第二十九代大総統、ハル・スティーナ。軍による捜査方法を見直して冤罪事件を大幅に減らし、国民に対しては福祉の拡充をはかった。政はそれまでの軍中心のものから、王宮と文派と協力する三派政へと転換させた。
 その功績の多さ大きさから生ける伝説となった彼は、引退後は後輩たちのサポートをしつつ、鍛冶屋を併設した自宅でパートナーとのんびり暮らしている。
「現役のときよりはのんびりだけど、こういう仕事もまだあるからね。なかなか忙しいよ」
「ごめん、ばあちゃん。軍のややこしいことに巻き込んじゃって」
 申し訳なくてしゅんとしてしまうサシャの頭を優しく撫でるその人は、三人の孫を持つ祖母でもある。性別にこだわらず「ばあちゃん」と呼ばれ、それがどうしようもなく嬉しいという。
 ハルを中央司令部に招いての講演会は、もう目の前に迫っていた。最後の調整役を仰せつかったのは、孫のひとりであるサシャだ。直接スティーナ邸を訪ねて話をすることができる。
 そもそもこのイベントは、準備の間にとある容疑のかかっていた三人の大将の動向を確認するという目的で、ハルに協力をあおいで開催するものだ。しかし現在、その容疑はほとんど外れている。
「理由をつけて中止しちゃえば、ばあちゃんの負担は減ったのに」
「そういうわけにはいかないよ。みんなで準備してくれたんだし、ボクも今の軍人たちとお話してみたい。サシャが思いっきり自分の力を発揮できるような、そんな環境になっているかどうかを見たいんだ」
 にっこりして言う祖母に、サシャはほんの少しの緊張を覚える。穏やかな人柄とエルニーニャ史上最も美しい大総統と謳われた美貌からは想像がつき難いが、理不尽への怒りとその恐ろしさは人一倍なのがハル・スティーナという人物なのだ。
 現役時代、大鎌を手に戦う姿は「笑顔の死神」と称された。本人は「失礼しちゃうよね」と憤慨していたそうだが、家族は納得してしまっている。
「ばあちゃん、オレ、楽しくやってるよ。ヨハンナもセンちゃんもサウラさんも良くしてくれるし」
「わかってるよ。なんで焦るの?」
 とって食べたりしないのに、とくすくす笑う祖母に、サシャは苦笑いを返した。
 サシャには何も問題は起きていない。あったとすれば、グリンやシャーロにだ。グリンはその力を利用したい者たちに狙われているし、シャーロは先日複数の軍人から暴行を受けた。更に彼らはその暴行事件の両成敗のような措置で三日間の謹慎を言い渡され、期間中はサシャとヨハンナで仕事を進めていた。これらのことを知った祖母は、きっと激怒する。怒鳴ったりはしないが、司令部の備品の一つや二つは握り潰して粉にするかもしれない。
「……あ、そうだ。ばあちゃんさ、パクネー大将のこと知ってる? ばあちゃんを尊敬してるんだって」
 話を逸らさない程度に変えようと、彼女の名前を出してみた。サランディータ・パクネー大将は次代の大総統の座を狙う一人であり、サシャの調査対象だった人物だ。
 厳しい女性で、男性を嫌っている。サシャもハルの孫であるということ以外では、彼女からの信用を得られていない。だが唯一の縁は、彼女から信奉ともいえる語りを引き出してくれた。
「パクネー……ううん、わからないな。ボクを尊敬してくれるなんて、なんだかくすぐったい」
「女性が大将でいられるのはばあちゃんのおかげだって言ってた」
「それは本人の実力でしょう。ボクが十代の頃だって、とても強い女性の先輩が将官になってたよ。あの人はたしか、十六歳で准将だった」
 ハルは懐かしむように頷いてから、でも、と続ける。ふとその眼差しが曇った。
「ヨハンナちゃんのお母さんは、女性だからって理由で随分苦労を強いられたみたい。中央よりも地方の方が、性別による格差が顕著だったみたいだね」
 その人はサシャの母の妹にあたる。現役の頃はとても優秀な軍人で、問題を抱えた若者たちの社会生活を支える仕事もしていたと聞く。それ自体は間違いなく立派な仕事なのだけれど、彼女の在籍していた当時の東方司令部ではあまり重要視されないものだった。「こんなものは女に任せておけばいい」という認識で、どんなに努力し結果を出しても評価される機会はごく僅かだったようだ。
「それが当たり前だと思ってたら、良いも悪いもないもんね。クレリアおばちゃんは大変だったんだ」
「うん。だからレヴィに直接訴えたりして、状況を変えようとしてたみたい。少しずつ認識が改められて、東方や他の司令部の環境も良くなってきた。……悲しいことに、変わることを良しとしない人もまだいるけどね」
 サシャたちがいるのはその延長線上のエルニーニャ軍で、これからも良い方向へ変わり続けなければならないのだろう。
 大総統が変わってから、それができるのだろうか。変革を考えるパクネー大将は、どのように舵を切りたいのか。
 今日は祖父母宅に泊まることにしているサシャには、まる一晩の考える時間があった。

「グリンテールって呼んでくれよ。長いからグリンでもいい」
 同室がいなくて退屈したグリンは、先程から懇願し詰め寄っていた。相手は謹慎期間も経て以前より少し距離が縮まったシャーロである。
「呼び方を強要するんじゃねえ」
「だって、インフェリアってうちの一族全員だからいっぱいいるじゃん。ちょっと長いしさ。俺はシャーロにもっと気軽に接してほしいんだよ」
「俺はてめえと仲良くはしねえ」
「えー、今更? 一緒に仕事する仲間だろ、俺たち」
 シャーロの方も同室が不在――彼はシャーロを怖がって部屋替えの申請を出している――であり、一人で部屋にいたところをグリンの襲撃にあった。つい部屋に入れてしまい、今に至る。
「わかんねえ奴だな。妙にしおらしく遠慮したかと思えば、図々しく部屋を訪ねて来たり。多重人格なのかてめえは」
 溜息とともに吐き捨てたシャーロに、グリンは朗らかに笑って首を横に振る。
「どれも俺だぞ。大丈夫だって判断した相手には遠慮しないだけだ」
「俺にはちったあ遠慮しろ。……チビ犬もそうだ。キャンキャン吠えてたかと思えば、妙に冷静になる。変な奴だよな」
 本人は嫌がるが、シャーロはまだサシャのことを「チビ犬」と呼ぶ。その呼称を聞いたときのグリンの気持ちは、最初とは少し変わっていた。
「いいな、サシャはあだ名で呼ばれて。嫌がってるから本人の前では言わないけど、俺はちょっと羨ましい」
「からかってんのを羨ましがるなよ、不気味な奴だな」
 それはともかく、とグリンは居住まいを正す。帰る気はまだない。ひとりの部屋に戻っても退屈で寂しい。
「サシャは俺より二つ年下だけど、すごく頭が良いんだ。トビ兄ちゃんも頭良いけど、サシャの方が、なんだっけ、知能指数が高いって言ってた」
 へえ、と気のなさそうな返事をしつつも、シャーロは自分の認識とグリンの言葉をひとつひとつ照合していた。
 サシャが賢いというのは知っている。おそらく年齢に不相応なくらいに。小説が読めないのは登場人物の動向や感情に呑まれてしまうからであり、けっして理解できないからというわけではないらしい。論文や報告書は正確に理解した上で考察も持てる。高い洞察力と論理的思考能力を持っているのだ。
