるといい。
サシャは医務室に来ていた。頼まれた書類を渡す先が、常駐軍医だったのである。
常駐軍医は二名。一人は医務室の主な管理を任されているサウラ・ナイト。もう一人は南方司令部から来たプルム・レナロードだ。
「あ、サシャだね。どうした、転んだか」
細い目が弧を描くプルムの顔は、猫に似ているとサシャはいつも思う。南の大国サーリシェリアの血を引くプルムは、同じくサーリシェリアの血筋の祖母を持つサシャを気にかけてくれていた。
「転んでないよ。サウラさんに書類持ってきた」
「お、頼んでたやつかな。ありがとう、サシャ」
厚い前髪に目が隠れているサウラは東方の出身で、ヨハンナとは旧知の仲である。従ってこちらもサシャのことをよく知っている。つまり医務室の人間はサシャの味方だ。且つ、サシャが軍内外のことを知るための情報源でもある。
「それ何? 大きな仕事?」
「先日の任務の報告書だよ。負傷者の記録を纏めて提供したから、完成したらコピーが欲しいって頼んだんだ」
書類をぱらぱらと捲り、頷いてから手招きする。サシャが見ても問題ないということだ。遠慮なく覗き込むと、尉官と佐官のチームが担当した案件が報告されていた。
「酷い怪我したの?」
「六人中二人が撃たれた。しばらく安静にしていてほしいんだけど……」
サウラが重い溜息を吐く。表情がよく見えないのだが、芳しいものではないことは明らかだ。
「この任務はドナー大将が振ったものでね。彼が将官になってからは特に、重傷者の復帰が早い。治りきっていないのに次の任務に出て、傷がより重い状態になったり、感染症にかかったりしてしまうケースもある」
「しかもだよ、それをボクらや医療チームのせいにする。ドナー大将には困っちゃってるんだね」
憤慨するプルムに、しかしサウラが首を横に振る。正確には違うのだと、サシャにも教えてくれた。
「直接こっちのせいにされたわけじゃない。ドナー大将は傷の具合を見て、治りが遅いな、処置は正しかったのか、とぼやくだけ。それを聞いた方が焦って、原因は医療チームにあるのではないかと考えてしまう」
「なんで焦るのさ、怪我は仕方ないじゃん」
「ドナー大将はこなした仕事の数で部下を評価するんだね。怪我で穴が開けば評価は上がらない。加えてドナー大将自身は傷の治りが早い人だから、通常の感覚がわからない」
それでもドナーの方が少数派なのだから、自分はこうなのだと伝えるだけで良いのでは。そうすれば感覚の差からの焦りなどはなくなり、怪我をおしてまで無理をすることもない。結局はその方が実績を上げられるはずだ。サシャはそう考えるが、ドナーの部下たちは違うらしい。
「根性論ってやつだね。ドナー大将の教育は、気合を入れて鍛えればなんだってできる、っていうのが基本なの」
ボクが苦手なやつだよ、とプルムが溜息を吐く。サウラは、考えとして悪くはないよ、と苦笑いした。
「ただ、薬は使い方を間違えると毒になるんだよ。根性論も一種の薬だけど、怪我が根性だけでは治らない以上、他の考えも持って切り替えた方が良いんだ。どんなものも過剰摂取は早死にの元さ」
盲信か、あるいはそうせざるをえない事情があるのか。いずれにせよ自分もドナー大将とはあまり相性が良くなさそうだなとサシャは思う。同時に、自分も似たようなかたちでグリンを追い詰めていないかどうかが少し怖くなった。
グリンはサシャが入隊してから、たとえ抜かれても遅れまいと努力を重ねている。根本が頑張り屋なのだが、自分の体力や精神力を顧みないことがあるのが気掛かりだ。ただでさえ彼は、感情の昂りを抑えるために常に心を削っているというのに。
「オレも気合いで何でもどうにかなるなんて思わないようにしなくちゃ」
「自分に対するおまじない程度ならいいんじゃない? 人に押し付けると呪いになるかもしれないけど」
「サシャは大丈夫だね。ボク、サシャが人に無理強いするのは見たことないよ」
軍医たちに励まされ、サシャは頬を赤くした。
仕事が終わり合流したグリンとサシャは、寮への通路を歩いていた。グリンはセンテッドに、サシャはサウラとプルムに会ったことを報告しあう。話した内容の詳細は部屋に戻ってからではないと、誰に聞かれてしまうかわからない。特に将官の誰かの耳に入ってしまったら面倒だ。
「サウラさん、元気そうで良かった。プルムさんと良いコンビだな」
「二人とも穏やかだからね、医務室の雰囲気は良いよ。センちゃんも仕事頑張ってるんだな」
談笑する二人は、背後から迫る気配に気づかなかった。通路の端に寄ってはいるのだが、並んでいるので当然空いた幅は狭くなってしまっている。
