霧のような人だと思った。景色を霞ませ、見えにくくする。静かなその佇まいは、息を呑む音すらも許さないようだ。
 つい肩や背中に力の入ってしまうグリンに、彼はすうっと目を細めた。口元も僅かに引かれ、どうやらこれは彼の笑顔だと察する。
「遠慮せずに食べるといい。君の為に用意した菓子だ」
 低い声の抑揚は小さい。いつも傍にいる賑やかな面々は言葉を発するごとに髪まで揺れるが、彼の長く真っ直ぐな白髪は微動だにしない。
 話に聞いた通りなら、その胸には強い野心を抱いているはずだ。だがその理由も、輪郭すらも、今は読み取ることができない。
 トレーズ・クラシャンの人物像は、目の前にいてもなお捉えられなかった。


 遡ること二日前。健康診断を終えたグリン、サシャ、シャーロの三人は第三休憩室でお茶の時間を過ごしていた。
 もちろんサボっているのではない。彼らには大切な仕事があって、そのために集まっている。けれどもここに呼んだ張本人であるヨハンナは、まだ健診の後片付けがあるらしい。
「グリンはお茶淹れるの上手だよね」
「じいちゃんに教わったからな。先生の助手やってたときも役に立った」
 紅茶を美味しそうに飲むサシャと、得意げなグリン。二人に怪訝な目を向けるシャーロは、今日も怠そうに耳や胸元のアクセサリーを弄っている。
「お前、軍医の助手なんかやってたのかよ」
「違うよ。グリンが言ってるのは小説家の先生。レナ・タイラスって知らない?」
「はあ?! レナって、あのホラー作家のか。知り合いなのかよ」
「うん。レナ先生、俺の従兄なんだ。軍に入るまで、少しの間だけ助手をしてた。電話とったり、荷物を受け取ったり、庭仕事を手伝ったりな」
 シャーロが知ってて嬉しいよ、とグリンがにんまりする。当たり前だろ、と視線を逸らしたシャーロの耳は赤くなっていて、サシャもにやにやしていた。
「ベストセラーくらい読むぜ、俺だって」
「へえ、じゃあどれが好き? 先生に教えたい 」
「……『子盗の棲』が冒険要素があって面白かった」
「良いよな、俺も好き。レナ名義で出した二冊目だから、知ってる人が少なめなんだ。それをぱっと出せるなんて」
 大体の人はもうちょっと後の作品を挙げるんだよ、とますます嬉しそうなグリン。返ってくる舌打ちは完全に照れからくるもので、この光景を眺めているサシャは更に面白がった。
「意外だなあ、シャーロって本読むんだね。興味無さそうなのに」
「悪いかよ。家が本だらけだったから、片っ端から引っ張り出してただけだ」
 そういえばそうだ。彼の父である大総統フィネーロは読書家だと聞く。少なくとも軍に入隊するまでは、シャーロもたくさんの本に囲まれて暮らしていただろう。
 ただ、彼は何故か父親を嫌っている。親の影響か、などと迂闊なことは言えない。
「でもさ、二人ともいいよね。オレは小説読むの苦手だから、そういう話はできないもん」
「サシャは小説に長い時間集中できないんだよな」
「マジでそういうやついるんだな」
「兄ちゃんはめちゃめちゃ読むんだけどね。オレと妹はあんまり」
 つい先日、あまり良いとはいえない出会い方をしたばかりだというのに、三人での会話は馴染んでいる。なんだかんだ、シャーロもグリンやサシャの相手をしてくれるし、楽しそうにしていた。
 和んだ雰囲気に、ドアを開ける音が割って入った。疲労の溜息を吐きながら現れたのはヨハンナだ。
「あんたたち、随分仲良くなったね。あたしもそんな友達欲しいわ」
「ハナちゃん、お疲れ」
「ヨハンナだって友達いるじゃん」
「俺はこいつらと友達になった覚えはねえぞ」
 三者三様の返事に苦笑し、グラン班のリーダーは壁に寄せてあったホワイトボードを引っ張り出す。そこに持っていたファイルから出した書類を一枚一枚貼っていく。直接書くとペンの油脂跡から内容を読み取られる可能性があるのだと、先日ぼやいていた。軍内部を疑うというのも大変である。
「あんたたちに出した宿題を役立てるときが来た。さっき追加した最新情報も踏まえて、これからの捜査を進めてちょうだい」
 危険薬物の違法な扱いに関わっている容疑のかかった、三人の大将。グリンたちはそれぞれに一人ずつ担当を持ち、まずは彼らの基本情報を調べてまとめるようにという宿題をこなした。そこに先程の健康診断――という名目での薬物検査の結果を加え、本格的に始動するこの仕事に利用する。
「三人とも薬物反応や身体の異常は見られなかった。抜き打ち所持品検査でも問題は無し」
「所持品検査はシャーロが引っかかったよ。アクセサリー着けすぎ」
「うるせえな。インフェリアだってイヤカフ着けてんだろうが」
「グリンのは伯父さんが作ってくれたお守りなんだからいいんだよ。じゃらじゃらしてないし」
 困り顔のグリンを挟んで、サシャとシャーロが言い合いを始める。仲が良いのは結構だけど、とヨハンナは空になったファイルで二人の頭を叩いた。
「話が進まないのよ、いいかげんにしなさい。ターゲットはこんなことで尻尾を出すような間抜けじゃないから、より慎重な捜査が求められる。ふざけてちゃあんたたちが軍を辞めさせられるわよ」
 実際にそんなことになったら、ヨハンナも責任をとらなくてはならないだろう。少年たちは、シャーロでさえも、神妙な顔で黙った。
「接触のために、こちらで舞台を設定することにしたの。今決定してるのは、近日中に元大総統のスティーナ氏を招いて講演会を開くこと。ターゲット全員、もれなく準備から関わることになる。だからあんたたちも手伝いに入りなさい」
 元大総統ハル・スティーナは、サシャの祖母だ。ヨハンナにとっても母の姉の義母という、少々遠い親戚にあたる。
 かつては自らも内部犯の容疑をかけられ、それをきっかけに冤罪の大幅な減少と福祉の充実を目指し、大総統を務めた人物だ。今回の件もできることがあるならと快諾してくれた。
「巻き込んでいいのかよ。かなり歳だろ」
「七十三歳。でもまだまだ元気だよ」
「普段はおっとりしてるけど、怒らせたら怖いのよね。四年前に中央司令部に乗り込んできたときは、声を荒らげたわけでもないのに空気がびりびり震えてたっけ」
 認識を一致させるいとこ同士に、グリンは感心し、シャーロは慄く。ともあれ、これでひとつ準備ができたというわけだ。
「その前に接触できたら、それでも構わないからね。ある程度懐に入り込んだ状態で集まってもいいかも。ただ、その場合はあんたたちが適切な距離を置かないといけないかな」
