中央司令部軍人寮の二人部屋に、四人が集まっている。部屋の主であるグリンとサシャ、訪れたシャーロとヨハンナ――彼らの話題は専ら今日の講演会についてだ。
「みんなハルさんの言葉にぎらぎらしてた。特に件の三大将。もともと信者じみてたパクネー大将はともかく、スティーナ政に異論ありまくりだったはずのドナー大将や興味なんて欠片もなさそうだったクラシャン大将までもが、あの言葉をポジティブに捉えたみたいね」
変わらなくてはならない。先人たちの正しさにとらわれないで。――それは現在の軍のあり方を変えなければと考えていた者たちにとっては、後押しになるような言葉だった。
「解釈はきっとそれぞれ違うよ。自分の都合のいいようにとってるに決まってる」
「それはそうでしょ。ハルさんだってそうなるだろうってことを考えてないはずない」
眉根をぎゅっと寄せるサシャに、ヨハンナが苦笑しながら応える。都合のいい捉え方をしているからこそ、これからトップ争いが激化することは想像に難くない。選挙が現実になるかどうかの前に、現在の大総統の立場が揺らぐ。
「苦言を呈したくなるほど、今の大総統が情けねえってことなんじゃねえの。やっぱさっさと辞めるべきだな」
「またシャーロはそういうことを言う……。サシャ、あれはフィンさんとゼンさんが辞めるとかじゃないよな」
「多分ね。ばあちゃんの真意がわからないからなあ」
どういうこと、と訊いても教えてはくれなかった。君たちもよく考えてみてね、と言い残して彼は帰ってしまったのだ。
「上のことなんてあたしたちがいくら考えても仕方ないよ。だから観点が違うんじゃない? そうだ、軍外の参加者がどう思ったのか聞いてみようか」
来てたはずなのよ、と立ち上がったヨハンナは、そのまま電話の方へ向かう。慣れた様子でダイヤルを回し、明るく呼びかける。
「今日はお疲れ様。……そうよね、聞きに来てたよね。それでちょっと感想を聞きたいんだけど」
そこまで話して受信をスピーカーに切り替えた。すると「俺の感想でいいの?」と落ち着いた低い声が部屋に響く。
「兄ちゃんだ! ヨハンナ、兄ちゃんが聞きに来てたの知ってたの?!」
「参加予約受け付けたからね。あんたに言わなかったっけ」
聞いてない、と叫んだサシャの声は、電話の向こうに届いたらしい。トビの声がいくらかの申し訳なさを含みながら笑った。
「ごめんな、行っても会うことはないだろうと思ってたから。それに同行者がいたからね」
「祖母の講演をデートに使うなっての。で、感想は?」
急かすヨハンナに応えるように、家にいるらしい同行者に「どうでした?」と訊ねる声がする。柔らかい低音が「熱かったね」と一言返した。
「熱いって何がよ」
「独善的にならずに視野を広くして、ってはっきり言ってくれたこととかかな。俺たちが軍に求めてきたのは、まさにそれだったから」
トビは文派特殊部隊でアルバイトをしている。三派のうちのひとつという立場ではあるが、軍と文派の意識の溝は長年埋まらずにいる。現在は文派をまとめる大文卿家の者が軍に縁があり、協力のための機関である特殊部隊を置いているために、良好な協力関係が構築されつつある。
それでもときどきは互いのあり方に疑問や不満を持つ。文派特殊部隊は特にクラシャン大将と確執があり、今でも彼とは共に仕事をすることはない。
「でも軍にばかり求めるのはいけないね。互いにそうありたいよなと思った。こんなところかな」
「そう、ありがとう。同行の彼にもそう伝えて」
用件が済むと、ヨハンナは挨拶もそこそこにさっさと電話を切ってしまう。もう少し兄と話したかったサシャは名残惜しそうに電話を見つめていた。
こちらも残念そうなグリンの袖をシャーロが引く。
「てめえは今の電話に違和感とかねえのか。俺はハイル家のいらない事情を知る羽目になって戸惑ってんだけど」
「ん? トビ兄ちゃんはいつも通りだぞ。ハナちゃんがちょっと素っ気ないのも」
「そういうことじゃねえんだよな」
首を傾げたグリンに、しかしシャーロはそれ以上何も言わなかった。座っていた位置に戻ってきたヨハンナがかわりに察したようで、一瞬だけ乾いた笑いを見せる。
「……まあ、軍外の人の考えはあんな感じ。トビはともかく同行者さんはもともと軍に良い印象持ってないから、良い方向に変わって欲しいって願いは当然あるでしょうね」
「ばあちゃんの話も軍外から見たらこうだよっていうこと?」
「もう引退した人だからそれもあるかも」
いずれにせよいろんな人がいろんなことを考えてるでしょうね。欠伸を噛み殺しつつそう言って、ヨハンナは時計を確認する。彼女の細いベルトの上品な腕時計は、随分遅い時間を指していた。
「あたし、もう部屋に帰るね。夜更かしは乙女のお肌の大敵だもの。ちびっこたちもすくすく育ちたいなら早く寝ること」
「グリンは小さくないけどね。おやすみ、ヨハンナ」
「ハナちゃん、おやすみ。シャーロはここに泊まるか?」
「泊まらねえよ。部屋に帰る」
ヨハンナを追うようにして、シャーロも戻っていってしまう。部屋はいつにも増して静かに感じて、グリンは少し寂しくなった。
この短期間でも、自分たちに限っては大きな変化があった。相棒であるサシャと二人で過ごすことが主だった日々に、出会い方はともかくとしてシャーロが加わった。ヨハンナをリーダーとした班ができて、大きな事件のほんの端っこではあるが、仕事を任された。失敗も納得できないこともあったけれど、グリンは良い方向に変われたのではないかと思う。
「ねえグリン。ばあちゃんの望む変化かどうかはわからないけどさ。ちょっとは成長したよね、オレたち」
サシャも同じことを考えていたようだ。ぴったりくる言葉を見つけてくれたので、大きく頷いた。
翌日の中央司令部には講演の余韻が微かに残っていた。案外ここの人たちは、このままでいるよりは変わった方がいいと考えているようだ。
それは全て現在の大総統の采配が良くないということではないようだが、特に目立つ声は真っ向から現政権を否定するものだった。
「あの三派政なんて始めたスティーナ氏ですら、今の軍は生温いと思っているということだろう。やはり現大総統に後継を決めさせるわけにはいかんな。選挙の話は早急に進めてもらわねば」
二部屋先にも響こうかという声で意気込むのは、ドナー大将だ。取り巻きは彼に頷いたり、一緒になって叫んだりしている。
