夏の昼間の野外には、太陽が活発に光と熱を注いでいる。三段重ねのアイスクリームを買って食べてもなお体は冷えず、グリンとサシャは最終手段に出た。
空気を循環させる扇風機が回り、氷を浮かべた甘い飲み物が用意される。い草でできたカーペットの敷かれた床に寝そべって、二人は半分とろけながら漫画を読んでいた。
「やっぱり兄ちゃんちは快適だな」
「トビ兄ちゃんの部屋は良い家具と家電が揃ってるよな」
だらだらと休日を過ごす二人を、部屋の主でありサシャの兄のトビは呆れ気味に、しかしながら愛しげに眺めている。
「忙しかったの? 訓練も大変だったとか?」
「まあまあかな。暑くなければもっといい」
「たしかに最近のレジーナは暑いね。クラウンチェットはもう少し涼しいみたいだけど」
ハイル兄弟は首都レジーナの北東に位置する小さな町クラウンチェットの出身だ。トビが進学のために先にやってきて、その三年後にサシャが軍に入隊するために追ってきた。
サシャは寮暮らしだが、兄の部屋には頻繁に遊びに来ている。おかげでサシャの私物のいくつかはこちらに置いたままになっているのだが、いつもきれいに収納されているのだ。それくらいのことは負担にならないくらいには、トビはサシャを可愛がっていた。
「そうだ、訓練といえばさ。中央に大総統閣下の息子が来たんだよ。シャーロっていって、動きがすごいんだ。性格はめちゃめちゃ悪いけど」
サシャが上体を起こして報告したので、グリンも倣って頷いた。だが少し考えて、自分の思うように訂正する。
「性格、そんなに悪くないと思うぞ。言葉遣いと礼儀はちょっとどうかなってだけで」
「えー……グリンさあ、あいつの肩持ちすぎじゃない? 脅迫されたのに」
それだけどうかなってところがあれば悪いじゃん、とサシャは膨れる。聞いていたトビは興味深そうに身を乗り出した。
「閣下の息子さんってことは、隊長の甥か」
「あ、そうだよね。兄ちゃん、隊長から何か聞いてない?」
学生であるトビだが、並行してほぼ正職員と変わらないような内容のアルバイトをしている。その文派特殊部隊と呼ばれるところの隊長は、大総統フィネーロ・リッツェの妻の姉、つまりは閣下の義姉なのだった。
彼らはかつて軍の同期であり、軍人学校時代からの長い付き合いでもある。シャーロについても情報を持っているかもしれない。サシャはそう期待したのだが、トビは苦笑した。
「隊長、あまり家族の話はしないから。妹さんや弟さんがたくさんいるから、甥や姪も多いみたいだけど、そういえば誰の話も聞いたことがない」
グリンは密かに納得し頷く。隊長は母と仲が良いので、グリンもたまに会うのだが、口数の多い人ではない。母はそこがかっこよくて大好きなのだと言う。
グリンの母イリスと、大総統フィネーロ、補佐大将ルイゼン、文派特殊部隊長メイベル、大総統の妻で弁護士のカリン。昔はこの五人で班を組み、活躍していたそうだ。その頃の話を聞くたび、グリンは自分も仲間たちと共に人を守れるように、助けられるようになりたいと願う。
「まあ、そうだよね。グリンですらお母さんから何も聞いてなかったんだから。シャーロのやつ、本当に態度が悪いんだよ。オレのこともチビ犬だなんて言うんだ」
サシャはグリンが脅迫されたことよりも、自分がチビ犬呼ばわりされたことの方を根に持っているようだ。怒る弟の手前笑うのは堪えたようだが、トビの口元が一瞬むずむずしたのをグリンは見逃さなかった。
「グリンはなんて言われたの」
「俺? 俺はね、シャーロが上官から逃げてたところに居合わせて、チクったらぶっ殺すって言われた。あと、いい子ぶってるって」
「なるほど、確かに口が悪い」
グリンの証言の方がすんなりと納得できたようだ。トビは何度か頷き、それからグリンとサシャの頭を優しく撫でた。
「いい子ぶってるんじゃなくて、いい子なんだよな。ぶったところで誰にも何も不利益はないだろうし」
ふわふわの癖毛を寝かせるように撫でられるサシャの表情は、飼い主のことが大好きな犬にそっくりだ。グリンも同じ顔をしているのだが、自分ではわからない。
言われたことは気にしないでいいよ、と言いつつも、トビの方はシャーロが気になるようで、明日にでも隊長に訊いてみるという。上手い付き合い方がわかったら教えてくれるそうだ。
上手い付き合い方というのは、上手い離れ方を含むらしく、無理して相手をすることはないという。けれどもグリンとしてはシャーロと色々話してみたいので、トビの提案はとても魅力的だった。
漫画の続きを読もうとしたところで、呼び鈴の音がした。トビが出迎えると、音は高いが落ち着いた少女の声がした。
「こんにちは、トビ君。先日借りた本を返しに来たの。今日ならいるかと思って」
最後まで聞き終わらないうちに、サシャが姿勢を正す。さっきまでバターのようにぐにゃっととろっとしていたのに、そんなことはなかったとでもいうように背すじをぴんと伸ばして座った。
グリンは床に寝そべり直したままである。彼女を迎えるのなら、それが一番自然だ。
「あら、グリンとサシャも来ていたの。今日は非番?」
トビに招かれて入ってきたのは、少年たちの幼馴染であるモルドリン。絹糸のような美しい髪をおさげにした彼女は、トートバッグを胸の前で抱えて微笑んだ。
「こんにちは、モルド! そう、非番でさ、グリンと一緒に出かけてたんだ。暑かったから兄ちゃんちに避難してきた!」
目を輝かせ、頬を紅潮させ、サシャは一気に捲したてる。
「モルド、具合は? 外暑いし、疲れてないか」
グリンがいつもの調子で問うと、モルドは緩やかに首を横に振る。
「とても調子が良いから平気。昨日までぐっすり寝てたのもあるけれど」
疲れやすく過眠症も持つモルドだが、今日は特に元気なようだ。抑揚の小さい話し方と動きの少ない表情筋は、彼女の常である。
近況報告をしあううちに、モルドにもシャーロのことを話した。すると意外にも、彼女はその存在を知っていた。
「閣下の息子さんなら、父の紹介で一度会ったことがある。もう随分昔のことだけれど」
十年近く前だったかしら、と記憶を手繰る。モルドの父は大総統補佐のルイゼンなのだ。そういうことがあってもおかしくはない。ただ、モルドとは生まれたときからの付き合いであるグリンにも知らないことがあるという、そのことが珍しい。
「幼い頃は、閣下によく似ていた覚えがある。サシャが言うようなやんちゃな人ではなくて、大人しい子だった。わたしも人と話すのは得意ではないし、挨拶以外に言葉を交わしたことはないはず」
今でも顔立ちは父親似だと思うのだが、口調や態度は似ても似つかない。大人しかったという過去もにわかには信じがたく、サシャは怪訝そうに腕組みをした。
「モルドの記憶を疑うわけじゃないけど、別人みたいだね」
「西方司令部で何かあったのかな。乱暴な人の影響を受けたとか」
「だとしたら、お父さんに反発してるのかもしれない。父の話だと、閣下と息子さんはあまり仲が良くないそうだから」
それは最近聞いた話だった。家で仕事の話をすることは滅多にない父が、ぽつりとこぼした。それだけ大総統親子のことを心配しているのだろう。