「貴方達、そんなふうに歩いては迷惑ですよ」
それが通行の妨げになっていると、声をかけられて思い至った。
「あ、ごめんなさい」
「ごめんなさい。サシャ、俺が後ろ歩くよ」
グリンが退けて余裕ができた道を、注意した人物が足運びも優雅に通っていく。寒々しさもある淡い青色の髪をしっかりまとめた女性が、こちらに冷たい視線を投げた。
彼女の後ろにはぞろりと一列に女性軍人たちが続き、一様にこちらに一瞥をくれる。好意的なものは全く感じられない。
「……子供なのに、道の真ん中を肩で風を切って歩くことだけは覚えてるなんて。この国の男性は誰も彼も自分が偉いと思っている」
憂いと蔑みの声色で、先頭の女性が溜息を吐いた。後続の軍人たちも眉を顰めて頷き合う。「パクネー大将の言う通りだわ」という囁きを耳にし、先頭の彼女の正体がわかった。
なるほど、あれはヨハンナも苦手とするわけである。
姿が見えなくなるまで見送ってから、なにさ、とサシャが地団駄を踏んだ。
「こっちはちゃんと端を歩いてたじゃんか。肩で風を切って歩いてるのはそっちだろ!」
「落ち着けよサシャ。きっと俺が邪魔しちゃってたんだ、体もでかいし。パクネー大将は小柄だしさ」
「小柄でも態度はめちゃくちゃでっかいよ。立派なもんだね」
「そんな言い方良くないぞ」
怒る親友を窘めようとはしたものの、グリンは彼が憤慨してくれたおかげで助かっていた。かちんときたのは確かで、グリンの場合はそれを発露してしまうことで不都合が生じる。
だからお礼も言わないと、と口を開きかけたが、それはまたもや背後からの声に遮られた。
「良い子ぶってんじゃねえよ、インフェリアの坊ちゃん」
いつから見ていたのだろう。振り向いた二人の前には、シャーロが仁王立ちしていた。
「言いがかりつけられたらやり返せばいいだろ。真っ当なこと言ってるチビ犬の方に文句をつけるなんて、ナンセンスだぜ」
「チビ犬じゃないから! オレにはサシャ・ハイルって立派な名前があるの!」
即座に返すサシャに、シャーロは「そうそう、これが正しいよな」とにやにやしながら頷く。そして再びグリンを睨めつけた。
「流しておけばその場を平和に切り抜けられるとでも思ってんのかよ。とんでもない、自分の立場が更に悪くなるだけだ。さっきだっててめえよりあのオバサン連中の方が幅とってたぜ。舐められたんだよてめえは」
行儀の悪い言い方ではある。舐められたというのも事実かどうかわからない。だが、グリンは感心したのだった。庇おうとしてくれたサシャの肩をそっと叩き、一歩前へ出る。
「シャーロ、俺のことを心配してくれてるんだな」
「はあ?」
シャーロの眉と口元が歪む。心底わけがわからないというように。サシャですら目をぱちくりと瞬いている。
「これ以上立場を悪化させないようにした方がいいってことだろ。確かに流し続けようとしてもろくなことにはならない。それは俺も経験があるから知ってるよ。忠告ありがとうな」
にんまりしたグリンを見て、シャーロは気味が悪そうに後退りした。鳥肌がたった腕をさすり、気持ち悪っ、と吐き捨てる。
「マジで良い子ちゃんなのか? 俺は毒気抜かれたりしねえぞ。てめえは自分が異常者だってことを自覚しろよ」
「おい、グリンになんてこと言うんだよ! 異常なんかじゃない、優しいんだ!」
噛みつかんばかりのサシャに、シャーロは僅かに安心したような表情を見せる。なるほど、この反応が彼にとっての「異常ではない者」らしい。更に感心していると、シャーロは足速に二人の脇を通り抜けて行った。
「グリン、あんなの気にするなよ。こう言っちゃなんだけど、別にあいつ、グリンのこと心配してるわけじゃないと思う」
「うん。……でもさ、どっちにしても良い奴な気がするんだよ」
どこが、とサシャが口をとがらせる。訓練中のシャーロの動きに目を輝かせたことなど、すっかり忘れているようだった。
午後八時。明かりが煌々と点る大総統執務室には、四名の人物がいた。
部屋の主たる大総統フィネーロ・リッツェ。その補佐であるルイゼン・リーゼッタ大将。医務室を管理する軍医サウラ・ナイト。そしてセンテッド・エスト大将。
渋い顔をする三名を前に、サウラが苦笑しながら第一声を紡いだ。
「いやあ、噂が大変なことになってるね。閣下が何も言わないので、憶測の拡大と飛躍が凄まじいです。どうなさるんです?」
噂とは勿論「次の大総統は選挙で決める」というもの。「センテッドに引き継ぎを打診したが断られた」というのも込みだ。