生温いだなんて言ってないんだけど、と思いつつもグリンとサシャは彼らを遠巻きに見ていた。シャーロが怪我をさせられ、グリンがやり返してしまった経緯があるので、こちらからは不用意に近づかないようにしているのだが、本当は違うと言い返したい。
多分、違う。実際のところ、自分たちもハルの意図をまだ理解できていない。
そのとき、賑やかな一団の脇を見知った姿が通った。あれは、と思うまもなく冷たい重低音がドナー大将に向けられた。
「相変わらず読解力に欠けるようだ。頭の出来が良くない人間には、たとえ選挙制が導入されようともこの国を任せることはできない」
「なんだと、クラシャン。お前、支持がないから俺を妬んでいるのか」
鼻で笑って応じるドナー大将に、クラシャン大将は長い髪をさらさらと揺らしながら首を傾げてみせた。
「騒がしく下品な部下がいないだけだ。君とはついてくる人間の質が違う」
無表情ながらわざとらしい仕草は、ドナー大将をさらに苛立たせる。この二人が犬猿の仲であるということはグリンとサシャも知っていたが、こうして衝突を見るのは初めてだ。
ドナー大将と一緒になって反論する取り巻きらを「猿のようだ」と評し、クラシャン大将は踵を返そうとした。ところがその行く手を第三の登場人物が塞ぐ。
「うわ、揃い踏みだ……」
「……だな。こうしてみるとすごい迫力」
女性の部下を従えて現れたパクネー大将を加えた三つの派閥が集結してしまった。周囲の密かなギャラリーは固唾を飲んで状況を見守る。
「何か用だろうか、パクネー? 廊下を塞いでは邪魔だという常識も無いようだ」
「貴方がたにお話があります。卑怯な真似をするような方たちですから、こうでもしないとお逃げになるでしょう」
パクネー大将は大抵その美しい顔に怒りを滲ませているが、今日は格別だ。激怒でこの辺り一帯を焼き尽くすのではないか。もちろんそれは部下たちにも伝播している。
「先日、わたくしの部下一名が処分を受けました」
「危険薬物を持ち歩き、現場で見つけたふりをしていたというあれか。余程手柄が欲しかったと見える。力が弱いのに気ばかり強い女のやりそうなことだ」
大袈裟に肩を竦めながらにやつくドナー大将と、憐れむような目をするクラシャン大将。いつもなら即座に「これだから男性は」と言い返すパクネー大将は、しかし呆れたように息を吐いた。
そして口元に微かに笑みを浮かべたことに、二人の男性大将は気がついただろうか。
「大体、部下の管理がなってないんだ。女は馴れ合いで仕事をするからな」
「まあ……ドナー、貴方がそれを言うなんて。口癖のようなものですからね、考えもせずつい出てしまうのでしょうけれど」
そう、女性を見下すような発言はドナー大将の口癖だ。パクネー大将はそれとわかっていて待っていた――言わせたのだ。
まさかと思い至るサシャの横で、グリンが振り返った。すっかり聞き慣れた足音を捉え、そちらを見たのだった。
「おい、面白いことになったぜ。……そっちももう始まってるみたいだけどよ」
「シャーロ、どうしたんだ」
「例の件、あと二人捕まえたらしい」
それって、とグリンが聞き返す前に。サシャの視線の先で、パクネー大将が高らかに言い放った。
「フンダート・ドナー、トレーズ・クラシャン。先程わたくしたちは貴方がたの部下を捕らえました。容疑は『危険薬物取り扱いに関わる違反』です」
辺りが一斉にざわつく。だがそれよりも目立ったのが、眉を顰めるクラシャン大将と、取り乱すドナー大将だった。
「馬鹿な! お前、俺の部下に罪をなすりつけたな!」
「いいえ、こちらは正当かつ迅速な捜査をいたしたまで。貴方がたの部下はちゃんと認めましたよ。上司よりも余程往生際を心得ていますね。……となれば」
どこか愉快ささえ滲ませて、パクネー大将は憎き男性大将らを睨む。サシャはその光景を目に焼き付けながら、内心で呟いた。
――これが、あの人が大将である所以なんだ。敵を絶対に許さず、野放しにしておかない。
「ねえ、一体貴方がたのどちらが、わたくしの部下を唆したのかしら?」
彼女はあの時、ただ落ち込んでいたのではない。復讐、いや、己の正義による断罪のシナリオを考えていたのだ。
「怒るわけだよ……。オレってば本当に的外れだったんだ……」
「シャーロ、捕まった二人ってパクネー大将に捕まったのか」
「そうらしいぜ。パクネーが指示して取り巻きが動いたんだろ。で、補佐大将に引き渡したってところか。俺もさわりだけ大尉に聞いたんだよ」
ヨハンナがそう言ったのなら、後で詳細を教えてもらえるだろう。
三人の大将を中心とした騒ぎは、ドナー大将が「デタラメを言うな」と怒鳴ってその場を離れたことで解散となった。クラシャン大将は無言で去ったが、向かう先はドナー大将と同じく大総統執務室に違いない。
集合がかかったのは昼休みで、グリンたちは食事を持って第三休憩室にやってきた。
既にヨハンナとセンテッドがいて、それぞれの昼食を広げている。ヨハンナは食堂で買ってきたカロリーの低そうなサンドイッチだが、センテッドは持参した弁当だ。しかも色鮮やかで可愛らしい。
「大将、あんたそういう趣味だったのか」
「きょうだいがここのところずっと弁当を用意してくれるんだ。僕は食べられれば何でもいい」
少し引いたシャーロに返事をし、カラフルなトマトを容赦なくフォークで突き刺す。見ていたグリンは苦笑いした。
「そんな言い方したらマリちゃん怒るぞ。何か新しい仕事の関係?」
「そうらしい。担当するジャンルは違うだろうに、どうしてここまで……」
「内容を検証するとかじゃない? 兄ちゃんも実際に再現できたほうがリアルで面白いって言ってた」
親しい者同士賑やかに話している横で、ヨハンナはシャーロに話題の補足をする。マリちゃんとはセンテッドの双子のきょうだいのことであるとか。グリンは従兄が小説家なのもあり、エストきょうだいとは長い付き合いになるのだとか。
「グリンがレナ・タイラスの助手だったのは知ってるぜ」
「へえ、じゃああんたたちって、もう結構色々話してるのね。仲良くなって良かった」
「仲良くはねえよ」
シャーロは否定するが、ヨハンナは嬉しそうだった。他愛もない会話が繰り広げられる昼休みは平和そのもので、こんな時間が続けばと願うほど。
終了を告げたのはドアが開く音だった。
「やあ、揃ってるね」
「サウラ、遅かったな」
「リーゼッタ大将と話し込んじゃって。すぐに始めてもいいかな?」