「せっかく中央に来たのに、まだ一度も言葉を交わしていないんですって。異動の挨拶すらも直前で逃げ出したそうだけど、もしかしてグリンが居合わせたのってそのときかしら」
「なるほど、その可能性はある。親子で拗れると大変なんだよな」
従兄が親と長らくすれ違っていたのを見てきたグリンとしてはわかっているつもりだ。きっかけは些細なことでも、月日が経つにつれて互いに意地になってしまうことはある。
「閣下とシャーロ君にとって、良い方向にいけばいいね。そうしたらサシャたちへの態度も変わるかもしれないし」
トビがモルドの分の冷たい飲み物と追加のおやつを用意してくれ、子供たちは頷きながらも意識はそちらにとられていった。
非番の一日が終われば、また仕事と訓練の日々が始まる。その日はヨハンナから召集がかかった。
「見廻りの仕事があるのよ。あたしが指示をするから、あんたたち三人で遂行しなさい」
街を巡回して、問題があれば報告をする。軍人とはいえ年齢は子供であるグリンとサシャに、トラブルの深追いは求められない。治安を守りつつ現場についての報連相を確実にしていく任務である。
「はい、質問」
「サシャ、どうぞ」
「なんでシャーロも一緒なのさ。オレとグリンで十分」
任されたのは「三人」。軍曹であるグリンとサシャ、そして曹長のシャーロだ。シャーロは今日もアクセサリーを耳に首に重そうなくらい飾り、機嫌が悪そうに壁に寄りかかっている。
こんな態度だが、階級はヨハンナを除けば一番上だ。つまりこの仕事では彼が現場のリーダーとなる。
「俺だってやりたくねえよ、チビ犬のお守りなんて」
「チビ犬じゃないってば! ヨハンナ、オレこいつと仕事するのやだ!」
「私情にとらわれず、どんな相手とも組めるようになりなさい。シャーロ、あんたも。仕事内容はお守りじゃなく巡回よ」
舌打ちをするシャーロだが、部屋から逃げ出す様子はない。呼ばれて素直に来ているというのも意外だ。感心しているグリンの肩をヨハンナが軽く叩く。
「グリン、こんな調子だから頼むよ。喧嘩し始めたら全力で引っぱたいていいから」
「しないよ、そんなこと。でもハナちゃんを困らせないように頑張る」
「よろしく。でもハナちゃんって呼ぶな」
かくして少年三人は街へと送り出されたのであった。
レジーナ中心部の商店街は人通りが多く、毎日あちこちで小さなトラブルが頻発する。ちょっとしたことだと思って見逃したり蔑ろにしたことが、後で大きな事件に発展することもあるので、軍の巡回は欠かせない仕事だ。
「おじちゃん、こんにちは! なんか困ったこととかない?」
祖父母宅が商店街にあるサシャは、店主らや近隣の住人たちに顔見知りが多い。人懐っこく笑顔で挨拶をすれば、勃発しかけていた言い合いなども打ち消すことができる。
現に一触即発状態だった男性二人が、サシャを見て苦笑いし、冷静さを取り戻した。その一連の流れに、シャーロも目を丸くする。
「やっぱオッサンも犬には弱いんだな」
「犬って言われるの、サシャは嫌がってるからやめてやってくれないか。でもすごいだろ、自分が入っていっていいところを、サシャは的確に判断できるんだ」
親友として胸を張るグリンに、なんでてめえが得意げなんだよ、とシャーロが呆れた。
「シャーロだって、どうしてこの仕事は大人しく受けたんだ? 話が来た時点で逃げそうなのに」
「クソな言いがかりにはオドオドするだけのくせに、そういうことはストレートに言うんだな」
質問に言い返されて気づく。グリンは最初から、シャーロに対しては遠慮なく物が言えた。出会いが衝撃的だったというのもあるが、彼には自然体でいられる。
「俺を見張ってた上官が、グラン大尉に俺の世話を押し付けたんだよ。なんかカワイソーになったから、大尉の言うことは聞いてやることにした」
「へえ、そんなことになってたんだ。ハナちゃんはかっこいいし頼りになるぞ」
「あの上官よかマシだな。美人だし」
投げやりな口調だが、シャーロにも同情心というものがあるのだとわかり、グリンは嬉しくなる。ただ悪ぶっているだけではないのだ、きっと。
「二人だけでお喋りしてないでさ、ちゃんと見廻りしろよ。商店街は広いんだから」
サシャが振り返って言うので、グリンは謝りながら追いつく。シャーロはゆっくりとついてきた。
たしかに商店街は広い。巡回にあたっている軍人もグリンたち三人だけではなく、ふと目をやったところに軍服が見える。
それぞれにトラブルの対処をしているようで、グリンたちの出る幕はあまりない。サシャが声をかけるだけで、争いの種はたちまち消えてしまう。
路地の奥、薄暗い通りは年齢や階級の高い者に任せるようにと言われている。そちらには柄の悪い連中が屯していることが多いのだが、グリンたちでは対処が難しいだろうと判断された。
「インフェリアと同じくらいのガキなら何とかなりそうじゃねえ? こいつは体もでかいし、見た目で十分ビビらせられるだろ」
「ガキっていうけど、シャーロも同じくらいのガキじゃん。そっか、シャーロはグリン相手にビビるんだ」
サシャが揶揄い、シャーロが睨んで舌打ちする。その間に割って入り、グリンは困ったような笑顔を浮かべた。
「相手が子供でも、裏と繋がってたりするかもしれないから……できるだけ接触は避けろって、ハナちゃんやセンちゃんに言われてる」
裏――軍の取り締まり対象である、反社会組織。彼らは卑劣にも、年端のいかない子供たちを利用することがある。ちょっとした不満を抱えた少年少女や、日々を生きるために必死な低所得層の子供たちなどを、誘惑して手駒にし、使い捨てるのだ。
貧富の差は社会全体の底上げを図る数々の政策により、少しずつ改善されてきているという。教育も制度面ではかなり受けやすくなった。だが、子供たちが抱える不満や悩みが消えるわけではない。悪い大人はそこに際限なくつけこみ、彼らの人生を傷つけ、破壊する。
裏との戦いは一向に終わりが見えないのだった。
「裏が何だってんだ。どうせ軍が捕まえるんだろ。俺たちは軍人だぜ」
「経験が浅い俺たちじゃ対応は難しいよ」
「積まなきゃいつまで経っても浅いままだ。インフェリア、てめえは何のために軍人になったんだよ。まさか軍家の人間だからってだけか」
シャーロからの鋭い視線が刺さる。グリンは首を横に振り、海色の瞳で真っ直ぐに彼を見つめ返した。
「人を守りたい、助けたい。だから俺は軍人になると決めた」
「ならどうしてそう消極的なんだよ。手柄取らねえと出世できねえのに」
「あのさ、シャーロ。グリンは消極的なんじゃないよ。出世より大事なことがあるの」
「チビ犬は黙ってろ」
庇おうとしたサシャをぴしゃりと撥ね退けて、シャーロはグリンを睨み直す。逸らさない視線と、再びかち合う。
「下っ端だから何もできねえ、やらせてもらえねえんだ。てめえが人を守るとか助けるとか吐かしても、上層部のやつらは認めねえ。認められるためには手柄を取って階級を上げて、実力を示す必要がある。腰が引けてちゃいつまでもてめえの目的は果たされねえよ」