「距離?」
「そんなふうに超仲良し状態だと、都合が悪いこともあるかもしれない。なにしろ三人の大将の間柄は険悪だから」
 クラシャン大将とドナー大将は犬猿の仲であり、あらゆることで競っている。好敵手として切磋琢磨するなどという爽やかさはなく、ひたすらに互いの失敗を望んでいるらしい。
 パクネー大将はそんな二人を「野蛮な男」として蛇蝎の如く嫌っている。特にドナー大将は男尊女卑のようなものの見方をするので、彼女にとっては邪魔者だ。
「そっか。俺たちが大将たちに近づくためには、親密そうにしない方がいいんだな」
「俺は元々てめえらと親密にはなってねえ。そうとわかればこんなとこにいる場合じゃねえな」
 さっさと立ち上がったシャーロが、部屋から出ようとする。ヨハンナがそれを引き留め、最新の資料となった宿題を返却した。
「報告はちゃんとしなさい」
「はいよ。それ以外は一切つるまねえからな」
 シャーロが去り、サシャはヨハンナに無言で視線を向けた。あれでいいのか、という意図を的確に捉え、彼女は頷く。
「話はだいたい済んだからね。あんたたち二人は寮で同室だから、あんまり神経質にならなくてもいいよ。仕方ないもの」
 我慢しなきゃいけない場面はまあまああるかもしれないけど、とグリンとサシャにも資料を返す。受け取ったグリンは遠慮がちに首を傾げた。
「ハナちゃん、センちゃんは?」
 もう一人の捜査対象、センテッド・エストを担当しているのはヨハンナだ。本当は真っ先に現状を知りたかった。
「エスト大将はいつも通り。薬物検査も引っかからないし、怪しいものも持ってない」
「じゃあ、捜査の対象から外れる?」
「残念だけど、それはないね。あたしは引き続き調べていくよ」
 返答にしゅんとして俯いてしまうグリンの背を、サシャが優しく叩いて慰める。素直な子たち、とヨハンナは密かに息を吐いた。

 ハル・スティーナによる講演会の件は、その日のうちに詳細が発表された。準備には主に将官と入隊五年以内の者があたることになり、夜には顔合わせの食事会が行われる。急なことなので出席率は高くないのではとサシャは踏んでいたが、会場となった中央司令部の食堂には多くの者が集まっていた。
「意外とみんな来るんだね」
「今回は特別だよ。若い軍人たちは将官と少しでも繋がりを作りたいし、将官たちは派閥の人間を増やしたい」
 救護係として控えているサウラが囁くような声で教えてくれる。選挙の噂がある以上、将官たちは部下を無碍にはできない。できるだけ親切にし、後の得となることを期待する。
「思惑は色々あるだろうけど、まずはご飯を食べておいで。きっとサシャはすぐに忙しくなるから」
 たくさんの料理が並ぶテーブルを示され、サシャは頷く。主役の孫として、既に何度か話しかけられていた。だからグリンとはぐれてしまったのだ。
 グリンは背が高く目立つので、居場所はすぐにわかる。だが、彼が周囲とぎこちなくも懸命に言葉を交わしている姿を見ると、しばらくは遠くから見守っていた方がよさそうだと思ったのだ。
 もしかすると隙を見て、接触があるかもしれない。クラシャン大将も離れた場所からグリンの様子を窺っているようだった。
 一方、シャーロの姿はどこにもない。今日は参加しなくても大丈夫とのことだが、それで仕事をやれるのかともどかしくはなる。
「ハイル軍曹」
 呼ぶ声はすぐ後ろから聞こえた。グリンばかり気にしていて、自分のことをつい忘れてしまう。サシャも仕事をしなければならない。
 声をかけたのは女性軍人だった。真っ直ぐに背中を伸ばし、こちらを見下ろしている。もしや、と思うまでもなく相手は告げた。
「パクネー大将がお呼びです。こちらに来ていただけますね」
 最初に釣れたのは、どうやらこちらのようだ。

 お祖父様に、伯父様に、お母様によろしく。軍家出身のグリンは、それだけを言われるために何度も呼び止められた。食事をゆっくり咀嚼する暇もなく、諦めて飲み物だけを味わっている。
 インフェリア家は建国の英雄の末裔という認識が、この国では当たり前だ。学生の頃は現役の軍人が家にいなかったためにさほど気にされなかったが、グリン本人が軍に在籍する今は違う。所属を同じくする名家との繋がりは重要と考えられている――特別何か便宜を図るとか、そういうことはできなくても。
 空腹と疲労で既に帰りたい気分になっていると、また誰かが近づく気配がした。姿勢を正してそちらに目を向ける。
 その上背のある長髪の男性を、グリンはよく知っていた。ほんの少し話したあの後、仕事の一環とはいえ彼のことを可能な限り調べたし、一度話をしたいとも思っていた。
「グリンテール・インフェリア軍曹。少しいいだろうか」
「……はい」
 緊張を覚られないようにと思ったが、この相手には無理だろう。いっそ自然なままの方がいい。トレーズ・クラシャンはグリンの返事に小さく頷き、真横に立った。
「先日の見廻りの件は聞いている」
 他の人には聞こえないような、低く囁く声。息を呑んだグリンに、クラシャンは構わず続ける。
「使ったのだろう、『魔眼』を。君が持つ特別な力を」
 彼はこちらを見ずに、手にしたグラスを揺らしている。グリンは横目で一瞬だけその表情を――何も窺えなかったが――確認し、すぐにまた目を逸らした。
「君は入隊試験でたいした成績を修めたわけでは無いだろう。それなのに閣下に気に入られ、エスト大将にも贔屓されている。それは家柄、家族の人間関係、そして君の眼の力によるものだ」
 淡々と、断定的に。違うと言っても信じてはもらえないだろう。それに、全く的外れというわけでもない。
「私もその力は素晴らしいと思う。故に、使い方はよく考えるべきだ。私なら君と共に、それを見出していける」
 だから話をしよう。もっと深く、親しく。さらさらと流れるような、滑らかな糸のようなのに、手足や首に絡みつく言葉を紡ぐ。
「私は君の味方だ。誰よりも」
 肩に指先が触れた。服の上からでも、冷たいと感じた。

 食堂には入らずに様子を窺っていたシャーロは、かたい表情のグリンを見つけて舌打ちをした。クラシャン大将が隣にいるが、あれでは駆け引きはおろか、まともな会話もできていないだろう。
 サシャはパクネー大将の取り巻きに呼ばれて移動し、何をしているのかは見えない。だが彼の方がよほど上手くやっているだろうと予想している。