食べながらでいいから、と言うサウラに全員が頷く。あと一口を片付けたり、包み直して脇によけたりし、ホワイトボードに向かった。
まずはこれまでの経緯の説明だ。現場に危険薬物を持ち出し、あたかもそこで発見したかのように装っていたのでは――この予想は当たり、犯行に及んだ一名を確保した。この一名がパクネー大将の部下である。
そして本日、パクネー大将が素早い捜査で二名を炙り出した。それぞれクラシャン大将とドナー大将の部下であり、午前中の廊下での騒ぎに繋がった。
「リーゼッタ大将の前に引っ張っていったらしい。で、話を聞いたら間違いないって。供述内容は先に捕まった一人とほぼ一致していた」
嘘さえもね――溜息混じりに、むしろ溜息メインで、サウラは言う。
グリンたちには結論のみ話していたが、供述は転じていた。全員がまずは「上司の指示でやった」と証言したのである。つまり元々はパクネー、クラシャン、ドナーの三大将を黒幕に据えるつもりだったのだ。それぞれが自分の直属の上司の名を挙げていた。
しかしその挙動や態度、さらに三大将のひととなりをも材料に、ルイゼンは彼らを慎重に問い詰めた。
「そうやって得た情報が、どうやら彼らは何者かから小包を受け取り、同封された指示に従ったらしいということだった」
小包の包装や指示の書かれた手紙はとうに処分されていた。手際の良さはさすが軍人だと、サウラは皮肉る。
「でも捕まった人たちは全員、証言以外にも裏付けが取れてるのよね? パクネー大将の独自の調べを全面的に信じたわけじゃないでしょう」
「うん。部屋から『新型』の痕跡が見つかってる。科学部での分析も済んでるよ」
「部屋ってことは全員が寮住まいなのね」
ヨハンナの目配せに、センテッドが頷く。サシャとシャーロも気がついた。
「黒幕もまた内部の人間であると考えられるな。三人が確保されたことで確定したと言っていい」
「そんな……なんで? だって小包なら外からだって届くだろ」
ただ一人泣きそうな顔をするグリンに、サシャが首を横に振る。
「グリン、軍施設に届く荷物は検査があるじゃんか。不審物を選り分けるためにさ」
現大総統の代になってから、検査が厳しくなった。最新の技術を用いており、開けずとも中身が確認できる。危険薬物が手続きを経ずに持ち込まれることはまずない。
「寮だって施設の一部だ。外からは持ち込めない。それにさ、捕まった三人はみんな同じ証言をしたんでしょ、危険薬物を利用して自分の上司を追い詰めたかったんだって。個人の事情と軍内部の状況を知っている人じゃないと、そういう人を選ぶことはできないんじゃない?」
反論の余地はない。センテッドも首肯した。もはや内部に計画者が存在することは疑いようもない。グリンは苦しげに、シャツの胸のあたりを握りしめる。
「だったら、そんなこと誰が? また身近な人を疑って調べなきゃならないのか?」
「それはもう、君たちにはさせない。ここからは大人の領分だよ。ね、センテッド」
「ああ。僕らが捜査をするから、グリンたちの仕事はここまでだ。今までご苦労だった」
そんな手の離され方をされるのも、なんだか納得がいかない。しかしできることがないなら、引き下がるしかないのは仕方がない。
グリンは、サシャは、シャーロは、まだその立場にはない。力もない。
「……目星はついてるんだよね? 当ててあげようか、センちゃん」
だが、彼はただでは引き下がらない。そんなつもりは毛頭ない。
「サシャ、何か考えがあるのか」
「だってさ、危険薬物に接することができる内部の人間だって限られてるでしょ。オレは医療部も怪しいと思ってた」
グリンが咎めるようにサシャの袖を引っ張る。シャーロはにやりとしながら加勢した。無論、サシャにだ。
「自分が捜査を主導すれば捕まる心配もねえしな。あんたでなきゃ、あの糸目の奴かもしれねえ」
「シャーロまで……そういうのやめよう? 俺たちの仕事は終わったんだ」
「終わるからこそ言いたいことを全部言うんだろうが。なあ、どうなんだよ、軍医?」
問い詰められるサウラの表情は、相変わらず厚く長い前髪に隠れて窺えない。唯一感情を見せる口元は、なるほどねえ、と微かに笑った。
「君たちなら早い段階から医療部を疑ってるだろうと思ってたよ」
「違うよな、サウラさん。プルムさんだって、悪いことなんかしないよな」
縋るようなグリンに、彼は笑うのをやめた。少なくともその口元からは、ふっと笑みが消えた。
「悪いことは、正直いくつかしてるね」
「そんな……」
「俺たちも手段を選ばない方ではある。きれいな人間ではないよ。でも」
サウラが突然厚い前髪を掻き上げ、その顔があらわになる。見開いた大きな目が、真っ直ぐにグリンを見ていた。
「誓うよ。俺は危険薬物を違法に扱うような真似は絶対にしない。その行為を何よりも憎む一人だから。そしてプルムも俺の理想に巻き込んでいる。彼も同じ気持ちでいてくれている」
グリンから、サシャ、シャーロへ。順繰りに眼差しを向け、それからふわりと笑った。
「心配させたね。でも大丈夫、医療部は潔白だ」
「心配されるまでもなく調査済みよ。サウラ君が指揮をするってことになって、真っ先にね」
大人たちはとうに動いていたのだった。当然といえば当然だ、グリンたちに任されたことが今回の仕事の全てではないだろう。
だが、それをわかっていないサシャとシャーロではない。医療部がクリアになっているなら、もう一つの部署を疑うべきだ。
「じゃあ、危険薬物の鑑定をしていた科学部も調べた?」
危険薬物を堂々と扱うことができ、保管もしているはずの部署。あらゆる技術や物質が集められている、そこはエルニーニャ軍の肝でもある。
サウラは一瞬、センテッドに目配せをした。視線を受け取った彼は小さく頷く。
「……そうだね、君たちはもう知ってていいか。知っていた方が良いだろうね、関わらせてしまったんだから」
自らに言い聞かせるように呟いてから、サウラは前髪を直した。
科学部は軍の人間による技術や情報の漏洩及び悪用を防止するため、運用が半独立状態にあった。彼らは彼らの権限で、納得できない捜査を拒否することさえできたのだ。
故にある程度の裏付けを取ってからでなければ立ち入ることができず、容疑はかかっていたが手を出せないという状態だった。
「なんでそんな面倒臭えことになってんだよ」