階級が低いままでは、伸ばそうとした手も届かない。できることには限りがあって、現場に出ることすらままならない。出世が二の次なんてことは絶対に無いという、シャーロの言葉は尤もだ。
大切な人が傷つけられようとしているそのとき、何もできなかった。グリンには既に経験がある。ただの子供だったから、信じて待っているしかなかった。あのもどかしくて悔しい思いをしたくなくて、本気で軍に入ろうと考えたのだ。
けれど、今のグリンは当時と何が違うだろう。自分の手で守る、助けるということは、未だにできないでいる。それにはもっと力と、その行使が認められるだけの立場が必要だ。
わかっている。わかってはいるのだが。
「シャーロ、お前、グリンのこと何も知らないのに勝手なこと言うなよ!」
「やめろ、サシャ」
シャーロに飛びかかりそうなサシャを、グリンが止める。その姿を見て、シャーロはグリンに再び「腰抜け」と吐き捨てた。
気まずい雰囲気のまま、仕事を続けた。あまり言い合いが続いて目立てば、見廻りは強制的に切り上げられる。任務は失敗に終わり、ますます目標は遠のくだろう。
しかし注意力は三人ともすっかり失われてしまっていて、気がつけば商店街の外れまで歩いてきていた。
「戻ろうか。何か見逃してるといけないし」
「何もねえよ。それよか、そっちの路地が気になる」
シャーロが顎で示したのは、古い空き店舗脇の細い通りだ。昼間だというのに薄暗いそこから、人の気配がする。
「俺は見てくる。腰抜けは戻るなり帰るなり好きにしろ」
こちらの返事など待っていないふうで、シャーロは路地に入っていってしまう。サシャがその後を慌てて追いかけた。
「待てよ、三人一組なんだから勝手なことするな!」
一緒に叱られるのは嫌だよ、と言うサシャにつられて、グリンも駆け出す。周りにいたであろう軍人に声を掛けるなどという余裕は、今の彼らにはない。ただ、どうせ叱られるなら俺も、という気持ちがグリンにはあった。
路地はさほど長くはなく、すぐに行き止まりになった。確かな人の気配は、どうやら空き店舗の中のようだ。空いてはいるが持ち主が存在するはずで、本来ならば許可なく立ち入ってはならない。
「……煙草の臭いがする」
ぽつりとこぼし、シャーロは建物の裏口に回る。ドアノブを掴むと、躊躇なく回して戸を開けた。鍵が壊されているらしい。屋内にずかずかと、あるいはおそるおそる入り込み、話し声のする方へ進む。
床にはごみが散乱し、その殆どは飲み物の空き容器と煙草の吸殻。それらを撒き散らした張本人たちは、こちらに気づくと品のない視線を向けた。
「……なんだ、ガキの軍人か」
一瞬だけぎょっとしたのは、グリンの身長が高かったからだ。しかし顔つきは年相応なので、すぐに実年齢の見当がついたらしい。
「もしかして、ここから出てけとか言うの?」
「当たり前じゃん! ここはお前らの家じゃないんだから!」
真っ先に言い返したのはサシャだった。が、三人の中では最も幼く見えてしまう彼を、集まっていた連中は馬鹿にしてげたげた笑う。
「じゃあ誰んち? 誰もいないんだから有効活用してやってるんだよ」
「建物は使う人間がいないと傷むだけって聞いたから、俺たちはこうして使ってやってんの」
「こんなに散らかしちゃ、余計に傷めてるだけのような……」
床や壁の惨憺たる有様を見て、グリンが呟く。その声はここにいる全員の耳に入り、屯する者たちを更に凄ませた。
「文句あんの? お前さあ、言いたいことはもっとはっきり言えよ。図体の割になっさけねえの!」
「同意だな。そんなんじゃ舐められるばっかりだぜ、インフェリア」
シャーロはあっさりと相手側につくようなことを言う。文句を言いかけたサシャに、微かな動揺が重なった。
「インフェリア? あの軍家の?」
「たしかに青い髪だな。インフェリアにしては弱っちいけど」
軍家の名前は不良少年たちにも多少は有効らしい。――そう、冷静に見れば彼らはグリンたちより一つか二つ程度年上の、要するにまだ全くの子供だった。
ざわついた少年たちに隙ができ、それを狙ってシャーロが素早く手を伸ばした。手近の一人の胸倉を掴むと、自分に引き寄せる。
「でかいだけの坊ちゃんはいくら舐めてくれても構わねえぜ。でも俺を無視しやがるのは気に入らねえな」
「お前、何しやがる!」
咄嗟に立ち上がった少年たちがシャーロに襲いかかる。だが飛んでくる拳や脚を彼はこともなげに躱し、掴んでいた者を放り投げた。
「軍人が一般人に暴力振るうのかよ!」
「こういうときばっかり一般人を主張するんだな。でも違うだろ」
叫ぶ少年に、シャーロは呆れたような溜息で返す。それから切れ長の目をすっと鋭く細め、煙草の吸殻を指さした。
「それ、ただの煙草じゃねえな」
少年たちの顔色がさっと変わった。はっとしたサシャが床の吸殻を拾い、巻紙からはみ出た葉を摘む。
「……混ぜ物がしてある。サウラさんに見てもらわないと」
「一般人じゃねえことが証明されたな。来てもらうぜ」
「デタラメだ! ガキに何がわかる?!」
「わかるよ、軍人だもん」
背は低く、顔立ちも声も幼いサシャだが、凄んだ眼光は父によく似ている。たじろいだ少年たちに迫りながら、シャーロはグリンに振り返った。
「インフェリア、こいつらを捕まえることくらいはてめえでもできるだろ。その図体をちっとは活かせ」
「う、うん」
我に返ったグリンが足を踏み出そうとした、が、部屋の奥で何かが動いたことに止められる。その影はゆらりと大きく伸び、こちらへ近づいた。
「シャーロ、サシャ、前見ろ!」
咄嗟に叫んだ。そのつもりだった。だが二人が反応する前に、影はシャーロの頭へ手を伸ばして髪を乱暴に掴んだ。
苦痛に歪んだ表情で呻くシャーロを、影は――黒いシャツを着崩した男は、口角をゆっくり持ち上げながら眺めている。
「てめえ、離しやがれ……!」
「えー、嫌だよ」
軽い口調で答えた男は、シャーロを掴んだままサシャに狙いを定めた。構える隙を与えぬまま、自身に比べればはるかに小さな身体に、爪先を叩き込む。サシャは壁にぶつかってから、床に崩れ落ちた。
「なんだ、軍人のくせに弱いね」
けたけたと男は笑い、グリンを見て「次はお前」と呟いた。グリンがその場から動けないでいるところに彼は向かおうとして、だがシャーロが荷物になっているのに気づいたようで、その腹に膝を入れてから床に投げ捨てるように解放した。
「怖い? 軍服着てても子供だもんね。お前だって、見た目はよく育ってるけど経験は浅いんでしょ。残念だね、こんなところで終わっちゃう。夢とか希望とか、たくさんあっただろうに」
だってインフェリアの子でしょ、と彼は言う。軍家の子なら、不自由とか理不尽とか味わったことないでしょ。まして英雄の末裔だもんね。――グリンの目の前まで歩いてくるまで、早口で色々なことを捲し立てた。
ただ、今のグリンには、ほとんど聞こえていなかったが。
「盛大に弔って貰えるといいね」
男が手を伸ばす。グリンに手を触れる、その寸前。
彼の体は、宙に浮かんだ。