 トビというのは、文派特殊部隊にいた青年のことだ。左右の目の色が違うなど、サシャとは似ていないが、どうやら彼の兄のようだ。思い出すと掴まれた腕が、記憶している痛みを再現しそうになる。賢そうな顔をしているし文派で働いているにもかかわらず、能力はサシャの方が上なのか。
 ギフテッドというものかもしれない。天から与えられたような、尋常ではない力。軍御三家の末裔だからか、それともサシャが覚醒したのかはわからないが、とにかく高い能力だ。
 良いようにも悪いようにも発揮できる大きな力は、利用の仕方が持ち主の人生を変える。グリン同様、サシャも環境にアイデンティティの生き死にが左右されるといえる。
 幸いにして彼らには、心強い先輩たちがついている。そう簡単に邪な者にとらわれることはないはずだ。
 ――いや、どうして俺がこいつらのことを心配するんだよ。
 気づけば随分肩入れしている。シャーロは舌打ちし、壁を殴る――のはやめて、グリンを振り返った。
「てめえとチビ犬は付き合いが長いのか」
「うん。母さんはサシャが生まれてからずっとって言ってた。サシャの父さんは俺の母さんの上司で、伯父さんの友達でもあるから」
「そういやそうだっけ。じゃあ、チビ犬のことはなんでも知ってるってわけだな」
 叩いた軽口は、しかしグリンの眉尻を下げた。困ったように笑って、ゆるく頭を振る。
「なんでもってわけにはいかないぞ。サシャは俺のことを気遣ってくれる分、自分の中に溜め込むものもたくさんあるんだと思う」
 それは嬉しいけれど、同時に情けなくて悔しいのだと、表情がわかりやすく語っていた。

 講演会はいよいよ明日に迫り、準備も大詰め。あちこち動き回るのは階級の低い者たちと、そして女性たちだ。
 彼女らはパクネー大将の直属の部下や彼女を慕う者で、講演会の準備に積極的に取り組んでいる。少なくとも男性陣より余程働いていた。
 ドナー大将とその部下たちは、早い段階で抜けている。クラシャン大将は時折様子を見て手を出し口を出ししていくが、部下たちを進んで動かしてはいない。
 そしてセンテッドは特に誰かに指示をするということはなく、各々の自主性に任せて黙々と自分の担当の仕事をこなしていた。つまり、普段と全く変わらない。
「センちゃん、ばあちゃんは何も問題ないってさ。みんなに会うのを楽しみにしてる、って」
「そうか」
 安堵を見せてから、いつもの「仕事中は大将と呼べ」がついてくる。冷静に見えるセンテッドも、案外緊張しているようだ。
「楽しみだね、スティーナ氏に会えるの。彼はボクらのスターだものね」
 そこへひょっこりと現れたのはプルムだ。サシャに軽く、センテッドにはやや丁寧に挨拶をし、続ける。
「これをきっかけに、地方や他国でも講演しないかな。ボクの両親もスティーナ氏に会ってみたいって」
「ばあちゃん、南で大人気だもんね」
 プルムはエルニーニャ南部の出身だ。両親はそれぞれ南方の町の出身と、そして南の大国サーリシェリア出身者である。
 サーリシェリアの古い民の血をひくハルは、大陸の南側に暮らす人々に大変な人気がある。エルニーニャの大総統を務めたことで、中央と南の関係もさらに良好になったという。
 プルムが産まれたのもその経緯の中でのことで、一家揃ってハルに好印象を持っている。彼がサシャを可愛がってくれるのは、そういうわけもあってのことだった。
「あまり忙しくなると身体に障りがないか。スティーナ氏も高齢だろう」
「動ける限りはどこにでも行きそうだよ。ばあちゃん、人が好きだから」
 心配してくれるセンテッドに礼を言い、講演会を無事に開催させることを誓う。ハルの身に何かあれば自分が動くのだと、サシャは意気込んでいた。
 ところがセンテッドとの話を終えて事務室に戻る途中、どこかから声が聞こえた。
「講演会なんて何が楽しいんだよ」
「スティーナなんて三代も前の大総統だろ。話なんか聞いたって、時代遅れで意味なさそうだけど」
 戸を開け放した部屋で、誰かが会話をしている。そういう人もいるだろうと思いつつもそっと覗いて、納得した。彼らはドナー大将の取り巻きだ。
 あの時代の様々な変化を、よく思っていない人もいる。彼らはまさにそういう立場なのだ。聞かなかったことにして通り過ぎようとしたサシャの耳に、突如、かつかつと高く激しい靴音が届いた。
 サシャの脇をすり抜け、開け放されていた部屋に躊躇いなく入り込んだその人は、凛と張りのある声で彼らに告げた。
「時代遅れは貴方たちの方です。貴方たちのような男性がこの国の発展を妨げていると、何故気づかないのです?」
 思わず隠れて、動向を見守る。小柄だが存在感のある女性は、やはりパクネー大将だった。急に現れた上官に、会話をしていた者たちはたじろぎながら姿勢を正す。
「あの、今のは」
「言い訳など見苦しいですよ。貴方たちはスティーナ氏の功績をわかっていない。彼はかつてこの国で踏みにじられていた人々を救ってくれたのです。ええ、本来なら彼の功績は現代においては土台として機能し、当時のことは古い歴史のひとつとして語り継がれるべきでしょう。しかし実際は貴方たちのような化石の如き認識を持つ者が存在するために、いつまでも尊厳を勝ち取る戦いの最前線であらねばならない」
 嘆かわしいこと、と締めくくるまでは一息もつかなかった。部屋にいた者たちは唖然としていて、話を掴めたかどうかは表情からは読み取れない。
「まったく、男性は自らの立場を古い考えによってしか保てないのですね。弱者を抑圧し、自分が威張れなければ、住み良い社会と認めない。だから変革を見下し妨げるのでしょう。この国の社会を大きく変えたスティーナ氏の功績から目を背けようとするのでしょう」
 さらに捲し立ててから、肩を竦め、相手を鋭く睨む。何も返ってこないのを見て、呆れたような、しかしどこか満足気な表情を浮かべた。
 割って入って口を挟んでもいいものか、それともここは何も見なかったことにして立ち去るべきか。後者の方が面倒はないとサシャもわかっている。
 けれども祖母の名がこんなふうに使われるのは心外で、一言物申したい気持ちもある。
 悩んでいると、用事を終えたらしいプルムが通りかかり、サシャを見止めて手を振った。
「どうした? まだ用事あったか」
「ううん。もう行こうと思ってたんだけど」
 その会話が室内にも聞こえたらしい。パクネー大将が振り返り、こちらと目が合った。
「まあ、ハイル軍曹。もしかして聞いていたかしら」
 パクネー大将の目が光ったように見えた。獲物を捉えた肉食獣の目だな、と思っていると、彼女はにっこりして責め立てていた相手に向き直る。
「ご存知でしょうけれど、彼はスティーナ氏のお孫さんです。きっと貴方たちの暴言にショックを受けてしまったことでしょう」
 もう逃げられないと悟る。巻き込まれた以上、なんらかのアクションを起こさなければ、ここから離れることはできないだろう。
「スティーナ氏を侮辱されて、悲しみや怒りが湧かないはずはないでしょう?」