「先代大総統のときに、裏社会から回収して軍で保有していた技術を民間に渡していこうって流れになってね。実際に医療関係やエネルギー資源の分野には部分的に公開され、利用されるようになったんだ。でもその過程で科学部とは大いに揉めたらしいよ」
技術公開と民間委託は、前大総統レヴィアンス・ゼウスァートの最も大きな功績のひとつとされている。特に医療分野では、裏で発達した再生技術などの譲渡が強く望まれていたことでもあった。
ただ、科学部はレヴィアンスに厳しかった。門外漢が突然何を言い出すのか、現場第一主義で研究の場を軽んじてきたくせに――その批判を彼は真っ向から受け止め、認めたのだった。
この経緯を知っているのは当時在籍していた人間の、それもほんの一部だけだ。なかでも非現場の職員たちとの連絡及び交渉役として動いたフィネーロは、今のエルニーニャ軍でこの件に最も詳しく、そしてほぼ唯一の証人でもある。
結局、技術の管理は科学部の管轄となった。必要な鑑定などの仕事には協力を惜しまないでいてくれるが、口出しやまして圧力をかけることなどは許さない。
派閥だなんだという前に、エルニーニャ軍はとうに分裂の危機に瀕していた――とまではサウラやセンテッドは口にしなかったが、思ってはいるのだろう。
「もちろん表向きはちゃんと繋がってるし、仕事だって滞りないよ。でも根が深い問題でねえ……。肝心なときの障害になってしまうのを、ずっと危惧してきたんだ」
「今はサウラがパイプ役になってくれている。以前より随分状況は改善されているはずなんだが、それでも筋の通る理屈を用意しないと、すんなり話し合いに応じてくれる相手じゃない」
だから踏み込めなかったというのか。本当はもっと早く解決できたかもしれないのに。――そう言い返せないのは、サシャが俯いて黙ってしまったからだ。いうなればこれは、彼の父が解決しきれずに残してきてしまった問題なのだ。
当然、門外漢であり続けないよう、できる限りの知識を取り入れて理解し、バランスの良い解決策を模索したに違いない。そのまま放り出すなんてことはしたくなかったはずだ。だから現状は、当時の限界の先。最善を尽くした結果なのだった。
「……で、でもさ、センちゃん。今なら証言も理屈もあるんだし、話し合いできるんだよな」
「できる」
半ばおそるおそる問うグリンに、センテッドは即答した。それでようやくサシャが再び顔を上げる。
「できるというか、やるしかない段階にきた。責任者をサウラが引き受けたのは、最初はグラン班に仕事をしてもらうために表向きだけそうするつもりだったんだ」
「でもこれは本当に俺が動かなきゃね。まあ、科学部だって敵なわけじゃない。これまでの鑑定や検査に不審点はないし、彼らはちゃんと俺たちの味方のはず」
大丈夫だ、任せろ。その言葉を信じて結果を待つことだけが、今のグリンたちにできること。
そんな状況には覚えがあって、グリンは歯痒い思いを抱えていた。――あれから何も変わっていない。軍人になればきっと変わると思っていたのに、まだ何もできない。
サシャとシャーロは頭の回転が早くて、自分の考えを忌憚なく述べる。だからこそセンテッドたちも、軍に起きている問題を話してくれた。
――俺だけが、何もできてない。それどころか力を制御できずに暴れた。
滲む悔しさは、握りしめた掌に爪痕を刻む。赤く染まって痛い。
科学部に所属する青年と、机を挟んで向かい合う。手元の資料によると、彼は二つほど年上らしい。
階級は付与されていない。エルニーニャ軍が戦闘の技術を持たない人員の雇用を大幅に増やしたのは、十二年ほど前からだ。計画自体は先代の頃からあったようだが、最終調整と運営は現大総統の手腕によるものだ。
――サウラに聴取の権限はないし、僕だと話しにくいだろう。君なら年齢も近いから適任だと思う。
ヨハンナが聴取をすることになったのは、この一言のためだ。センテッドに信頼されるのは嬉しいが、人から話を聞き出すのはどちらかといえば不得手だという自覚がある。ちっとも適任なんかじゃない、という文句は昇進と天秤にかけて押し込めた。
名前、年齢、所属、在籍年数、担当する業務。定型の質問をして答えを得る。この程度ならすぐに答えてくれる相手らしい。ひとまずは安心した。
ところが素直なばかりが良い相手というわけでもない。
「……危険薬物の鑑定と保管を担当していたと言いましたけど、それならこれまでの『新型』の鑑定もあなたが?」
「いいえ、それは自分じゃないです。鑑定は上司が主に行い、自分は保管を」
だから保管数をごまかせた。もともと保管されていた危険薬物と他にいくつかの原料を混ぜ、『新型』を作った。そういうことを、彼はこちらから問わずともすらすらと答えた。
こうなってはやりにくい。相手から話されてしまったことは、こちらから繰り返して問い直し、真実かどうかを確認しなければならない。相手が先に話すことは予め準備された内容であり、事実とは限らないからだ。
こちらから訊ねることだけ的確に答えてほしい、なんて希望が通るはずはない。それはわかっているのだが。
質問項目はこちらも準備していた。センテッドとサウラが用意してくれたもので、その通りにすればまず間違いないだろうとたかをくくっていた。しかしその考えは甘すぎた。
「新型の原料についての詳細を」
「もう言いましたよ。グラン大尉はもっと賢い方かと思っていましたが、評判ほどではないんですね」
がっかりしたような煽りさえもいただいて、気持ちを落ち着けることにも精神力を使う。売られた喧嘩は適度に買うのがヨハンナの性格だが、今はそれができない。
ひたすら「これを乗り越えたら少佐昇進」という呪文を心の中で唱え続けて、少しずつ相手から情報を引き出そうとする。
「あたしは確かに頭良くないけどね。だからこそこうやって何度も質問して、少しでも解ろうとしてるの。その姿勢を鼻で笑うのってどうよ?」
……いや、やはり完全に冷静にとはいかない。その点ではやはりセンテッドは優秀で、ルイゼンに至っては聴取の神であった。
だが、何が功を奏するのかわからないもので。この返答を相手は気に入ったようで、それからは丁寧に説明をしてくれた。
「学ぼうとする姿勢と教わる態度って大事ですよね」
一通り話したあと、彼はぼそりと言った。
「現場主義の皆さんは必要な情報だけを寄越せと、高圧的に迫ってきます。そして勝手に誤解して、こちらに文句を言う。力のある大将の皆さんなんかは、科学部にまわす予算が多すぎるのではないかなどと圧力もかける。非現場の人間は都合よく使われていればいいのだとお考えのようだ」