当人も何が起こったのかわからない。ただ、天井に自分の体が近づき、強かに打ち付けられた痛みがゆっくりと襲ってくる。全ての感覚がスローモーションで現実を捉える感覚を、男は生まれて初めて味わっていた。
再び床に到達したとき、足ではなく体側から着地した。衝撃を知覚するや否や、髪の毛を掴んで持ち上げられた。
混乱の中、鮮やかな火焔が眼前に広がっていた。いや、それは炎に似た色の、燃える瞳だ。
「なんだ、大人のくせに弱いね」
声は子供だ。低くなりきっていない少年の声なのに、響きは揺らめく妖しさがある。……いや、本当に頭の中が揺らされているようで、次第に目が回る。平衡感覚が狂い、胃液が無理やり上がろうとしている。四肢から力が抜け、腹が立つのに抵抗できない。
「怖い? いくら年取ってても、経験は浅いんだな」
インフェリアの人間の目は海の色をしていると聞いた。この子供もさっきまで、怯えた青灰色の瞳でこちらを見ていたはずだ。
誰かこの子供を引き剥がせ。そう思うのに、誰も動かない。あちこちから苦しそうな呻き声や荒い息、嘔吐くような声が漏れている。
「お前、一体、何者だ」
やっとのことで喉から絞り出したのは、軋んで掠れた情けない音。それに対する返答は無く、子供は無言で髪を掴む手を持ち上げた。
「グリン、ダメだ! もう相手は抵抗できないよ!」
先程蹴って退かした、生意気な子供の声がした。たしかに聞いたと思うのだが、そこで男の記憶は途切れている。
騒ぎに気がついた近隣の人々が、商店街の巡回をしていた他の軍人を呼んでくれた。駆けつけた大人たちが瞬く間に場を収め、少年たちと彼らより少しだけ年上らしい男が連行されていくなかで、グリンが部屋の隅に俯いて立っている。
シャーロはようやく治まってきた目眩を堪えつつ、幽霊のような彼を見ていた。先程までとはすっかり印象が違っていて、幻でも見ていたのかと思う。が、頭や腹に残る痛みが、間違いなくあれは現実だったと告げる。
煙草の吸殻の回収を手伝っていたサシャが、その役目を終えて待機を命じられた。まもなくヨハンナが迎えに来て、それからたっぷり叱られる予定だ。
「お前、よく平気だな。具合悪くならねえのかよ」
「うん、耐性があるんだ」
返答からして、シャーロや少年ら、リーダー格と見られる男の症状はなるべくしてなったもののようだ。後から来た軍人たちもグリンに対して同情しているのが見て取れる。――彼には、何かがある。しかもそれは周知の事実なのだ。
「インフェリアは多重人格か何かなのか。あんな化物みたいな力」
「そういう言い方しないで」
耳打ちした言葉を、サシャは最後まで聞くことなく叩き斬る。しかしシャーロに向けられた目は睨むようなものではなく、他の軍人と同じ同情的な色を滲ませていた。
「そんなふうに言われたら、グリンは傷つく。ああならないようにするために、普段から気をつけてたんだ」
オレは気にしないけど、本人と大抵の他人はそうじゃないからさ。声を潜めて、サシャは続けた。
「グリン曰く、感情がわーって昂って抑えられなくなると、ああなってしまうことがある。頭に血が上って、目の色が暗い赤色に見えるようになったり、自分の倍くらいの重さの人や物を軽々と持ち上げたり……それから、周りにいる人に目眩が起きたり」
「やっぱりこれもあいつの仕業か」
「仕業とか言わないでよ、わざとやってるわけじゃないんだ。敵味方関係なく被害が出るからって、普段は激しく怒らないようにしてるんだよ。本当は思うところがいっぱいあっても、我慢してる」
拳を握りしめるサシャを眺めながら、シャーロはこれまで抱いていた違和感にようやく合点がいった。グリンは臆病にその場をやり過ごそうとしているわけではなかったらしい。怒るべきところでただ困った顔をしていたのは、諦めではなく、そうすることで自らの力を制御しようとしていた。
シャーロへの態度から推測するに、本来のグリンは思ったことを屈託なく相手に伝えられるくらいの図太さはあるのだ。けれども理不尽な上司や乱暴な振る舞いをする者に、素直なままでいたらどうなるか。トラブルを避けられず、遅かれ早かれ爆発するだろう。
それだけではない。集団の中に、殊に軍という環境下において、彼の力を利用したがるものは少なくないはずだ。それが不可能だとわかれば、難癖をつけて縛るに違いない。特別な能力をひけらかすことにメリットはない。
「向いてねえよ、軍人なんか。いいように使われるだけだ」
「今はそうかも。でもさ、グリンは自分の力をどうにかして人を助けるために、守るために使おうとしてる。誰かがそれを悪いように利用しようとするなら、オレが阻止する。それが仲間の役目だ」
顔を上げ、曇りの無い瞳で前を見つめるサシャ。「チビ犬」のくせに大人びた顔をする、とシャーロはついまじまじと眺めてしまう。
そういえば彼もまた、大総統の息子だった。その血を受け継いだ、英雄の末裔。
自分とは違う種類の人間だ。たとえ境遇が、上辺では似ていたとしても。
「てめえもインフェリアも『良い子』なんだな」
「それの何が悪いのさ。そうやって振舞っても誰にも悪いことはないって、兄ちゃんが言ってたぞ」
「悪かねえよ。別にそれで窮屈なことはねえんだろ」
俺とは違って、と吐き出すと、サシャが怪訝そうに首を傾げた。シャーロは目を閉じ、かすかに残る胸焼けに耐える。瞼の裏には伯父連中と、父の姿が見えた。
現場に到着したヨハンナは、近隣の住民やその中にいた建物の持ち主、そして他の軍人らに一通り謝罪を述べた。だが部下三人にはその場ではなく、司令部の休憩室に戻ってから呆れたような表情を向けた。
「自分たちだけでどうにかしようとしない。まずは周りの先輩たちや司令部に連絡する。あたしとの約束は守ってほしかったな」
「ごめん、ヨハンナ。オレたち焦っちゃって」
しょんぼりと素直に謝るサシャだったが、シャーロの舌打ちが続いた。穏便に済ませるつもりは、彼にはないようだ。
「明らかに怪しいものを見過ごせねえだろ。俺たちは軍人だぜ」
「黙んなさい、小童が」
口ごたえを、しかしヨハンナは語調を強めて制した。美人の怒り顔というのは恐ろしく、東方の伝統的な鬼女の面を思わせる。小童たちは身を竦ませた。
「自分の身も守れないで、何が『俺たちは軍人』よ。あたしたちはパフォーマンス集団じゃないの。自分たちの肩にエルニーニャ王国民の命が乗っかってること、そこにはあんたたち自身も含まれていることを忘れないで」
「……ごめん、ハナちゃん」
ここに来る前から俯いたままのグリンが、蚊の鳴くような声で何度目かの謝罪をする。全ての責任を負っているかのような態度に、シャーロもそろそろ辟易していた。
だが再びの舌打ちに先んじて、ヨハンナがグリンを呼んだ。
「あたしはあんたたちにチームを組ませたの。その意味をよく考えなさい。一人に責任を押し付けるためでは絶対にないわよ」
何故チームなのか。軍では班を作り活動することが多い。フリーの人員もいるが、任務の際には必ずいずれかの部隊に所属する。
「じゃあその逆……責任を分散させるため?」