 パクネー大将はサシャは当然そう思っていて、だからこそ自分の味方だろうと考えている。何と答えてもサシャにとっては良いことにならない。困り果てていると、プルムが部屋を覗き込んで首を傾げた。
「何があった。そこの二人、先日の怪我はもういいか」
 どうやら彼らは医務室の世話になったばかりらしい。戸惑いつつ頷くと、プルムは元々笑っているような目をさらに弓なりにした。
「痛むならまた医務室おいで。痛み止めもあるからね。……で、お前たち、スティーナ氏のこと何言った?」
 実は、と切り出したところを見ると、彼らはプルムを信頼しているようだ。一連のできごとを、自分たちがハルの講演会を面白くなさそうと思っているところから正直に語った。
 途中で口を挟んだパクネー大将のことはきれいに無視して、プルムは話を聞き終える。そうしてさらりと忌憚なく、大将の位を持つ彼女に言った。
「パクネー大将は勘違いしてるよ。スティーナ氏がしたかったこととはまるでかけ離れた解釈だね」
「なんですって?」
 柳眉を歪ませるパクネー大将の迫力に、しかしプルムは全く怯まなかった。笑ったような目を薄く開き、だって、と続ける。
「あの人がどうして福祉政策に心血を注いだのか。それは社会で生きる中で傷つく人を減らすため」
「だからわたくしは傷ついた女性を救うために、加害者たる男性に償いを要求しているのです」
「違うね。大将のやってることは立場をすげ替えるだけ。それじゃ永遠にスティーナ氏の目指す世界は実現できない」
 口を開けたまま声は出さないパクネー大将に背を向け、プルムは歩き出す。我に返った軍人たちもそそくさとその後を追った。
 サシャは振り返りながら、小柄な女性大将の握りしめる拳を見る。真っ白になったそれは震えていた。
 何か声をかければ良かったのだろうか。でも適切な言葉は見つからず、先を行くプルムに追いつこうとする。彼はしばらく医務室に向かって進んでいたが、やがて足を止めた。
「……プルムさん、さっきのは」
 ゆっくり近づいて話しかけると、プルムは申し訳なさそうに眉尻を下げ、頷いた。
「うん、言い過ぎた。ごめん、サシャ。勝手にスティーナ氏の名前を使ってしまった」
「それは大将が先にしたことだから……。でも、ちょっとらしくない気がして」
 プルムは穏やかで、人と言い争いになりそうなときは自ら引いて躱す。文句があっても医務室で軽く愚痴をこぼす程度だ。あんなふうに強く言い返すところを、少なくともサシャは初めて見た。
 そしてパクネー大将がああしてむきになっているのも、彼女らしからぬことだと思う。普段から主張の強い人ではあるが、今日は余裕がなさそうだった。取り巻きも連れていない。
「ボクも大将も、今はちょっとイライラしてるよ。原因はきっと同じこと」
「同じ? なんでわかるのさ」
 訊ねながら、もうサシャの頭の中では結論を出すべく情報を取り出し揃えていた。何しろヨハンナと三日間、ずっと調べて詰めてきたのだ。
 パクネー大将とプルムを繋ぐものは、二人ともかたちは違えどハルを尊敬しているという事実。そしてもうひとつ――。
「あの人の取り巻きが」
「もしかして、新型薬物の件でセンちゃんたちが動いたの? パクネー大将の取り巻きの人を、重要参考人として捕まえたとか」
「……さすがだね。言う前に当てちゃった」
 サシャはやっぱり頭が良いなあ、と感心するプルムは、しかし笑ってはいなかった。

 終業時間も間近になって、第三休憩室に集合がかかった。いつもはグリン、サシャ、シャーロの三人にヨハンナが指示をし、報告や情報の整理をする。そうして次の行動を決めるのだが、今日は様子が違う。
 部屋にはさらにサウラとプルム、それにセンテッドまでもが揃っていた。
「新型危険薬物の件は、ここからは私が担当する」
 センテッドが告げると、グリンは目を丸くし、シャーロは「やっとか」と呟いた。サシャはただ静かにセンテッドを見つめていて、その意図はどうやら正しく伝わったようだ。
「……正確には、この件を問題にしたのは私とナイト医師だった。しかし捜査の都合上、私自身も容疑者であることにしておく必要があったんだ」
 真実が一つ明かされる。シャーロが眉間に皺を寄せ、グリンの大きく見開いた目には炎がちらついた。
「なんで? 俺、センちゃんのこと疑わなきゃいけないって聞いて、すごく辛かったんだぞ」
「すまない。だがその辛い状況で、君たちはよく働いてくれた。おかげで実行犯を一名、明らかにすることができた」
 今は問い詰めさせまいと、至って冷静に話を進める。そんな姿を見たら従うしかなくて、グリンは目を閉じ、深呼吸をした。
 センテッドから、改めて事件のあらましが説明される。まず新型危険薬物が現場から少しずつ発見されるようになり、しかしながら裏での流通は確認されないという事態が起きた。
 発見はクラシャン、ドナー、パクネーの三大将が担当している事件に限られており、そのことから彼らの周辺を調べる必要が生じた。これがグラン班に課された任務である。
 調査の結果、大将ら自身の容疑はほとんど晴れた。彼らにはそのようなことをする動機も、薬物に違法に関わったという証拠もなかった。
 だが彼らの取り巻きたち、つまり新型危険薬物の発見現場に実際にいた者たちの容疑はより一層深まり、本日遂に一名の身柄を確保した。
 ある女性軍人――パクネー大将の部下で、取り巻きの一人であった。
「午前のうちに話をして、身辺の捜査とかしながらパクネー大将に連絡した。寮の部屋から見つかった薬物の痕跡を分析して、結果をセンテッドに伝えたんだ。それが今日の流れ」
 サウラの説明を聞いたサシャが微かに頷いた。分析結果の伝達に動いていたプルムと鉢合わせ、その後でパクネー大将に会ったのだ。道理で二人とも機嫌が悪かったわけである。
「その人が捕まったってことは、この件は解決?」
「そうじゃねえだろ。そいつ一人で全部やったわけじゃねえ」
 首を傾げたグリンの言葉をシャーロが否定し、視線をセンテッドへと投げる。肯定はすぐに返ってきた。
「彼女の行っていない現場でも起きている。少なくともあと二人は実行犯がいると見ている」
「なんであと二人? これまでの現場って、ええと」
 捜査を始めた頃は五件だった。しかしその後、三件増えているという。現在の内訳はクラシャン大将の管理下で二件、同じくドナー大将で三件、パクネー大将で三件というのが最新の状況だ。
「彼女はパクネー大将の部下だ。犯行を認めたのも三件。クラシャン大将とドナー大将の管轄の任務には一切参加していないので、危険薬物を仕込むのは不可能だろう」
「やっぱ上司の手柄を増やしてやろうとしたのか? これじゃ逆に不祥事だろ」
 ざまあみやがれ、と吐き捨てたシャーロは、ヨハンナに軽く叱られた。だがサウラが真剣な声で「その通りなんだよねえ」と受ける。
「シャーロ、君のその考えを彼女も持ったんだ」
「は? どういう意味だよ」
「実行犯の目的は、自分の上司の不祥事を作ることなんだ。ざまあみろって思いたかったんだよ」