 さて、自分はどうやってターゲットの視界に入るか。視線をずらしたその先で、ドナー大将は退屈そうに酒を飲んでいる。周囲には取り巻きがいて、上司の機嫌をとろうと頑張っているが、その姿がなんとも情けない。
 西方司令部にいた頃のことが、脳裏によみがえってくる。シャーロが大総統の息子だと知った途端、猫なで声で近づいてくる者たち。大抵はそうしながらも陰で嘲笑っているのだ。家族を顧みないほど仕事をしているはずの者が、程度の低い者から侮蔑を向けられている。酷く馬鹿馬鹿しい光景だ。
 そんな無駄なことのために、自分と母は蔑ろにされたのだ。なんて下らない。
「そこまでして何になるってんだ」
 思わず零れた文句が聞こえたはずはない。だが、ドナー大将と目が合った。彼は持っていたグラスを傍にいた取り巻きに押し付けると、大股にこちらへ歩いてくる。後をついてこようとする者は、ひと睨みして追い払っていた。
「お前は食事会に参加しないのか」
 やたらと幅をとる身体は、筋肉の塊だ。事前に調べた通りなら、暇なときは部下を引き連れて練兵場に行っている。自慢の身体を維持するための努力は欠かさない。
 こちらを見下ろし、ついでに値踏みしているのだろう。ドナー大将はシャーロの痩身をじろじろと眺め回した。
「生憎、過去の人間には興味が無いんでね」
「気が合うな、俺もだ」
 こういう場は退屈でいかん、と彼は歯を見せて笑った。退屈という割に食事は十分楽しんでいたらしく、歯は汚れている。
「お前、シャーロ・リッツェだな。閣下の息子の」
「あの男の息子だと言われるのがいっとう嫌いなんだよ、俺」
「そうかそうか。たしかにあの何を考えているか分からん、別に腕がたつわけでもない奴を、父親だと言われるのは癪だろうな」
 理解できる、と頷く彼は、そのままシャーロの肩を掴んだ。力任せで痛い。
「ならば俺と共に、新しいエルニーニャ軍をつくらないか。後カスケード・インフェリアの代から続いてきてしまったぬるま湯みたいな軍を、再び国政のトップに置く。でなければ軍は腑抜けて腐る」
 真っ直ぐにシャーロを見る瞳は燃えるように輝いている。それこそがこの軍にとって、そして国にとっての真の希望であるのだと、彼は信じているのだ。
 その曇りの無さが眩しく、シャーロは目を眇める。ドナー大将はこちらを同類だと、理解していると思っているのかもしれないが、それは彼の見込み違いだ。
「そのために、選挙に勝ちたいんだな」
「おお、選挙のことも聞き及んでいるか。ならば話が早い。お前は俺の陣営に入れ。そしてこんな下らない席に参加する必要は無い」
 発言の端々から察する。ドナー大将は現大総統だけではなく、それ以前――インフェリア、スティーナ、ゼウスァートの代にも納得していないのだ。ほんの短い間だけ務めて逃げた者など以ての外だろう。
 ぬるま湯といえばそうかもしれない。在任期間の長かったダリアウェイドの代は、他国に対してもリーダーシップをとるような強さがあった。その最たる例が、北の大国のクーデターをわざわざ抑え込みに行った「ノーザリア危機介入」。当時はそれが圧倒的な正義とされた。
 次のカスケード・インフェリア――グリンの祖父は、実のところ明確な功績のない大総統だ。ダリアウェイド政のやり方を維持しつつも、自身に向く敵意の前に退いた。しいていうなら後継にハル・スティーナを選んだことが一番の功績といえるだろうか。
 講演会というかたちで捜査に協力するらしいハル・スティーナは、今や生ける伝説とも称される。彼はエルニーニャの政治を、それまでとは大きく変えた。王宮を単なる象徴的存在から政に直接関わる立場へと戻し、さらに文派の地位をも認め向上させた。軍はそれらに連なる一機関にすぎないと定義を改め、三派政を宣言した。この国の特に四十代後半以降の者は、当時を思い返して「革命」という言葉を使うこともある。
 ただ、全くの良い意味でいわれるわけではない。そのやり方を「軍の権力と威光を貶めた」と捉える、ドナー大将のような人間は軍関係者には少なくないというのもまた事実だった。
 シャーロはそんな話を嫌というほど聞かされている。なにしろリッツェ家は「文武両道」だ。そんな話をくどくどと飽きずに聞かせる親戚連中のことも、彼は大嫌いなのだった。
「ドナー大将、あんたは今の軍のあり方をぶっ壊したいんだな?」
「そういうことだ」
「だったら手を貸してやらないこともないぜ」
 嫌いなものしかないのなら、変化していく方がいい。今までずっと、そう考えて走り続けてきた。
 任された仕事のことも忘れてはいない。だが、並行できないこともないだろう。ドナーという男を見極め、容疑が晴れた暁に、協力するかどうかを決めればいい。

 鋭い目をした女性たちに囲まれ、サシャの額を冷や汗が流れた。美しさに目が眩むが、逸らすことを許されない圧力を感じる。
 その中心、まさに目の前にいる女性軍人――サランディータ・パクネーは小柄ながら、その姿勢の良さと眼力の効果で、巨大な彫像を連想させる。いつか廊下ですれ違ったときよりも、さらに厳しそうに見えた。
「貴方がスティーナ氏のお孫さんだったのですね。あまり似てはいないようですが」
 こちらを頭のてっぺんから爪先まで品定めて、彼女はそう言い放つ。
「そりゃあ、オレはばあちゃんと血の繋がりはないから……」
「なんて言葉遣いなの。改めなさい」
 溜息混じりに口を挟んだのは、パクネー大将の傍らに立っている取り巻きだ。こちらを汚い物でも見るような目をしている。なんて態度だ、改めろよ――などと言い返すのは我慢した。
「……それはですね、オレ……ボクが祖母の血を継いでいないからです」
 これでどうだ、という気持ちを込めて相手を見返すと、取り巻きは「まあ良いでしょう」とでも言いたげだった。パクネー大将は全く気にしていないのか、取り巻きを一瞥すらしない。
「貴方のお父様、先代大総統ゼウスァート氏はスティーナ氏の養子ですものね。それは承知していたけれど、それでも関係が深ければ眼差しや立ち振る舞いが似るというでしょう。でも貴方は……」
 呆れた溜息がもうひとつ。そして広がる嘲笑。風に吹かれた花のように、取り巻きたちは囁き合う。
「ええ、ボクは祖母には似ても似つきませんが。そんなボクにどのようなご用件が?」
 苛立ちを抑えつつ問うと、パクネー大将が唇を動かす。すると取り巻きたちがぴたりと静かになった。とんでもない統率力だ。