「違う。もっと前の段階がある。分散させるのは責任より、まず役割よ。一人の手には余ることを、みんなで協力することでカバーする。集まれば大きなひとつのことを成し遂げられるように」
そういう点で、あんたたちの行動はどうだった? ヨハンナに改めて問われ、三人はそれぞれ俯いたり、顔を逸らしたりする。無論、正しいはずがなかった。
「集団行動に慣れなさいね。あんたたちの個人の能力が高いのは知ってる。力と向き合ってることも。だからこそ、勿体ないことはしないでちょうだい」
「大尉、能力が高い方が遠慮しろってのか。わざわざ周りに合わせてやれと?」
不満そうに言うシャーロに、ヨハンナは首を横に振る。
「能力を発揮すべきところを見極めなさいってこと。合わせようったって難しいでしょう、あんたたちは。で、それができるようにするため、そしてあんたたちの高い能力をストレスフリーに近い状態で伸ばすためにあたしがいるの」
咳払いを一つして、ヨハンナは自分の胸に手を当てる。強気な視線で三人を見渡し、告げた。
「あたしたちは本日から、グラン班として行動を共にします。今回の見回り任務はもちろんたくさんの問題点もあったけれど、あたしたちが班を組むことが妥当であるということは上に認めさせた」
「どういうこと? この三人で見回りに行って、失敗したんだよ。なのに何が妥当なのさ」
眉根を寄せて身を乗り出すサシャの背後で、扉の開く音がした。なんの前触れもなく入室してきたのは、軍医のサウラとプルムだ。やあやあ、と軽い挨拶をして、二人はヨハンナの隣に並ぶ。
「結果出たよ。煙草に含まれていたのは間違いなく『新型』の乾燥原料だ」
先程の現場で押収した煙草の吸殻、そして少年らが所持していた未使用の煙草が、早くも鑑定されたのだ。サシャの見立ては正しかったらしい。
「サシャには標本を色々見せてたから、覚えててくれたんだね」
薬物が専門の軍医であるサウラに褒められ、サシャは嬉しそうにはにかむ。だが喜んでもいられない。
「最近色んな現場から出てる薬物があって、今回出たのはその原料の一つ。入手経路とかはこれから詳しく調べなきゃならないけど、俺たちはある疑いを持っている」
厚い前髪の向こうで、サウラの目が鋭く光ったようだった。
「当該の薬物を違法に扱っているのが、中央司令部の軍人なのではないかという疑惑だ」
まさか――到底信じられないその見立てに、グリンとサシャは息を呑む。シャーロだけが鼻で笑った。
「なくはねえよな、そういうことも。これまでだって軍のやつが悪事を働くことは、数え切れねえほどあったんだから。トップに統率能力がねえんだよ」
「へえ、お前はそういう考えか。軍で問題が起きると、閣下が黒幕だって短絡的な考え方をする人も多いのに」
あくまで統率能力ね。プルムが細い目を弓なりにして、意味ありげに微笑む。その意図を即座に正しく受け取ったシャーロは、怒りの形相で立ち上がった。
「おちょくってんのか、てめえ」
「ないよ、おちょくり」
「シャーロ、やめなさい。プルム君、あんまりこの子たちを刺激しないでね。素直なんだから」
ヨハンナに制され、シャーロは乱暴に着席し直した。プルムは笑いを堪えているらしく、微かに肩を震わせている。
「話を戻すよ。黒幕まではまだ予想できないけど、実行犯が動いてると思われるタイミングから、将官の誰かが関係者なのではないかと俺たちは考えてるんだ。現在中央司令部に在籍している人間なら、名前に聞き覚えがあるはず」
声のトーンを落としたのは、部屋の外に聞こえないようにするためだ。引き寄せたホワイトボードに、サウラが大将階級の者四名を書き連ねる。
トレーズ・クラシャン、フンダート・ドナー、サランディータ・パクネー、そして。
「……センちゃんも、怪しまれてるのか?」
センテッド・エストの名が、最後に丁寧に記された。
「大総統選挙の候補者だっけ。こいつら怪しまれてんの? 結構期待してんだけどな、現大総統を潰してくれること」
「センちゃんが悪いことするはずない! 何かの間違いだろ?!」
投げやりなシャーロのぼやきを遮り、グリンが縋るように叫ぶ。落ち着きなさい、とヨハンナが返した。
「関係者であって直接の容疑者じゃない。ただ、この四人が報告書を受け取った案件で問題の危険薬物が出ているということ」
薬物は現場で少量ずつ見つかっており、しかしながら現場同士の繋がりは見えない。誰が持ち込んだか、授受をしたかということも不明。そのような事件が続いていた。
全ての現場の共通点といえば、軍が捜査に入ったという、それだけなのだった。
「見つかった危険薬物は新薬だと思われる。仮称は『新型』。解析を進めて成分が判明し、君たちが関わった不良少年たちが所持していた原料が使われていたこともわかった」
しかしまだ敵の姿は見えない。本当に軍内部の人間が裏で糸を引いているのであれば、早急に解決しなければならない。
「ここから先の捜査は、グラン班の力を借りたい」
できたばかりの班の名を、サウラは口にする。グリンは瞠目し、シャーロは眉根を寄せる。そしてサシャは首を傾げた。
「それって特例だよね。危険薬物関連の事件に関われるのは、基本的に尉官からでしょ」
「基本はね。でもリーダーのヨハンナが大尉だし、尉官未満が関わった前例はたくさんある。サシャのお父さんやグリンの伯父さんもそうだった。周囲に怪しまれないように探りを入れることができるのは、君たちのような新人の利点だ」
サウラの口元が笑う。入隊からグリンは三年、サシャは一年が経過しているが、彼からすれば新人の範囲内らしい。
危険薬物関連事件は、軍が威信をかけて取り組む大きな仕事のひとつ。早いうちから関われるということは、ヨハンナのように自分の班をまとめられる頃にはエキスパートになれるかもしれない。
疑うべきは身内であり、大切な人までもが捜査対象になっているのに、不謹慎かもしれない。だがグリンとサシャは高揚していた。何としてでもセンテッドは無関係であると証明するという意気込みもある。
けれどもシャーロはそうはいかない。サウラを睨みつけて問う。
「なあ、これって大総統の指示? 捜査対象がどいつもこいつも次の候補者ってできすぎてるだろ。この捜査で足切りをするってことじゃねえのか」
だったら俺はやらねえからな、とそこまでは口にしていないが、そう言いたげな雰囲気だ。対してサウラはけろっとして「そこなんだよねえ」と軽く息を吐く。
「候補者たちに疑いがかかるように動いてる者がいるのか、それとも候補者の誰かが他の人を蹴落とそうとして、且つカモフラージュも狙っているのか。考えられることはいくつかあるけど、これははっきりさせておこう。閣下は今回の件に関係がない」
軍の任務である以上、大総統が関係ないということは有り得ないだろうと少年たちはそれぞれに訝しむ。そこにプルムが続けて説明した。
「普通、軍の任務の一番の責任者は大総統閣下だ。でもこれに限っては、総責任者はセンセになるよ」
そうしてサウラに目配せすると、それを受け取って頷く。センセとはつまり「先生」、医師としてのサウラを指すようだ。