 今度はグリンが怪訝な顔をし、シャーロはあっさり納得したようだった。なるほど、と言うと、なんで、が来る。
「なんでシャーロはそれでわかるんだよ。だって、上司の不利になるようなことをわざわざするのか? それも普段一緒にいたんだろ。みんなすごく慕ってたように見えたけど」
 確保された彼女はパクネー大将の取り巻きだという。ならばより一層わからないと、グリンは混乱していた。彼女らは傍目に見て、あんなによくまとまっていたのに。
「一緒にいたのは裏切る瞬間を狙ってたからじゃねえの。本当は失脚させてやりたいと思うほど恨んでたんだ。別に珍しいことじゃねえ」
「だったら他にも実行犯がいたとして、その人たちも同じ考えってことなのか?」
 緊張しながら恐る恐る、グリンは問いを口にする。そうだね、と答えたのはサウラだ。
「可能性は高い。そういう人たちが選ばれたのかもしれないね」
 それぞれの上司の失脚を目論む者が、危険薬物を手にした。回を重ねれば自分の犯行であるとわかるように、もしかしたら上司の指図ではと疑われるように、それを利用した。
 自分の身を捨ててまで、彼らの立場をなくそうと考えた。――だとしたら、あまりにも激しく深い感情と因縁があるのでは。
 そしてそういう者を見出し、薬物を渡した人間がいる。この事件には、黒幕が存在するのだ。
「念のため確認を。確保された彼女に薬物の知識は」
「現場に出るのに必要な程度はあるよ。でも詳しくはない。薬物は小包で送られてきたんだって」
「へえ……。じゃあ彼女は黒幕のことも、顔や名前は知らないかもなのね」
 ヨハンナがふむふむと頷く。黒幕については改めて捜査が必要らしい。
 これからの捜査の方針としては、残る実行犯の確定と、黒幕を明らかにして確保するといったところだ。これはグラン班の手には余る。センテッドが出てきたということはそういうことだ。
 では、新人ばかりの小さな班にできる仕事は、もう終わりなのだろうか。
「……パクネー大将は、明日の講演会の準備から外されたの?」
 ぽつりと、サシャが問う。今まで黙っていた分不意をつかれ、センテッドは少し慌てて答えた。
「いや、外されてはいない。彼女自身も最後までやるつもりらしい。しかし……」
「でも弱味につけこみたい人は、彼女が一番やりたい仕事を取り上げるチャンスだと考えるかもしれないね」
 言い淀んだところをサウラが引き取る。彼が特定の人物を指していることは、サシャにもわかった。
 つい何日か前のことだ。ヨハンナやシャーロも巻き込まれて被害にあったのだから、ここにいる全員が思い当たる。――この件を知ったら、ドナー大将は舌なめずりをするだろうと。
「サシャ、放っておきな。お前にどうにかできることじゃない。それにあの人が講演会の準備を降りても、何も損はない」
 プルムはそう言う――そうするだろうとサシャには予想がついていた――が、体がもう動いていた。
 第三休憩室を飛び出し、背中に「まだ終わってないよ」という従姉の声を浴び、振り返らずに走る。
 ヨハンナは追いかけなかったが、額を押さえて溜息を吐いた。
「まったく、あの子は……。あの、話はあたしが後で改めてしておきますので」
「止めはしないんだな。どこに行ったかわかっているのか」
「ええ、なんとなく。悪いことはしないはずです。ああいう子ですから」
 言わんとしていることはグリンにもわかる。サシャがしようとしていることも、長年の付き合いでもしかしてくらいには想像できる。
 だが、上手くいくかどうかは別だ。サシャが傷つくのを、グリンだって見たくはない。
 心配でそわそわしていると、突然手を掴まれた。驚いている間に引っ張られ、足が進んだ。
「行くぞ、グリン」
 彼の口からは初めて聞く呼称に呆然としていると、舌打ちと怒鳴る声が続いた。
「サシャを追わねえとだろうが! ドナーの取り巻きみたいに、あの女の周りも何しでかすかわかったもんじゃねえ。ボコられてからじゃ遅えんだ!」
「う、うん! ええと、センちゃん、ハナちゃん、あの……!」
 行かせてほしい、と声に出さなくても、師と先輩は苦笑しながら頷いたり、手を振ったりしてくれる。叱るのは後回しにして、サシャのことをグリンとシャーロに任せてくれたのだ。
「弟分に甘いねえ、君たちは」
「センセも甘いよ。何も言わないんだから」
 子供たちが走り去るのを見送って、サウラとプルムも穏やかに、そして少しばかり朗らかに笑った。

 違和感はあった。確かに彼女は高慢だが、あんなやり方をするだろうかと。
 ――最初は、またドナー大将と衝突したのかと思ったんだ。
 男性を糾弾するような言葉を並べていたから、喧嘩が原因の不機嫌の延長で、不意に耳に入った声につい反応してしまったのではないかと。
 ――スティーナ氏を侮辱されて、悲しみや怒りが湧かないはずはないでしょう?
 だがサシャへの問いかけは、違うニュアンスも含まれていたのではないだろうか。
 ドナー大将は確かにスティーナ政に好印象を持ってはいない。その取り巻きたちも、彼ら自身が言っていた通りだ。
 だが、パクネー大将は聞いたこと以上に悪い受け取り方をした。いつものように「これだから理解のない人は」などとあしらって、無視してしまえば良かったのだ。でもそうしなかった。
 あのとき、彼女は部下が自分を裏切ったと知っていた。自分を囲んでいた絶対的な味方が、実はそうではなかったのだと知らされた。それを踏まえると、彼女の感情は。確かに彼女なりの悲しみと怒りを持っていたのだろうが、加えてもうひとつあったのでは。
 サシャは彼女の周辺を、取り巻きたちを、集中的に調べたのだ。グリンやシャーロが仕事に出てこられない間、あんなにパクネー大将を称え信頼する声を聞き続けた。その中に真の感情は巧妙に隠されていて、けれども遂に暴かれた。
 この経緯には、サシャも関係している。責任がある。――だから、想像できる。
 司令部内を駆け回る。危ない、と叱られても、止まらず走り続けた。探す姿は将官執務室にはなく、食堂、中庭と巡る。
 薄らと青い、遠い北の海に浮かぶ氷のような色をしたまとめ髪を見つけたのは、練兵場の片隅だった。
 ここで明日、ハルの講演が開かれる。
「パクネー大将!」
 あらん限りの声を張り上げ叫ぶと、振り返った彼女は一瞬驚き、それから眉根を寄せた。
「……大声で呼ばないで。耳が痛くなってしまいます」
 非難しつつも瞳は揺れ、サシャを見ていた。
「何かご用? 先程のことで文句がおあり?」
「違うよ。……さっき気づかなくてごめんなさいって、言いに来たんだ」
 そっと近づき、傍らに立つ。怪訝な表情の彼女に、サシャは思った通りのことを告げた。
「寂しかったんだよね、大将」
「……え?」
 不意をつかれ困惑の色を浮かべた彼女に、構わず続ける。
「みんな志は同じだと思ってたのに、そうじゃなかったから。だからオレは味方だって確かめたかった。一緒に悲しんだり怒ったりして欲しかった。そうだったんでしょ?」
 パクネー大将の「自分は正しい」という絶対の自信は、部下の裏切りで綻びができてしまった。ひとつの傷もない完璧な世界だったのに、敵につけ入る隙を与えてしまった。