「わたくしはスティーナ氏を心より尊敬申し上げております。彼のおかげで国の福祉は飛躍的に改善されました。国の在るべきかたちを、彼は示してくださったのです」
 わたくしはそれを引き継ぎたい。そう告げる声色と瞳は、真剣なものだった。たった今彼女に蔑まれたはずのサシャが、一瞬で惹き込まれるほどに。
「貴方も彼のお孫さんなら、わたくしの考えはわかってくださることと思います」
「……たしかに、祖母の功績は大きいですけど」
 その頃から女性軍人が以前よりもキャリアを積みやすくなり、将官昇進率も高くなった。今のパクネー大将があるのも、スティーナ時代の影響があるのかもしれない。
 だとしても、考えが完全一致しているとは思えなかった。おそらくどこかに決定的なズレがあり、サシャに違和感を持たせている。
「野蛮な人に軍を渡したくない。腹黒い人や優柔不断な人も駄目。わたくしたちは高潔であらねば」
 彼女の瞳は、どこを見ているのだろう。それを見極めるためには、少しの忍耐が必要そうだ。

 三人がそれぞれのターゲットと接触している間に、センテッドが会場に到着した。今の今まで任務のために外に出ており、急な食事会の知らせを受けて戻ったのだった。
「エスト大将、お仕事お疲れ様です。片付いたんですか?」
「ひとまずは。まだ処理は残っているが、現場は問題ない」
 ヨハンナが飲み物を差し出しつつ、目配せをする。彼女の視線に従うと、後輩たちの様子を把握できた。サシャは困っているようだが、心配はそれほどしなくてもいいだろう。シャーロの姿は会場の外だが、ターゲットには近づけている。
 グリンに目をやり、つい眉間に力が入った。やけに踏み込んだ距離感と、それに矛盾した腰の引け方。――もしや、あの蛇のような男に呑まれているのでは。
「ああ、グリンはちょっと心配ですよね。あたし、声掛けてきましょうか」
「いや、僕が行こう。相手はあのクラシャンだ」
 接触は必要だ。今後の仕事のためなのだから、グリンには相手を量ってもらわなければならない。だが、余計なことをさせるわけにはいかない。たとえば、力のことで傷つけるとか。妙なことを吹き込まれるとか。
 制止しようとしたヨハンナを躱し、センテッドはグリンとクラシャンのいる壁際に近づく。先にグリンが顔を上げた。
「センちゃん」
「ここでその呼び方はやめろ。……お疲れ様です、クラシャン大将」
 縋るような目で見上げるグリンと、できるだけ目を合わせないようにする。そうして表情の乏しい相手に軽く礼をした。
「エスト大将、任務があったのでは」
「ご心配には及びません。ところでインフェリア軍曹と親しかったのですか」
「これから親しくしたいと思う。貴方ばかりに彼を独り占めされてはいけない」
 センテッドに視線を返し、御三家の結び付きがあるのかもしれないが、とクラシャンは低く囁く。
「エルニーニャ軍の共有財産を貴方独りの管理下に置かれては困る。彼に限ったことではない、貴方は閣下や補佐大将、他機関の主要人物との関係も独占しようとしている。あまり我が物顔で歩いてくれるな」
 そのように捉えられているのか。そんなことは微塵も考えておらず、ただ個人的に世話になっていた人々との関係を保っていただけだ。しかしクラシャンには、そして現在大総統候補として名前の挙がっている者たちには、そんな話は通用しないだろう。
 面倒は負いたくない。彼らの感情の矛先は、自分一人に向かうものではない筈だ。
「……それはすまない。今後行動には細心の注意を払いましょう。だが、インフェリアをあまり困らせないでいただけますか。彼は未熟で、物事の対処が拙い部分があります」
「ならば私たちのような上の者が教えてやるべきだろう。案ずることはない、エスト大将。私が彼に手ほどきをしよう」
 クラシャンが目を細める。そうして俯いてしまったグリンの、つむじのあたりを見ていた。


 そうですね、と答えて退いたセンテッドの表情を、グリンはよく見ていない。来てくれたときにはとても嬉しかったけれど、喜んではいけないとすぐに思い直した。
 結局、彼は責めるような言葉を浴びてしまった。グリンが上手く振る舞えなかったためだ。未熟で拙い、自分のために。
「菓子は気に入らないか」
 響いた低音に、我に返った。手にしたスコーンはまだ半分も食べていない。美味しくないわけではないのだが。
 顔を上げると、こちらを見つめるトレーズ・クラシャン大将がいる。食事会から二日経ち、グリンは彼の誘いでお茶の時間を過ごしていた。
 招かれたのはクラシャン家の所有する別邸で、普段は使用人が掃除をして維持しているという。つまりほとんど無人の、しかし美しく整えられた豪邸だった。花の香る庭に設えられた東屋の下、磨きあげられたテーブルにティーセットが用意された。
 クラシャン大将自身は紅茶以外には手をつけない。サンドイッチもスコーンも、グリンが手を伸ばさなければ減らない。緊張と気まずさで味がろくにわからなくても、できるだけ食べなければ勿体ない。
「どれも美味しいです。手作りなんですか?」
「使用人に作らせた。私はあまり食事に楽しみを見いだせないので、彼らは客人が来たときしか能力を発揮できない」
 そういう人もいるのか、とグリンは密かに感心した。賑やかなのが好きな祖父や、料理が得意な従兄がいると、なかなかその発想には至らない。
「クラシャン大将の楽しみって何ですか」
 少しでも緊張を和らげ、相手のことも知りたい。やっと掴んだ糸口を手繰り寄せようと試みる。
 クラシャン大将は不思議そうに、呟くようにオウム返しをした。
「楽しみ……考えたこともなかった」
「趣味とかは」
「無駄なことはしない」
 グリンが思いつくあらゆることが、大将にとっては「無駄」の一言で片付けられるものなのだ。そういえば彼の周辺を調べているときにも、それらしい話題は一切無かった。
 一部の間では「クラシャン大将とエスト大将は似ている感じがする」といわれている。おそらく物静かで厳しそうな雰囲気を指すのだろうが、センテッドの方が生き生きしているとグリンは思う。彼は食べることが、特に甘い物が好きだし、仕事以外での運動も楽しむ。動物も可愛がるのだが、いまいち好かれない。そして家族や友人など愛する者がいる。
 知れば知るほど面白いのがセンテッドであるのに対し、知れども知れども取っ掛りがなくこちらが途方に暮れてしまう、トレーズ・クラシャンはそんな人だ。