「こんな状況だからね、先の四人に加え、閣下のことも調べてる。十中八九シロだろうけど、この案件は閣下が主導じゃ都合が悪い」
「サウラ君、偉くなったねえ……。じゃあ、あたしもサウラ君に報告すればいいってことか」
特例ではあるが前例はある、という話だったのに、詳細は前代未聞ではないか。限定的ではあるが、一軍医が国軍の長と同等の権限を持つのだ。そしてグリンたちは、その手足となる。
シャーロはまだ面白くなさそうな顔をしていたが、そういうことなら、と溜飲を下げた。それほどまでに大総統――父のことを嫌っているのだろうかと、グリンは心配になる。
「そういうわけだから、この捜査については他言無用。結果が出たらちゃんと査定に反映されるようにする。協力よろしく」
サウラとプルムが手を振りつつ部屋を出ていくのを、少年たちはまだ半分信じられないような気持ちで見送った。
濃度の高い一日に疲れきって、グリンはベッドに倒れ込む。ご飯は、とサシャが訊ねても、唸り声でしか返せない。
力を使ってしまった日は、体力も精神力も酷く消耗する。後から来るこの怠さもあまり力を使いたくない原因だった。
「食堂で何か貰ってくるよ。寝てていいからね」
「うーん……ありがとう、サシャ……」
事情をわかっていて気遣ってくれる幼馴染が来るまでは、食事を抜くこともよくあった。世話を焼いてくれる存在があるというのはありがたい。
戸が開かれ、閉まる音。静寂が部屋を満たすと、疲れた体が溶けてしまいそうだ。このときばかりは、突然睡魔に襲われ意識を失ってしまうモルドの不安がよくわかる。力の制御がまだ十分にできないグリンは、いつでも自分が怖かった。
心地好くはない微睡みの中に、再び戸が開かれて閉まる音。サシャを急がせてしまっただろうか、あまりに早い。だが続く足音は、この部屋で耳慣れたものではなかった。
全く知らないものでもなかったけれど、ここで聞くことは想定していない。
「生きてんのか」
「……シャーロ? なんでここに?」
「チビ犬、じゃねえ、ハイルが行ってもいいって」
視界に入ったシャーロが鍵をかざした。サシャは信用できない人間に部屋の鍵を渡すようなことはしないので、彼のことを仲間と認めたのだろう。
これから同じ班で、同じ仕事をするのだ。信頼関係がなければ動けない。
「なにニヤニヤしてんだよ、気色悪いな」
「嬉しいんだ、シャーロが来てくれて。これからよろしくな」
「俺はてめえらと馴れ合う気はない。でも、これだけは聞いておかねえとモヤモヤする」
ベッドの縁に遠慮なく座り、切れ長の目でグリンを、その海色の瞳を見つめる。ちゃんとインフェリアの色だな、と呟いて。
「昼間の豹変ぶりについて、直接話を聞かせろ」
サシャが少し話してしまったと言っていた。シャーロになら詳細を知られても構わないし、黙っていてもいずれは知るだろう。彼は父親を嫌っているようだが、その人はグリンの母の友人なのだ。
「いいよ」
ゆっくりと体を起こし、のんびりとした口調で返事をする。
「俺の目は、『魔眼』なんだってさ。母さんからの遺伝なんだ」
正確には祖母からのだ。突然その特徴が発現した祖母は、少女の頃には大変な苦労をしたようだ。人と目を合わせただけで疎まれ、実の親にまで忌み嫌われた。
母はその瞳の色と特性をただ受け継いだだけではなく、祖母の何倍も強い力を具えていた。しかし訓練や工夫を重ね、その力を日常生活に支障がなく、有事には自分で調整して使えるようにしてきた。
グリンは『魔眼』を持たないと思われていたのだが、六歳の頃に能力が発現した。強い怒りで頭に血が上ると、瞳が赤みを帯びる。すると周囲にいる人々が目眩や嘔吐などを訴えるのだ。反応に個人差はあるが、影響は敵味方関係なく出てしまう。
「ばあちゃんの頃と比べたら、状況は良くなってるんだ。サウラさんが薬も作ってくれた」
「薬で力が抑えられんのか」
「ううん、俺じゃなくて周りの人が使うんだよ。味方に損害が出ないように。今日の仕事はきっと、ああなるなんて誰も思わなかったから……」
具合悪くさせてごめんな、とグリンは俯く。シャーロは顔を顰めて、馬鹿、と呟いた。
「もっと色んなことを人のせいにしていいんじゃねえの」
きょとんとしたグリンを見てさらに苛立ったのか、続けて捲し立てる。
「何でもかんでも自分のせいにすることはねえだろ。てめえに非はねえ。その妙な眼だって、遺伝なら親とかを恨んでいいだろ」
「よくないよ。ばあちゃんも母さんも大変な思いしたんだし、俺に遺伝させようと思ってさせたわけじゃない」
「そうやっていい子ぶるのをやめろってんだ。感情が昂ると『魔眼』とやらが出るなら、もうずっと出してろよ。てめえが我慢したり背負い込んだりする義理なんか、……そんな一人だけ損をするようなことが、あってたまるかよ」
シーツを掴むシャーロの手は、力を込めすぎて真っ白になり、震えていた。怒りというより悔しさで、それも自分のことではないのに、彼は現状が許せないようだった。
やっぱり、とグリンは内心で納得した。彼は優しくて、自らも痛みを抱えている人だ。でなければ、こんなに親身になってくれるだろうか。
「シャーロ、ありがとな」
固く握り締められた手に、そっと指を触れさせる。
「俺、魔眼をあんまり損だとは思ってないんだ。ばあちゃんは眼のおかげで本当に心の綺麗な人と出会えたって言ってたし、母さんは眼の力を人助けに役立ててる。それなら俺にもそういうことができるはずだし、それに」
にんまりと笑って、シャーロの顔を見た。見開かれた目のグレーグリーンに、光がさしている。
「上手く使うことはできなかったけど、この眼のおかげで、シャーロが会いに来てくれた。ほら、超良いことじゃん」
呆気に取られていた彼の頬に赤みが差し、けれども我に返って眉を寄せる。シーツを握る手から力を抜き、そのままグリンの手を振り払った。
「そういう小っ恥ずかしいことをよく言えるよな! さすがインフェリアの人間、とんだタラシ野郎だ!」
「タラシ……? 誰から聞いたんだ、そんなの」
「母さんと伯母」
母親との関係は悪くないらしい。その姉妹とも少しは交流があるようだ。シャーロの家族はグリンの母親の元同僚なので、本当ならもっと前に出逢っていてもおかしくはなかった。現にモルドはシャーロに会ったことがある。
もっと掘り下げてみたかったが、そんなことはどうでもいい、と話を戻された。
「人間吹っ飛ばすほどの怪力は? あれも『魔眼』の力か」
「違うみたい。これはインフェリアの血じゃないかって、じいちゃんが言ってた」
「めんどくさいやつだな……」
グリンの持つ二つの力は、いずれも使い方によっては人を傷つけてしまうものだ。だから正しく扱えるよう、制御しなければならなかった。今日のようなことは、あってはならないのだ。
「この力は俺だけのものじゃない。俺が間違えば、うちの家族みんなが後ろ指をさされることになる。だから俺は、シャーロの言う『いい子』でいなきゃならないんだ」
「家族だって他人だろ。自分以外のやつのために、そんなに我慢しなきゃいけないのかよ」