センテッドは否定ができない。一度打診されたのも、やりたくないと答えたのも、事実だからだ。
だが選挙のことはこれ以上ややこしいことになる前に、大総統自身が否定しておくべきだったのでは。サウラの進言に、しかしフィネーロは僅かに眉を寄せた。
「……まさか、選挙も本当に考えてらっしゃるんですか」
「僕はそれも視野に入れている」
静かな返答に、サウラは息を呑んだ。
「だが、ルイゼンには反対された」
次いだ言葉につられてルイゼンを見遣ると、彼は頭を抱えていた。
「選挙をすることで派閥が顕在化するのはまずいんじゃないかと、俺は思う。今まで通り指名制にした方が引き継ぎもし易い」
「派閥の顕在化に関してはもう手遅れです。特にクラシャン、ドナー、パクネーの三名が、それぞれの勢力を広げている」
サウラの挙げた三名については、フィネーロとルイゼンも把握している。元より影響力のある人物であり、彼らを慕う部下たちは多い。
だが実際の主勢力は三つではなく、もう一つ。センテッド・エストを次の大総統にという声も非常に多いのだった。
「引き継ぎの面で言うと、エスト大将以外の三名の中から選ぶのであれば、これまで取り組んできたことの多くは方向転換を余儀なくされるでしょう。閣下とは考え方もやり方も異なる」
フィネーロのやり方は、遡ること約六十年前、アレックス・ダリアウェイドが固めた地盤を踏襲している。その維持に努めたのが後カスケード・インフェリア。福祉と政の仕組みを現在に続く形に整えたのがハル・スティーナだ。
問題が起きて一代分が空いてしまったが、整えられた大枠の中身を精査しつつ埋め、時代に沿わせていくということをレヴィアンス・ゼウスァートが行なった。フィネーロの主な仕事はその継承と更なる進展である。
ところが次代に名乗りをあげる三名は、いずれもそれを引き継ぐ気はない。サウラの視点ではそう見受けられる。
「時流に合わせた変革も必要だろう」
センテッドがようやく口を開く。時流に合わせてるならね、とサウラは反論する。
「時流よりも自分に合わせようとしているのが問題なんだ。俺からしてみれば、彼らの視野は広いとはいえない」
「私も含めて皆似たようなものだ。周囲が声を上げて誘導すれば、極端なことにはならないだろう」
「でもね、それは難しいよ。彼らの派閥は巨大になってしまったからね」
周囲には自分を持ち上げてくれる味方しかいない。その外に目を向けずに、自分の半径数メートル以内のことだけで世界を定義してしまう。それで国が運営できるかといえば――。
「軍政だった頃ならともかく、現在は三派政なのだから修正はされるだろう」
「修正されるならいいけど、再び軍政に戻るか、軍の持つ権限が王宮と文派にそれぞれ割譲されてしまう可能性もある。俺はね、センテッド。今こそ軍にはエスト家の当主である君が必要だと思う」
言い募るサウラに、センテッドはあからさまに嫌な顔をした。大きな溜息を吐き、私は、と一人称を強調する。
「そもそも当主ではない。それは父のことを指す。貴様の偏見を押し付けるな、サウラ」
「押し付けるなんて」
「そうだろう! 私は大総統にはならない。絶対に!」
激昂するセンテッドに、だがサウラは引くつもりがないようだった。睨み合う二人の間に、見兼ねたルイゼンが割って入る。
「現役大総統の前で、そういう喧嘩はやめてくれ。代替わりのタイミングだって決めたわけじゃないのに」
そろそろ、と言われてはいるが、それは統計上の予測だ。例えばダリアウェイドの代を参考にするのなら、あと五年以上先の話になる。
誰も彼もが勇み足になってしまった原因は、突如として噂が流れ始めたことにある。誰が流したのかという犯人探しをするつもりはないが、不確定なことに振り回されて軍内がこれ以上混乱するのは勘弁願いたい。
そんなことに気を取られている場合では無いのだから。
「今日の本題は、噂についてではないはずだ」
フィネーロの言葉に、サウラとセンテッドは居住まいを正す。白熱してしまったが、集まった目的はそうではないのだった。
夕方、サシャが届けてくれた報告書を、サウラは丁寧にテーブルに広げた。センテッドもそれを覗き込み、付箋を立ててある箇所を注視する。
「ドナー大将が処理をするはずの案件だ。何故サウラがこれを?」
「報告書のコピーをくれるように頼んでたんだ。怪我の具合と復帰時期がなかなか噛み合わないからね」
というのが建前。サウラが報告書を確認したかった理由は、もう一つある。