「インフェリア、君は趣味や興味を持っているのか」
 逆に尋ねられ、グリンは慌てて言葉を並べる。
「ええと、俺は……剣技とか木登りとか、散歩も好きです。それと本を読むのも。従兄の書いた小説が面白いです。それから植物を育てたり、友達と出かけたりするのも楽しいです。でも部屋で一緒にのんびりするのもいいと思うし……」
「それらの時間を訓練や兵法の勉強、そして有用な人脈作りにあてたなら、君は素晴らしい軍人になるだろうな」
 ばっさりと。グリンの好きなものはクラシャン大将に遮られた。この人にとっては全て無駄なことなのだと、察して黙り込む。
「剣技は続けた方が良い。真っ当な師範につくべきだ。小説など読む暇があったら、兵法論の書物の内容を覚えられるだろう。友達なんて生温いものは損得を基準にした人間関係に切り替え、損であれば捨てる。それが昇進への近道になる」
 私はそうしてきた。きっぱりと、しかし相変わらず凪いだ口調で、大将は告げる。
「今の言葉を聞いて理解した。君は実に恵まれない環境で育ったらしい。インフェリアは軍家でありながら考えが甘い。御三家などという肩書きに胡座をかいていたのだな」
 納得したように頷くクラシャン大将に、そうではない、と言い返せない。もちろん肩書きに胡座をかくなんてことはしていないし、恵まれていないなんて少しも思ったことはない。ただ一つ、軍家としての意識やこだわりはたしかにあまりないのかもしれなかった。
 それは多分、祖父が軍家としてのインフェリア家を好ましく思っていなかったからなのだろうけれど。他所の人にわざわざ話すようなことでもない。
 返事がないことを肯定ととったのか、クラシャン大将は抑揚はなくも饒舌に続ける。
「私なら君が育つために良い環境を用意してやれる。大陸戦争の英雄など過去の遺物だ、我々は新しい世代の新しい英雄をつくらねばならない。新時代には君の力が有用だ」
 同じ言葉を聞いたことがある。祖父やサシャの父、そしてセンテッドも口にしていた。大陸戦争を中央の勝利で終結させた、その中心人物たちの末裔は「英雄」という扱いに違和感を持っている。その呼称がいつまでも続くことを、そんなものにこだわり縋ることを疑問視している。だから表面的には、クラシャン大将の言うことに間違いはないのだ。
 しかしこれまでの流れを思えば、意味するところは違うのだろう。それくらいはグリンにも理解できた。立場の違いが生んだ異なる解釈なのかもしれないが、決定的な溝が横たわっている。
「私が君を導いてやる。無駄に時間を費やすのはあまりに惜しい。君は稀有な力を持った存在なのだから」
 だから、差し伸べられた手をとれない。きっとこの人についていけば、グリンは強くなれるのだ。けれどもそれは求める強さとは違う気がして、迷う。
 仕事のためにも信用は得ておくべきだ。それならこちらからも手を伸ばすのは道理であるはずなのに。――心を殺さなければ、求めるものは得られないのに。

「そんな長ったらしい書類が読めるのかよ。てめえは小説もろくに読めねえんだろ」
 背後から覗き込んできたシャーロが鼻で笑う。サシャは目を並ぶ文字から離し、振り返ってじとりとそちらを睨んだ。
 通常の仕事の合間に第三休憩室に来て、特別任務に関係することに手をつける。今日はグリンが休みをとっている――とらされて、が正しい――ので、ヨハンナも打ち合わせをするとは言っていない。しかしサシャの足は自然とここへ向いたのだった。
 どうやらこちらを馬鹿にしている彼も、同じ行動をとったらしい。
「あのね。オレは小説は読めないけど、報告書とか論文とかは結構得意なの」
「チビが生意気言ってんじゃねえよ。それは何なんだ」
 サシャの手元を指差すシャーロは、こちらの主張を疑っている。しかしこればかりは彼に限ったことではなく、軍に入る以前から他人にはなかなか信じてもらえなかった。すんなりと理解してくれたのは、家族とグリンやモルドくらいだ。
「これはサウラさんが科学部に依頼してた、薬物の分析結果報告書だよ。原料がオレたちが見廻りのときに会ったやつらの煙草に仕込まれてたでしょ、あれについて追記があるんだ」
 へえ、と興味がなさそうな返事をしたシャーロは、しかしサシャの手から書類を奪って捲った。そうして不味いものでも食べたかのような顔をして、すぐに突き返す。
「数字とグラフと専門用語ばっかりじゃねえか」
「あ、数字苦手? 根拠があるって安心できると思うんだけど。専門用語も注釈があるし」
「苦手なわけじゃねえよ。てめえ、見た目と頭のギャップがありすぎだろ」
「そんな感じのことよく言われるけど、失礼だよね」
 おどけてふくれてみせたが、サシャにとっては重大なコンプレックスのひとつである。グリンと並んだとき、あるいは兄と一緒にいるときには、どうやらサシャはとても幼く見えるようだ。しかしながらその頭脳は、知能指数で見れば同年代の平均よりもはるかに高いという結果が出ている。
 最初から神童というわけではなかった。何がきっかけだったのかは当人もわからないが、急成長したのはここ二年ほど。体力の向上も相まって、入隊試験はダントツのトップだった。
 けれどもそれを周囲の人が褒めそやすとき、持ち出されるのは血だった。――ゼウスァートの末裔は、やはり能力が高い。
「――、おい、聞いてんのか」
 不意に、シャーロの苛立ったような声がした。いや、こちらが認識していなかっただけなのだろう。慌てて向き直ると、不機嫌そうなグレーグリーンがこちらを見ていた。
「え、何」
「だから、それだけ難しそうなもん読めるのに、なんで小説は読めねえんだよ」
 集中力だけの問題じゃねえんだろ、と呆れながら尋ねる彼に、サシャは苦笑しつつ的確な説明を探す。
「物語はさ、感情があるじゃん? 誰がどう思ってどういう行動をしたか。そういうのって、わざわざ全部説明すると野暮でしょ」
 描写が面白い、巧みである物語は、読者に心情や背景を読ませようとする。読み手の心や経験に解釈を任せ、その人の中に物語を作り上げる。小説が好きな兄はそう言っていた。
 だが、サシャにとっては書いてあること以上をいくらでも思いつけてしまうことが、寧ろ障壁だった。理解を深めようとすると数多の可能性を考え出してしまい、その奥にある感情を正しく定めることができないのだ。考えようとして立ち止まり、なかなか前に進めず、そのうち疲れきって諦めてしまう。