 軍内部の不祥事はまず将官執務室で共有される。今回のことはすぐにパクネー大将以外の将官らにも伝わっただろう。それ以前に三大将のマークが外れてすぐ、部下の動向に気をつけるよう通達があったはずだ。
 日頃から彼女を疎ましがっている者たちは、今回の事態を内心では嬉々として受け止めたのではないか。いや、ドナー大将あたりなら内心に留めておけず、直接パクネー大将を責めたかもしれない。
 苛立ちとそれを超えた絶望が、今、彼女を孤独にしている。それがサシャの見立てだ。
「でもさ、まだ捜査は途中なんだから。そこまで落ち込まなくてもいいんじゃないかな。全てを失ったわけじゃないよ。もっと広く周りを見れば、味方だって」
「お黙りなさい。貴方に何がわかるの」
 励まそうとした言葉に返ってきたのは、氷のような冷たさと鋭さだった。
 竦んで口を噤んだサシャに、何がわかるの、ともう一度。それは問いではない。
「貴方はわたくしではないでしょう。全て憶測に過ぎないわ。人の気持ちを勝手に想像して、決めつけて、さも理解したかのように近づく。……スティーナ氏のお孫さんだからと期待したけれど、結局貴方も他の人と同じ」
 溜息を吐いて、パクネー大将はサシャから目を逸らした。そうして短く吐き捨てる。
「気持ち悪い」
 小さく呟くような声だったけれど、胸に深く刺さり抉った。

 練兵場へ向かうのを見た、と聞いてグリンとシャーロは走ったが、そこに辿り着くことはなかった。それよりも早く、探す姿を見つけたのだ。
「サシャ、そこにいたんだな」
 まさに練兵場の方から歩いてくるサシャに、グリンは安堵した。が、それも一瞬のこと。こちらに気づいて作った笑顔に、いつもの元気はなかった。
「二人とも、追いかけてきたの? センちゃんたち怒ってない?」
「怒ってなかった。それよりサシャ、何があったんだよ。パクネー大将には会えたのか」
「会えたよ。でも、余計なことしちゃったな」
 ふわふわの頭をがしがしと掻いて苦笑いする。ちょっとした失敗を軽い笑い話にするときのように。
「望まれないのに暴走してさ。オレ、最低だね」
 口調も明るく、五分も経てば忘れていそうなのに、絶対にそんなことはないのだとグリンは知っている。
 同じ言葉を聞いた。二年ほど前に、彼は膝を抱えて、泣きそうな声でその台詞を口にしたのだ。理由は教えてもらえなかったが、あの光景と響きを忘れるものか。
「……強がらなくてもいいぞ。そう言うってことは、笑っていられるようなことじゃなかったんだろ」
「じゃあどんな顔しろってのさ。いいんだよ、ここは職場でオレはまだ仕事中なんだから。まあ、サボってるんだけどさ」
 いいから戻ろう、と目を逸らす。グリンはサシャのこういうところを、自分よりずっと大人っぽくて、だけど自分と同じ子供なんだと思う。
 ここは大人の助力を得るためにも戻った方がいいのかもしれない。グリンは再びサシャを追おうと、踵を返した。
「いや、今日はもうサボろうぜ。上司の許可は得てんだからよ」
 ところが実年齢がほんの少しだけ大人なはずの彼が、行く手を塞いだ。
「シャーロは戻らないとまずくない? どれだけサボってんのさ」
「うるせえな。せっかくこの俺がいい子ちゃんしてるてめえらに、サボりの極意を教えてやろうってのに」
 グリンは目をまん丸にし、サシャは呆れて額を押さえる。その隙にシャーロはすたすたと先に行ってしまう。
 このまま彼を放っておくわけにもいかず、二人は躊躇いながらもその後を追った。
 速歩でやってきたのは見慣れた中庭。周囲にはちらほらと人が見える中、三人はいつもの大樹の下で足を止めた。
「なんだよ、極意っていうからどんな悪いサボり方をするのかと思ったら」
「仕事してるやつらがすぐ近くにいるのに、堂々とサボるんだぜ。これこそ極意だろ」
 じとりと睨むサシャに事も無げに返しながら、シャーロは木の幹に足をかける。そこに勢いよく体重をかけ、両手を伸ばして頭の上の枝を掴む。もう片方の足も持ち上げ、軽快に登っていく。重力に逆らうような動きは、こんなときでも見ていて爽快だ。
「じゃあ、俺も!」
「グリンまで……。センちゃんに怒られるぞ」
「センちゃんは許してくれる。ほら、サシャも来いよ」
 グリンは先に慣れたやり方で低い枝に到達し、そこからサシャに手を伸ばした。背の高いグリンは手も子供にしては大きく、そろそろとあげたサシャの手を包むように、力強くも優しく掴む。引っ張りあげられる力と自らの手足で、サシャも木に登った。
 夏の緑は降り注ぐ光を透かしつつ遮りつつしながら、心地よい風を通す。樹上は気持ちがよく、太い枝と幹に上手に寄りかかると、だんだん清々しい心持ちになってくるのだった。
「クラウンチェットはさ」
 やがて、サシャが切り出した。視線は更に上の木々とその向こうの空に向けられたままだったので、グリンも同じようにする。シャーロもそうしているようだった。
「夏はレジーナより涼しいんだ。昼間の地上もこれくらいの気温で、風が吹いてる。実家の一番大きな窓を開けて空気を入れ換えながら、オレと妹は兄ちゃんが本を読むのを覗き込んでた」
 妹のフェリシーはすぐに飽きて、自分の絵本や図鑑を引っ張り出してきて読み始めるのだが、サシャはずっと兄の隣にいた。真剣に文章を追う兄のトビとは違い、サシャは所々をつまみ食いするように見ているだけなのだが、それでも楽しかった。
「てめえは本は読めねえんじゃなかったか。それとも兄貴が読んでたのは学術書か何かか」
「ううん、小説だよ。兄ちゃんが読んでたのはミステリー小説だった。兄ちゃんってば面白いんだ、読みながら表情が変わるんだよ、登場人物になりきったみたいに」
 そういえばそうだったな、とグリンは頷く。トビはそうして物語と一体になって、読むということを楽しむタイプだ。
「……でさ。次の章で探偵役が全てを解き明かすってところで、兄ちゃんは本を閉じた。父さんの手伝いをする約束をしてたから、続きは後にしようと思ったんだよね。きっとすごく楽しみにしてたはずなんだ」
 そのときのトビの気分は、登場人物の誰に近かったのだろう。探偵役と一緒に推理をしていたかもしれないし、事件に関わる人たちの気持ちを想像していたかもしれない。
 でもオレはそれを壊した、とサシャは言った。
「父さんを手伝いながら、オレは兄ちゃんにずっと話しかけてたんだ。兄ちゃんのこと大好きだから、兄ちゃんが好きな本の話をしたかった。で、さっき読んでた小説の、その先の話をしちゃった」
「……ネタバレしたってことか? 先に読んでたのかよ」
「ううん、だってオレ、小説はひとりじゃちゃんと読めないもん。だからさ、つまみ食いした内容だけで、誰がどうやって何の目的で事件を起こしたのかを全部推理して、得意げに披露しちゃったんだ」
 驚きと呆れが混じったような声を出すシャーロの隣で、グリンは瞠った目でサシャの横顔を見た。笑っているのに泣きそうで、絶対にこっちを見ようとしない、幼馴染を。