力のある大将――つまり今回の事件のターゲットたち。ヨハンナは身を乗り出しそうになったのを抑えた。
「それは、動機の話?」
「そうですね、自分の動機です。近いうちに軍は辞めようと思ってたんで、その前に復讐していこうと思って」
ターゲットとなった三大将は、徹底した現場主義者でもある。ドナー大将などはわかりやすい。彼は現場に参加した回数やそこでの功績を重視し、部下を評価する。一方で非現場の人間や現場に出られなくなる可能性の高い者を蔑んでいる。
パクネー大将も現場における女性の活躍を声高に叫んでいる。実際に見せつけねばと自ら現場に赴くこともあるほどで、今回だって率先して捜査をし、容疑者をあげたのだろう。だが彼女の理想は次第に「現場で活躍しようとしない者は志の高い者の妨げになる」という極端な偏りも生み始めた。
クラシャン大将はそもそも非現場の人間に興味が無い。彼は全ての物事について、それが自分にとって得になるか損になるかを基準にしている。現場で功績を積み出世してきた彼の視界に、縁の下で支えるものは入っていない。少しでも邪魔になれば排除を厭わないということは、文派特殊部隊との確執で明らかだ。
「自分に媚びへつらうものだけで作った王国に少し不信を抱かせれば、そのうち自重で潰れる。彼らの下にいながらそのやり方に疑問を持つ者の背中を押してやれば、成功しても失敗しても関係なく疑心暗鬼の一歩になる」
「……そのやり方は、あんた、実行した人たちを都合良く利用したってことでしょう。嫌いなやり方なんじゃないの」
「そうですね、自分も同じ穴の狢です。でもこんなところは辞めるんだから、それでもいいと思った」
青年は薄く笑って、けれどもそれは何かをやり遂げた晴れやかなものではなくて、ヨハンナは胸を痛める。こんな表情をしないように、もっと早く彼を止めてやるべきだった。けれどもどの時点から方向を変えなくてはならないのだろう。
「……相談してくれれば良かったのに。閣下やナイト先生は科学部を守ってくれるはず」
「復讐したいんです、なんて言えます? それにグラン大尉、自分はあなたのように良い家の生まれでもない、ただの平凡な一職員だ。そう簡単に閣下と話せるわけがない」
この分では、胸の内を同僚にすら打ち明けたことは無いのだろう。もし一度は話したとしても、科学部の扱いは仕方ないことだから、なんて諦められたら――彼は気持ちを閉じ込めるしかない。
「ああ、でも、エスト大将には声をかけてみても良かったかもしれないな」
「え? ……そういえば、エスト大将はターゲットにしてなかったよね」
特に名の通った三大将は、行き過ぎた現場主義を理由に標的となった。たしかにセンテッドはそこまでではないが、彼もまた現場を重視する方ではある。
「あの人にだけは手を出さないつもりでした。伯母を殺した犯人を捕まえてくれたので」
「そんなことが?」
「それにエスト家は文派と近い。科学部は所属こそ軍ですが、性質と活動は文派寄りです。あの人が次の大総統になってくれれば……」
でも、と彼は目を伏せる。センテッドが大総統候補と言われながらもそれを拒んでいることは知られているのだ。
「なったところで、今のエスト大将では影響力がまだ弱いと思いますが。現閣下もそうだ。誰にでもわかりやすい力を持たない人は、上に立つ資格を疑われ蔑まれる。それが二代も続けば、エルニーニャ軍は寿命を縮める」
「そこまで考えてて、あなたは更に寿命を縮めるようなことを? 軍内部だけでもまずいのに、新型危険薬物の原料を町の悪ガキたちに広めた?」
動機はもう十分だ。彼が実際にしたことを明らかにしなければ、この聴取は無駄になる。脱線しそうになったがなんとか本筋に戻そうと、ヨハンナは無理やり話題を変えた。
青年は、町の、と呟いてから、突然笑い出した。
「何がおかしいの」
「まさかそこまで自分の仕業だと? 違いますよ、そこまではしない。町で若者が煙草に混ぜていたという話は聞いたけど、内部のことなんかにかまけてちゃんと捜査しなかったんですか」
そんなことは、と思い返して血の気が引いた。捜査しなかったということはない。グリンたちが見廻り中に遭遇したあの少年たちには、薬物の入手ルートなどを問い質している。知らない人が煙草をくれたのだと、それをグループの者に配ったのだと、リーダー格の少年は証言した。
目の前の彼が「自分ではない」と笑い飛ばしたのが、真実だとするならば――とうに蔓延し始めていた悪を、これまで放置してしまったことになる。
いや、センテッドとサウラのことだ。特にサウラは専門が薬物なのだから、別の方向でも捜査はしているだろう。彼らが遣う班はグラン班だけではないはずだ。
「あたしは内部担当だから、他の担当のことについては……」
「現場組の間でも連携が取れていないと。やっぱり今のエルニーニャ軍は危うい。スティーナ氏が心配するのも当然ですね」
相手のペースに巻き込まれるな。冷静でいろ。呼吸を整え、相手から目を逸らすな。
「あなたは原料をどうやって手に入れてたの」
「もともと薬草として使われていたものだから、手に入れるのは簡単。加工、配合、それと使い方で危険薬物に分類されるようになる。どこにでもあるものに他の誰かも目を付けていたっておかしくはない」
やるべきことが見えてきた。原料となる薬草の取り扱いについて、緊急に注意をしなければならない。そして町に、若者に出回り始めたものがどこまで広がってしまったのか、その出処はどこなのかを明らかにする。
科学部の彼が起こしてしまった事件はこれで終わる。彼が小包を送ったのは三人であり、実際にもっといたとしても今後は軍内で一層強く監視される。主犯と実行犯の計四人には相応の処分が下され、経緯が書類にまとめられて解決の扱いとなる。
けれども安心している暇などない。これからエルニーニャ軍は、中央司令部は、より大きな動きがある。そうすることが必要になる。
――本当に、ハルさんの言う通りだ。
今ここにいる自分たちが考えて行動しなければ、大切なものを守れない。
内部犯による危険薬物事件がひとまずの決着を迎え、一夜が明けた。今日は非番である。グリンは急に祖母の顔が見たくなり、実家に帰ることにした。
「お、グリン。おかえり」
「まあ、おかえりなさい。今日はお休みなのね」