「生身の生き物相手なら、視覚情報から絞り込んで判断できるけど。的確にピントを合わせて想像するのってなかなか難しいんだよね。それができる人の方が頭良いと思うよ、オレは」
 しみじみと頷いてみせると、シャーロはつまらなさそうな相槌を打つ。面白くない話なのだから仕方ない、とサシャは意識を報告書へと戻そうとした。
「何でもいいけどよ、変な先入観はめんどくせえよな」
 ――したのだが、その実感の込められた呟きに引き留められる。
 呟いた当人はもうこちらを見てはいなくて、棚を開けて漁っている。普段はグリンが選んで淹れてくれる複数の銘柄を見比べ、眉を寄せていた。
 シャーロも誰かしらの先入観やこうあるべきという期待を背負い、その重さから逃れようとしたのだろうか。そうして現在の不良ぶった彼に至ったのだろうか。聞き出そうとは思わないが、もしかしたら話してくれる日がそう遠くないうちに来るかもしれない。
 グリンも話を聞いてもらったというし、彼のこちらへの警戒はかなり解けているはずだ。実は面倒見の良い人物なのだろうと、サシャも思い始めていた。
「で、ギャップインテリさんよ」
「なにそれ、オレのこと? チビ犬よりはマシだけどさあ」
「インフェリアは無事でいると思うか」
 先程までと何ら変わりのない口調で、シャーロは投げかける。サシャと同じ心配事を、彼も持っていたようだ。
 クラシャン大将がグリンに興味を持っていて、それが捜査に利用できるのではないかと、サウラやヨハンナは見込んでいたはずだった。しかし昨日、ヨハンナはグリンの休みの申請に難しい顔をしていたのだ。
 休みを取りなさい、とクラシャン大将に言われたのだという。その日はゆっくりと話をしようと。
 ――絶好のチャンスなのは、こちらだけではないのよね。あたしたちは捜査をするけれど、あっちだって自分に有利な材料は欲しいんだもの。
 大将格は言うまでもなく、百戦錬磨の人物である。こちらがどんなに身構えていても、あらゆる手段で懐柔、あるいは敵対してくる。極端には排除だって厭わない。
 グリンは強い意志を持っている。彼を支える一本の芯を大切にしている。だがその通った芯を包み守るものは柔らかく、場所によっては脆いのだ。サシャはそれを長い付き合いで知っている。
「無事でいることを祈るしかないよ。乗り込むわけにはいかないし」
「クラシャン大将に寝返らねえだろうな」
「可能性は低いと思うけど、あっちの言い分に納得したならわからない。それは止められないもんな」
 容疑者に肩入れするのは危険だが、共感や賛同をするかどうかは個人の問題だ。そこまで制限はできない。
 グリンが仕事を全うすると信じるしかない。そして、自分たちも。
「シャーロこそ、ドナー大将とはどうなのさ」
「こっちは順調。当人も取り巻きも、こっちが一つ訊けば三つ四つは吐く。特にクラシャン大将の悪口には事欠かねえな。それとてめえのばあちゃんの講演も気に食わないらしい」
 わかったのはドナー大将自身がどれだけ力を持っているかをひけらかしたくてたまらないということ、そして意に反するものは単純に嫌うという、本人の子供じみた特徴ばかりだ。取り巻きが彼に気に入られようと暴走し、薬物を持ち出す可能性はあるだろう。シャーロはそう言うが、サシャは首を傾げた。
「本人は薬物の件には関わっていなさそうなの?」
「力馬鹿にも矜恃はあるんだよ。気に食わねえもんは潰したがるが、それはドナー自身の正義に沿ってねえからだ。あいつは自ら薬物を利用したりはしねえと思う」
 大将格の人間には、実力と人望が具わっている。これは当然のことで、そうでなければ数多くのエルニーニャ軍人の中に埋もれてしまう。密かに実力を発揮していてある日突然見つけられるような幸運な人物は、そういないものだ。
 実力を鍛えるのにも、人望を集めるのにも、その人の持つ矜恃や思想がある。大将の位を持つ者たちは、そういう意味で精鋭であり、エルニーニャ軍人として最も相応しい人物であるはずだ。
「……パクネー大将もそうかも。あの人、物事の見方や遣う言葉は厳しいけど、自分の根っこがぶれてない。それを取り巻きが理解してるかどうかは怪しいけど、当人は自分の正義に背かないんじゃないかな」
 先日話した印象では、パクネー大将は高潔な自分に誇りを持っている。自ら薬物を違法に扱い、それを利用してのし上がるなんてことは、きっと誰より彼女自身が許さない。
「じゃあやっぱり取り巻き連中が怪しいぜ。チビ犬、ちゃんと見とけよ」
「そのチビ犬っていうのをやめてよね」
 偏ってはいるが、大将たちにはそれぞれの正義があり、目指すものがある。選挙などは関係がなく、彼らには彼らの道理があるのだ。
 もしそれを誤った認識で邪魔する者がいるのなら、その人物は赦されないだろう。背くものを徹底的に断罪するくらいのことは、あの強い志と精神を持った人たちならやりかねない。
 そうなる前に、正当なやり方で止めさせる――この捜査は誤ってしまった誰かを、全てを失くす前に救うことにもなるのかもしれないと、サシャはふと思ったのだった。

 クラシャン大将の別邸を辞したグリンは、しかし寮には戻らなかった。夏の青い匂いが立ち込める広い庭の片隅に屈みこみ、揺れる草花を眺めている。
 花壇からはみ出したそれは雑草として抜かれてしまうようなものなのだろうけれど、この庭の主はそうしなかった。年に何度か入る庭師にも、そのままにしておくよう頼んでいる。
「グリン、今日は休みだったの?」
 その人の穏やかで柔らかい声が、頭上から降る。見上げると笑顔があって、グリンも同じく返す。
「うん。でもさっきまで上司と一緒だったんだ」
「そうなの。じゃあきっと緊張してたよね」
 おいで、と伸ばされた手をとって、立ち上がる。するとグリンと相手の目線は、横並びに近くなるのだった。
「大きくなったよねえ」
 しみじみと言い、金色の目を細める彼は、グリンの従兄であるニール。年齢なら二十歳も差があるのだが、彼が若く見られがちなこととグリンの身長が著しく伸び続けていることで、最近は歳の近い兄弟と思われることも度々ある。
「前に会ったときと変わらないよ」
「そう? あと少しで僕より大きくなりそうだよ」
「ほら、その台詞も毎回聞いてる」