「兄ちゃんはそのときは感心しながら聞いてくれたけど、手伝いが終わって続きを読み始めたら、だんだん表情を無くしていった。登場人物に寄せようともしないで、ただただ戸惑いながらページを捲ってたよ。それで、推理パートも真犯人の釈明も通り過ぎてから、オレを見て言ったんだ」
 ――すごいな、サシャ。全部君の言った通りだった。
「驚いてはいたけどさ、全然楽しそうじゃなかった。わかる? オレ、兄ちゃんの楽しみを奪ったんだよ。何も考えずに思ったことをそのまま言って、それで相手の大切なものに傷をつけたんだ」
 二年前の話だ。その少し前から、サシャは理論読解や空間認識の能力を測るテストで好成績を出し始めていた。それも兄がレジーナの学校から持ち帰ってきて、弟妹と遊ぶつもりで広げたものだった。
 サシャには天才的な能力があって、開花後も植物の蔓が天を目指すようにするすると成長していった。家族も知人らもそれを褒めてくれたから、できることを増やして教えるのは気持ちの良いことなのだと思っていた。
 小説の肝心を解き明かし披露したのもそのためだ。兄にすごいねと言ってほしかった。でも、聡すぎたサシャには実際に告げられたその言葉が、褒め言葉ではないということも瞬時にわかってしまった。
 いや、兄のことだから、感心してくれたのは確かなのだろう。その後不満を漏らすことも一切なく、翌日には何事も無かったかのようにレジーナのひとり暮らしの自宅へと戻って行った。
「調子に乗っちゃだめなんだってことは、あのときよくわかったはずなんだ。グリンは自分の力をコントロールできるように頑張ってるでしょ、オレもちゃんと抑えなきゃって思ったんだよね。……だけど、大失敗した」
 勝手に突っ走って、人の気持ちを解き明かしたつもりになって、こうなのだろうと披露して。あまつさえ、理解したのだから励ませると思い上がりもした。
 そうして得た返事は「気持ち悪い」だ。――もしかしてそれは、あの日の兄の真意だったかもしれない。
「そう思ったら、心臓を握り潰されたみたいに苦しかった」
 全てを吐露し終えたのか、サシャは両手で顔を覆った。ばかだなあ、と呻きながら。
 怖い。悔しい。腹が立つ。そういう気持ちが湧き上がってきて抑えられないのだと、グリンはわかる。よく知っている感情だ。今のサシャは、眼の力を制御できなかったときのグリンなのだった。
 こういうときに、何て言ってもらったら落ち着くのだろう。自分のときはどうしてもらったのだったか。必死で思い出そうとするが、あんなに感謝したはずなのに、なかなか出てこない。
 一緒に呻き始めかねないグリンの傍で、シャーロは溜息混じりに「なるほどな」と言った。
「サシャが小説を読めねえのは、兄貴のせいでもあるってわけだ」
「……は?」
 言葉を拾ったサシャは、呻くのを止めた。顔から手を退け、父譲りの鳶色の瞳でシャーロを睨む。はっきりと怒りをあらわした視線に、間にいたグリンは竦んだ。
「ねえ、兄ちゃんのせいって言った? なんで? オレの説明が悪くて誤解したかな」
 珍しく名前で呼ばれたことよりも、そちらの方が余程重要とみえる。グリンからすれば当然だと思うが、シャーロは鼻で笑って続けた。
「兄貴とのことがトラウマになってんだろ。読書も、パクネー大将とのやりとりも。だったら兄貴のせいで臆病になったってことじゃねえか」
「違う! 兄ちゃんのせいじゃない。兄ちゃんはオレの被害者だ!」
「何が被害だよ。ネタバレくらいでショック受けて、弟恨んでんじゃねえっての」
「そんなんじゃない! 兄ちゃんはそんな人じゃないよ! 優しくて頼もしくてかっこよくて、オレの自慢の兄ちゃんなんだ! 何も知らないくせに悪く言うな!!」
 距離がなければ今にも掴みかかりそうなサシャに、シャーロは狼狽えもしない。その間でおろおろしながら、グリンは二人の言葉を反芻する。――もしかして、もしかしたら、喧嘩なんてしなくてもいいことなのかも。
「ああ、知らねえな。わりと美人なのに力強くておっかねえってことしか、てめえの兄貴については知らねえ」
 思い出したように腕を擦るシャーロが、だから、と次ぐ。視線はサシャに真っ直ぐ向けて。
「サシャ自身の認識が正解なんじゃねえの。パクネー大将がこうだったから兄貴も、なんてことは多分ねえよ。実は過ぎたことをぐちゃぐちゃ悩むような奴だったんだな、てめえは」
 つり上がっていたサシャの眉と眦が、怪訝そうに歪んでから、ゆっくりと下がる。左右の二人を交互に見比べていたグリンも、ほっと息を吐いた。
 そう、サシャは賢いのだ。相手が何を言いたいのか、落ち着いていればすぐに悟ることができる。グリンはそのことを、幼い日から知っていた。
「……悔しいなあ。シャーロなんかにカマかけられて諭されるなんて。しかもいつの間にオレのこと名前で呼んでるのさ」
 なんかってなんだよ、と不機嫌そうに言い返すシャーロに、サシャはにっと笑う。嬉しいときの笑い方だと気づいて、グリンもつられて笑った。
「二人でにやにやしてんじゃねえよ。気味悪いぜ」
「だってシャーロが優しいから。それにそうだよ、トビ兄ちゃんがサシャを悪いように思うなんて絶対にない。だからそのことは、今日のことと結びつけなくていいんだ」
 やっと適切な言葉を見つけたグリンに、サシャは頷く。そして、そうだよね、と大きく伸びをした。
「今考えるべきことは、今回の失敗だ。パクネー大将に不快な思いをさせたのをどうするか。危うく兄ちゃんと大将の両方に失礼になるところだったよ」
「切り替え早いじゃねえか。さすがチビ犬、小回りが利く」
「犬じゃないってば」
 いつもの調子を取り戻してきたところで、三人での話し合いが始まった。そうしているうちに終業時間を過ぎてしまったが、夏の明るい空の下では気にならなかった。

 講演会は午後四時から。しかし当日の昼過ぎには、ハルは中央司令部を訪れていた。大総統執務室で話をしたり、司令部内を可能な範囲で見て回ったりするためだという。
「そっか、パクネー大将とはまだぎくしゃくしそうだね」
 案内役を任されたサシャが昨日の出来事を正直に打ち明けると、そう言って頷いた。あれから結論は出ず、謝りたくてもそんな機会はない。ヨハンナに事情を話すと「ちょっと放っておいてあげなさいよ」と言われた。
「ボクもヨハンナちゃんと同じ意見だよ。ちょっと様子を見てもいいんじゃないかな。焦って余計に拗れるよりは、お互いに傷を癒す期間を設けた方がいいかもね」
「お互いに?」
「だって、サシャも傷ついたでしょう。相手に傷つけるつもりが無かったとしても、棘のある言葉を受け取れば傷つくよ」
 てっきり、人の気持ちを考えずに暴走した自分は傷ついたなんて思ってはいけないのだと思っていたが。事実は事実でしょう、とハルは優しい祖母の顔で言う。
 サシャは頷き、自分の傷を認めてやることにした。それにいち早く気がついて、癒してくれようとした友人たちのことも。
「……グリンとシャーロに、改めてお礼を言わなきゃ。オレが立ち直れたのは二人のおかげだもん」