「うん。だって俺は、俺の家族が大好きだからな」
屈託なくそう言えることは、幸せなことなのだとグリンもわかっている。この国だけでも様々な事情を抱える人がいて、家族がいなかったり、家族であることをやめなくてはならなかったりする場合がある。
だからシャーロが誰にも聞こえないように微かにこぼした言葉も、何故、と思っても今は問わない。
――羨ましいやつ。
いつかその真意を、彼は話してくれるだろうか。それくらい、心の距離が近くなるだろうか。
つまんねえから帰る、とシャーロが部屋を出ていき、入れ替わりにサシャが戻ってきた。
「そろそろ食欲戻ったんじゃないかなって思ってさ」
そう言って彼が差し出したのは、揚げた肉が山盛りになった弁当だった。たしかにシャーロと話したことで、グリンは体も心も、胃も軽くなっていた。
翌日、注がれる好奇の視線を掻い潜ってやってきた第三休憩室。当分はここを優先的に借りられるのだと、ヨハンナは少し嬉しそうにしていた。
「憧れてたのよね、あたしの名義で部屋を借りるの。しかも伝説多き第三休憩室!」
「伝説?」
号令を無視せず時間通りにきちんと現れたシャーロは、しかし相変わらず機嫌が悪そうに眉根を寄せていた。
「第三休憩室は、オレのばあちゃんやグリンのじいちゃんたちもよく集まってた場所なんだ。ここで色んな事件の話をしたり、賑やかに休憩したりしてたんだって」
「出世できる部屋として利用したがる人は多いのよ。それをこのあたしが押さえたんだから、将来は安泰ね」
「ハナちゃん、出世したいのか?」
「するに越したことないでしょ」
もちろん雑談をするために借り切るのではない。グラン班が内密に担当する案件について、ここで打ち合わせをするのだ。
捜査対象となっている四名の大将に接近しなければならないのだが、固まって動くわけにはいかない。グラン班の現在の主な仕事は、あくまでヨハンナによる指導と市中の見廻りなどの危険性の低いとされる任務だ。無闇に将官の周辺をうろついたら怪しまれる。
よって、この案件はそれぞれに担当が割り振られることになった。サウラと相談の上、既に決めてきたのだとヨハンナが示す。
「あたしがエスト大将につくから、あんたたちは他の三人ね。グリンはクラシャン大将、サシャはパクネー大将、シャーロはドナー大将を張りなさい」
「えー!? オレ、センちゃんがいい!」
「俺だってセンちゃんがいいよ。ハナちゃん、なんでそんな担当にしたんだ?」
誰だっていいだろ、と呆れるシャーロには構わず、グリンとサシャは不満そうにしている。二人とも、どうせなら面倒を見てくれるセンテッドの容疑を真っ先に晴らしたいのだ。
しかし、だからこそこの二人には特に任せられない。それがヨハンナの判断だった。
「あんたたちは先入観で動きそうだから駄目。付き合いが長い分、調べてることもすぐに見抜かれそうだし。あたしたちは対象を疑わなくちゃならないんだからね」
「ヨハンナだってセンちゃんについて長いじゃんか。疑えるの?」
彼女は四年前に東方司令部から中央司令部へと異動してきたのだが、当時からセンテッドを直属の上司としてきた。軍での付き合いに限るなら、このメンバーで最も長く近い関係にある。
じとりと睨むサシャに、ヨハンナは溜息を吐き、眇めた目を向けた。
「疑う。それが必要なら、解決まで疑い続ける。たとえ大将に嫌われたり恨まれたりしてもね。それがあたしの仕事だもの、容赦しない」
言外に、彼女は問うていた。――それがあんたたちにできる?
身内を、それも慕っている上司を疑うというのは辛いことだ。信じていたものを封じ、全ての行動に悪意はないかと目を光らせる。精神が消耗するのは間違いない。そんなことを経験の浅い後輩たちにさせたくはないのだ。
聡いサシャだから、優しいグリンだから、その気持ちを覚ることは難しくはなかった。
「もちろん、エスト大将以外の配置にも意味はある。相性と、それから相手の興味をリサーチした上で決めた」
「興味? パクネー大将がオレに何の興味があるのさ」
「あんたにっていうか、あんたのおばあちゃんに興味があるみたい」
改めて説明を続けたヨハンナによって、今回の極秘任務への当たり方が明らかになった。グリン、サシャ、シャーロの三人は、まず調査対象にそれぞれ接近する。というより、誘き寄せる。そのために相手にとって都合のいいように、サウラとヨハンナで人選した。
サランディータ・パクネー大将は唯一の女性であり、男性を異様に嫌っている。これまで大総統を務めたのが男性のみであるという歴史に転換をもたらしたいと、強く望んでいるらしい。その彼女がたった一人、三代前の大総統であるハル・スティーナだけは尊敬しているという情報があった。
そこでハルの孫にあたるサシャが担当に選ばれた。一度よくないかたちでの接触があるが、大したハンデではないはずだとヨハンナは言う。
フンダート・ドナー大将は単純な男だが、故にわかりやすく実力のある若者を自分の派閥に取り込もうとしている。どうやら現大総統の息子でありながら反抗的な態度を取っているシャーロに近づくつもりでいるそうだ。
これを利用しない手はないと、即決したのはサウラだという。心底嫌そうな顔をしながらも、シャーロは断らなかった。
トレーズ・クラシャンは先日の見廻り任務に最も興味を示している。特にグリンの能力については、彼が入隊したときから目をつけていたという情報がある。自らの野心を満たすためには手段を選ばない男であり、グリンのことも利用したいのだろう。
危険ではあるけど、と僅かに躊躇いはしたが、ヨハンナはグリンに彼の調査を任せることにした。グリンとしても、クラシャンとは一度話してみたいと思っていた。
「こっちから近づくのは難しいでしょう。だから相手から接触しやすい隙をわざと作っておいて。食らいついたら上手に糸を引くのよ」
「ハナちゃん、釣りじゃないんだから」
「いや、案外似たようなものだよ。で、オレたちは何をどうやって調べたらいい?」
「彼らの人間関係を観察して。それぞれに取り巻きがいて派閥を作ってるから、その内部の様子と、取り巻きたちの交友関係も欲しい。大将たち本人の動向も含めて怪しいところがあったら、すぐにあたしに報告して」
毎晩定例の報告会をすることも決まった。場所はその都度ヨハンナが指定する。
「困ったことになったと思ったら、それも教えて。あたしでもサウラ君でもいい。もちろんあんたたち三人で話し合ってもいいけど、必ずあたしやサウラ君にも報告してね。あんたたちを守るのは、あたしたちの責任だから」
よろしく、と口角を上げた彼女の目は、しかし笑ってはいなかった。
「絶対に裏があるぜ、今度の仕事」
昼休みを中庭で過ごしていたグリンとサシャの頭上から声が降ってきた。グリンがよく登っている大樹の下で、ポテトサラダとハムと玉子のサンドイッチを食べていたところだった。
樹上から木の葉とともに落ちてきたシャーロは綺麗な着地を決め、グリンは思わず拍手を送る。サシャはサンドイッチに被さった葉を鬱陶しそうに除け、裏って、と溜息を吐いた。