 挨拶のようなやりとりをして、ひとりで暮らすには大きな家に向かう。そうして冷たいレモンのお茶と、バターをたっぷり使った甘く香ばしい焼き菓子に迎えられた。
「誰か来る予定だったのか?」
「今日は仕事関係の予定が三件。朝から新しく作品を扱ってくれることになった出版社の担当者さんが来てて、その後でマトリさんが資料を届けに来てくれた。夕方からマリッカちゃんが来る予定」
 ニールは小説を書くことを生業としている。かつてグリンはその助手として、日々の予定を覚えておいたり、電話や来客の応対をしたり、買い物の補助をしていた。庭仕事の手伝いだって。
「マトちゃん来てたの?」
「たまには来ませんかって声をかけたんだ。そうしたら、資料を見ながら打ち合わせましょうって言ってくれたんだよ」
「先生、俺がいなくて寂しいんだろ。だからそうやって人を家に呼ぼうとするんだ」
 軍に入ってからのグリンは、この家に来ることも随分減ってしまった。今日のような非番のとき、サシャとの約束が無かったとき、もしくはサシャと喧嘩をしてしまい距離を置きたいときには訪れる。従兄はいつだって歓迎してくれて、来るのがわかっていたかのように――いや、きっと誰かが来てくれるのを期待して――手作りの菓子を出してくれるのだった。
「グリンは? 今日はどんな悩みを抱えて来たの?」
 グラスの中で氷が溶け、音をたてた。隠し事はもともと苦手なグリンだが、ニールには特に看破されやすい。
「……ねえ、先生。先生はきっと、小説家になるのにたくさん努力をしたよね。好きなものも我慢して、小説家になるためのことだけをしてさ」
 そうじゃなきゃ成功できないよね、と笑おうとして、歪になった。クラシャン大将の言が正しければ、それこそがなりたいものになるための努力だ。日々そうしなければならないはずだ。
 ニールは、グリンが生まれたときには既に人気小説家だった。デビューはたしか、今のグリンと変わらない年頃だ。それなら努力を始めるのはもっと早かっただろう。グリンはもう、間に合わないかもしれない。
 ところがニールは困ったような笑顔で、こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、と答えた。
「僕、新人賞をとるまではそんなに努力はしてないよ。初めての本を出すまでに、何回か書き直したくらいかな」
「じゃあ、天才だ。努力とかいらなかったんだ」
 グリンが感心しかけたところで、ニールは緩く首を横に振った。謙遜かと思ったが、
「努力がいらないなんてことはない。今でも必死だよ。人を楽しませることができる作品を書き続けなきゃいけないからね」
 こちらに返す眼差しは、優しさはそのままなのに、ぞくりとするほど真剣だった。気を取り直して言葉を探し、口を開く。
「でも、先生の書くものはいつも面白いよ。書くのだって速い。いつ仕事してるんですかって、マトちゃんも不思議に思ってたし」
 もちろんグリンは、ニールの生活サイクルを知っている。菓子作りや庭仕事などをしている姿の方が印象的だから、いつのまにか仕事をでかしているように見えるだけだ。
「ありがとう。でも、筆の速さは読み手にはあまり関係がないでしょう。面白いものを創るための努力を十九年続ける方が、自称でもいいような肩書を持つよりも大変だ」
 僕は途中で一度辞めちゃったし、と苦笑する作家をグリンは見つめた。もしかして、いや、きっと自分は、彼にとても失礼なことを言ったのだ。
「……ごめんなさい。努力なんかいらないなんて言って」
 彼が努力をしていないはずがない。それは助手だったグリンが、一番わかっていなければならなかったのに。
 ニールがそっと手を伸ばし、グリンのつんつんとはねた髪を撫でる。
「グリン、誰かとそんな話をしたの。努力をするとか、していないとか」
 細く冷たい指が、焦りに熱くなった頭を落ち着かせてくれる。躊躇いながらも、あのさ、と切り出した。クラシャン大将の名前は出さずに、彼との話をぽつりぽつりと。
「俺ね、早くたくさんの人を助けられるようになりたいんだ。そのためにはやっぱり、もっと上を目指さなきゃいけない。今の俺じゃ実力は足りないし、大きな仕事にも関われない」
 頼りないから、センテッドにだって庇われてしまう。クラシャン大将に言われっぱなしになって、落ち込みをニールのところへ持ってきてしまう。
 きっとこれまで無駄なことばかりで、取るに足らないような努力しかしてこなかったから、前進できずにいる。強くなれないまま、成したいことを成せぬまま――。
「役に立つかじゃなくて、役立てられるか。為になるかじゃなくて、為にするかだよ。グリン」
 掻き立てられた焦燥にふわりと被せられた言葉。顔を上げると金色の目が、三日月のように笑っていた。
「お母さんからそうやって聞いたことはない?」
「……わからない。忘れてるだけかも」
「そっか。僕はそう教わったんだよ。生きているうちに触れる色んなことが、僕らの糧になる。でも勝手に何かをしてくれるわけじゃなくて、糧を元に何をするか、どんなときに使うかは自分で決めなくちゃいけない」
 視野を広くして色んな経験を積めば、武器や材料は増える。もちろんストイックに努力することでしか手に入らないものもある。
 だがそれらを持ち腐れにしないためには、同じように「自分で考え使うこと」が大事だ。ニールは周囲の大人から、そう学んできたのだという。
「他人から見て無駄なことに見えても、それを生かすのは自分だよ。誰かが無駄だと切り捨てたものから、もしかしたらすごいものが生まれるかもしれない」
「それって、どうやってわかるんだ?」
「そのときになって閃くこともあるし、勉強をたくさんしてると物事の繋がりがわかるようになるから理論として導けることもある。いずれにせよ、色んなことには土壌や下地が必要で、きっとグリンは良い土を耕せてると思うんだよね」
 だから思い詰めなくても大丈夫。ニールの声はグリンの冷えた胸と熱くなった頭に沁みていった。
「……良い土って、栄養がたっぷりあって、野菜や草花がよく育つような?」
「そうだよ」
「俺にあるのか? 将来のためのこと、全然できてないのに」
「できてないなんてことはないと思うよ。僕はグリンがいつも頑張ってることを知ってる。でももしまだ足りなかったなって思うなら、これから足していけばいいよ」
 変えるのではなく、足す。これまでのグリンに何も落ち度はないのだと、ニールは言ってくれているのだ。目頭がじわりと熱くなって、視界が薄くぼやけた。