「良かった、サシャに良い友達がいて。それなら今の中央司令部がちょっと危なくても、なんとかなるって信じられる」
 にっこりしたハルだが、その言葉はぎくりとするものだ。サシャが問い質すべきかと迷っていると、後方から親しい声がした。
「サシャ、ハルさん! お疲れさま!」
「おや、噂をすればグリン君。こんにちは」
 廊下を走らない程度に速歩でやってきたグリンは、一礼してからにんまりする。
 仕事はひとまず片付けてきたらしい。一緒に案内してもいいかと言うので、サシャとハルは快く頷いた。
「それにしても、今日のハルさんはかっこいいな。いつもと雰囲気が違う」
 グリンの言う通り、講演会のためにおめかししてきたのだというハルは、普段とは全く異なる格好をしている。家では三つ編みにしてまとめている長い髪を、今日は一つに束ねて下ろしている。服装もどちらかというとゆるくフェミニンな普段着ではなく、体型にきちんと合わせたスーツだ。
「こういうときくらいはね。かっこいいって言ってくれて嬉しいよ」
「じいちゃん、惚れ直してたでしょ」
「アーレイドは毎日毎時間惚れ直してくれるよ。出会った頃からずーっと」
 子供相手にさらりと惚気て、それから窓へと目をやる。ここからはちょうど中庭の大樹が見えるのだと、もちろん彼は知っていた。
「変わらないのはね、そういうのくらいでいいんだ」
 こぼした言葉に首を傾げた孫たちの頭を、彼は優しく撫でた。
 開始時間が近づくにつれて、会場となる練兵場に人が集まってくる。準備は主に若者たちと将官らで行なったが、当日の聴講には尉官や佐官、階級を持たない職員たち、そして軍外からも多くの人がやってきて賑わっている。
 その分警備も厳重であり、特に用もなく講演も聴かない者には警護班としての仕事が与えられた。
 グラン班は揃って会場内の案内と警備を担当する。この役割は仕事をしながら講演を聴くこともできる、彼らにとっては忙しくもおいしい立場だ。
「エルニーニャ王国史上最も美しい大総統、か。たしかに美人ではあるな」
 感心するシャーロに、サシャは得意気に「そうでしょ」を繰り返す。鬱陶しい、と一蹴してから客席に目を向けると、一際目立つ一団が現れた。
「おい、パクネー大将だぞ。元気そうじゃねえか」
 どきりとしたサシャの目が、ぞろぞろと女性軍人を連れたパクネー大将を捉えた。堂々とした佇まいと大勢の取り巻きは、普段となにひとつ変わらないように見える。昨日のことは夢だったのかと錯覚させるくらいだ。
 彼女らは設えられた演壇に近い場所を陣取り――先に数人の部下に押さえさせていたようだ――講演が始まるのを待つ。そこから少し離れた、けれども演壇からはけっして遠くはない場所に、不満そうな表情のプルムが見えた。
「パクネー大将の取り巻きに追い払われたのかもな。カワイソーに」
 憐れんでいるような台詞を言いつつ、シャーロは笑っている。気の毒だが、毅然とした態度をとったはずのプルムでも、本領を取り戻しつつあるらしいパクネー大将には敵わないのだろう。
 さらに後ろの方にはクラシャン大将とその取り巻きがいる。ドナー大将が率いる一団は会場警備にまわされたが、どうやら大将自身は練兵場内を任されたらしい。不服そうな表情をして、客席最後列の背後に立っていた。
 舞台袖からの景色に異常はない。開演時間を前に、各担当からの無線連絡が響く。
「サシャ、シャーロ。今ハナちゃんから会場入口の締切をするって連絡があった」
 演壇下にいたグリンがやってきて告げる。いよいよ第二十九代大総統ハル・スティーナによる講演会の幕が上がるのだ。
「ばあちゃん」
 袖に用意した椅子に座っていたハルに声をかける。自分より余程緊張している孫に、彼はふわりと微笑んだ。
「いってくるね。大丈夫、今日はきっと無事に済むから」
 年齢を感じさせない滑らかさで立ち上がり、優雅に壇の中央へと歩みを進める。サシャの知らない――現役の軍人は誰もがそうだろう――国軍の頂点にいたその人の姿は、かつてのそれから変わりないのではと思わせた。

 本日はこのような場を設けていただき、ありがとうございます。そんな定型の挨拶から始まった彼の言葉に、人々は静かに耳を傾ける。警備担当者たちは周囲に神経を向けていたが、耳にはその穏やかで優しげな声が届いていた。
「今日、久しぶりに司令部の中を見て回りました。ボクが在籍していた当時よりも綺麗で丈夫になっていて、建物は何事もなければまだまだもつのかなと思いました」
 客席から微かに笑いが漏れる。一部は少し得意気にしていた。
 弛む空気に、袖に控えているサシャらも緊張がほぐれてくる。無事に済む、とハルが言ったのだ。そうに違いない。
「――建物だけはこのままでもしばらく大丈夫でしょう。でも、今のエルニーニャ軍はおそらくこのままではいられない」
 だがこの一言で、会場の雰囲気は一変した。ざわつきは次第に広がり、客席付近の警備担当は静粛にと声を張る。
 壇上の当人は口元に微笑みを浮かべたまま、声色にも変化なく、言葉を次いだ。
「ボクが大総統の頃に、この国の政治の仕組みは転換しました。長く続いていた軍による運営から、王宮と文派と共に協議し進めていく三派政へ。それは現在も続いています。……ですが、そもそもどうして三派政というかたちを取る必要があったのか、そのことは忘れられてきている」
 グリンは首を傾げ、サシャに視線で訊ねようとした。どういうことなのか、彼ならばきっと祖父母から聞いて知っているはずだ。
 たしかにサシャは何かに気づいたような顔をしていた。だが、どこか焦っているようでもある。まるで秘密があばかれようとしているかのような。
「……サシャ、どうしたんだ」
「黙って、グリン。オレだってこんな話すると思ってなかったんだよ」
 あんなのただの謙遜だと思ってた、と呟く声に、壇上からの声が重なった。
「三派政をとらざるを得なかったのは、ボクの不手際のせいです。軍を統率するだけでなく、国全体のことをひとりで考えなくてはならない。大総統の仕事の重圧はあまりにも大きくて、どうにもできないと判断した。……それで親しい人や大きな力を持っている関係者の手を借りて、役割を分担しなければならなかった。これが三派政移行の経緯です」
 たとえそれが謙遜を含んだ説明だとしても、その通りの事実だとしても。今ここでそれを明らかにしていいのだろうか。
 現在のエルニーニャ軍は、こと中央司令部においては、三派政は不要であり軍政に回帰すべきだと声をあげる派閥が存在している。その主張をもって選挙に立候補することを考えている者がいる。
 今まさに三派政により動いている現大総統のイメージにも関わる。消極的な姿勢を受け継いできたのだと捉えられるかもしれない。
 グリンには「なんとなく問題がある気がする」ことしかわからないが、サシャとシャーロは明確に同じことを考えていた。顔を見合わせ、息を呑む。