「やることは内部スパイなんだから、そりゃあオレたちは裏だよね」
ここでこの話をするのは良くない。可能な限り声を潜めたサシャだったが、シャーロは辺りを見回して鼻で笑った。
「誰も聞かねえよ。そうじゃなく、軍内部を調べるのに大総統が責任者じゃねえっておかしいだろ。軍医が命令してくるってのも変だ」
「今回は特別だって、サウラさんたちも言ってただろ」
「どういう特別だよ。あの軍医、危険薬物に詳しいんだろ。立場的にも薬物の入手は容易だ。だったらこの件、一番怪しいのは軍医じゃねえのか」
馬鹿なことを、と簡単には返せなかった。戸惑うグリンに、サシャも困ったような目を向ける。
「……まあ、可能性がないわけじゃないとは、オレも思うけど」
「そうなのか? でもサウラさんは、危険薬物を撲滅するために頑張ってるんだろ」
サウラは危険薬物のエキスパートであり、現在のエルニーニャ軍在籍者で最も頼られている存在だ。その知識と事件への執着は、大陸一危険薬物を憎んでいるといわれる北の大国の大将に匹敵するとまで噂される。
その彼が実は黒幕で、何か企んでいるなど、グリンには信じ難い。
「じゃあ、もう一人の軍医は。糸目のあいつは怪しくねえのか」
「プルムさんも、サウラさんの優秀なサポート役って感じだなあ。俺は怪しいとは思わない」
「サウラさんを怪しむならプルムさんも同じく怪しいってことになるよ」
軍医たちと親しいはずのサシャが、シャーロの疑念に反論しない。それどころか可能性として有りだと頷く。グリンはわけのわからないまま焦れてきた。
「何がどうしたら怪しくなるんだよ。サウラさんたちもセンちゃんも悪いことなんかしない」
「そりゃあオレだってそう思ってるよ。でもさ、筋が通っちゃうんだよね。閣下と大総統候補の大将たちが怪しまれるように仕向けて、自分がその指揮を執る。全員蹴落として自分が次の大総統に……」
「冗談でもそういうのやめろよ! そんな筋書き、友達の編集者が聞いたら全部ボツだぞ!」
「現実ってのは案外単純なもんだぜ」
シャーロは未だに誰も信じようとはしない。サシャは様々なパターンを考える。そしてグリンは人を疑いたくない。
この任務の結末は、まだ彼らには予想できない。
中央司令部の裏門から帰宅しようとしていたセンテッドの腕を、掴んで引き止める者があった。
闇に包まれた午後十時。気配を消して待ち構えていた相手を、危うく塀に叩きつけそうになる。だがその前に正体に気づいた。
「……ヨハンナ、何の真似だ。寮に戻って休め」
「話をしたら戻りますよ、エスト大将」
彼女は薄手のパーカーを羽織ってはいるが、すらりと長い足が部屋着のショートパンツからのびて露になっている。センテッドがその無防備さに顔を顰めると、そんな顔しなくても、と膨れた。
「例の件の報告ですよ。仕事中じゃできないでしょう」
「……手短に」
「わかってますって」
例の件――危険薬物を違法に扱う者が軍内にいるのではないかという疑いについて、極秘の捜査をする。ヨハンナにはセンテッドとサウラから、予め指示をしていた。
「あの子たちには、言われた通りに偽の情報を伝えてます。閣下やあなたも捜査の対象だと」
「偽ではない。閣下の周辺は僕とリーゼッタ大将が、僕のことは君が、実際に捜査をする手筈だろう」
「あなたが取り纏めた報告には、例の薬物は出てこない。現場からも見つかっていない。他の三人の大将を調べるのに不都合がないよう、自分まで容疑者であるふりをするなんて」
わざわざ嘘を用意したことに呆れるヨハンナに、しかしセンテッドは緩く首を横に振る。
「僕だって、他人からは十分な動機があるように見えるだろう。あの三人に何らかの瑕疵が見つかり、選挙の話が立ち消えになったら……おそらく閣下は、再度僕に次の大総統になるようにと話をする」
「そうしたら受けるつもりなんですか」
「いや、受けない。だがそういう話が出た時点で、勘繰るものはいるだろう。現にあの噂の広がりようだ」
「……なんだ、ならないんだ、大総統」
つまんないの、と怠そうに髪を指先で弄ぶ彼女に、念押しのつもりで「ならないさ」と返した。そんな重いもの、背負ったところで潰されるのがオチだ。
だが、他の誰がその責務を背負ったとしても、次の世代の中心になる若者たちを苦しませるようなことになってはならない。彼らにはきちんと見極め、見据えてほしい。だから巻き込んだ。
「彼らの様子は」
「シャーロは全体を疑ってます。あたしたちの話も。閣下が手を回していないはずがないと思ってるし、サウラ君のことも怪しんでる。まあ真っ当な考えかなと思います。サシャはそれも可能性のひとつとして、割と冷静に状況を見てますね。この二人は意外といいコンビになるかも」
でも、とヨハンナは言葉を切る。センテッドの最も気にかかっている部分を、彼女も心配していた。
「グリンは……たぶんあの子は、全部信じたいんだと思います。疑われている人も、疑っている方も。だから一番迷ってる」
センテッドのことはもちろん、同じ職場で働く他の大将らのことも無実だと思いたい。だが彼らに疑いを向けるヨハンナやサウラたちの言葉も真っ向からは否定できない。そうだろうな、とセンテッドは頷く。
「甘さは断ち切らせた方がいい。自分が苦しいだけだ」
「そうでしょうけど、あの三人で動くならバランスはいいんじゃないかと。シャーロの心をグリンが解してくれてますし」
「ではそのままでいいと?」
「ある程度は決心してもらわなきゃいけないでしょうけど、あれがグリンの良さだと思います。外すべきかと考えもしたんですが、彼はクラシャン大将の攻略に必要不可欠でしょう。あたしが責任持ってちゃんと育てます。今なら挽回したいこともあるはずだし」
にっこりしたヨハンナが頼もしく、センテッドは安堵の溜息を漏らした。彼女にまだ青い新人たちを任せて正解だった。
「報告は以上か」
「はい。大将、帰ってちゃんと寝てくださいね。体調を崩したら、せっかくデートの時間を作っても台無しになっちゃいますから」
軽口を叩きながら弾むように寮へと戻る後ろ姿を見送る。天真爛漫という言葉が似合う彼女にも多くの悩みや葛藤があることを、センテッドは知っている。今回のことでまた負担を増やしてしまった。
グリンのことも放ってはおけない。挽回したいというのは先日の見廻りのことだろう。あの少年は自らの力を役立てたいと思って軍に入ったが、使い方を誤って周囲を傷つけることを強く恐れている。過去に他人から疎まれたことも、彼がことあるごとに疲弊し精神を消耗する原因だ。
誰も助けられない――そう自らを苛むのは昔からで、他人の言葉でいくらか救われてもなお、次から次へと責める要素が積み重なる。だからこそセンテッドは、この手に余るものを望まない。望めない。
一方で、教えてほしかった。大きな力を手に入れたい、自分なら扱えると信じる者たちの思惑を。その自信の根拠を。少年たちがこれから学ぶであろうことを、こちらにも伝えてほしい。
彼らは何を得て、何を語るだろう。それが聞けるのなら、見届けられるのなら、疑われても嫌われても構わない。