インフェリア邸で迎えてくれたのは、ちょうど休暇中だった母と祖母。母などは滅多にないフリーの日で、ついさっきまでソファに転がりうとうとしていたという。
父は仕事、祖父は知人の家に行っているそうだ。
「仕事はどう? ゼンからは頑張ってるって聞いたけど」
「頑張ったつもりだよ。……でも、なんにも変わってない」
詳細は話せない。母は元軍人だが、今は王宮で働く部外者だ。ゼンとは大総統補佐のルイゼンのことだが、彼からも本当に「頑張ってる」の一言しか聞いていないだろう。
「母さんとばあちゃんも、ハルさんが講演やったことは知ってるよな」
「うん。行きたかったんだけど、仕事だったから泣く泣く諦めたんだよね」
「私もその日は家にいたわ。あとで内容については聞いたけれど」
――人々を助けていくために、何をしていくべきかを考え続け、実行していくこと。そうすると自然と何かが変わる。変えなくてはいけなくなる。
人を守り助ける軍人になろうと思っていた。それがグリンの目標であり、理想だった。自分では頑張ってきたつもりだが、何も変わっていない。変えなくてはならないのに、同じ景色の中をぐるぐるとまわっているだけ。
ハルの言葉はグリンにも痛かった。考えは浅く実行も満足ではない、そんな自分が恥ずかしかった。
サシャは自分の力を確実に伸ばし、仕事に役立てている。もちろん本人はその過程で悩んだり悔しい思いをしたりしているわけだが、その度に強く逞しくなっているように見える。
シャーロは短期間で随分と変わった。勤務態度は相変わらず良いとはいえないが、少なくともグラン班の面々には心を開くようになってきたと感じる。ちょっとひねくれた励まし方も彼らしく、また年上らしい頼もしさがあった。
グリンだけが置いてけぼりだ。力を上手く使えず、慰められてばかり。ニールはグリンを良い土だと言ってくれたが、その耕し方は果たして正しいのだろうかと、今は疑問を持っている。
「俺はもっと強くなりたい。でもそうやって言ってるだけで、全然なんにも変えられてない。講演でそのことを叱られてるような気がした」
サシャに言えば、オレのばあちゃんがそんなこと思ってるはずないよ、と笑ってくれるだろう。だからこそ言えなかった。それはグリンだってわかっていて、ただ自分が情けないだけなのだ。
「魔眼も最近だけで二回くらい出て、少しも制御できなくて。俺、やっぱり軍人に向いてないのかな」
いつもなら祖母の前で魔眼に関する弱音は吐かない。祖母はこの遺伝を申し訳ないと思っているのだ。
おばあちゃん子であるグリンがつい口にした言葉を、祖母は深刻に受け止めてしまうかもしれない。しまった、と思い顔を上げた。
だが、祖母は赤い瞳をぱちくりとして、あらあらと少し笑った。
「たった二回しか出なかったの。それはちゃんと制御できてるんじゃないかしら。私は制御とか考えたこともなかったけど、イリスはどう思う?」
「わたしはことあるごとに利用しまくって、疲れて倒れてお兄ちゃんとかレヴィ兄に叱られたよ。それに比べたらグリンは偉いね。偉すぎる」
でも母さんは力の調節ができただろ、と言う前に、両側から抱きしめられた。祖母は優しく、母は祖母ごと強く。驚いて言葉の出ないグリンに、二人は同じ言葉を繰り返した。
「偉いわ、グリン。あなたはいつもいろんなことを我慢したり、怒らないように考えたりしてるんでしょう」
「偉いね、グリン。あんたはもう十分強くて優しい子なのに、まだ上を目指してる。それって軍人としての良い素質なんじゃないの」
温かくて、熱くて、耳まで真っ赤になるのを感じる。あまり照れすぎても眼が赤くなってしまうことがあるので、グリンは慌てて身を捩った。
「わかったよ、わかったから。もう放して。……ホントうちの人たちって、人を褒め殺そうとするんだから」
いつかシャーロに言われたことを思い出す。たしかにインフェリア家の人々は「タラシ」なのかもしれない。グリンも他人のことならいくらでも褒め称えられる自信がある。
母はグリンから離れると、目を柔らかく細めた。
「まあ、そう焦りなさんな。あんたのそれはわたしやお兄ちゃんも通ってきた道だよ。周りがすごいと自分がちっぽけでどうしようもないように思えちゃうんだよね」
でもさ、違うんだよ――瞼の奥で赤い瞳をきらめかせ、少し真剣な声で言う。
「仲間は誰も自分を置いていったりしない。こっちがみんなの背中を必死になって追いかけてるつもりでいる間に、実は仲間も自分の背中を見てたりするらしいよ」
「……そういうものなのか?」
「うん。互いに影響しあって切磋琢磨できる仲間が、今のグリンにはいるんだから。自然に変わってるはずなんだよ、毎日鏡で見るからわかりにくいだけでね」
「それか植物の成長かも。見つめ続けていても気づかないけど、ちゃんと伸び続けて葉を広げ、蕾ができて、花が咲き、実をつける」
あれって不思議よね、と祖母も微笑んだ。それからそっとグリンの手を取って撫でる。
「ちょっと見ない間に逞しくなったわね。私たちはちゃんと、グリンが大きく成長してるのをわかってる。たくさん頑張って仕事や訓練をしていないと、こんな皮の厚いしっかりした手にはならないわ」
自分ではわからない。こんな手は軍人であれば当然だし、他の人たちはもっとすごい。……ああ、でも、もしかしてそういうことなのか。視野を広く持つ、ということは。
誰かの当たり前は、きっと別の誰かにとってはそうではない。グリン自身も何度も経験してきた。グリンが比べて落ち込んでいたのは、とても狭い世界だった。ならば景色が一向に変わらないのは当然だ。
仲間の背中が遠く見えるのは、なんのことはない、狭い世界をぐるぐるとまわっているだけだから追いつけないのだ。
もし母の言う通り、仲間たちにグリンの背中が見えているのだとしたら。それは少しでも変わっているだろうか。――祖母が「逞しくなった」と言ってくれたのだ、少しくらいは希望を持っても良いかもしれない。
「ねえ、仲間の話も聞かせてよ。フィンとカリンちゃんのとこのシャーロもずっと気になってたし、サシャのことも教えて欲しい」
「おじいちゃんも聞きたがるはずよ。そうだ、お茶とお菓子を用意して待ってましょう」
「うん! サシャもすごいし、シャーロの話も色々聞いてもらいたかったんだ」
語り継がれるほど高い実力が今でも健在の母や伯父も通った道なら、その先はきっと明るい。何よりグリンには、信頼できる仲間がいる。