 心の中にあった渦を巻くもやもやは、洗って乾燥したての毛布のようなものに包まれているうちに、小さくなっていた。そうなって初めて、その正体がわかった気がした。
「……先生。俺、多分怖かったんだ。最近、ずっと」
 眼の力を制御できずに使ってしまって、悪事を働いた者だけでなく、仲間まで傷つけてしまった。あのときから不安を抱え続けてきたのだ。
 本当は制御できるようにならなくてはいけない力だ。母はそのあたりが早いうちに上手になったと聞く。自由自在に力を使って、優秀な軍人、そして王宮近衛兵として活躍している。
 グリンはいつまでたっても思うようにいかない。心を穏やかにしてカッとならないようにすれば、魔眼の力は表出しない。けれども感情をコントロールできないことが何度もあって、その度に心身が酷く疲れていた。
 心を疲弊させるのは、自分への失望だ。どうして上手に安定して立ち回れないんだという、怒りと悲しみの入り混じったものが自身に向けられる。
 力を有効に利用することは目標であり、成すことは必須なのだが、そのためには自分や他者に向ける怒りや悲しみと真正面から向き合わなければならない。越えて、掌握しなければ。それはとても怖いことなのだけれど、軍の人間は――グリンの持つ能力の表面だけを知っている者は――利用して軍に貢献しろと言う。
 怒れ、悲しめ、負の感情をぶちまけろと強いられているようで、苦しいと思うことが度々ある。
 クラシャン大将の言葉に感じたのも、それに近い恐怖だった。加えてその場で微かな怒りを覚えてしまったことも恐ろしかった。
 ――君は実に恵まれない環境で育ったらしい。
 グリン自身のことだけを言われるならまだしも、周囲を丸ごと貶されるのは嫌だ。たとえ彼に悪気が全くなく、むしろ親切心から言っていたのだとしても、それだけは納得できない。
 その気持ちが膨らんで、爆発して、また人を傷つけていたらと思うと。
「怖いよ、先生」
 この気持ちを打ち明けられるのは、今のところニールだけだ。祖父はとても心配するだろうし、祖母はきっと自分を責める。母と父は相談しながら悩むはずだ。
 従兄は話したことを内緒にしてくれる。グリンの気持ちを分け合ってくれて、しかし自分のものにはしないようにしているという。だからいくらでも正直な思いを吐露してくれてもいいのだと。
 この場所では、グリンは怖がりになってもいい。軍に入ってからはそうしてきたのだった。
 一番弱い所をみせている相手が「できてないなんてことはない」と言ってくれるなら、いくらかは安心できる。


「ヨハンナ、オレたちに嘘ついてるよね」
 深夜の軍人寮の食堂で、従弟が言う。常夜灯のぼんやりとした明かりに照らされた小さな姿は、けれども背筋を伸ばして堂々としていた。
 電話でこんなところに呼び出したのは、今夜が最適のタイミングだったからだろう。休みをとっていたグリンは帰っておらず、彼は部屋に一人だったはずだ。
「嘘って?」
 飲料の自動販売機はこの時間でも使える。尋ね返しながら、ヨハンナは冷たいココアを二つ買った。しばらくは熱帯夜とまではいかずとも、涼しくならない夜が続くらしい。
「サウラさんが言ってた事件だよ。現場で危険薬物が少量ずつ見つかってるやつ」
「実際に起きてることよ。資料を読ませてもらってるでしょう」
「うん、だから計算が合わないことに気づいた。説明に架空の事件を混ぜたよね」
 正直なところ、すぐに気づかれるだろうとは思っていた。それでも他の二人には言わないだろうという確信も。従弟は――サシャは聡い。見るからに賢そうな彼の兄を、あっさりと凌駕してみせる才能を持っている。しかもその力をひけらかすことはせず、環境的な状況に応じた判断を下しさえするのだ。
「どれがそうだっていうの」
「センちゃん。容疑者四人の中で、センちゃんだけは管轄で事件が発生してないんでしょ。本当は容疑なんかない。でも現状、等しく疑われていることにしておかないと不利な立場になってしまう」
 選挙騒動があるもんね、と溜息混じりに語る少年は、おそらく若い頃の彼の父にそっくりなのだろう。両手で包むカップの中身がコーヒーなら、きっともっと。
「真犯人の目星はついてるの?」
「まだだからあんたたちに協力してもらってるの。サシャから見てどう?」
「そうだなあ……どの人も部下に慕われてるから、取り巻きの誰かが暴走しそうではある。相手の失脚を狙うんじゃなくて、危険薬物を回収することで手柄を大きくしようとしてるんじゃないかな」
 そんな単純なことじゃないのにね。呟く声の色は大人と同じ。そうね、と相槌を打ちながら、十一歳とは思えない表情を見る。
「でもさ、それならきっともっと大きな黒幕がいると思うんだ。取り巻きが危険薬物を持っていたとして、誰がそれを渡したのか」
「そっちは上に任せて。あんたたちには確実な情報を持ってきてほしいの」
「その言い方だと目星が全然ついてないわけじゃなさそうだね」
 迂闊だった。にやりとしたサシャを軽く睨んでから、そんなことをしても仕方がないと溜息を吐いた。
「予想はいくつかある。でも今は言わないでおくね、ヨハンナたちのために」
「あんたねえ、生意気な口をきくのもほどほどにしなさいよ。それからこのことは他の二人には」
「言わないよ、混乱するだろうし。グリンにはセンちゃんは大丈夫だよって教えてあげたいけど、まだ早いんでしょ」
 やはり話が早い。そういうこと、と頷いてその場を離れようとすると、待って、と呼び止められた。
「兄ちゃんが、あんまり根詰めすぎるなよって」
 伝えたからね、と足音に気をつけながら走り去る姿は、子供そのものだ。だから彼は将官たちに狙われずにいる。今のところは、だが。
 グリンはそうはいかない。クラシャン大将に呼ばれて何の話をしたかは後々聞き出すとして、あの優しい子は自分の力が表出してしまうこと、それがどうしようもないことを恐れている。なのにほとんどの人間はその気持ちを無視して、彼をより追い詰める。良かれと思ってそうする。
 シャーロはまだ何を考えているのかわからない。彼が力を持て余すグリンと才走りすぎるサシャを助けてくれればいいのだが、手放しで期待はできない。
 ――根詰めるのも、もう少しだけよ。心配されなくても大丈夫。
 彼らが一人前になるまでの、それまでのあいだだけ。