「結果的には良い方向に動きました。大総統というひとりきりのトップでは目も手も届かなかった問題に取り組むことができたし、国民の生活水準は数字で見て向上していると判断できるようになった。けれども最初からそれを見込んでいたわけではなかったんです。当時はボクも、巻き込んだ周囲も、ただただ必死にもがいていた。現状を変えたくて……変えなくちゃ駄目だと思っていたんです」
 そうしてこの国は転換を遂げた。三派政は概ね高い評価と信頼を得て、現在はそれが常識になった。維持しなければならないものであり、脅かされてはならないもの。それが三派のトップの見解とされている。
「ボクらの代で始まったものが大切に守られていることはとてもありがたい。後世の評価に、あの頃のボクらは報われている。……でも、いつまでもその時代のままでいいんでしょうか。この国の人々を取り巻く状況は、刻々と変化しているはずです」
 サシャにはもうわかっていた。ハルがこの講演を引き受け、今の中央司令部がちょっと危ないと表現したその真意は、派閥ができてまとまりがなくなっているという意味ではない。むしろ逆だといっていい。
 彼が本当に心配していたのは、軍が時代の変化に対応しているかどうか――いや、正しくは自ら動いているかどうかだ。
「変わらないのはひとつだけ。国を支えるために、国をつくる人々を助けていくために、何をしていくべきかを考え続け、実行していくこと。そうすると自然と何かが変わる。変えなくてはいけなくなる。どうか先人の正しさにとらわれないで、自分で今何が必要なのか考えてほしい。もちろん軍は人々を守るためにあるのだから、独善的になってはいけない。だから視野は広く持ってほしい」
 荒らげることなく、地面に落ちた木の葉や種子を吹き上げ運ぶ、風のような声。かつて人々を導いたそれは、人々を繋げるよう働いていた彼は、
「今は、君たちの時代なんだから」
 エルニーニャ軍に大きな課題と望みを託したのだった。


 時は遡る。ハルは中央司令部に到着してすぐ、まずは大総統執務室に迎えられた。
「この度はこちらの急な依頼を受けて頂き、心より感謝申し上げます」
「こちらこそ、良い機会をありがとうございます。こんなことでもないと、現閣下とお話なんてできないもの」
 フィネーロの握手を求めた手をにっこりして握り返す老紳士の姿に、傍に控えていたルイゼンは胸を撫で下ろす。トラブルはあったが、なんとかこの日を迎えられた。容疑のかかっていた大将らを探るために設定した場ではあるが、この国を纏め支えていた人物の話が聞けることを楽しみにしていたのは本当だ。
 ソファにハルを誘導し、彼の正面にフィネーロが腰掛ける。ルイゼンも茶を供してから脇に立つと、ハルはくすくすと笑う。
「ルイゼン君も座るといいよ。立ってたら辛いでしょう」
「しかしお邪魔になるわけには」
「傍に立っていられた方が落ち着かないよ。ボクは昔、アーレイドにもそう言ったんだ」
 補佐というものはそのような行動をとってしまうものらしい。実際、ルイゼンも前大総統補佐大将に倣っていたのがすっかり染み付いていたのだった。
 言葉に甘えて着席すると、ハルは満足そうに頷いた。
「やっぱり顔がよく見えた方がいいよね。表情だけでも、君たちがしっかりこの仕事を務めようとしているのがわかる」
「ありがとうございます」
 深々と礼をすると、いいからこっち見てて、と優しい声が言う。二人同時に顔を上げ、改めてハルに向き直った。
「では、今日の流れをご説明……」
「それは大体わかってる。あのね、今日はボクにも目的があるんだ。聞いてくれるかな」
 予定していた台詞を遮り、ハルが穏やかな笑みのまま訊ねる。いや、こちらの返答など待たずに、彼は続けるつもりだった。
「今日の講演に先駆けて、君たちには伝えておかなくちゃならない。ボクの用意してきた話は、きっと君たちの立場に都合が良くない」
 どういうことだ、と聞き返す間もなかった。ハルは自分が何を、どんな言葉を用いて語るのかを話し始め、それを聞いたルイゼンはつい正直に眉を顰めた。
 今いる者たちの考えと行動で、エルニーニャ軍は変わらなければならない――この十四年ほどの間、保守的に前政を継いできた自分たちへの明らかな警告だった。
「大総統選挙の話が出てるんでしょう」
「……した方がいいと思いますか。どこから湧いたのかわからない噂ではありますが、閣下はそれも方法の一つと考えているようです。俺は内部分裂の恐れがあると反対しました」
「それは君たちがちゃんと話し合って決めるべきだよ。でもこのままだと内部分裂は本当に起こってしまうかも」
 依頼されたときから心配してたよ、などと言われると、返す言葉がない。内部犯を疑う事件が起きていること自体、すでに崩壊が始まっているようなものだ。
「入った亀裂はどうにかしないとね。これからやってくる大きな危機を乗り越えられるかどうかは、そこにかかってる」
「危機?」
「そう。遠くないうちに中央司令部は何者かの襲撃を受ける」
 さらりととんでもないことを口にしたハルに、フィネーロは瞠目し、ルイゼンは身を乗り出した。どこからそんな情報を、と問い質す前に「夢でね」と次がれる。
「サーリシェリアの血が見せる予知夢、ですか」
 苦しげに納得したフィネーロがこぼすと、ハルは頷いた。
 大陸南部の一部の民は、予知夢を見る。南の大国サーリシェリアの原形を立ち上げた中心は、そういった人々だったという。
 ハルはエルニーニャで育ったが、両親はサーリシェリア人だ。その血は彼に予知夢を見る力を与え、度々未来を瞼の裏に映した。
「長年この力と付き合ってるとね、先人に教わらなくてもわかるんだ。ボクらは確定した未来しか視られない。だから視たことはどうしても回避できない。それができたら、ボクはいつもあんなに悩まずに済んだ」
 避ける方法は無いと先んじて釘を刺す。ルイゼンは俯き、舌打ちをした。
「だから諦めろと? 俺たちはここから退くべきだと、あなたは仰るんですか」
「違うよ。ボクは確定したことしか視られないから、それ以前の経緯や出来事の後のことはわからない。だからそこはどうにでもできると思ってる。つまりどれだけ危険に備えられるか、そしてその後始末をどう着けるかが鍵なんだ」
 即答だった。反応を予想し、全ての台詞を用意してきたとでもいうような。
 今更ながら実感する。ハル・スティーナはこの国をたったひとりで背負ったことがある、軍政最後の大総統なのだと。
「危機を乗り越えるために、君たちはいくつかの認識を変えなくてはならなくなるだろう。過去の真似事は多くが無意味になってしまうと思った方がいい。現在の状況をよく見て、エルニーニャ軍の全員で立ち向かうんだ」
 全員で、だよ。ハルは念を押して、不思議なゆらめきを湛えた青紫の瞳で二人を見つめた。
「それでも守り抜くことは容易くはないし、後悔しないことはもっと難しい。でも諦めず考え続けて行動を放棄しなければ、失うものはあっても少なくて済む。ボクは君たちを信じているよ」
 提示された試練と信頼。どのように扱い運べばいいのか、フィネーロにもルイゼンにもまだはっきりとは見えない。
 しかしタイムリミットは、不明瞭ながらも確実に近づいているのだった。