この案件は危険薬物を所持していたとある団体を取り締まったものだ。最近になって危険薬物関連の事件が立て続けに起こり、サウラの仕事も増えている。彼は薬物の専門家でもあるのだった。
「押収された薬物の九十九パーセントはC型イリュージョニア。そして残り一パーセントが『新型』です。先月初めて現れてから、これで五件目」
まだ正式な名前のないその薬物は、分析結果から覚醒剤であることは判明している。材料やその配合がこれまでには見られなかったものであり、サウラが医療チームや科学部と共により詳細に調べている。
大量に出るわけではなく、各現場から一パーセント前後という割合で押収される。誰から購入したのかなどの証言は得られず、また全く繋がりのない団体から同時に見つかったこともあり、サウラとセンテッドはある可能性について疑いを持っていた。
複数の現場の共通点といえば、薬物を扱う裏組織でなければ、軍が捜査に入ったということくらい。――まさか現場に薬物を持ち込み、押収したふりをしている者がいるのでは。
しかし何のためにそんなことを、という明確な答えが見えない。従ってその疑惑は、ここにいる四人だけのものとなっている。
「一件目と三件目はクラシャン大将が、二件目はパクネー大将が、四件目と五件目はドナー大将がそれぞれ処理をしている。危険薬物関連事件は増えていて、このひと月で十三件という検挙数になっているけれど、『新型』が出たのはこの三人に近しい人間が現場に行ったときだ」
自分に偏見があるとすれば、この事実に基づいているのだとサウラは言う。センテッドは苦い顔のまま、ルイゼンに問うた。
「調べますか、この三名を」
「狙い撃ちするには弱いな。それなら大将階級の人間を全員調べよう。当然俺やセンテッドも対象だ」
でなければフェアじゃない。例の噂が蔓延している以上、三名だけを調べるのは状況の悪化に繋がるという可能性もある。
「実行犯は尉官か佐官では。そちらはどうするおつもりで」
「薬物の所持は点検で、使用は健康診断である程度調べられないか」
「では俺が健診の手続きと通達をしますね。点検はリーゼッタ大将が仕切ってください」
センテッドでは先の理由と同様に都合が悪い。何も知らない体で調査対象として振る舞うのが適切だろう。
軍内で問題が起きた場合、その追及と同時に冤罪を防止するマニュアルが実行される。ただ疑うだけが仕事ではない。こちらは大総統の責任になる。
「フィン、お前は堂々としていろよ。自分の部下の潔白を信じていることが、今のお前の仕事だ」
力強く、ルイゼンは言い切ってくれる。そうして自分は疑う役目を負い、センテッドとサウラに協力を仰ぎつつ主力として動くのだ。
フィネーロはこの十三年間、その姿を見てきた。補佐として支えてくれる彼は、かつて自分の目標だったのだ。いや、今でもそれは変わらない。
彼は守っている。部下も、この国の人々も、――家族も。
センテッドが大総統の椅子を拒む訳も理解している。彼は大切な人との関わりを犠牲にしたくないのだ。
それはフィネーロを見ていれば当然考えてしまうことだろう。家族と過ごす時間は、掻き集めて一年の三分の一に達するかどうか。妻は共に軍で仕事をしてきた仲間でもあるので、仕方の無いことだと言ってくれる。だが、息子は。
――あんた、顔も知らない他所の奴らと自分の家族、どっちが大事なんだよ。
――俺はあんたを父親だとは思わねえ。絶対にあんたみたいにはならない。
蔑ろにしてしまった時間の分だけ、彼は形もろくに成していない父親を恨んだ。妻は子を窘めようとしてくれたが、主張が尤もであったので止めさせた。
シャーロが軍に入隊したのは、中央ではなく西方にいたのは、親から離れた場所で力をつけたかったからだ。――父親を務めてくれなかった男を、元凶たるその椅子から引きずり下ろすための。
ルイゼンにも誰にも言えやしない。大総統の地位も、軍そのものも、本当はこの手に余ると感じるようになってきたのだと。責任があり、役目があるからここにいるが、自らの存在意義には長らく疑問を持っている。自分ではない誰かの方が、余程上手くできるはずだ。年月を経るにつれ、その思いは強くなった。
センテッドの拒否は賢く正しい。であれば、現状は壊してしまって一からやり直すのがいいのかもしれない。それなら他の三名の候補者から皆で選んでくれる方法は、きっと真っ当だ。
中央へ異動してきてから一度も目を合わせない息子を思う。彼の望むようになればそれで構わないのだ。憎むほどに父親に裏切られてきた彼が、幸せになれるのなら、それで。