たとえ迷っても、きっと彼らは呆れながら、笑いながら、探して迎えに来てくれる。随分と先を歩いていても、必ず。
あれはどういう意味だったのか、と訊ねるのはやめにした。祖母は――ハルはきっと「自分で考えてみて」と言うはずだ。そのために講演をしたのだと。
だからただ遊びに行くだけにした。サシャもまた、家族に会いたくなったのだった。商店街にある鍛冶屋の、すぐ隣にある母屋に入り、ただいま、と声をかける。
「おかえり、サシャ。ちょうどトビも来てるよ」
まるで講演のことが夢だったかのように、いつもと変わらない様子の祖母が出迎えた。けれども記憶ははっきりしていて、あれは現実だと思い直す。
奥からは兄と祖父が話す声がする。兄の声の方が深刻そうで、サシャは首を傾げた。
「何の話? オレ、邪魔じゃない?」
「邪魔ではないと思うよ。トビがちょっと心配してるだけ」
何を、と訊ねる前にその名前が出た。思わず立ち止まり、耳を傾ける。
「フェリシーが一人でここまで来られるかな。俺が都合つけて迎えに行った方が……」
「いや、可愛い子には旅をさせるものだろう。色んな人に助けてもらいながら、自力でここまで来るのも良い経験だ」
「じいちゃんは心配じゃないの?」
「心配だが、フェリシーだってここに初めて来るわけじゃないんだし……」
フェリシーが、妹が、来る? そんなことは初めて聞く。戸惑っていると、祖母が先に「サシャが来てるよ」と二人に声をかけた。
我に返ったサシャは挨拶もそこそこに兄に駆け寄る。
「ねえ、フィーが来るってどういうこと?」
「サシャは父さんから連絡来てなかったのか。フェリシーがここに一ヶ月くらい滞在したいって」
フェリシーは兄弟の末の妹である。八歳の活発な女の子は、首都の北東にある小さな町クラウンチェットの実家で暮らしている。
兄たちがいなくて退屈だからなのか、昨年から頻繁に「首都に遊びに行きたい」と訴えているらしい。期間が一週間程度、駅までの送迎付きなら両親の許可が出るだろうが、それとはわけが違う。
「一ヶ月も何するって?」
「ただ遊びたいだけではないみたい」
「大人になるために必要なんだと、レヴィからは聞いてる。あっちはそれで許可したらしいな」
だからうちもかまわない、と祖父が言うと、でもさすがに一人は、と兄が言う。サシャも意見としては兄寄りだ。
その様子を祖母はくすくす笑って、お兄ちゃんたちは過保護だねえ、と評した。
「八歳って、君たちのお父さんはもう軍にいた頃だよ。年齢ちょっとごまかしてたから」
でも、とまだ何か言いかける兄は、サシャが中央に来ると決まったときも渋ったのだろうか。待ってるよ、と言ってくれた覚えはあるが。
弟妹には優しい兄だ。不満も心配も自分の中に留めておいて、こちらが自信を持てるようにしてくれる。
――サシャ自身の認識が正解なんじゃねえの。パクネー大将がこうだったから兄貴も、なんてことは多分ねえよ。
シャーロの声が頭の中によみがえり、響いた。
「ねえ、兄ちゃん。前にオレが、兄ちゃんが読んでた本の先を予想しちゃったことがあるでしょ」
「……ああ、そんなこともあったね」
今までは怖くて訊ねられなかった。兄はあのとき、何を考えていたのか。嫌な気分にさせたのではないか。
でもこの瞬間なら、何を言われても受け入れられる気がした。いや、受け止めきれなくてショックを受けたとしても、きっとグリンやシャーロが慰めてくれる。
「兄ちゃん、嫌じゃなかった? オレが全部言っちゃって」
トビが首を傾げると、長い前髪に隠れていた右目がちらりと見える。左と同じく、驚いたように瞠っている。
「嫌なんてどうして? 俺は感動したのに」
「感動?」
「そう。俺の弟はこんなこともできるのか、すごいなって。……そのときだけじゃなくいつだって、俺はサシャとフェリシーの兄になれて良かったなって思ってるんだ」
何か誤解させてしまったならごめん、俺の態度が悪かったね。そう言う兄の声は、もう半分聞こえない。力が抜けて、目の前がゆらゆらと滲んだ。
「サシャ、どうした? ごめんな、俺が悪かったよ」
「兄ちゃんはなんにも悪くないよ。……オレね、ずっと謝りたかったんだ。兄ちゃんの楽しみを奪っちゃったんじゃないかって。オレと違って本が好きな人に、あんな先を言うようなことはしちゃいけなかったんだって」
涙声でつかえながら、サシャがごめんと繰り返す。それにひとつひとつ頷きながら、トビはサシャのふわふわの髪を優しく撫でる。
「……兄ちゃん。兄ちゃんは、オレが中央に来るって聞いてどう思った?」
「正直、ちょっと心配したよ。軍に入ることもね。でも先にグリンがいたし、きっとサシャなら上手くやるって信じてた」
「じゃあさ、フィーのことも信じてあげようよ。オレだって心配だけど、フィーは結構肝が据わってるよ」
「わかったよ。もう心配しすぎるのはやめるから」
じゃあ自分も心配しすぎるのはやめよう、とサシャは心に決めた。きちんと考えてさえいれば、いつ何があったって怖くない。何か間違えても、家族や仲間がいてくれるから、きっと正しい道に戻ってこられる。
そしてサシャ自身も、家族や仲間にとってそうありたい。そんなふうになりたい。多分これが――小さいことではあるけれど――変わりたい、変わろうという気持ちだ。
休みがあってもグリンやサシャのように帰る場所はない。母は今日も事務所で依頼人と話をしているはずだ。シャーロにできることは、寮の部屋でごろごろしているか、近場を歩くことくらいだった。
もともと少ない選択肢でまさか酷いハズレを引くなんて、というのが今この瞬間の気持ちであり、後悔である。
「シャーロ、元気でやっているようだな」
「……だからなんだよ」
寮を出たところでばったりと出くわした。少しの間があったが、こちらの名を呼ぶ声に迷いはなかった。こうして話すのは何年ぶりか、すぐには数えられないくらいなのに。
大総統であり、血縁上は父親である、フィネーロ・リッツェはシャーロを真っ直ぐに見下ろしていた。
「元気で良かった。西方司令部に入隊してから、動向の報告は受けていたが……」
「んだよそれ、気持ち悪い。あんたは俺や母さんのことなんかどうでもいいんだと思ってたぜ」
少しも帰らない父親だった。一年のうち帰宅した日をまとめれば三ヶ月半分くらいにはなるかもしれないが、ほとんどは幼いシャーロの就寝後だった。
大総統就任の時期はシャーロが産まれたのとほぼ変わらない。だから父親に育てられたような記憶はほとんどなく、この人にとっては家族のことよりも大総統の地位の方が重要なのだろうと思ってきた。
無責任に「一緒に母を守らなくちゃならない」なんて言ったこの人を、許せなくなったのはいつ頃からだっただろう。
「怪我ももう治ったらしいな」
「いつの話してんだよ。てめえにゃ関係ねえ。俺は暇じゃねえんだ、じゃあな」
「シャーロ」
呼ぶな。ろくに呼んだこともないのに、今更何だ。苛立ちを込められるだけ込めた舌打ちをして、そのまま歩き出す。
「僕は、君が中央に来てくれて嬉しい。君の姿を毎日見られることを、本当に嬉しく思っているんだ」
「……嬉しい?」
そんな言葉で父親ぶってるつもりか。もう遅い。全部遅すぎる。
だからきっとそうじゃない。この人は、仮にも血が繋がっていて同じ名前を持つ人間が、不祥事を起こさないよう直々に見張っていられることに安心しているだけだ。
「そんな戯言二度と吐けねえようにしてやるよ。俺が軍を辞めずに中央にいるのは、てめえを大総統の椅子から引きずり下ろすためだ。せいぜい俺が動きやすくなるよう、出世させてくれよ。なあ、閣下?」
だからちゃんと仕事をして、活躍してやる。それでいいんだろう。駆け出したシャーロを、フィネーロは追わなかった。もう声もしなかった。
首都レジーナの西区画にあるバーの、奥の部屋の存在を知るのは店主と一部の客だけだ。先代大総統レヴィアンス・ゼウスァートがよく使った場所で、今はフィネーロよりもルイゼンの方がよく利用している。
花の芳香がふわりとたつ炭酸水と、夏野菜と川魚の料理が並ぶテーブルを挟み、今夜もルイゼンと彼に誘われたセンテッドが向かい合っていた。
「今回の事件もご苦労さんだったな。慕ってくれる後輩を騙すのは心苦しかっただろ」
「僕よりもヨハンナの方が辛かったんじゃないですか。頑張って僕を疑う役をやってくれました。それに彼の聴取も」
「ああ、そうだな。……すぐにでも少佐昇進を決めてやれれば良かったんだけど」
口ぶりからして、それはまだできないらしい。本当に彼女は苦労をする、とセンテッドは内心で深く同情した。
理由は分かる。ヨハンナが佐官になると、グリンたちと階級が離れすぎてしまうのだ。すると班のリーダーを任せるには都合が良くない。佐官ともなれば他の仕事を多く任されることも予想されるし、そうでなければ更なる昇進が難しくなる。
現場中心の実力主義に基づく評価はわかりやすい。だがそればかりでは、いずれまた第二第三の「科学部の彼」が出てきてもおかしくない。
「実行犯たちの動機は聞いたか」
「はい。全員が現場での失敗を酷く詰られた経験があったようですね。そしてそれを理由に待遇も悪くなっていた」
「ああ。本来なら俺がもっと早く気づいて、対処してやるべきだったよ」
「それは無茶でしょう。あなたには閣下の副官という仕事がある」
誰も助けてくれない、誰も頼れない。そんな彼らに差し伸べられた手は、たとえ汚れていても一筋の希望だったのだろう。
その気持ちは痛いほどわかる。そして、センテッドもまた標的となる可能性は十分にあった。
「僕も部下を理不尽に扱ったことがあります。特にあの事件の頃は」
「でもお前が標的から外れたのは、あの事件を解決に導いたからだ。それからは人が変わったように丸くなって、なかなか好かれるようになったじゃないか」
科学部の彼は「伯母を殺した犯人を捕まえた」センテッドを標的にしなかった。――彼の伯母は小説家だった。センテッドらが四年前に終わらせた、作家連続殺人事件の被害者の一人だったのだ。
「……僕のことはいいでしょう。あなたこそ見事な作戦でしたね。一人捕まえれば、あとは三大将の誰かが勝手に動いてくれるという目論見は大当たりだ」
「性格の悪い作戦だったよ。彼らの不仲と正義感を利用したんだからな。そう悪いやつらじゃないんだ、ただ極端すぎるところがあるだけで」
協力してくれればもっとたくさんの事件が瞬く間に解決しそうなのに、と言うこの人は、しかし、次の大総統を彼らの中から選ぶ気はないらしい。フィネーロが自ら選びとる一人を認めさえすれば、それでいいのだと思っている。
その気持ちは今でも変わらないのだろうか。ハル・スティーナの講演を聞いてもなお?
「そういやセンテッド、ここに誘ったのは二つほど頼みがあるからなんだけど」
「二つもですか」
どうやらこちらの疑問を投げかける隙はないようだ。姿勢を正し、新たな仕事を待つ。
「一つは、科学部の人員補充に関すること。今回みたいなことになったから、科学部とはちゃんと話をして、もっと連携を密にしていこうって約束した。それでまずは新しい人員をグラン班の一員として扱うことにしようかと」
「またグラン班に面倒を……。ますますヨハンナの負担が増えますね」
「難しそうなら他をあたる。でもお前に面倒を見てもらうなら、あの班に所属させた方が都合がいいだろ」
そういうことか。たしかにグラン班であれば、自然とセンテッドの視界に入る。見ておかなければならない人員がすでにいるからだが。
「人員はどちらから?」
「北方。フィンの兄さんの紹介で研究者が来る。つまり階級無し」
「それはまた揉めそうですが……揉めないように僕が気をつけろってことですよね」
一つだけでも胃が痛いのに、もう一つ頼みがあるらしい。続きを促すと、ルイゼンは苦笑いをした。
「もう一つはどちらかというとサウラの領域だけど、センテッドにも協力してもらいたい。危険薬物専門の国際機関の設立が本格的に進む」
以前からこの話はあり、エルニーニャ東部にはもう研究と医療を専門とする機関が存在する。それはこの国のものだが、今度は大陸全土で運営する巨大な組織をつくるのだ。
発起人はノーザリア軍大将である。誰よりも危険薬物を憎む人間だ。
「会議とかにちょくちょく参加してもらうかもしれない。向こうの大将はちょっと難しい人だけど、悪い人ではないから」
「存じてます。僕の父がたまに苦々しい顔をして『天敵』と言ってますので」
こんな話を持ってくるということは、まだセンテッドを次の大総統にという考えを諦めていないのだろう。
改めて断らなくては。――今回の件でわかった。あの志の高い三大将ですら、自分の部下さえ把握して制御することができないのだ。自分なんかが軍を丸ごと任されていいはずがない。
溜息ごと飲み込んだ料理は、味もろくにわからなかった。